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006話 実はな……


 前略。

 俺、吐きました。気持ち悪いです。

 草々。


 吐瀉物が俺の目の前に異臭を放って地に広がっている。この世界に来たからなのかは分からないが、胃液だけが口から出てきた。口の中は未だに胃酸で気持ち悪い状態になっている。

 何故こんな事になったのか。それは数分前に遡る――。




   ◇◆◇◆◇




 フィーの後を追いながら人混みの中を進んで行く。後ろを歩いているとフィーからいい匂いが流れてくる。

 恐らく石鹸の匂いだと思うが、世界が違うので本当に石鹸なのかは分からない。だが、いい匂いだ。変態と罵ってくれても構わないが、俺が童貞である事を考慮してからにしてもらいたい。

 女性に耐性が無いせいでちょっとした事に心を揺さぶられるのだ。それが好みの女性だった場合なんて考えるだけ無駄というもの。

 彼女の匂いを感じることくらい許して貰いたい。


「こっちです」


 フィーは俺の方を振り向いて一旦停止した。

 やっぱり美人だなと思いつつ、彼女がこっちと言った方を眺める。

 そこは商店街の通りとは違って、静かで人が少ない通りだった。道路と言った方がしっくり来るかもしれない。

 これは俺の想像でしかないのだが、この道路は商店街に行く時に用いる道の一つなのではないのだろうか。

 俺の通って来た裏路地みたいなものは抜け道的なものなのだろう。カヤが通る分には問題ないが、俺が通るときつかったのはそのせいだと考えれば納得がいく。


 フィーはその通路を知ったような足取りで進んで行く。まぁ知ったようなと言うより知っているのだろう。

 俺は尚も彼女の後ろに付いていく。カヤは今も彼女に抱かれたままで、俺の元には来ない。カヤ成分が圧倒的に足りないのに……。


 それくらいの余裕を取り戻す事が出来た俺に襲いかかって来た込み上げるアレ。ちょっと気を抜いただけだったのにこれ程の吐き気を催すなんて思ってもみなかった。

 我慢しようと思って我慢出来るものと我慢出来ないものがあるが、今回は後者であった。

 それも当然と言えば当然なのだが、如何せん吐くとなるとその事後が大変なのだ。口を濯いだり吐瀉物を片付けたりと、気持ちが悪い事この上ない。

 しかしながら、先程も言ったように我慢出来ない。


「カナタ、はっきまーす……おろろろ」


 こうして初めに戻る。


 まさかこの歳になっても吐くことになろうとは思ってもみなかった。もしかすると人混みに酔って吐いたのは初めてかもしれない。段々と自分が自分の思ってるよりも弱い事が判明してる様な気がする。

 こんなに弱かった覚えはなかったのだが、事実上こうなっている以上認めるしかない。

 目の前には俺の胃液が散乱。というか飛び散っていて自分で言うのもなんだが汚い。


「ちょっとカナタさん!? 大丈夫ですか!?」


「フッ……俺にはちょっと過ぎた戦いだったぜ……」


「何馬鹿な事言ってるんですか。そんな事言えるなら大丈夫ですよね」


「すいません。後生ですからお水を貰えませんか」


「少しお巫山戯が入っているみたいですがまぁ良いでしょう。……お水です」


 フィーが俺の方に人差し指を向けてきた。お水ですと言われてそんな事されたので彼女の頭がおかしいのかと思ったがそうじゃないらしい。


「我が名の元に集え。『ウォーター』」


 そう彼女が呟くと指先に水が集まってくる。

 これは所謂あれだ。獣人とかエルフとか居たからその可能性を考えなかった訳じゃないが、目の前で使っているのを見ると、やっぱりあったのかと思う。


 ――彼女が使ったのは魔法だ。


 呪文を唱えているし、目の前で起きている事が非科学的である事から確実であると思う。伊達にラノベを読んでない。

 実際に魔法を見ると興奮する。それこそ欲しかった玩具を買ってもらった子供みたいに。

 俺でも魔法は使えるのだろうか。いつか試してみたいものである。


 彼女の魔法に見惚れながら水を口に注いで濯ぐ。


「グチュグチュペッ! ……口はこれで大丈夫。ありがとうな。だが、この地面に広がるこれは……」


「『ウォーター』。これで良し」


 なんて言うか、フィーって大雑把な所があるような気がする。そこが嫌って訳じゃないが、出会って数分の筈なのに大分遠慮がない。

 これはこの世界の住人全てがそうなのか、それともフィーが特殊なのかは分からない。俺的にはそのどちらでもなく、フィーがカヤによって狂わされているという事にしておきたい。

 カヤの可愛さにかかったら、俺ですら即堕ちするんだからフィーなんて確実に堕ちてる。寧ろ堕ちてないとおかしいまである。


「さ、後処理も終わった事ですし、早く行きましょう」


 彼女は何事もなかったかのように先に進んでいく。

 やはりカヤの事が気になって仕方がないみたいだ。ついさっき見たフィーの顔がほんわかしてたし、これはもうカヤの虜になっているに違いない。

 でも偶には俺の所にもカヤを連れて来て欲しい。そろそろカヤ成分がなくなってしまう。


 しかし俺の想いも虚しく、カヤを抱けずに遂にフィーの家に着く。

 家と言っても一軒家がドーンとある訳じゃなく、アパートのような感じの家だ。

 三階建てになっており、一階ごとに一つずつ居住スペースがあるらしい。フィーは一階らしく二階と三階は確認していない。ただ、どちらも若い夫婦が住んでいるという事は彼女から聞いた。

 ここに住んでいて相手がいないのはフィーだけらしくちょっと悔しい思いをしていると冗談混じりに聞いた。

 俺的には嬉しいのだが、彼女の悔しそうな顔は胸が痛む。


「少し散らかっているかもしれませんが、どうぞ中に」


「どうもご丁寧に」


 ちょっとだけ会釈をしてから彼女の普段生活している部屋の中に入る。

 それと同時に彼女の石鹸のような匂いが俺を包み込む。女性の家に招かれたのは小学生以来だと記憶している。

 女性の家というのはこんなにも甘い香りを漂わせているものなのだろうか。俺には女性関係に関する知識が全くないせいでそれも分からない。


「お邪魔します」


 俺は礼儀正しい男なのだ。ちゃんと挨拶をしてから靴を脱いで上がる。フィーも靴を脱いでるからなにも間違っていない。もしかしたら、靴を脱がないタイプなのかと心配したのは内緒の話である。


 玄関を抜けると短い廊下があり、右手に二部屋、左手に一部屋あった。

 その廊下を過ぎるとリビングに出た。左手側に伸びており、さっき廊下で右手側にあった一部屋分がリビングになっているのだとわかる。

 更にリビングの奥にはダイニングキッチン間であり、キッチンは本格的な器具が揃っていた。


 ここまでの印象は綺麗にしているなというものだった。生活感が見えながら清潔感のある家と言った感じだ。

 白を基調とした部屋に、ダイニングキッチンの方にはお洒落な木造のテーブルに椅子。そのテーブルの上には果物が籠の中に入った状態で置いてある。キッチンの方には様々な器具が壁に掛けてあり、さながら料理店と言った感じだ。

 一方リビングには長いソファのような柔らかそうなものが一つ置いてあった。窓から暖かそうな光が降り注いでいる。


「お好きな所に座って下さい」


「あ、はい。では」


 俺はダイニングキッチンの方の椅子に座り、ほっと一息ついた。


「何か飲みますか? 紅茶とコーヒーしかありませんが」


「紅茶を」


「分かりました。少し待ってて下さいね」


 フィーはカヤを手放して、キッチンの方へと向かった。


「にゃ〜ん」


 『ただいま』と声をかけてくれるカヤ。その優しさが身に染みる。


「カヤぁ。もふもふさせてくれぇ……」


「にゃ〜」


 カヤが膝の上に飛び乗って丸くなる。そのまま俺を見つめて『好きにすれば?』みたいな顔をしてから、眠りについた。

 俺は遠慮なくカヤをもふる。やっぱりカヤの毛並みは綺麗だ。もふり甲斐がある。

 俺が頭や背中、顎の下をもふっていると、ゴロゴロとカヤの喉がなり始めた。


「そうかそうかぁ! 気持ちいいかぁ! ほれほれもっとナデナデするぞぉ!」


「みゃ〜ん」


 普段よりも甘えた鳴き声に俺の胸が高鳴る。それこそフィーと初めて出会った時と匹敵するくらいに。

 これは萌死する。苦痛で死ぬのは嫌だが萌死なら話は別だ。いくらでも殺してくれて構わない。寧ろそれで殺して欲しい。

 俺の思考が変な方向に向かい始めた頃、部屋の中に紅茶特有の甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 フィーの方を見ると紅茶を入れ終わり、こちらに持ってきているところだった。


「あんまり紅茶を入れるの上手くないので味の保証はしかねますが、どうぞ」


「ありがとう」


 俺はフィーから紅茶を受け取り、二、三回息を吹きかけてから口をつけた。


「おぉ、美味い」


「お口にあったようで良かったです」


 フィーも俺が飲んでいるのを見てから紅茶に口をつける。

 その後しばらくゆったりとした時間が流れる。

 この世界に来てから初めての休息だ。肩の力が抜け、リラックスした状態になっていくのが自分でも分かる程。

 色々あり過ぎて気が張り詰めていたんだなと感じた。吐いたりしたのもそれが原因の一つだったのかもしれない。


「「ふぅ……」」


 フィーと同じタイミングで息を吐き出し、その事が可笑しくて二人してクスッと笑った。


「あの、そろそろ聞いても良いですか?」


「カヤの事か? 勿論」


 元々そのつもりでここに来たのだから当然の事だ。断わる理由も見当たらないしな。


「実はな……俺も良く分からないんだ」


「へっ?」


「分かってる事と言えば、猫なのに人と意思疎通が出来る不思議な動物って所かな?」


 流石に転生してきたと言うのは理解が出来ないだろうし、出会って数十分の人に話す内容じゃない。だからその部分は伏せておくことにした。


「『ネコ』? カヤはネコなんですか?」


「そりゃあどっからどう見ても猫じゃん?」


「カヤはネコには到底見えないんですが……」


「カヤは猫だぞ?」


「え?」


「え?」


 なんか根本的な話が噛み合っていない気がする。もしかすると俺の知らない何かがこの事態を招いている可能性がある。世界が違うのだから俺の尺度で話しても通じない事は幾らでもあるだろう。


「あのさ、フィーが頭に思い描いている猫ってどんなの?」


「どんなのって、ネコの獣人ですよ? 分からないんですか?」


「……分からないって言ったらフィーはどう思う?」


「それは変だなって思いますよ。この世で生きてて獣人を知らないなんて赤ちゃんくらいですよ?」


 そうなのか。俺はこの世界の基礎から全く知らないから、その弊害は大きく響いているようだ。どうしたものか……。


「そもそもカナタさんは少しおかしいですよ?」


「え? 俺の何処に? 別におかしいところなくない?」


 突如、フィーに罵倒された。びっくり仰天とまではいかないが、おかしいと言われて少なからず驚く。何か俺の気付かないとこで変なところがあったのだろうか?


「やっぱり気付いていないんですね」


「え、なになに。怖いんだけど」


「カナタさん。あなたと私が今話している言語は『魔人語』であり、『標準語』ではありませんよ?」


「……ん?」


「良いですか? カナタさんは『人間』なのに『魔人語』を話しているんです。それの不自然さはかなりのものですよ?」


「……つまり?」


「カナタさんは魔人のスパイだって事で殺される可能性があるという事です。それも知らないんですか?」


「マジか! 俺マジやべーじゃん!」


 俺の無知っぷりが露呈していく。しょうがないっちゃしょうがないが、知らない事で殺されるのは遠慮したい。死んでも生き返るが、痛いのはゴメンなんでな。


「カナタさん。あなたに聞きたい事があります」


 フィーの声のトーンがさっきまでの柔らかいものでなく刺々しいものなり、美しい目が俺を射抜く。

 その雰囲気の違いを肌で感じ取った俺は、背中に冷たいものが走った感覚に陥る。

 彼女の目には素人目の俺でも分かる程の殺気が込められていた。正直に言って怖かった。身体を恐怖で震わすことさえ許されないというその雰囲気は、地球で平和に暮らしていた俺には苦しいものだった。


「カナタさんには常識があまりにも欠けています。カヤの事をネコだと言ったり、獣人を知らなかったり。更に『人間』の身でありながら『魔人語』を巧みに操っている。あなたのその朗らかな人柄が嘘だとは思いたくはありませんが、もしもの事があります」


 俺は黙って彼女の言葉を聞いているしか出来なかった。動いたら殺すとそう言われているようだった。

 そして彼女は俺に質問を投げかける。俺はいつか来るだろうと思っていた質問だったが、こんなに早く、しかもこんな状態で聞かれるとは思っていなかった。


「――あなたは一体何者なんですか?」


 その問いに俺はすぐに答えることは出来なかった。


 奏陽の阿呆がこの事態を齎しました。考えなしに動くと痛い目に遭うという事を知って欲しいですね。

 では、次回もお会い出来る事を願って。

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