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街に来てから三ヶ月ほど経ったある夜のこと。デビィは部屋の中でうっかりマルボロを吸ってしまった。部屋に籠ったタバコの匂いにレイは顔を顰めた。
「デビィ、タバコは部屋の中で吸わない約束だろう? 外へ出るか、今すぐタバコを消してくれ」
その日はカフェで皿を割ってしまい、マスターから散々文句を言われてへこんでいたせいもあっただろう。デビィはその一言が酷く気に障った。
「うるせえな。何処で吸おうと俺の勝手だろう?」
レイは何も言わずにデビィに近付いていくとその手からタバコをひったくり、床に落として片足で踏みにじった。デビィはレイの顔を思い切り平手打ちにした。
「いいか? 俺は人間だったんだ。誰のせいでこんな暮らしをしてると思ってるんだよ? ええ? お前はいいさ。客からチップももらえるし、服が洗剤まみれになることもないしな。俺はいつもいつもお前と一緒で女と寝ることも出来やしないんだ。それなのに、お前はタバコまで俺から奪い去るつもりか? ふざけんな」
デビィはわざとレイの目の前でマルボロを取り出して火をつけた。レイはふっと眉を顰め、悲しそうな顔をしたが、そのままバスルームに行ってしまった。シャワーの音を聞きながら、デビィは少し後悔していた。だが、今さらレイに謝る気にはならなかった。
その日の真夜中、デビィはまるで身体の中が爆発するような衝動を感じて目を覚ました。食いたい。とにかく人間が食いたい。とてつもない飢餓感と欲望に気が狂いそうになる。もう自分の理性はほとんど残ってはいなかった。デビィは唸り声をあげてベッドから飛び降り、裸足のままドアを開けて部屋から出て行こうとした。レイが目を覚まし、追いかけてきてデビィの腕を強く掴む。
「駄目だ! デビィ! 部屋に戻れ!」
「邪魔をするな!」
デビィはレイの顔を力任せにぶん殴った。レイは口から血を噴いてその場に倒れたが、デビィにはもう人間の肉を食らうこと以外に何も考えられなかった。微かに残っていた理性も歩いているうちに完全に消え失せてしまった。
レイはズキズキする顔の痛みを抑え込むように歯を食いしばって立ち上がり、パジャマのままデビィのあとを追いかけた。階段を駆け下り、路地を見渡して彼の匂いを探す。早く見つけなければデビィは人を食い殺してしまう。心臓が爆発しそうだった。いや、噛みつくことで相手がゾンビになってしまうという最悪な事態も考えられる。デビィは三ヶ月間、衝動を抑え込み続けた。きっとその皺寄せが今になって一気に噴き出したのだろう。その時、右の路地と交差する路地の奥のほうで微かな悲鳴が聞こえた。
「だ……誰か……助けてくれえ!」
レイが駆けつけてみると、太った中年のスーツ姿の男が地べたに尻餅をついて震えていた。男の目の前にはデビィが唸りながら立ちはだかっている。彼が男に襲いかかろうとした瞬間、レイはデビィの身体を後ろから素早く抱き締めて首筋に牙を突き立てた。デビィの力が一挙に抜けていく。彼の首筋から滴り落ちる血をデブ男は呆然と眺めていたが、突然、とんでもない声で悲鳴を上げた。
「き……吸血鬼だあっ!」
レイは急いでデビィの身体を抱えあげ、すぐ横に建っているアパートの屋根目掛けて一気に飛び上がった。非常階段の手すりを蹴って屋根に降り立ち、アパートに向って全力で走りだした。
アパートの窓から部屋に入り、デビィの身体を投げるようにベッドに横たえると、レイは荒い息をしながらソファに座り込んだ。
――このままじゃ駄目だ。何とかしなくては。
やがて窓の外から話声が聞こえてきた。レイは少し窓を開けて外を窺う。外には数人のハンターがうろついていた。あの男が通報したのだろう。やがてハンターは歩み去った。レイは窓を閉め、強く目を瞑った。仕方がない。デビィが起きださないうちに済ましてしまうしかない。パジャマを脱ぎ、黒いTシャツとジーンズに着替えて、ヘアゴムで髪を結んだ。
念のために用意していた綱でデビィの両手をベッドの桟に固定すると、包丁を放り込んだビニール袋を持ってそっとドアを開けた。
「おい、お前、ここで何をしている」
レイはハンターの声に振り返り、すっと目を細めた。男は一人だった。ぐずぐずしてる暇はない。
「何か用か? ハンターさん」
「長い金髪に青い目か。お前が通報のあったヴァンパイアだな?」
街灯に照らされた男は短い黒髪の東洋人だった。濃いグレーのTシャツ、スリムな黒いジーンズという出で立ちで、妙な形の銃を抱え、腰には一振りの日本刀を差していた。
レイはビニール袋を路地の端に放り投げ、ゆっくりと男のほうに向きなおった。
「だったらどうする?」
「どうするだって? お前らみたいな害虫は叩き潰すだけだよ。どうだ、さっきの獲物は美味かったか? 残念ながらそいつが最後の晩餐だ。覚悟するんだな!」
男が素早く銃を構えた瞬間、レイは地面を蹴って跳躍し、男の後ろに降り立った。だが、男は瞬時に振り向き、レイに向って銃を撃ってきた。レイは咄嗟に身をかわしたが、銃から発射された弾の一発がレイの右腕に命中した。弾は弾け、真っ赤な粘ついた物体がレイの腕に張り付いた。
その瞬間、全身を焼かれるような痛みを感じてレイは悲鳴を上げた。沸騰したように泡と煙を吹きながら赤い粘液が肉を焼き、溶かしていく。強烈な痛みに動きが鈍くなったレイに男は腰から日本刀を抜いて素早く斬りつけてきた。刀の切っ先が胸を斬り裂く。返す刀で男はもう一度レイを斬った。激しく噴き出る血と痛みで意識が薄れそうになる。
だが、ここで自分が殺られたらデビィは暴走し、やがてはゾンビとして殺されてしまう。止めを刺そうと突いてきた刀の刃をレイは右手で強く握り、動きを止めた。掌に刃が食い込み、どろりと血が噴き出す。息が止まりそうな痛みを押さえ込むようにレイは叫び声を上げて刀を奪い取った。刀の柄を左手で素早く握り、男が再び銃を構える前にその首を一気に切り落とした。
騒ぎに気が付いた他のハンターが近付いてくる気配がする。レイは刀で男の右腕を切り落とすとビニール袋に放り込んだ。
レイが部屋に戻ると、デビィはまだ気絶したままだった。レイは牙から抽出される体液を送り込み、デビィの身体を麻痺させたのだ。バスルームで強烈な痛みに耐えながら腕に付着した粘液を洗い流す。居間に戻るとビニールから腕を取り出し、テーブルの上に置き、デビィの綱を解いて強く頬を叩いた。
「起きろ、デビィ。食事だ」
デビィは獣のような呻き声をあげて目を覚まし、ベッドから起き上がると腕を見つけて齧り付いた。貪るように腕を食らうデビィはゾンビそのものだ。レイは暫くその様子を見ていたが、やがて身体の痛みが思い出したように襲ってきた。ベッドに倒れ込み、じっと痛みを我慢しているうちに深い眠りの底に落ちて行った。
デビィは腕を全て食いつくした頃にようやく我に帰った。目の前に転がる骨を見ても暫くの間、訳が判らずに呆然としていた。深呼吸して気持ちを落ち着ける。
――そうだ。さっき俺は猛烈に人を食いたくなった。レイの顔を殴り、外に出たところまでは覚えている。そして俺はいつの間にかここへ戻っていて目の前には人間の腕の骨だけがある。もし俺が一人で人を襲ったのなら、腕だけを持ってきたりはしないだろう。きっとその場で人を食い散らかして……。レイか。彼が腕を持ってきたのか。
レイはベッドに横たわっていた。胸には酷い傷を負い、全身が血まみれだった。再生したばかりの腕は強酸を掛けられたのだろうか。抉られたように溶けて骨が見えているし、掌はざっくりと傷が口を開けている。彼は俺の為にこんな姿になってまでハンターと戦ったのだ。そう思うとデビィは胸の奥から熱いものが込み上げて来るのを感じた。レイの頬には涙の跡があった。
「すまなかった。ありがとう、レイ」
デビィはお湯で絞ったタオルで血と涙で汚れたレイの顔をそっと拭き、毛布を掛けた。やがて窓を叩く雨の音が薄暗い部屋を柔らかく満たし始めた。
翌朝、レイの胸の傷は消えかけていたが、腕の傷はまだ完全に治ってはいなかった。デビィはレイの代わりにオムレツを作ったつもりだったが、出来上がったのは何故か半分焦げたスクランブル・エッグだった。それでも彼は文句ひとつ言わずにそれを平らげた。
「デビィ、今日は先に行ってマスターに昼までには行くと言っておいてくれ。あと数時間で傷が治るはずだ。それから、そろそろ他の街に行くことを考えたほうがいいかもしれない。昨夜、ハンターを殺してしまったから、狙われる確率は確実に高くなるからね」
「そうだな。ええと……レイ、昨夜はすまなかった。自分ではどうしようもなかったんだ」
「謝ることはないよ。きっといつかは衝動に飲み込まれないようになる。その為には意志を強く持つことだ。それより、部屋でタバコは止めてくれ。俺が言いたいのはそれだけだ」
レイはテーブルの上に置かれていた腕の骨を摘みあげた。
「さて、後はこれをどうするかだな。ゴミバケツに捨てると処理場で大騒ぎになるし、どうだ、デビィ。これ少しずつ齧って食ってみるか?」
「そうだな。最近、カルシウムが足りないみてえだし。って、食えるか!」
結局、この骨は旅の途中で何処かに埋めることになった。
それから二週間。デビィの昼間の食人衝動はタバコを吸うことでほとんど問題なく抑えることが出来るようになった。ある夜、少しだけ強い衝動を感じて起き上がったデビィは、気を紛らわせるためにレイを起こさないように着替えて外に出た。冷たい風に当たり、繁華街に入り込んだ彼に、ちょっと可愛い娼婦が声を掛けてきた。二人はそのまま近くのホテルに入った。獣のように女を責め続けているうちにデビィの食人衝動は嘘のように消えていた。明け方、部屋に戻るとデビィはそっとベッドに潜り込んだ。
「女か?」
デビィはぎくりとした。レイは目を覚ましていた。
「女の匂いがする。何だか嫌な匂いだ。シャワーを浴びてこいよ」
予想に反して、レイは怒らなかった。
「黙って出て行って悪かった。でもよ、女を抱いたら衝動が消えたんだ。嘘じゃねえ」
「そうか。だったら構わないよ。でも黙って出かけるのだけは止めてくれないか。それからこの部屋に女は連れ込まないでくれ。判ったな?」
「判ったよ。約束する」
「それから、昨日、いいセーターを見つけたんだ。あれ、着てみたいんだけどな」
「それってまさか俺に買ってくれって言うんじゃねえだろうな?」
その時、デビィは部屋を出てくる時には置いていなかったレイのコートがベッドの上に放り出されていることに気が付いた。
「レイ、お前……」
「別にいいよ。もう疲れた。おやすみ」
レイはそのまま口を利かなくなった。デビィがそっと顔を見ると微かに寝息を立てて眠っている。
――夕べ、レイは俺がいないことに気付いて夜道を探し回っていたのだろう。……仕方がない。買ってやるか。
それから暫くの間はいつもと変わらぬ日々が続いた。
「ねえ、ウェイターさん。スプーンを落としちゃったの。新しいのを持ってきてちょうだい」
その日、レイに声をかけてきた客は一見してブランド品と判る薄いグレーのスーツを着た若い女だった。大胆に短くカットした薄茶の髪にちょっとつりあがった薄茶の瞳。胸元には見るからに高価なダイヤのネックレスが輝いている。
「かしこまりました」
レイが新しいスプーンを手渡そうとすると女はその手をいきなり掴んできた。女は薄く笑みを浮かべている。
「あの、申し訳ありません。仕事がありますので」
レイは落ち着いた口調でそう言ってそっと手を引こうとしたが、女は掴む力をますます強めてくる。
「ねえ、あなたは何者? 彼女とはどんな関係なの?」
「彼女ってどなたのことですか。何をおっしゃってるのか判りません。申し訳ありませんが、手を離していただけませんか」
女は手を離し、レイを冷たい目で睨みつけると、ふんと鼻を鳴らした。
「いいわ。自分で調べるから」
女はそう言い残すとテーブルに金を置いて立ち上がり、さっさと店を出て行った。
レイは指の跡がつくほど強く握られた手を擦りながら、女の姿を目で追った。
――いったい、あの女はなんだ? 彼女って誰のことだ。放っておいたら危険だろうか。いや……たぶんちょっと頭がいかれているだけだろう。
「いらっしゃいませ」
レイは不安を追い払うように、新しく入ってきた客に笑顔を向けた。
数日後、二人がカフェの仕事を終え、アパートに帰ってみると、ドアの前に見知らぬ男が立っていた。三十歳前後だろうか。薄茶色の髪を肩まで伸ばし、黒いサングラスを掛け、不精髭を生やしたその顔はいかにも胡散臭い。くたびれたグレーのジャケットにワイシャツ、色褪せたジーンズ。ジャケットのポケットに両手を突っこんだまま咥えタバコでドアに寄りかかっている。男はレイ達の姿を見つけるとサングラスを外してにやりと笑った。鋭い黒い瞳が射抜くような視線を浴びせてきたのでレイは一瞬、身を強張らせた。
「ああ、そんなに警戒しないでくれよ。あんた達かい? レイ・スミスとデビィ・ジョーンズってのは」
「……俺達に何の用だ? あんた、まさか」
ハンターか? という言葉がデビィの口から出る前にレイが遮った。
「それ以上言うな、デビィ。用件は何だ?」
男はドアから離れてポケットから何かを差し出した。レイが受け取ってみるとそれは私立探偵の身分証だった。
「俺はケント・ジョーク。この街の私立探偵だ。冗談みたいな名前だが本名だぜ。ちょっと調べてることがあってね。ああ、それから俺はあんたの正体を知ってるよ、レイ」
「貴様……!」
思わず身構えた二人に、ケントは慌てて言葉を言い添えた。
「いやいやいや。だからってハンターに知らせたりはしないよ。俺が調べてるのはマリーに関することだけなんだ。これ以上はここでは言えない。部屋に入れてもらえないだろうか」
レイは男の顔を見つめてしばらく考えていたが、やがてドアを開けて男を中に通した。
ケントはラッキーストライクを一本咥えたまま、灰皿を探している。デビィが立ち上がり、テーブルの上に乱暴に皿を置くと、ケントはちょっと驚いたようにデビィの顔を見た。
「ここは禁煙だぞ!」
「ああ、申し訳ない」
「マリーに何かあったのか?」
ケントはレイの言葉に、
「いやいや。まあまあ、そう焦らずに。俺は実はグリーンウェイ家の財産管理をしている弁護士に雇われている。四ヶ月くらい前に、あんた達はマリーを強盗から助けただろう? その時の連中の服装や人相を覚えているか?」
と、薄笑いを浮かべて答えた。
ケントの真向かいのソファにデビィと並んで座っているレイはちょっと眉を顰めた。
「マリーに聞けばいいじゃないか。それにどうして今頃になってそんなことを」
「いや、それがあの婆さん、そのことを最近まで弁護士に言わなかったんだよ。家政婦のアンも口が堅いからなあ。さっそく俺が詳しいことを聞きに行ったんだが、襲われてびっくりしちまって若いスキンヘッドだって以外には何も覚えていないんだよ。だから、あんた達に聞きに来たってわけだ」
「ふたりともスキンヘッドにグレーのタンクトップ。鎖がついた黒い革のズボンを履いてた。おそらく年はまだ二十歳までいっていない。顔は似ていなかったから双子ではないだろう」
ケントは何やら考え込んだ様子でまたラッキーストライクを取り出そうとしたが、デビィに睨まれて慌てて引っ込めた。
「だったら、恐らく俺の懸念は当たってるな。奴らが狙ったのは彼女のバッグじゃないな。彼女自身だ」
「なんだって!」
「その二人のチンピラは金をもらえばどんな汚いことでも引き受ける奴らだ。それにあの夜以来、行方不明になってる。おおっと。これ以上は言えない。聞きたかったことはそれだけだ」
ソファから立ち上がり、ドアを開けて出て行こうとするケントをレイが呼び止めた。
「おい、マリーは誰かに命を狙われているのか?」
「……あんた、何か思い当たることがあるのか」
「ああ、ちょっと見せたいものがあるんだ」
レイはしばらくの間、マリーのことが気がかりだった。だが、その後ケントからの連絡もなく、日々の忙しさに追われて次第にそのことは記憶の彼方に追いやられてしまった。
だが、ここを本当に去るきっかけとなる出来事は突然にやってきた。