1.慈悲という名の処刑
第二章 檻の中の猛獣、牙を剥く
1.慈悲という名の処刑
窓の外では、あの日と同じような細い雨が降り続いていた。
わたくし、アメリア・ハミルトン――あるいは再び、子爵令嬢アメリアに戻るべきか――は、書斎の机に積み上がった書類の山を、一枚ずつ慎重に精査していた。
「……信じられませんわ」
思わず漏れた溜息は、重く沈んだ。
亡き夫エドワードが愛人イザベル・ブレイのために使い込んだ金の流れ。それは単なる贅沢の範疇を超えていた。
領地の橋を架け替えるはずだった予算。
冬を越すために備蓄しておくべき小麦の買い付け費用。
それらが、すべて一介の商家の娘の、けばけばしい宝石や夜会のドレスに消えていたのだ。
わたくし個人への不実ならば、耐えることもできた。けれど、わたくしが愛し、守るべき領民たちの生活を削ってまで、彼は欲望を優先させた。
それは、わたくしが最も許せない不祥事だった。
「……お呼びでしょうか、奥様」
「ええ。この借用書の写しを、主要な債権者たちへ。それから、わたくしが相続放棄を真剣に検討しているという話を、世間話のついでに広めておいてちょうだい」
事務的に指示を下す。
わたくしは悪女になりたいわけではない。
ただ、子爵家の資産を食いつぶす「毒」を、これ以上一滴たりとも放置しておくわけにはいかないだけだ。
「失礼いたします。……その、門前に、イザベル・ブレイが」
執事の困惑した声に、わたくしはペンを止めた。
玄関ホールに現れたイザベルは、数日前の舞踏会での勝ち誇った姿とは別人のようだった。
雨に打たれ、泥に汚れたドレス。膨らみ始めた腹を抱え、彼女はわたくしの足元に崩れ落ちた。
「アメリア様……! お願いです、助けてください! 家を、家を追い出されたのです。エドワード様が、あんなに借金を残していたなんて……!」
彼女の泣き声が、高い天井に虚しく響く。
使用人たちの冷ややかな視線が彼女に突き刺さる。
かつて彼らを金で買収しようとした女への、当然の報いだった。
わたくしはゆっくりと歩み寄り、彼女の肩に温かい毛布をかけさせた。
「お可哀想に。まずは落ち着いて、温かい紅茶を召し上がれ」
「ああ……! ありがとうございます、なんてお優しい……!」
イザベルの瞳に安堵の光が宿る。
わたくしは、彼女が信じている『以前の私のように困っている人には慈悲の心で救済をと言う教え』を否定はしない。
そして、困っている妊婦を雨の中に放り出すほど、わたくしの教育は野蛮ではないのだから。
けれど――。
「ええ、助けて差し上げますわ。ですから、この書類にサインを」
わたくしが差し出したのは、エドワードが彼女の名義で組んでいた別荘の抵当権と、膨大な連帯保証の記録だった。
「これは……?」
「エドワード様は、あなたを愛していたのではなく、あなたを『金の隠し場所』にしていたの。彼は、自分が破滅した時のための盾として、あなたを使っていたのですわ」
真っ白になるイザベルの顔。
「わたくしがあなたの後見人となりましょう。債権者からは、わたくしが守って差し上げます。その代わり――あなたは一生、わたくしの管理する領地の離れで、静かに暮らすのです。外の世界と関わることは、二度と許されませんけれど」
それは、死ぬまで続く「保護」という名の監禁だった。
彼女がこれ以上、わたくしの領地や名誉に泥を塗らないための、唯一の安全策。
「それが、あなたとお腹の子を救う、唯一の道ですわ。……選んでくださるかしら?」
微笑み。
迷いのない、慈悲深い、完璧な聖母の微笑み。
イザベルは、震える手でペンを握るしかなかった。
彼女が使用人に連れられて去った後、背後の影が動いた。
「……実に見事だ。あんな女にさえ『居場所』という名の檻を用意するとは。あなたは、私が思っていたよりもずっと残酷で、そして気高い」
低い、悦びに満ちた声。
セドリック・ハミルトン。
わたくしは振り返り、わずかに眉を寄せた。
彼とは、エドワードの裏切りを暴くための協力関係だったはずだ。それなのに、今の彼の瞳に宿る熱は、わたくしの理解の範疇を超えている。
「残酷だとおっしゃりたいの? わたくしはただ、彼女を救い、子爵家を守る義務を果たしただけですわ」
「ええ、分かっています。その『正しさ』のために己の手を汚すことを厭わない姿……、狂おしいほどに美しい」
セドリックが一歩、近づく。
彼はわたくしの指先を取り、恭しく唇を寄せた。かつて伯爵家の「日陰の三男」として虐げられ、感情を殺していた頃の彼とは別人のような、圧倒的な存在感。
いつの間に、これほどの力を蓄えていたのか。冷遇されていたはずの彼が今、商会や裏社会を動かす実力者としてわたくしの前に立っている。
「兄には、過ぎた花嫁だった。……そして今、あなたは自由だ」
「セドリック、何を……」
「次の夜会の招待状です。私がエスコートを務めます。異論は認めない」
押し付けられたカード。
彼はわたくしの困惑を慈しむかのように、理性の仮面の下で猛獣のような、しかし切実な執着を秘めた瞳を向けていた。
これほど、熱い男だったかしら。
ただの協力者だと思っていた男の豹変に、わたくしは初めて背筋に寒いものを感じる。
「……逃げられませんよ、アメリア」
囁きと共に、彼は闇の中へと消えていった。
わたくしは一人、静まり返ったホールで、自分の心臓の音がかつてないほど速くなっていることに気づいた。
(第2章 第1話 完)
次回予告
セドリックとの初めての公式なエスコート。社交界の好奇の目に晒される中、彼はアメリアを「守る」ため、より過激な行動に出る。一方、死んだエドワードの「遺品」から、アメリアも知らないセドリックのさらなる秘密が見つかり――。




