第2章 何でも屋は夜が遅くて朝が早い【7】
じわじわと何か温かいものが流れ込む感覚で目を覚ます。すでに日暮れが終わろうとしており、ほんの僅かな陽を背にした人影がシリルを覗き込む。シリルの覚醒に気付くと、人影はシリルの胸元に当てていた手を離す。
「よく寝ていたな」
聞き慣れた声が言う。シリルはぼんやりと人影に視線を向けた。それが誰であるかはすぐにわかった。どうしてかはわからないが、その優しい声は昔からシリルのそばにいる。だから、すぐにわかった。
「……ねえ、シドニー」
「ん?」
「……僕は、どうすればいいのかな」
口が勝手に動くように、そんな言葉が漏れた。その問いがどんな意味を持つか、そんなことはわからないのに。そう問わなければならない気がした。
「どうもしなくていい。僕に任せていればそれでいい」
「…………」
ぼんやりとするシリルの髪を梳きながら、シドニーは小さく笑う。
「そろそろ起きたほうがいい。彼らが待っているんじゃないか」
「……彼らって、誰……?」
「お前がわからないなら僕もわからないよ」
とんとんとん、と静かなノックが聞こえる。シドニーは立ち上がり、シリルの頬を指で撫でた。その優しい手付きが、シリルの疑問を晴らすような感覚がする。
「お前は何も考えなくていい。僕に任せていればそれでいい」
「……うん、大丈夫」
ゆっくりと窓が閉じる。確かに、もうそろそろ起きなければならない。いつまでも待たせるわけにはいかないだろう。
……――
「ああ、憎たらしい。これじゃ届かないじゃないか!」
蹴飛ばした赤色のスツールが、窓を突き破って奈落に落ちていく。あれはもう用無しだ。わざわざ取りに行く必要はない。
「どうか落ち着いてくださいませ」
赤の執事が呆れて溜め息を落とす。ひとつ舌を打ち、どかっとソファに腰を下ろした。どうにも苛立ちが抑えられない。
「物に当たったところで、何も解決にはなりません」
「ああ、落ち着いてなんていられないよ。どうしてこうも邪魔が入るんだ」
物事が上手く運ばないだけで癇癪を起こすなんて、まるで子どもだ。あまりに邪魔が入るものだから致し方ない。すべて消し炭にしてしまえば話が早かったものを。
「落ち着いてくださいませ。時間だけはたっぷりあるのですから」
「そうとは限らない」
冷徹な騎士がにやりと笑った。こんなときによくもそんなふうに微笑めたものだ。
「時間はあるかもしれませんが、時間はないのかもしれません」
「焦っても仕方がありませんわ」
赤いドレスの侍女が頬に手を当てて愛らしく言う。実に憎たらしい表情だ。
「どうせ何もできやしませんわ」
「ああ……僕はただそばにいたいだけなのに。この手の内に収めたいだけなのに」
「まだ焦る必要はありませんわ。もう運命は決められているのですもの」
「ああ、そうだね。僕らの運命は決まっているんだ」
だと言うのに、まだこんなに遠い。手の届くうちにこの手の内に収めなければ。降り積もる灰色に冒される前に。その涙を掬えるうちに。この手が届くうちに。
――……
深いようで浅い眠りから覚め、ぼんやりしたままダイニングに向かう。ニコルが消えてどれくらい経っただろう。あまり待たせていないといいのだが。
シリルがダイニングのドアを開くと、最後の灰色のかけらが散るところだった。あまり待たせずに済んだようだ。
「すみません、居眠りが長すぎたみたいですね」
「おはよう」と、メリフ。「ここまでの話は聞いてた?」
「どうかな……よく聞こえなかった気がする」
「依頼人がそれじゃ困るわ。ニコルという手段があるからまだいいけど」
メリフは呆れたように息をつく。また謝りながら、シリルも席に着いた。すぐにアイレーがワゴンを押し食事を運んで来る。シリルは自分のせいで夕食が遅くなったことでまた申し訳なく思った。
「僕にはよくわからないんだ。僕が力になれることはないかな……」
「まあいいわ。いちから調査するって約束だし」
「うん……」
シリルのぼやけた頭より、きっとロスとメリフの調査結果のほうが当てになる。シリルがすでに知っている情報でも、ふたりが調達して来たほうが手っ取り早いだろう。シリルにはどの情報が何を意味するのか、よくわからないのだから。
「……ねえ、シリル」メリフが言う。「たまに違うところに視線が向いているけど、何を見ているの?」
メリフが自分の肩の辺りを指差した。ちょうどシリルの視線が向いたところだ。
「何も。視線が泳ぐのは癖なんだ」
シリルは誤魔化すように笑う。ふうん、と呟いたメリフはそれ以上に追及することはないようだ。
食事はシリルが拍子抜けするほど穏やかに進む。メリフが朗らかに他国の話をしてくれるからだ。シリルの知らないことばかりで、その体験ができることが少しだけ羨ましく思える。それでも、シリルがグラスを倒してメリフが呆れるのは、朝食の席の再上演のようだった。




