1回裏 上々の立ち上がり
分かったことが二つある。一つは、下着に付着していたのは○○じゃなかった。あの時は気が動転していて視界から入ってくる情報しか脳に伝達されなかったから気付かなかったけど、この白いのはヨーグルトだ。そしておそらく少し水分を含ませて『それっぽく』してある。手の込んだことをしやがって。
そしてもう一つは、俺は阿坂茜にほったらかしにされているということ。ホームルームが終わるや否や阿坂茜は彗星のごとく教室を飛び出して行った。俺もその行動にびっくりしたが、それ以上にクラス中が異様な空気に飲み込まれていた。そりゃそうだろう。久しぶりに登校してきたと思ったら、休み時間は誰とも話さないし、昼休みは左の最前列(あざかあかねだから出席番号順で一番前)の席でボッチ飯ときたもんだ。そんなクラスに一人はいる暗い性格のやつが全力疾走をきめこんだのだからクラスのやつらが目を丸くする、ちなみに担任のやつもだ。
「帰りたいなぁ……」
ボソッと呟く。
時計の長針は十七時を指し示していた。約二時間、待っているということだ。バカヤロー。
ポツンと一人椅子に座りこんでいて、外からは吹奏楽の下手くそな(上手とかわからんが今の気持ちがすごく腹が立っていて皮肉な事しか言えない)演奏が耳に侵入してくる。そして運動部の「前出ろ! 前!」や「声出して―! ファイィィィィィ!」という聞いてるだけでも熱い怒声にも似た叫び声も聞こえてくる。
今も昔も思うけど何で肉体を疲労させるようなことをしている時に声を出すことを強要してくるのか意味がわからない。声を出せば上手くなるのか? 実に矛盾していると思うのは俺だけだろうか。辛い時こそ声を出せとかよく言われたが、出るわけがない。辛いのだから。
時間が無限に感じているせいでそんな実体験を交えた昔話を思い出していると、外からのうるさいだけの運動部員オーケストラに参加していない楽器があることを俺の聴覚は無意識に感じ、模索し始めた。
なんだ? なにかが足らない?
キンっ! ……カッキーン!
それは何故か脳内再生された。例えるならユーチューブの自動再生のようにクリックしていないのに勝手に始まって止めるまで鳴り響く迷惑な機能。職業病にも似たその症状に自分が嫌になる。
「クソっ! 消えろ!」
あの頃とは違い頭髪も自由にできる。野球=坊主という固定概念のため坊主オンリーだった髪型も今では長く伸ばして、それでも両サイドは坊主のままで、男気あふれるツーブロックをきめこんでいる。そのトップだけ長く残した部分を両手でくしゃくしゃにしてうつむく。
まるで病気だ、野球症候群。俺はそれに取りつかれた悲劇のヒロインといったところか。
「はは……嫌になるな、ほんと……」
「おや、妄想中でしたか。それとも、そろそろズボンのベルトを外し始める頃ですか」
びくついた。いきなり耳元で声が聞こえたものだから俺はびくついた。二回言いました。
振り返ると少しボロくなった阿坂茜が出現していた。ボロく……制服が少しやぶけていて、両頬は幼い少女が公園の砂場で夕暮れまで遊んだ、みたいに土がついて汚れている。
「ど、どうした? えらく汚れていますが」
そんなに話したことのない女子に敬語で話すべきか、それともタメだからいきなり馴れ馴れしく接っしても大丈夫なものか……考えた結果どちらも融合した会話文になる。
「ああ、これですか。少しもめまして。でも話は平和的な和解で収まりましたのでご安心を」
「阿坂さんのその姿から連想できるのはとても平和的じゃなかったと思うけど。って、それよりこの時間
はおかしくない? 二時間待ったんだけどさ」
「いや、小笠原妄想クンカクンカ君にはその下着で最後のクンカクンカタイムという至福のひと時を味わってもらおうと時間を設けたのですがダメでしたか?」
悪気が無く言っているのか俺を怒らせようと言っているのか知らないけど、無表情で言いやがるもんだから反応にも困る。ツッコむべきか真剣に怒るべきか。
阿坂茜……小柄でクラスにも溶け込めてない接するのに気を遣わなくてはいけない女子、と勝手に設定をつくっていたのはおせっかいだったようだな。もうそんな壁は、俺、小笠原妄想クンカクンカ君がぶっ壊してやるから、覚悟しろ。
「そうかい……黙って聞いてりゃ! この○○はヨーグルトじゃねーか! しかもよくよく考えてみれば話したこともないおまえがドンピシャで現代文の教科書を借りてくること事態がおかしいだろ! つまり、俺が言いたいのは! 今回の下着はおまえが仕組んだ巧妙なトラっっっっプ! ってことだ!」
「はいそうです。私がやりました」
味のしなくなったガムを道端に吐き捨てるように、しらっと阿坂茜は呟いた。
そんなんだから俺の表情はポカンと『間』がぬけてしまった。これが本当のマヌケってことかい。
「はいそうですって……俺はなんて返せばいいんだよ」
「あ、でも今回の『弱みを握って教室で二人で話をしようオペレーション』考えたのは別にいますよ。実行したのは私ですけど。そして白いのは確かにダミーですが下着は私のです。そして使用済みのものですので喜んでください」
「そんなことは聞いて……使用済みか……、はっ! 違う違う違う! そんなことどうでもいいんだよ! おまえの仕業って分かったんなら俺は帰るからな。ったく変なイタズラしやがって」
「ちょっと待ってください。話があると言ったはずです」
「ふざけんなよ。聞くわけないだろう、朝は脅されたけどな今は俺は白だし逆におまえを生徒指導室に連行してもいいんだぞ? 教師どもにチクらないだけありがたく思えよ」
「いいですよ。教師の皆さんに今日の朝私にされたことを言っても。何人の人が信じるか見ものですね。それよか私が『小笠原道明君……私のことウザいって言ってたから……』と、一言ボヤくだけで形勢は逆転して矛先は小笠原妄想クンカクンカ君に向くと思いますが」
正直、「女子の阿坂茜さんに引き出しの中に女物下着を入れられました。うわーん」なんて男のプライドが邪魔して言えない。それに阿坂茜のほうが何かと有利すぎる。久しぶりに学校に登校した半ひきこもりの女子という過保護のような立場は大きな武力となっているからだ。戦術的、戦略的敗北だ。
「くっ……もういい!」
悪役の捨て台詞みたいに吐き捨て、バックを取りに自分の席に歩き出すと、ギュっ、と制服のズボンのすそを掴まれた。
「おわっ!」
そんなところを急に掴むもんだから上げ足をとられたみたいに体勢を崩して前のめりに『グシャ』とズッコケたように倒れ込む俺。
なんとも情けない。
「いたたたたた……。なにすんだよ!」
「待ってください」
「遅いわ! 普通は逆だろ! 声かけてから掴むんだよ!」
「いや、でも話があるって言ったのは朝ですよ? それなのに帰る準備をしようとするから、これは私の気持ちの伝え方がイマイチだったんだと思って、今までみたいに声で呼び止めても小笠原妄想クンカクンカ君の足を止めることはできないと思って手を出させていただきました。実力行使です」
地面に突っ伏している俺と同じ目線までしゃがみこんで屁理屈を垂れる阿坂茜をこんなときでもかわいいと思ってしまう俺はバカだろうか。いや男はみんなこんなものだろう、と自分を言い聞かせる。
そしてせっかくだから話を聞いてやろうと思ってしまう俺もバカだろうか。
「くっそ。わかったよ。話ってなんなんだよ」
そのまま教室に床にあぐらをかいて座り込む。腹をくくった武士のように腕組みもして。
「ありがとうございます。それでは本題の方ですが、ストレートに言いましょうか? それとも変化球を混ぜて話した方がいいでしょうか」
いちいち癇に障るな。阿坂茜。よりによって野球用語を使いやがって……ふむ、直球か変化球。これが告白(こんな時までつくづくポジティブ)なら変化球だろう。「付き合ってください!」より「あのう、前から道明君と目が合う回数を勝手に数えてたり、気が付いたら無意識に後を付けてたり、これって恋だってことにようやく気づきました! 付き合ってください!」あきらかに後者のほうがいいに決まってる!
「よし、変化球にしてくれ」
打つのは苦手だけど。まあストレートも振り遅れて当たらないけど。
「わかりました。実は……小笠原妄想クンカクンカ君のことを」
嘘……マジか?
阿坂茜の顔をもう一度確認する。栗色のツーサイドアップの髪に白く清潔感のある肌(今は少し汚れてしまっているが)そして小柄な体格ながらも……出る所は出ているようで問題ない。
ほ、ほんとに言われちゃうのか俺? 散々、ポジティブ宣言したけど現実になっちまったよ! 思えば野球から縁を切って半年以上……悪霊に取りつかれてお祓いをしてもらったみたいにいいこづくめの高校生活! 万歳!!!!!
「調べさせてもらいました」
ん? 調べる? ああ、彼女がいないかどうかね。うん、それ重要だね。
「小学生から野球を始めて中学生までプレイしていた。それも小、中と硬式野球、そう、高校野球と同じボールの材質であるボーイズリーグに所属していた。そんなエリートであるあなたがこの虫けらレベルの野球部がある小読高校に入学してきた。察していますが、それも踏まえて言います」
……。
「野球部に入ってください」
ください……ください……ください……。
脳内にエコーのように阿坂茜の声が何度も反響して響いている。
体が拒絶反応を起こしているようにも思えた。嘘だろ? 俺はまだ野球の呪いを浄化しきれていなかったのか? 阿坂茜は今なんて言いやがった。野球? 冗談はよしてくれ。
「聞いてますか? 小笠原妄想クンカクンカ君?」
アニメとかで開いた口から白い塊が出て行くのを再現するように抜け殻に変貌していた。
「ふぁっ!」
「おかえりなさい。正気に戻りましたか?」
そんな俺の肩を両手で揺さぶって阿坂茜が正気に戻した。目の前に阿坂茜の顔があって、鼻息があたる距離だった。再び意識が飛びそうになるがグッとこらえた。そして一言。
「野球だと……ふざけんなよ」
「え……」
「俺は野球はもうやらないんだよ。グローブも去年の冬にドラム缶に突っ込んで火をつけてやったよ」
「わかってます。小笠原妄想クンカクンカ君がこの高校を選んだのもそのケガが原因なんですよね」
「は?」
本気で意味が分からなくて素が出てしまった「は?」だった。
「テンプレみたいなものです。中学で再起不能な大けがを負ってしまって医師からは『残念ですがこのケガではもう一度グランドでプレーするのは難しいですね……』と宣告されたのですね。でも大丈夫です。ここは虫けらのような弱小高校です。ケガは肘ですか? 肘なら負担の少ないファースト。膝なら……あっ、これもファーストですね。じゃあとにかくファーストを守ってください」
勘違いも大概だな。ペラペラしゃべる阿坂茜はかわいいけど、それ以上に俺はとても気分が悪い。勝手な考えで俺を呼び止めて、嫌なこと思い出させやがって、挙句の果てにはファーストを守ってください? 勝手に守備位置まで決めやがって。
「ファーストならファーストミットがいりますね。持っていますか? 小笠原」
「いいかげんにしろ!」
怒鳴った。阿坂茜の発言を熱の光線のように俺の怒鳴り声が遮断した。これ以上、野球が関連する用語を聞くだけで俺の気持ちはコントロールが効かなくなるぐらいに暴走してしまいそうだったから。
「俺はケガなんてしてないんだよ! ただ嫌になって、野球のこと考えるだけで気分が悪くなるぐらい嫌いになったんだ! だから小読に入学したんだよ! それなのに……もう勘弁してくれ」
俺は病気だ、今気付いた。病名は野球拒絶病。発症は野球用語、およびその類を耳にするだけで感情が不安定になる。なんてこった。
「違います」
低い声が小さな体から聞こえてきた。
「道明君はケガをしています。心に、精神的な病を抱えています。困りました。それはさっき言ったみたいに負担の少ないポジションがありませんから完治させるしかありません」
「だまれ。それ以上何も言うな」
「治す方法は二つあります。その一つはもう一度バットを握ってグローブをはめてグラウンドに選手として立つことです」
「……」
言い返すのも面倒だ。そして何も聞きたくない。そんな綺麗ごとなんてなおさらだ。あの時と一緒で、そう、引退試合が終わった後のクソ監督の言った言葉に似ている。だから余計にむしゃくしゃする。そんな一瞬で空気に溶けていきそうな空虚な言葉を聞いたところで何にもならない。阿坂茜もこの場を収めてその上いい感じになったところで俺を野球部に入れようという根端だろう。
「もう一度、聞きますね。野球部に入ってください」
「……」
断る! と言うのも怒りから言いたくない。無言が一番相手に自分の怒りパラメーターが伝わりやすいことを俺は人生で学んだ。無言の圧力といったところか。
「わかりました」
阿坂茜はアンドロイドのような血の通っていない蒼白な表情で、一言そう言い残し、スタスタと足早に教室を出て行った。そんなんだから阿坂茜が怒っていたのか、残念そうにしていたのか、とにかく何を考えていたのか分からなかった。
再び、俺は教室で一人になってしまった。窓からは夕日が差し込み始めていて長い時間を阿坂茜と討論していたことを認識する。無駄な時間を過ごした。しかもその時間と引き換えに手に入れてしまったのは『かわいい女子との今後気まずい関係』だ。ほんと最悪なイベントだった。
すぐに立ち上がらずしばらくぼーっとして謎の虚脱感にとらわれた後、足の多少のしびれを感じながら立ち上がり、弁当箱と課題の出た教科のノートと問題集が雑に入れられたバックを手に取る。
あっ……、危ない。と、引き出しに手を突っ込み核兵器にも匹敵する呪いのアイテムをバックにぶち込んだ。こんな危険なものは棄て……部屋に保管しておこう。
下着を入れて教室を後にしようと後ろのドアをガラッと開けようとした、
が、何故かドアは自動で開いた。
「おわっ!」
「ぎゃっ!」
開いた先にいたのは俺の病気を発症させる効力を持っている野球のユニフォームを着こんだ男子だった。しかし坊主ではない。帰宅部の生徒と変わらないぐらい普通に髪の毛を伸ばしている。
「おお! あんたが小笠原クンカクンカだな! 早く来い!」
「誰がクンカクンカだ! おいっ! 待ってくれ! 手を引っ張るな! あんた誰だよ!」
息を着く間もなく男に手を掴まれ廊下に引っ張り出された。そしてそのまま階段に向かって全力でダッシュ。
「俺は野球部主将の山海智也。時間が無いんだ! ったく、何言ったんだよ! まあ俺も人のこと言えないけどよ。あいつ死ぬぞ!」
「し、死ぬって誰が?」
こんな全力で走るのは何か月ぶりだろうか。もう息がきれてきた……。
「阿坂茜だよ」
走っていて暑いはずなのに寒気がした。さっきまで一緒にいた人物が死ぬ? そんなリアルで嘘のような事態に脳が恐怖を伝達させようとしている寒気なのかもしれない。
山海は俺の手を引っ張りながら階段を駆け上ると、夕焼け空が広がる屋上へ通じる扉を力強く開けた。