表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『結婚式の夜に夫の愛人の妊娠を告げられましたが、すでに準備は整っております』  作者: 白昼夢
第二章 檻の中の猛獣、牙を剥く

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/11

3.亡霊の再臨と、歪んだ騎士の嘘

3.亡霊の再臨と、歪んだ騎士の嘘




窓を叩く雨音は、あの日、崖の上で聞いた音に似ていた。

夜会から戻ったばかりの屋敷。シャンデリアの光さえ冷たく感じられるエントランスに、場違いな悲鳴のような報告が飛び込んできた。



「――兄上御遺体が、安置所から消えた、だと?」



セドリックの低く冷徹な声が、凍てついた空気を切り裂いた。


アメリア・ハミルトンは、脱ぎかけのレースの手袋を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。


崖から転落し、確かに息絶えていたはずの夫。



わたくしは、彼の遺体を直接見てはいない。

崖の下、不自然な角度で岩場に横たわっていた状況から、死を確信していたに過ぎなかった。

葬儀の際も、セドリックから「損傷が激しく、アメリア様にお見せできる状態ではない」と、いたわるように告げられた。その言葉を信じ、棺は固く閉ざされたまま、わたくしたちは「ハミルトン子爵」を土の下へ送ったはずだった。



「……生きて、いたの……?」



わたくしの唇から、掠れた声が漏れる。


もし彼が生きていれば、この数日間に積み上げてきた清算はすべて無に帰す。子爵家は再び彼の放蕩に晒され、領民は飢え、わたくしは裏切り者の妻として、今度こそ逃げ場のない地獄を彷徨うことになる。



「案じることはありません、アメリア様」



セドリックがわたくしの肩を抱き寄せた。その手は驚くほど落ち着いており、鉄のような強固さでわたくしの震えを抑え込む。



「私が確認してきます。あなたは何も見ず、何も聞かず、ただ部屋で休んでいてください。……あなたの平穏を乱す不浄なものは、何ひとつこの屋敷には入れさせない。私の名にかけて誓います」



彼はそう言うと、わたくしを寝室まで送り届けた。

廊下には、いつの間にか彼が手配した鋭い眼光の男たちが、影のように配備されている。


かつて伯爵家の「日陰の三男」として、兄たちの影に怯えていたはずの少年。

その面影はどこにもない。

そこにいたのは、冷酷な秩序を司る、真の支配者の姿だった。

だが、わたくしは知っている。

セドリックが発った後、わたくしは独り、エドワードの寝室を再び検分した。

そこで見つけたのは、隠し金庫から持ち出された宝石の空箱と、床に残された泥混じりの、引きずるような足跡だった。

死体泥棒の仕業ではない。

それは、執念だけで地獄から這い戻ってきた男の、醜悪な足跡だ。

不安と責任感が、わたくしを突き動かした。

監視の目を盗み、雨に濡れる庭園を抜け、屋敷の裏手に位置する古い石造りの倉庫へと足を向ける。重い扉の隙間から、獣の呻きのような声が漏れていた。



「……セ、セドリック、お前……! 下賤な血の、お情けで伯爵家に置いてもらっていた分際で……っ、俺に、こんな真似をして……!」



暗がりのなか、泥にまみれ、顔半分を赤黒く腫らした男が、片脚を引きずりながら床を這っていた。



エドワード。



彼は生きていた。奇跡か、あるいは呪いか。


崖の底で、彼は確かに死の淵にいたはずだ。けれど彼は、自分を突き落とした(と彼が思い込んでいる)弟への憎悪だけで、その命を繋ぎ止めたのだろう。


対するセドリックは、汚れた床を這う兄を、まるで路傍の石でも見るような冷徹な眼差しで見下ろしていた。

かつてのエドワードは、セドリックをどこかで見下しながらも、その有能さを都合よく利用していた。自分に従順な、物言わぬ駒だと信じ切っていたのだ。


だが、今、その駒が、自分を食い殺す猛獣へと変貌したことに、彼はようやく気づいたらしい。



「兄上。あなたはあの日、死ぬべきだった」



セドリックの声は、夜の闇よりも深く、冷たい。



「……っ、ふん、そういうことか! あのアメリアとかいう女を、自分のものにしたいわけだ。お前、昔からあいつをジロジロ見てやがったもんなぁ……!」



エドワードは、喉を鳴らして醜く笑った。剥き出しの恐怖を隠すように、彼は致命的な軽口を吐き捨てる。



「いいぜ、あんな可愛げのない、氷のような女……。中身は空っぽの、人形みたいな淑女様だ。そんなにいいなら、お前にくれてやるよ。俺は新しい女と金さえあれば、あんな女、どうでもいい……」



その瞬間、空気が凍りついた。



物理的な温度が下がったかのような錯覚を覚えるほどの、強烈な殺気。

セドリックの影が、巨大な獣の顎のようにエドワードを飲み込んだ。



「――二度と、その汚い口で彼女の名を呼ぶな」



セドリックが、エドワードの胸ぐらを片手で掴み上げ、石壁に叩きつける。


鈍い音が響き、エドワードが苦悶の声を上げた。


セドリックの逆鱗は、エドワードが自分を裏切ったことでも、虐げられた過去でもない。

ただ、自分が人生をかけて崇拝し、守り抜こうとしているアメリアを、物のように扱ったその一点だった。



「アメリア様は、お前のような不浄な男に語られていい存在ではない。……お前はもう、人間ですらない。私の世界から排除すべき、ただの、ゴミだ」



セドリックの手に、月光を吸い込んだ鈍い刃が握られる。



エドワードの顔から、一気に血の気が引いた。

自分が信じていた従順な弟は、最初から自分など見ていなかった。ただひとりの女を、理想の檻に閉じ込めるために、障害となる自分が朽ち果てるのを待っていた怪物だったのだ。



「待て……! 助け……セドリック、俺は兄だぞ……っ!」



「安心してください、兄上。葬儀はもう、滞りなく済ませました。棺の中が空だったことは、墓の中のあなただけが知っていればいい」



セドリックが刃を振るう直前、わたくしはそっと目を閉じた。



(――わたくしが手を伸ばさなかったあの日、解き放たれたのはわたくしの自由だけではなかった)



わたくしを「正しさ」の中に閉じ込めるために、彼は喜んで泥を被り、怪物になる道を選んだ。

わたくしの高潔さを守るための、彼の凄惨なまでの献身。



「……アメリア様」



いつの間にか、背後に気配があった。



振り返ると、そこには返り血ひとつ浴びていない、完璧な微笑みを湛えたセドリックが立っていた。

背後の倉庫からは、もう、獣の呻き声すら聞こえない。



「……終わりましたか?」



「ええ。野良犬が少し騒いでいただけです。お騒がせしました。……さあ、寝室へ。明日の朝には、すべてが浄化されていますよ」



セドリックはわたくしの冷えた手を取り、跪いてその甲に深い口づけを落とした。



その熱い唇が、もはや自分ひとりの力では逃れられない「檻」であることを、わたくしは静かに受け入れていた。

彼が怪物であるならば、わたくしもまた、その怪物を生み出した共犯者なのだから。



(第2章 第3話 完)






次回予告


エドワードという「過去」を完全に抹消した二人に、社交界からの執拗な疑惑が向けられる。

アメリアを追い詰めようとする周囲に対し、セドリックはついに「公式な求婚」という強硬手段に出る。

だが、その時、伯爵家から届いた一通の手紙が、波乱を巻き起こす――。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ