魔法に魅了されて
【第62回フリーワンライ】
お題:
モヒート
眠るなら一人が良い
フリーワンライ企画概要
http://privatter.net/p/271257
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
不意に上体を起こし、彼は言った。
「マティーニ」
そのまま一秒前と同じように突っ伏す。
バーテンダーが何事かを言っている気がするが、すでに遠く隔たった世界に半分身を浸しているため、彼の耳には届かなかった。バーテンダーの仕事はカクテルを混ぜることであって、小言を捏ねることではない。
三分後――あるいは三十分後――頭の近くでコースターの滑る音がした。注文通りならマティーニのはずだ。大義そうに起きると、彼はほんのり黄色がかったカクテルグラスを捧げ持つ。オリーブに突き立つトゥースピックを避け、日本酒にそうするように口から縁を迎えに行った。柑橘類の香りが仄かに鼻先を掠める。レモンだろうか?
舌の上を優雅なベルモットが通り過ぎると、その後をドライ・ジンが駆け抜けて脳みそをシェイク――否、攪拌した。そのジンの鮮烈な味が、酩酊状態の意識を賦活、一時的に彼を覚醒させた。
言うまでもなくそこはバーカウンターの一席だった。両隣には誰もいない。かかり付けの医者のようなバーテンダーが、カウンターを挟んでグラスを磨いているだけだ。
ピアノ・ソロが店内をゆったり包んでいる。生演奏だろうか? しかし、ピアノなど置いてあっただろうか?
ピックを摘まんでオリーブを囓る。また一歩現実に帰ってきた気がする。
「連れは?」
「さあ……存じ上げません」
一歩立ち返った結果、支払いという現実が見えてきて、逃避したくなる気持ちが強くなった。吐き捨てたい気持ちを堪えて種をグラスに戻した。
「もう一杯……そうだな、モヒートをくれ。何も言わなくていい。さっさとくれ」
バーテンダーから溜息の気配を感じ取ったが、流石にプロだけあって、そんなことをおくびにも出さずカクテルの準備にかかった。
手際良く半分にしたライムを搾り、シロップを二振り、ミントの葉――漢方で使うような乳鉢ですりつぶしたものだ――にラムとソーダを加えて、クラッシュアイスと混ぜ合わせる。
「さあどうぞ。ヘミングウェイのレシピです」
「なんだって?」
「マティーニとモヒートをこよなく愛したそうですから」
「そうか。じゃあそのうち、キリマンジャロにでも登ってやる。いや、その前にサメ漁か?」
グラスの表面を霜が覆っていて、手で持つと雫となって滑り落ちた。しっとり濡れているようだ。何にかはわからないが捧げる。
「夏の最後の残りに」
咄嗟に思い付いた精一杯のハード・ボイルドだった。
煽る。ライムとミントが爽快に突き抜けた後、ラムがねっとりと喉に絡み付いて、彼は思わず咽せた。
際限なく咽せて息が継げない。呼吸が出来ない。
「そう言えばヘミングウェイがモヒートを愛した、というのはボデギータの創作だという話もあるらしいですね。チャーチルほどではないにしろ、彼は極度にドライを好んだようですから、砂糖やシロップを用いるモヒートを愛飲するはずがないと」
バーテンダーの声が遠い。それはまるで異国の言葉のように理解出来なかった。
「蘊蓄ついでにもう一つ。モヒートはアフリカで『魔法』を意味する言葉に由来するそうです」
意識が朦朧とした。彼にはもう、ラム酒で咽せたせいなのか、あるいは吐き出したと思ったオリーブの種を飲み込んだせいなのか、区別が出来なくなっていた。
バーテンダーの背後にある色とりどりのカクテル瓶がぐるぐる回っている。
「それでは良い夢を」
不意に上体を起こし、彼は何も言えず無意味に口を開閉した。
そこは大衆居酒屋のカウンターで、彼の前には気の抜けたビールグラスが一杯置かれていた。触ると表面は渇いていて、生ぬるかった。
カウンターの向こうで焼き鳥をひっくり返す大将に声をかけた。
「連れは?」
「さあ……ああ、そういえばさっき出て行かれましたよ」
彼は伝票を脇へ避けて、半分がた嵩の減った枝豆に手を伸ばした。伝票に印字された数字は、控えめに見積もっても高級バーで飲むよりは格段に現実的なものだった。
枝豆を噛み締める。いつの間にか出来ていた口内炎に塩が沁みた。これが現実だ。
だが、もう少しあの幻に浸っていたいかも知れない。
「大将、モヒートをくれ」
「そんなものはない」
「じゃあ生中」
『魔法に魅了されて』了
バーなんか行ったことねえよ。高ーよ。きっと高ーんだよ。怖い。
マティーニもモヒートも飲んだことはないので、レシピとにらめっこしながら想像した。たぶんあってる。マティーニはバーにでも行かないとないだろうけど、モヒートはコンビニでも買える。Mojito loves Bacardi、興味はあるけど買ったことはない。
最後に一言。これただのアル中じゃね?