カイ その1
森下櫂、21歳。疎遠になっていたが父方の祖父が危篤との知らせを受け、会いに行くために一家で車で移動中、突然物凄い光に包まれた。恐らく対向車のライト。短い人生だったけれど、両親と姉、そして妹。最愛の家族と一緒に死ぬならそれも悪くない。
覚悟を決めて目を閉じ、意識を手放した。
ふと気が付くと、小さな女の子がきゃあきゃあ騒いでいる声が聞こえた。
天国とかいうところへ来たのだろうか、この声は天使だろうか。ぼんやりと考える。
「おめでとうございます!男の子ですよ!」
知らない女性の声が聞こえ、続けてよく知っている女性の声も聞こえた。
「ありがとうございます!」
母さん。
「櫂……!」
父さん。
「この子の名前はカイヒーリィだ!」
櫂と呼ばれた気がしたけど気のせいか。それにしてもカイヒーリィって、すごい名前だな。
ぷに、と頬に何か小さなものが触れたと思ったら視界が暗くなった。
「カイ。ねーねだよ」
天使の声だと思ったが姉の声だった。よく見えないけれど可愛い。生まれたばかりははっきり見えないと学校で習ったような気がするな。
「……ッ!泣かない……!?」
おめでとうと言っていた知らない声の女性が焦ったように言って俺の身体を触る。あちらこちらをさすられてくすぐったい。
結構長いことやられていたが、バタバタとやって来た年配の女性が、産声はないが心配なさそうだと言ったことでやっと終わった。心配させてしまったのは申し訳なかった。
事故に遭って死んだはずの自分が何故赤子としてここにいるのか。夢でも見ているのだろうか。それとも、あの事故までが夢だったのだろうか。
考えても答えが出ることはなかったが、両親と姉の世話を受けつつも延々と考え続けている内に成長していった。
両親は全く泣かないことを心配し、それでも病気もせず大きくなっているのだからきっと大丈夫だとよく言っていた。
泣いた方が良いのだろうか。しかし、どう泣いたら良いのかわからない。
姉は基本的にずっとそばにいた。そばにいて、歌を歌ったり絵本を読んだりしていた。常に笑顔で、可愛い可愛いと俺を撫でた。
父は何か怪しげなものを調合しては瓶に詰め、また革をなめし服のようなものを作っていた。時々出掛けては大量の食材を買い込んでくる。傷んでしまわないのだろうか。
母は料理を作り、客に出していた。食堂を営んでいるようだが、多くの人で賑わう一角には、父の作ったものが並んでいた。食堂には似つかわしくないものばかりだが、よく売れているようだ。
両親も姉も、記憶している顔ではなかった。そもそも日本人の顔ではなかった。しかし父、母、それに姉だと強く思った。声は記憶のまま、全く一緒だった。
何がどうなっているのかはわからないけれど、また家族と暮らせるのならそれで良いと思った。もし記憶の家族とは全くの別人だとしても。
この世界には魔法があるようだ。元の世界の妹は漫画や小説が大好きで、異世界転生モノにハマっていると言っていた。強い勧めで何冊か読んだが、まさに現状がその、異世界転生モノ、なのではないだろうか。せっかくなので魔法が使えるのならば使ってみたい。
姉はたくさんの本を読んでくれた。
絵本を読み尽くしたら何を思ったのか地図を広げてとんちんかんな解説をしてくれた。どう考えてもこの世界に東京はない。
図鑑には見たことのない動植物が載っていた。やっぱりあの事故がきっかけで別の世界へ来たのだと確信した。
何かの設計図が載っている本もあって、それが何なのか知りたくてたまらなかった。
3歳になる頃、いつも一緒にいた姉が学校へ通うことになった。姉はもうすぐ5歳になるはずだ。それなのに学校?早すぎないか?まだ4歳なのに学校へ行くということは、3歳の俺も一緒に行けるかもしれない。ついて行こうとしたけれど、帰って来たら遊ぼうねと姉に優しく諭されてしまった。
姉がいない間、何かの設計図が描かれた本を眺めるのが日課になった。作ってみたい。しかしまだ幼い俺には許されないだろう。ならばせめて知識だけでも詰め込みたい。
姉が学校から帰って来ると一緒に遊んだ。学校の本を持ち帰って読んでもらったり、図鑑に載っている植物を探したりした。
半年ほど経って季節は秋から冬を越え、春になっていた。入学式のために両親と初めて遠出した。地図は頭に入っている。城下町の学校だ。思っていたより小さい。
姉は小さな子どもに言い聞かせるように俺に何度も言った。暑くなる頃と寒くなる頃には帰るから、いっぱい遊ぼうね、と。
きっと姉も自分と同じく、元いた世界の、日本の記憶を持って生まれたのではないかと思っている。でなければあんなに扱いやすい子どもであるはずがない。難しい本でも難なく読めてしまうのも説明がつく。けれどそれをはっきりさせてしまえば俺に対する言動も変わってしまうだろう。
両親に記憶があるのかはよくわからない。こちらの世界に馴染んでいるが声は元いた世界のものだし、顔が違うのに両親だとはっきり言い切れる何かがある。両親に違いはないが記憶がない可能性もある。記憶がなければ姉の俺への態度が変われば混乱させてしまうだろう。それではいけない。
だから小さな子どもに言い聞かせるような言い方で良いのだ。言われるたびにコクリと頷く。
入学式のあと、自宅へ帰る前に母がお腹に弟か妹がいる、と言った。妹だ、愛理だ。記憶を持って生まれてくるに違いない。