2.夜会のエスコートと隠された秘密
2.夜会のエスコートと隠された秘密
エドワードの書斎は、主を失ってもなお、浅ましい欲望の残り香が漂っているようだった。
わたくしは事務的に、遺品の整理を進めていた。
彼が隠していた不当な借財の証拠をすべて洗い出し、子爵家の膿を出し切るためだ。
その時、重厚な金庫の最下段、二重底になった秘密の引き出しから、一束の紙を見つけた。
「これは……?」
手に取った瞬間、指先が微かに震えた。
それは、数枚のスケッチだった。
五年前。まだわたくしが社交界に出る前、実家の庭で傷ついた小鳥を介抱していた時の姿。
あるいは、図書室の窓辺で本を開いたまま、うたた寝をしていた時の無防備な横顔。
筆致は緻密で、紙の端にはわたくしの好んだ花が薄く描き込まれている。
エドワードに、これほどの画才も、これほど繊細な観察眼もない。
「セドリック……?」
なぜ、彼のものと思われるスケッチが、エドワードの金庫にあるのか。
かつて彼は、伯爵家の「日陰の三男」だった。身分の低い母を持ち、兄たちの影でその類まれな才を殺し、虐げられて生きていたはず。
――あの日。エドワード様との婚約が決まった時、彼はただ一度だけ、悲しげに微笑んで「お幸せに」と言った。
もし、彼がずっと前からわたくしを見ていたのだとしたら。
そして、エドワードの裏切りを知った時、彼はアメリアという「光」を守るために、己の封印を解いたのではないか。
「お待たせいたしました、アメリア様」
低く、耳朶を震わせる声。
振り返ると、そこには完璧な夜会服(正装)を纏ったセドリックが立っていた。
かつての、どこか自信なげだった少年の面影はない。
今の彼は、商会や裏社会をも支配下におくと言われる、底知れない実力者の風格を漂わせている。
「……そのスケッチは」
セドリックの視線が、わたくしの手元に落ちる。
彼は否定しなかった。
ただ、隠しきれない独占欲を滲ませた瞳で、わたくしを静かに見つめた。
「捨ててくださって構いません。……アメリア様が幸せであれば、一生、表に出すつもりはなかったものですから」
「……セドリック」
「行きましょう。今日は、あなたの尊厳を傷つけた者たちに、相応の報いを与える夜です」
彼は跪き、わたくしの手に、誓いを立てる騎士のように熱い唇を寄せた。
夜会の会場である伯爵邸は、光と香水の香りに満ちていた。
けれど、そこは「悲劇の未亡人」を値踏みしようとする者たちの戦場でもある。
「おやおや、哀れな花嫁がお出ましだ」
嫌な声が響いた。
エドワードの悪友であり、共に放蕩の限りを尽くしていたウィルソン伯爵子息だ。彼は数人の取り巻きを連れ、わたくしたちを嘲笑うように包囲した。
「夫が死んで数日、もう次の寄る辺を見つけたのか? さすがは抜け目ない。エドワードも草葉の陰で泣いているだろうよ。……それとも、今度は弟君にその毒を回すのか?」
周囲に、品性のない忍び笑いが広がる。
わたくしは扇を閉じ、背筋を伸ばして優雅に微笑んだ。
「ウィルソン様。エドワード様が泣いているとすれば、それはご自身の不徳ゆえでしょう。……それとも、彼の遺品の中から見つかった、あなたの署名入りの『賭博の借用書』について、ここで詳しくお話しいたしましょうか?」
「な、何だと……!?」
「証拠はすべて、わたくしの手元にございます。不当な利息での貸し付け――貴族法に触れるのではありませんか?」
わたくしの静かな宣告に、ウィルソンの顔が引きつる。
アメリアからの告げられるのは、もはや誤魔化しようもない真実。
だが、逆上したウィルソンは、わたくしの肩を掴もうと暴挙に出た。
「この、生意気な女が――!」
その手がわたくしに触れるより速く。
セドリックの影が動いた。
「私のアメリア様に、その汚れた手で触れるな」
凍りつくような殺気。
セドリックがウィルソンの手首を掴んでいた。指先一つ動かせぬほどの、圧倒的な武の力。
「セ、セドリック……貴様、ただの居候の三男坊の分際で!」
「居候、か。……ウィルソン、君の父が経営する商会の資金繰りが悪化しているのは知っているね? 先ほど、私が裏で差配している商会連合が、君たちの全債権を買い取った」
セドリックは、獲物を追い詰める猛獣のような、静かで残酷な笑みを浮かべた。
「明日、君の家は破産する。……アメリア様に謝罪する機会は、今、この瞬間が最後だ」
「な……っ!?」
ウィルソンは、信じられないものを見る目でセドリックを仰ぎ見た。
日陰の三男。
目立たぬように生きていたはずの男が、いつの間にか、一族の命運を一瞬で断ち切るほどの巨人に成長していた。
「……申し、訳……ありませんでした……」
ウィルソンは崩れ落ちるように跪いた。
会場が、しんと静まり返る。
セドリックは彼を一顧だにせず、わたくしの腰を、守るように、かつ独占的に抱き寄せた。
「アメリア様、気分が悪ければ、外の空気を吸いに行きましょう」
バルコニーへ出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
「……驚きましたわ。あなたが、あんな力を持っていたなんて」
「……アメリア様に、余計な心配をかけたくなかった。ただ、あなたが傷つけられるのを見て見ぬふりをするほど、私はもう、弱くはないつもりです」
セドリックは、わたくしの両手をそっと包み込んだ。
その手は、先ほどウィルソンを黙らせた時とは打って変わって、壊れ物を扱うように繊細で、温かい。
「私は、あなたの意思を何より尊重します。アメリア様が私を望まないなら、私は一生、あなたの影として仕えるだけでも構わない。……ですが」
彼は一歩、距離を詰める。
その熱い瞳は、もはや「弟」のものではなかった。
(――もう、誰にもアメリアを裏切らせない)
「私という檻が、あなたにとって心地よい場所になるまで、私は待ち続けます。……あの日、アメリア様が手を伸ばさなかった理由を、私は知っている。その潔癖なまでの高潔さを、私は生涯かけて愛し、守り抜くと誓います」
月光の下、彼の瞳には信仰に近い、純粋で深い執着が宿っていた。
わたくしは、彼が差し出した手を見つめた。
この手を取れば、二度と孤独な戦いに戻ることはない。
けれど同時に。この穏やかな猛獣に、一生買い殺されることも、確信していた。
「……わたくしの檻は、随分と贅沢なようですわね」
わたくしは、わずかに微笑んで、その手を取った。
(第2章 第2話 完)
次回予告
ウィルソンへの制裁を終えたアメリアのもとに、不穏な一報が届く。
「――エドワード様の遺体が、消えました」
葬ったはずの夫の影。それは愛人の狂言か、あるいは。
動揺するアメリアを抱き寄せ、セドリックは静かに、底知れない微笑みを浮かべる。
「案じることはありません、アメリア様。……たとえ地獄から戻ろうと、二度とあなたの前には立たせません」
暴かれるエドワードの真の最期。
――わたくしが選んだのは、騎士ではなく、すべてを喰らう猛獣だったのか。




