狐の嫁取り雨
「潮様、起きてください」
少し前までは朝起きて、口うるさい叔母夫婦の朝食の準備をし、洗濯や掃除に追われる毎日であったが、今は違う。
まだ仄かにくらい朝方、ふみこは夫となる男の部屋に静かに入り、その布団の横に膝をついて、寝ている顔をのぞき込む。
流れる銀髪は登ってきた日の光に反射してきらきらと淡く光り、整った顔立ちを一際目立たせる。
瞳は伏せられているのが勿体ないと思う程、今日もまたふみこの夫は整った顔立ちをしていた。
人間離れした容姿に、ふみこは苦笑を漏らす。何せ、この夫は人間ではない。狐なのだから。
ふみこは狐の嫁になったのだ。
「潮様」
ふみこは夫の頬に指を滑らせる。すると、わずかに身動ぎして──ゆっくりとその瞳が開かれる。
「……まだ、眠い」
「昨日もその前もそんな事をおっしゃって。今日は一緒に出かける約束をしましたのに」
ふみこはぷくっと頬を膨らませてみる。潮はうんうんと軽く唸りながら眉を寄せている。どうやら眠気と戦っているようだ。
そんな様子を見て起き上がるのを待っていると、がしっとふみこの手首を掴む腕が布団からにょっきりと出ていて、そのまま強引に布団の中へと引きづり込まれる。
「ひゃ⁉︎」
潮に抱き込まれ、彼の香りに包まれる。ふみこの鼻先には潮の胸板があり、ゆっくりと呼吸をするたびに動いている。
「潮様……」
「一緒に少し眠ろう。出かけるのは……昼からで」
ふみこを抱きかかえたままうとうととまた潮が夢の中へ入っていくのがわかる。確かに、少しひやりとする朝の空気は寝るには丁度いい。──けれども。
ふみこは指を伸ばして潮の頬をぎゅっとつまむ。
「雨の匂いがします。降ってきたらどうするのです」
すん、と匂いを嗅げば、潮の匂いの他に、冷たく湿っぽい独特の香り。近いうちに雨が降る。
潮は気だるげに目を開き、ふみこを至近距離で見下ろす。
「雨は嫌いか」
ふみこは少し伸び上がって潮に顔を近づける。鼻先が触れ合う距離で、ふみこは笑った。
「いいえ、ちっとも」
ですが、と言葉を続ける。
「せっかく篠達が作ってくれたお弁当が濡れてしまうのは嫌です」
そうか、と短く潮が答える。
篠は長く潮に仕えている女中だ。彼の好みを理解しているし、それが弁当にも反映されている事は間違いない。他の者に作らせると油揚げやいなり寿司尽くしになってしまうが、潮にはそんな弁当は嬉しくないだろう。
「篠に頼んでくれたのか」
「はい。本当は自分で作りたかったのですけど。少しお手伝いしたくらいで……」
「それでもいい」
潮はふみこの頬に口づけを落とす。それだけでもほんのりと頬を染めてしまうふみこを満足気に見下ろし、ようやく彼は起き上がった。
「眠い……」
体を起こしてもまだ眠たそうだ。昨日はどうやら遅くまで勤めを果たしていたらしい。
「お酒をたくさん召し上がったからでは? 遅くまで皆様騒いでいらっしゃったみたいですし」
「あのボケた老狐どもの相手も昨日で終わりだ。地方から来た田舎者は頭が固くて困る」
「お疲れ様でした。今日はゆっくりしましょうね」
ふみこは布団から出て用意していた潮の衣を手に持つ。立ち上がった潮の帯に手をかけて脱がせ、新しい衣を着させる。着付けはあまり得意ではなかったのだが、こうして実践するようになってなんとかできるようになった。
準備を整えて部屋を二人で一緒に出ると、すぐにふみこの腰にぼんっと何か小さく温かいものがぶつかってきた。
そちらに目を向ければ、丸々とした小さな狐だ。
「親方様の部屋に勝手に入るとは! この無礼な人間めっ!」
毛を逆立ててそんな事を言うのは、ふみこの事が気に入らないらしい狐の朔だ。子供のようだが、体が小さいだけでふみこよりは年が上のようだが、狐の中でもまだまだ周りに比べれば幼く、けんけんといつも怒っている。
「朔、それは私の嫁だが」
「親方様、やはり人間を妻にするなど間違っているのです。昨日長老達も言っていたではないですか」
「その件はもう解決した。長老達はふみこであるなら問題ないらしい」
「なぜ!」
地方からわざわざ潮の元へやってきた長老と呼ばれる老狐達は、最初はもちろん狐の頂点である潮が人間の娘を嫁に迎えたと聞いて「そんな娘はおやめください!」と散々文句を言っていた。
しかし酒が回るうちにどんどんと機嫌も上がり、篠の用意した長老達への最大の好物──鼠の天ぷらをふみこが持って行くと「こんな娘!」という評価から「鼠を用意した良き娘」と好転。最終的にふみこを嫁に迎える事に賛同する書類に拇印まで押した。
しっかり鼠を用意するように命じていた潮と、それを調理した篠には感謝しても足りない。ふみこは鼠はなるべく見ないように、しかし嫌悪感が出ないようににこやかに努めるだけだった。
「潮様は鼠は……食べます?」
不安になって退室する時にこっそり聞くと、彼は少し顔をそらして「……嫌ならば今後は食べない」と答えた。
食べていたのか。最後に食べたのはいつだ。ふみこと最初に口づけをする前か、後か。考えたら怖くなってきたので、ふみこは賢く黙った。今後は絶対に潮の膳に出さないように篠にお願いしておく事はもちろん忘れないけれども。
「長老達にどんな手を使って説得したのかは知らないが、僕は認めない!」
と朔が吠える声でふみこは回想から引き戻される。ふみこの足元でけんけんとうるさい朔を見下ろし、ため息を吐いた。
いくらふみこより実際の年が上でも、狐の中ではまだ幼く、人間に変化もできない。ただの話せるだけの小さな狐だ。
嫁を悪く言われている事に段々と潮の機嫌も悪くなっているので、ふみこはそのもふもふの体に手を伸ばしてわしゃわしゃと撫で回す。
「うわ!」
艶やかな毛並みを思う存分に撫で回し、耳をぴこぴこと指で動かし、つんと尖った鼻の頭をつるつると撫でる。いきなり触られて逃げようとする朔を両手でしっかりと捕まえて尻尾を握り、もふもふ。白い腹を撫でてはもふもふ。
「やめろ! お前、一体僕をなんだと……っ!」
「可愛い。なんて手触りが良いのでしょうね。潮様もこんなにもふもふと触らせてくれれば良いのに」
「親方様には絶対やめろ‼︎」
けんけんと朔が吠えているが、ふみこの耳には入っていない。元々犬が好きではあったが、潮に嫁いでからというもの、こうして遠慮なく愛でる事ができるのはとても素晴らしい特典だ。
「僕をただの狐だと甘く見ているだろ! ってやめろ、耳を触るな動かすな肉球を撫でるな‼︎」
そうして暫く堪能して朔を解放する頃には、狐らしくぐったりと床に倒れていた。ふみこは満足して立ち上がり、静観していた潮ににっこりと微笑む。
「潮様、今度狐の姿を見せてくださいね」
「私の肉球も触るつもりか」
「もちろんです。いけませんか?」
潮ほどの狐ならば、体は朔の何倍も大きく、毛艶もいいはず。触り心地は抜群だろう。
潮は倒れている朔を見下ろして複雑そうな顔をした後、息を吐いて諦めた。
「わかった。お前が望むなら触らせよう」
「尻尾と耳も」
「好きにするといい」
そんなやり取りをしていると、割烹着を着た狐が小走りでやってきた。朔よりは背が高くしなやかな体つきだ。その狐を見て、ふみこは笑顔になる。
「篠、早かったですね」
割烹着の狐──篠が抱えているのは本日の弁当だ。篠はふみこに弁当を手渡し、床で転がっている朔を見て呆れたため息を吐いた。
「また懲りずに奥方様に無礼な事を申したのですか」
「とても可愛かったので気にしていませんよ」
弁当を抱え、潮の手を引く。
「さ、潮様。そろそろ行きましょう」
うるさいのが静かになったのだ。今のうちに出かけなければまた別の狐に捕まってしまう。
潮はふみこに手を引かれるまま屋敷の外に出る。大きな傘を一つ玄関から拝借して空を見ると、どんよりとまではいかないが雲が多く、太陽がそこから見え隠れしている。
二人は共もつけず山の中を歩き出す。木々で鬱蒼としている森の中は薄暗く、風が冷たい。ふみこは転んで弁当を台無しにする事がないよう足元に気をつけながら歩く。
暫く潮が先導するまま進むと、開けた場所に出る。そこには色とりどりの花が咲き乱れ、それらは白、桃と彩り豊かだ。木の根元から広がるように小さな花が密集して絨毯を作っている。
今日この場所に出かける事になったのは潮が丁度見頃だからと勧めてくれたのだ。
これは九輪草という花で、小さな花が連なって一つの大輪となっている様はとても美しい。
ふみこと潮は花を踏まない場所に座り、目の前の光景を眺めながら食事をする。
「こんな素敵なところに連れてきてくれて嬉しいです。ありがとうございます」
にこやかに礼を言えば、潮も少し口元を緩ませる。
すると、ふみこの頬にぽつ、と冷たい雫が落ちた。上を見上げれば、木々の合間から見えるのは先ほどよりも雲が薄暗く覆っている空が見え、またぽつりと顔に雫が落ちる。
「潮様」
隣の潮に呼びかけると、彼は大きな傘を開いて二人と弁当を守る。
ぽつ、ぽつりと降ってきたそれはやがてどんどんと数を増して山へと降る。
「雨、降ってきてしまいましたね」
弁当を片付けてなるべく傘から出ないように潮に寄り添えば、彼はふみこの肩を抱いて頭部に口づけを落とした。
雨は止めどなく降り始め、草木を濡らしていく。ふみこと潮は衣が濡れないように立ち上がり、乾いていた草木が潤っていくのを見る。
さあ、と軽やかな音を立てて降る雨は、豊穣の雨となるか、それとも違うのか。ふみこには判断はできなかったが、濡れた事によって花がその色味を濃くする。
雨を葉が受けて、水の重みで垂れ下がり、下の葉へ雫がつるりと移動する。
白く光りながら落ちてくる雨は吸い込まれそうなほど魅力的だ。
「綺麗ですね」
うっとりと言葉をこぼすと、潮が笑ったのがわかった。
「お前のそう言うところが気に入っている」
風が吹いて、雨が傘の中まで入ってきた。衣や肌が一瞬で濡れ、思わずふみこは潮を見上げると、潮もこちらを見ていた。
潮の濡れた頬を撫でて水滴を取ると、そのまま彼の顔がこちらへ降りてくる。冷たい雨の雫がふみこの額から唇へ流れ、それを拭う前に潮の唇と重なった。
ぎゅ、と濡れた潮の衣を指で掴む。
腰に腕が周り、引き寄せられた。
啄ばむように何度も重ねる口づけはひやりと心地良くて、ふみこは目を閉じた。
──この狐と一緒にいられるなら、もうそれだけでいい。
ふみこの脳裏に叔母夫婦の姿がよぎる。もう、あそこには戻らない。
「潮様、風邪を引いてしまいますよ」
口づけの合間にそんな事を言えば、潮は吐息のかかる距離で答える。
「二人で共に引くのもいいだろう」
こういう時はもっと他に言葉がある気がする。お前が風邪を引いたら大変だ、とか。二人で風邪を引くのもいいなんて、潮くらいしか言わないだろう。
でもそんな言葉選びも好きで、ふみこは笑った。
「そうですね。その時は篠に看病してもらいましょう」
夫婦揃って風邪を引くなんて、仲が良いではないか。きっと朔にはまた怒られそうだけど、それでも良い。
ふみこはある日、怪我をした狐を助けた。その狐の主人は助けたふみこに大金を差し出す。
けれどもふみこは自分には大金は必要のないものだったので受け取らなかった。
その日の夜、叔母夫婦によって心が折れそうになった出来事があったが、狐の主人が助けてくれた。
主人は言った。
「彼女を私の家族に迎え入れる」
その言葉に、ふみこがどれだけ救われたのか、潮はわかっているのだろうか。両親を失い、叔母夫婦によって何もかも諦めそうだった時に言われたその言葉が、どれほど重要で、重たく心地の良かった事か。
「潮様、ずっと側にいてくださいね」
ふみこは潮の首に手を回してすがった。背の高い潮は少し屈んでふみこの額に口付ける。
「もちろんだ」
永遠というものがどれほど続くかはわからないが、死ぬ間際も潮と共に入られたら、とふみこは願った。
本当はこれとは別タイトルの同じ設定で書いていたのですが予想以上に長くなったので急遽短編として書き直しました。書き溜めてから後日連載します。