悲しいしらせの届かない場所へ
運命、と彼女は言った。運命で、あなたを見つけたのです。以前なら嬉しかったかもしれない。あるいは、もう少し先の未来になら、もしかしたら。けど、今は最高の皮肉だ。面倒と驚きと、要するにネガティヴな感情でいっぱいになった。どうやって俺を見つけたのか。たまたまそこで会った、とかじゃない。まったくプライベートな――それも彼女にはとくに見つけられたくない、読まれたくない種類の――記録、ブログを彼女はどういう経緯でか、見つけたのだった。
虚勢を張って、精一杯相手をおちょくるように、陽気に振る舞った。「気分によるけれど、ブログもツイッターも消すことになると思う」「私に見つかったからですか?」「そう笑」こういうやりとり。形勢は俺が不利だった。どうやって俺を見つけたのだろう。どうやって。頭のなかでしきりにその質問が繰り返された。
悲しいしらせが届かない場所へと向かっていたのだと、今にして思う。俺がツイッターやブログを、彼女のいない(少なくともそう思っていた)ところで発信していたのは、おそらくそうだろう。悲しいしらせ――自分が別れを告げた彼女が今は自分の隣にいないこと、かつてはいたこと、そして今は彼女がひとりでどこかにいること――認めたくないけれど、自分が愛に負けたということ、生活に負けたということ、立ち上がる必要がぜひあるのにどうしてもそれができそうにない不甲斐なさ――そういうもの、すべて。
1ヶ月連絡をしないなら友人になるという約束。忘れていたわけじゃない、スルーしようとしてはいたが。一日早いけれど、電話をした。どうやって俺を見つけたのか。それが知りたくて。
彼女は、良心を衒って、俺にものを言ってばかりだった。なにもかもありがたくない。なにより、俺が自身でブログに書いた、以前の恋人2人に割りきったセックスを求めて連絡をとった経緯と事実を、平静に「嘘だよ」と否定してどう取り繕っても彼女は決してそれを信じないことと、その言い訳をする手間と局面に立った自分が情けなかった。馬鹿馬鹿しかった。見つかった自分が甘い、思わずそう言って、しまったと思った。負けを認めたくない。お前には関係ない。毅然とそういう態度でいなきゃいけないのに。
運命です、と彼女は低い声で、気の抜けたようにまた言った。俺を逃さないつもりらしい。もう死にたくなってきた。俺はお人好しだと思う。
「死んだほうが楽に決まっている」と彼女が話した。生きるのは思い通りにならないことばかりで、非生産的だし、つらいことばかりじゃないか。そうかなあ、本当に死んだほうが楽だと思うの?まるで鏡に映った自分と会話をしているようだ。どうしてあなたがそう言うんだ?俺がお前を振ったからか?楽になれる薬は知っている。薬の知識は彼女がいなくたって、充分ある。死ぬのはこわいから勉強したんだ。ちょっと、罠を仕掛けた。「私のために勉強したの?」彼女がそういったら、笑って否定してやろう。少し間を空けて、静かにしていた。彼女が口を開いた。洞窟を通り抜ける生ぬるい海風のようだ、「高校生の時に勉強したのね?」。そうだよ。静かにうけおった。残った写し絵は、通り抜けて、空洞の、晴れない洞窟。
お人好しは自分で自分のことを”お人好し”だと言わないよ。彼女の稚拙な修辞に笑いそうになって、けれどそれに対するもっともな反応を自身がしなかったことも、俺を幻滅させた。
気持ち悪いですね。同じ言葉で、返してやるタイミングがきて、返してやった。長年――だいたい4,5年一緒に居たカップルはこういう会話というか、テンションだよ、と彼女がことさら含むように言った時。気持ち悪いですね。あなたは俺をだしにしようとしている、利用しているじゃないか。怒りが出てきた。それでも、毎日の虚無に比べたら、いくぶんマシだ。だからって、彼女に感謝なんて言わない。
これは夢だ、と言い聞かせて馬鹿みたいに長電話をした。どうせどうでもいい人で、どうでもいい人生と、実体のない夢。退転のまま時を刻んで、悔悟も反省もない、夢だからそれでいい。
「あなたが別れさせたんだ」どうしてこんなことを言ってしまったのか、今はしくじったと思っている。俺自身の判断なのに、未練がましく彼女のせいにして。これだと、俺が自ら彼女と別れたことを後悔していると告白したも同然だ。今の堕落を、まっこうから「堕落しているね」と呼びかけた彼女の言葉を「これが自分の素だ」と言って居直って否定した舌の根も乾かない内に。あなたと別れたことは私の汚点です、俺はそう言ってしまったのだ。そして、そうだと認めたくないのだという俺のみっともない情けなさも。けど、その時は本気で恨んでそう言った。意外にも彼女は冷静に言葉を紡いだ、それどころか、反省を示した。
「私はあなたを過去に失ってきた人やものごとの穴埋めにしようと焦っていたんだと思う」
誰にも使われなくなった古い聖堂の静かなろうそくの炎のように彼女の声は沈んで揺れていた。
「そうしなかったなら、うまくいったかもしれないというのも、私のうぬぼれだけれど・・・・・・」
いや、それは少なからず誰にでもあることだから。自分でも驚くほど平凡な慰めの言葉が口を出た。悲しいのは、対立ではなく和解なんだと、俺も彼女もふたり同時に思った。
彼女にはどう工夫して言ったところで理解されないとわかっているから、触れてほしくないし、そもそも別れた彼女にその後どうしようと関係ないから、言うつもりなんてないけれど、俺が以前の恋人2人に連絡をとってセックスをしてもらう約束を取り付けたのは、あなたに関わる対立からも和解からも、逃れたかったからだ。どちらにしろ悲しくて、どうしようもなく俺を疲れさせて、たまらないから。彼女以外の、別れた人間に希望があるなんて、本気で信じていると思われるのは心外でたまらない。だからって、彼女に話したところで始まらない。彼女はそのあたりの事情を絶対に理解できない。俺自身でさえ、自分が今何者なのか、どこへ向かうのか、わからないのだから。たとえ全能の神に目の前で、真実を束ねた言葉を告げられても、俺はうなずかないだろう。今、考えられるのは、自分から別れた女の幻影に射 精するのでなく、俺は生身の女――それも彼女以外の――に、射 精できるのだという自己証明のためのセックスだった。むろん、俺は自分から別れを告げた彼女になんの希望も欲望もない。しかし、マスターベーションは、過去に出会った人の影を前にして自動的に行われるものだ。そこに彼女がいるのが、俺には耐えられない。
誰も好きにならないさ。悲しいしらせの届かない場所、それがたまたま連絡して、応じてくれるのが過去の恋人とのセックスだったというだけだ。そこに感傷も執着もない。
運命です。彼女の低い、気の抜けた声が、虚空を渡った。




