ふかくあおいそら
「飛ぶ練習に付き合ってくれ?」
「少しでいいけど……お願い」
「まあいいけど、他の人がいる時は嫌だよ」
「え、どうして……」
「あのな、姉が飛べないとか言ったら俺もなんかダメみたいだろ……」
「痛っ……」
昨日の弟との会話を思い出す。Vネックのノースリーブは所々破れ、真新しい傷が見え隠れしている。あまり外に出ないために真っ白な肌には赤黒いかさぶたがいくつか見える。
起き上がって布団から這い出て、このボロを脱ぎ捨てて、少し急いで風呂に入った。
鏡を見ると肩に真新しい傷が1本、古いのが3本。滑空姿勢から墜落する事が多いので、胸やお腹は傷だらけだ。
シャワーのお湯が傷にしみるのを唇を噛んでぐっとこらえる。細い針で突かれる感覚がして痛くてたまらないので、少しぬるめのお湯にしてみたが、やはり少しシミる。今日は彼に会いに行くのだが、土埃で汚れた体で行くわけにはいかないだろう。
そろそろ病院に行く時間だ。彼も治療で疲れてるだろうし、少しでも気分が良くなるように、少し明るめの色のフリルのついた華やかなワンピースを選んででかけた。
彼のいる病院は通学に使っている電車の通り道にあるので、そんなに時間はかからない。入口で面会票を書き、病室へと足を運ぶ。途中、担架に乗せられた病人とすれ違った。それを押す看護婦さんはわたしに少し頭を下げると、忙しなく早足で進み、廊下の角にすうっと消えていった。わたしは、担架が現れたドアの隣のドアをノックして開いた。
「やあ、元気?」
弱々しい声の主は細く、痩せていた。うっすらと白い肌に、青白い血管が見える。
いつもの様に空の話をした。病室の窓からは青々とした空が見える。そう空が。空以外では、灰色のくすんだ町が水に垂らしたインクの様に薄く広がっており、鈍く輝く銀色が、ずれる事のない一定の時間でガタンゴトンと来ては去るを繰り返した。彼はもう何ヶ月、いや何年だろうか、この変わりのない日常にいるのだ。安定しない病状でなにが起こるかわからないから、迂闊に外に出られないのだという。
なにも変わらない、日常を囲う清潔感のある白に彩を添える、外に広がるこの部屋の空だけが、わたしと彼とを繋いでくれている様な気がする。
そして、やっぱり彼は気付いてくれなかった。わたしはもはや彼にとって「いつものわたし」じゃないのかもしれない。明るめの色の服は、橙に色づいた夕日を浴びて紅に染まり、日常の白を異なる色で塗りつぶした。
相変わらず彼の病状は良くはならないみたいだ。昼過ぎの穏やかな日差しが射し込む病室から窓の外をみると、いつも学校に行く時に乗る銀色の電車が走っている。彼の病気は神経の信号の伝達を阻害する物質が関係していると医師は言うが、未だによく分かっていない病気らしく、今は脚だけかもしれないが、そのうち全身に回ってしまう可能性があると付け加えたことが気掛かりだった。
そんな歩けない彼を世界の何処でも連れていってあげると言ったわたしはまだ飛べないまま。このままじゃだめだ。今日の練習は気合だ! 文句を言いつつも練習に付き合ってくれる弟のためにも、1mでも長く飛べるようにならなきゃ!
人々か寝静まった真夜中に、再び弟と一緒に公園に来た。肌を撫でる風が少し冷たく、体に刻んだ古傷にしみるようだ。
弟はちょっと高い岩の上を指差した。
「じゃあ前やったようにやってみな」
「じゃあ、いくよ」
翼を広げると漆黒の夜を照らす月あかりが反射して鈍く輝く。
前方をしっかりと見据え、上半身をやや前のめりにして跳ぶ!
しかし、体がふっと浮かび上がったその矢先、ズザザザザッ……という嫌な音がしんと静まり返った公園にこだました。
「ぐっ……!」
肩口から落下して地面に叩きつけられる。
地面を擦って、体の前面を思い切り地面に叩きつけてしまった。
「……ハァ〜〜ア〜〜。」
わざとらしい大きな溜息が聞こえる。
「姉ちゃん大丈夫?」
「だ、だいじょぶッ……」
よたよたと立ち上がる……少し首がつんのめったせいで頭がフラフラする。
「手首の角度が悪いって。あれじゃ空気を掴めねえよ……」
どうもコツというものが掴めていないらしいが、
「もしかしたら、姉ちゃんってあまりにも飛ばなかったせいで飛ぶのに適さない身体つきになっちゃんたんじゃね?」
これはどうしようもない。
その後しばらくパタパタしたが、全然ダメだった。体が全く浮きそうにない、と言うより空中で翼が動かせない。何度も墜落事故を起こし体はぼろぼろだ。
家に着く頃にはもうクタクタになってしまい、部屋に戻るやいなやベットに倒れ、そのまま深い眠りへと堕ちてしまった。
朝日が差し、ハッと目が覚める。目覚ましが鳴っていない! 昨日セットし忘れたようだ。今日は朝から講義だというのに……眠い頭をぐるぐると色々なことが駆け巡る。
腕は案の定筋肉痛が酷く、物が持ち上げられない。痛みをこらえ、何とかカバンを持ち上げ、早足で家から飛び出した。
幸い電車には間に合ったが、寝癖がついた頭のまま家を飛び出したので、頭の上が暴風のまま学校に行く事になった。
「おはよ……ど、どうしたのそのカッコ!?」
島江さんがすごく驚いているが無理もない。うっかり昨日の格好で来てしまったのだ。
「ね、ねぇ大丈夫……?」
と、心配そうに顔を覗き込んでくるが、こんな怪我はいつものことだ。
服は古着で、部屋着としている事にしておいたので大丈夫だろう。心配してくれているのに嘘をついた事が少し心苦しいけど。
授業終わりのチャイムが昼の時間を告げた。陽射しはやわらかく、空は穏やかだ。 わたしは校舎の外に出て、池のそばのベンチに腰掛けた。頭上に広がる、どこまでも限りなく広がる空。あの青い空を弟や妹は誇りにしているのだ。その晴空を映し青々とした水面の上をあめんぼが滑っている。太陽が頭のてっぺんから真っ直ぐ照らしてくるのと黒い翼のおかげで暑くなってきた。わたしは持参した水筒を引っ掴んで、ぐいっと飲み干した。暦は秋。しかし、それを全く感じさせない、からっと暑い空だった。