18
そこはルルエが七歳の頃、ウォッドに連れられて初めて着いた湖畔に広がる町だった。
休暇もかねて一ヶ月滞在すると言ったウォッドが仕事の時は、する事もないルルエは連日決まって大きな湖の近くにある崖の上に来て、そこにはディーという同年代の男の子と毎日顔を会わせていた二人は自然と仲良くなって様々なことを話した。例えば好きな食べ物やこの町の美味しい店など。
ある日ウォッドの話をしていると、ディーは唐突に将来の話をルルエに振った。
「ルルエは将来、商人になるのか?」
「それは……分からない。でも色々なところに行けるのは楽しそう」
迷った返事だったが、ルルエは少しうずうずと体を動かしている。気恥ずかしいのか、うっすらと赤らむ頬のまま今度はディーの番だと質問を返した。
「ディーは何かある?」
「オレは………………騎士になりたいかな、でも無理だ」
「格好よくていいじゃない!」
「ルルエは本当にあの騎士様が好きなんだな」
「うんっ」
幾分か前に話したルルエの好きな騎士の話をディーは気に掛けているようだ。少し逡巡したディーは何かを決意したのかルルエに緋色の瞳に力を入れて真っ直ぐと見つめる。
「オレ、やってみるよ。そしたらさ、――――」
ガタン、とした振動にうっすらと開いたルルエの瞳に映ったのは気弱そうに眉を下げ、タオルケットを持った青年だ。
直前まで夢で相対してた快活な少年のディーとは全く違うそれはルルエの目付きを少し悪くした。
彼はルルエと視線が合うと、勢いよく対面した自分の席に座り直した。
「す、す、すみませんっ。寒そうだったので布を……」
「アホ面で口かっぴらいてたぜ」
対面にはもう一人座っていて、偉そうな口調に違わず足を組み口には葉巻をくわえて凭れるように座っている。対照的な二人は研究所からの同行者だ。
偉そうな方は魔石研究所所長代理で貴族の三男坊だというフェリオ、気弱な青年は魔石研究所では異色の科学研究員として働いているレヴィと自己紹介していた。
そう言えば、ストラシアへ馬車で移動中だったと眼前の二人を視界に入れて思い至ったルルエはため息をついた。ちらりと見えた外の景色は鬱蒼とした森の中に切り開かれた林道を走っているようだ。
流れる景色から車内に戻ると目の前はフェリオのくわえている葉巻の煙で靄がかかっている。
「うっさい。その葉巻、臭いから馬車の中で吸わないで」
「ハア?」
「服も臭うし、馬車も臭うじゃない」
「ふん、大人の貴族の嗜みだ。お前の服装の方が問題だろ」
ギャーギャーと言い合う二人に何か思い付いたのか、レヴィが鞄から取り出したその手には透明な液体がなみなみと入った霧吹きが握られている。
「あ、僕良いもの持っています。この前チームで作った消臭液なんですけど、霧吹きで吹き掛けると気になる臭いが無くなるんです!」
ブシュッと音と共に霧状に吹き出した消臭液はあっという間に車内に広がり、痛烈な刺激臭に包まれた。
それに耐えられるはずもなく、一瞬止まった三人は急いで両側の扉と前後の小窓を開放して臭いを逃す。さすがに走る馬車から飛び降りる事はしなかったが、あまりにひどい臭いに鼻を摘まむ手は当分外せなかった。
「おう、どうした?ストラシアが楽しみか?」
なぜか御者席に座り、馬車を操るダイロンはガタガタと扉や小窓を開ける音に反応したものの、後方に流れる刺激臭に気付かない。
「あり得ねぇ……」
「すみません。消臭液が腐ったんですかね」
「いつ作ったの?」
「昨日完成しました」
昨日の今日で腐ってしまうものだろうか。
研究者の性なのか、その場で検証を始めようとする手を止めて静かにその霧吹きを鞄にしまわせた。
げんなりとした空気が漂う中にダイロンの大きな声はよく響いた。
「ストラシアが見えてきたぞ」
窓から見える紅葉した景色の向こうに白亜の城が夕日になる前の強く光る太陽に照らされて輝いている。
近場にいてもなかなか立ち寄ることのないストラシアは魔石を取り引きする数が少ない。その理由は科学が発展しているかららしい。
徐々に見えてくる町並みは田畑と木造の家が立ち並び、夕方だからだろうか家路につく人や買い物をする人、多くの人が行き交う。
町に入ってスピードを下げゆっくりと走る馬車からその光景を眺めて懐かしさを覚えるルルエは窓枠に掛けていた右腕から違和感がした。その後に力無く落ちた腕は座席の上で小さくピクピクと痙攣している。
正面に座るフェリオも異変に気付いたのだろうか、訝しげな表情でルルエの右腕を注視した。
「おい、それ」
「大丈夫よ」
いつもの事だと言うように答えにフェリオは開いた口を一度閉じると「わかった」と返事をした。
隠すように押さえた左手を離すと痙攣はもう治まっていた。
フェリオにはああ言ったが、今回初めて痙攣が起こった事に半年も前の事の影響かと考えると共にその事に少しだけ恐怖心が芽生えた。
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