1話
今日も朝から現場で床清掃の仕事をしている。
以前は、ほんの少しだけサラリーマンをやっていた時期もあったが、今は急死した父の清掃業を継いで慣れない若社長をやっている。……といっても、自分を含めたった三人の弱小清掃業社なのだが。
学生時代から人手が足りない時に駆り出されることが頻繁にあったので、清掃業を手伝い始めたときも、問題なく作業を行うことができた。社長業にはまだ慣れそうにないけど。
現在、ポリッシャーを使って、四階建ての小さな雑居ビル共用部床に張られている、長尺シートを洗っている最中。
ちなみにポリッシャーを使って床の清掃をすることを、清掃業界では【洗う】と表現している。
ポリッシャーとは床の洗浄作業、磨き作業、床ワックスの剥離作業を効率よく行うために使用する清掃機械を指している。用途によりブラシやパッドを取り付けることができ、床清掃の必需品だ。
見た目は、T字型のハンドル左右に自転車のブレーキのようなレバーがついていて、右のレバーを握ればパッドが回り、左のレバーを握れば備え付けのタンクに入れられた水が噴き出る。ハンドルから真っ直ぐ延びたパイプの先に、パッドの取り換え可能な円形のモーター部分がある。
このポリッシャー、第三者から見れば簡単に操っているように見えるかもしれないが、慣れるまでには結構コツがいる。初めて扱ったときは制御できずにポリッシャーに振り回され、壁に激突した経験は数知れず。
学生の頃から数えれば十数年やっているので、今は扱いにも慣れたもので、作業中に余計な事を考える余裕ぐらいはあるけど。
はぁ……今日は帰ってから何するかな。
普通の二十代なら、恋人とデート何処に行くかな、なんて悩んだりするのだろうか。若くして既に結婚している人もいるのだろうな。子供がいたら家族サービスしたりするのかね。
まあ、降って湧いた社長就任に伴う会社経営。そのおかげで、日常に全く余裕がない自分には、無縁の世界なわけだが。
――っと、ここの通路薄暗いな。電気のスイッチが見当たらないけど奥の方にあるのか? それにしても、えらく長い廊下だ。暗すぎて奥の方が殆ど見えない。
こういう場所は避けたいところだけど、この階の廊下は全て指定された清掃範囲に入っていたはずだから、洗わないといけないか。
細長く直線に伸びているだけなので、明かりが無くてもなんとかなるだろう。
たぶん、向こうの先にスイッチがあるはず。取りあえず、そこまで洗いながらポリッシャー動かすしかなさそうだ。
随分先まで来たけど、まだ廊下の端に着かない……。
さすがにおかしいぞ。だいたい、こんなに進んだというのに何でポリッシャーの電源コードが届いている? コードの限界は軽く超えているはずなのに、パッドは回り続けている――常識では考えられない、気のせいでは済まない事態になってないか。
背後を振り返ると、そこには闇があるだけで自分が本当にそこから進んできたのかと疑いたくなる。パッドが回転し床を磨く音だけが、暗闇に充満している。
足元から何かが這い上がってくるような感覚に、俺は体を震わせた。何もない、何も無い筈だ。ただの暗い廊下。そう、それだけなのだが……。
この違和感はなんだ。ポリッシャーをここにおいて、元来た道を戻るべきじゃないのか。
だけど、あの暗闇に手ぶらで突っ込むのも勇気がいる。さっきまでは何も考えずに進んできたので問題はなかったが、冷静になった今、自慢じゃないが明かり一つない闇を一人で突っ切るには躊躇してしまう。そもそも、ホラー系とか苦手なんだよ。
とはいえ、ここで立ち尽くしていても事態が好転しないのは明らかだ。何もしないでいると、言いようのない不安に押しつぶされそうになる。進むか戻るか決断しなければならない。
そんなことは考えるまでもなく、引き返すべきだ。それは分かっている、頭では理解しているのだが……だが同時に、この奇妙な状況を少し楽しんでいる自分も存在している。
あり得ないことが起こっている現状。正直、恐怖心はある。だが、今は好奇心が勝っている。平凡な日常を変えてくれるような、子供じみた期待が胸を膨らます。
このまま踵を返し、友人に不思議体験をした、という話のネタにして、いつもの日常に帰るか。この廊下は何処に続いているのか確かめる為に、非日常に足を踏み入れるか。立ち止まり、しばらく悩んだが、思い切って前へ一歩踏み出した。