3.亡霊の再臨と、歪んだ騎士の嘘
3.亡霊の再臨と、歪んだ騎士の嘘
窓を叩く雨音は、あの日、崖の上で聞いた音に似ていた。
夜会から戻ったばかりの屋敷。シャンデリアの光さえ冷たく感じられるエントランスに、場違いな悲鳴のような報告が飛び込んできた。
「――兄上御遺体が、安置所から消えた、だと?」
セドリックの低く冷徹な声が、凍てついた空気を切り裂いた。
アメリア・ハミルトンは、脱ぎかけのレースの手袋を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
崖から転落し、確かに息絶えていたはずの夫。
わたくしは、彼の遺体を直接見てはいない。
崖の下、不自然な角度で岩場に横たわっていた状況から、死を確信していたに過ぎなかった。
葬儀の際も、セドリックから「損傷が激しく、アメリア様にお見せできる状態ではない」と、いたわるように告げられた。その言葉を信じ、棺は固く閉ざされたまま、わたくしたちは「ハミルトン子爵」を土の下へ送ったはずだった。
「……生きて、いたの……?」
わたくしの唇から、掠れた声が漏れる。
もし彼が生きていれば、この数日間に積み上げてきた清算はすべて無に帰す。子爵家は再び彼の放蕩に晒され、領民は飢え、わたくしは裏切り者の妻として、今度こそ逃げ場のない地獄を彷徨うことになる。
「案じることはありません、アメリア様」
セドリックがわたくしの肩を抱き寄せた。その手は驚くほど落ち着いており、鉄のような強固さでわたくしの震えを抑え込む。
「私が確認してきます。あなたは何も見ず、何も聞かず、ただ部屋で休んでいてください。……あなたの平穏を乱す不浄なものは、何ひとつこの屋敷には入れさせない。私の名にかけて誓います」
彼はそう言うと、わたくしを寝室まで送り届けた。
廊下には、いつの間にか彼が手配した鋭い眼光の男たちが、影のように配備されている。
かつて伯爵家の「日陰の三男」として、兄たちの影に怯えていたはずの少年。
その面影はどこにもない。
そこにいたのは、冷酷な秩序を司る、真の支配者の姿だった。
だが、わたくしは知っている。
セドリックが発った後、わたくしは独り、エドワードの寝室を再び検分した。
そこで見つけたのは、隠し金庫から持ち出された宝石の空箱と、床に残された泥混じりの、引きずるような足跡だった。
死体泥棒の仕業ではない。
それは、執念だけで地獄から這い戻ってきた男の、醜悪な足跡だ。
不安と責任感が、わたくしを突き動かした。
監視の目を盗み、雨に濡れる庭園を抜け、屋敷の裏手に位置する古い石造りの倉庫へと足を向ける。重い扉の隙間から、獣の呻きのような声が漏れていた。
「……セ、セドリック、お前……! 下賤な血の、お情けで伯爵家に置いてもらっていた分際で……っ、俺に、こんな真似をして……!」
暗がりのなか、泥にまみれ、顔半分を赤黒く腫らした男が、片脚を引きずりながら床を這っていた。
エドワード。
彼は生きていた。奇跡か、あるいは呪いか。
崖の底で、彼は確かに死の淵にいたはずだ。けれど彼は、自分を突き落とした(と彼が思い込んでいる)弟への憎悪だけで、その命を繋ぎ止めたのだろう。
対するセドリックは、汚れた床を這う兄を、まるで路傍の石でも見るような冷徹な眼差しで見下ろしていた。
かつてのエドワードは、セドリックをどこかで見下しながらも、その有能さを都合よく利用していた。自分に従順な、物言わぬ駒だと信じ切っていたのだ。
だが、今、その駒が、自分を食い殺す猛獣へと変貌したことに、彼はようやく気づいたらしい。
「兄上。あなたはあの日、死ぬべきだった」
セドリックの声は、夜の闇よりも深く、冷たい。
「……っ、ふん、そういうことか! あのアメリアとかいう女を、自分のものにしたいわけだ。お前、昔からあいつをジロジロ見てやがったもんなぁ……!」
エドワードは、喉を鳴らして醜く笑った。剥き出しの恐怖を隠すように、彼は致命的な軽口を吐き捨てる。
「いいぜ、あんな可愛げのない、氷のような女……。中身は空っぽの、人形みたいな淑女様だ。そんなにいいなら、お前にくれてやるよ。俺は新しい女と金さえあれば、あんな女、どうでもいい……」
その瞬間、空気が凍りついた。
物理的な温度が下がったかのような錯覚を覚えるほどの、強烈な殺気。
セドリックの影が、巨大な獣の顎のようにエドワードを飲み込んだ。
「――二度と、その汚い口で彼女の名を呼ぶな」
セドリックが、エドワードの胸ぐらを片手で掴み上げ、石壁に叩きつける。
鈍い音が響き、エドワードが苦悶の声を上げた。
セドリックの逆鱗は、エドワードが自分を裏切ったことでも、虐げられた過去でもない。
ただ、自分が人生をかけて崇拝し、守り抜こうとしているアメリアを、物のように扱ったその一点だった。
「アメリア様は、お前のような不浄な男に語られていい存在ではない。……お前はもう、人間ですらない。私の世界から排除すべき、ただの、ゴミだ」
セドリックの手に、月光を吸い込んだ鈍い刃が握られる。
エドワードの顔から、一気に血の気が引いた。
自分が信じていた従順な弟は、最初から自分など見ていなかった。ただひとりの女を、理想の檻に閉じ込めるために、障害となる自分が朽ち果てるのを待っていた怪物だったのだ。
「待て……! 助け……セドリック、俺は兄だぞ……っ!」
「安心してください、兄上。葬儀はもう、滞りなく済ませました。棺の中が空だったことは、墓の中のあなただけが知っていればいい」
セドリックが刃を振るう直前、わたくしはそっと目を閉じた。
(――わたくしが手を伸ばさなかったあの日、解き放たれたのはわたくしの自由だけではなかった)
わたくしを「正しさ」の中に閉じ込めるために、彼は喜んで泥を被り、怪物になる道を選んだ。
わたくしの高潔さを守るための、彼の凄惨なまでの献身。
「……アメリア様」
いつの間にか、背後に気配があった。
振り返ると、そこには返り血ひとつ浴びていない、完璧な微笑みを湛えたセドリックが立っていた。
背後の倉庫からは、もう、獣の呻き声すら聞こえない。
「……終わりましたか?」
「ええ。野良犬が少し騒いでいただけです。お騒がせしました。……さあ、寝室へ。明日の朝には、すべてが浄化されていますよ」
セドリックはわたくしの冷えた手を取り、跪いてその甲に深い口づけを落とした。
その熱い唇が、もはや自分ひとりの力では逃れられない「檻」であることを、わたくしは静かに受け入れていた。
彼が怪物であるならば、わたくしもまた、その怪物を生み出した共犯者なのだから。
(第2章 第3話 完)
次回予告
エドワードという「過去」を完全に抹消した二人に、社交界からの執拗な疑惑が向けられる。
アメリアを追い詰めようとする周囲に対し、セドリックはついに「公式な求婚」という強硬手段に出る。
だが、その時、伯爵家から届いた一通の手紙が、波乱を巻き起こす――。




