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ある小料理屋の開店の物語  作者: 双鶴


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1話

 翌朝、私は街へ出た。冷たい空気が頬を撫で、吐く息が白く立ちのぼる。祖母の言葉を胸に、まずは食べ歩きから始めようと思った。舌で覚え、鼻で嗅ぎ、目で見て、耳で聴き、指先で触れる――五感すべてで和食を受け止めるために。


 最初に訪れた路地裏の定食屋は、木の引き戸を開けると古い柱の香りと味噌汁の湯気が混ざり合い、鼻をやさしくくすぐった。店内は木目のテーブルが並び、壁には季節の花を描いた掛け軸が飾られている。焼き鮭定食が運ばれてくると、白い陶器の皿に鮭が斜めに置かれ、皮はぱりっと焼けて黄金色に輝き、横には大根おろしが雪のように添えられていた。箸を入れると「サクッ」と音を立てて割れ、口に含むと脂の甘みが舌に広がり、皮の香ばしさが鼻に抜ける。ご飯は木の蓋を外すと湯気がふわりと立ち、米粒ひとつひとつが艶やかに光っていた。味噌汁の椀は漆塗りで、豆腐の白とわかめの緑が湯気の中で揺れ、漬物は赤い柴漬けと黄色い沢庵が彩りを添えていた。


 次に訪れた商店街の煮物屋は、紺色の暖簾が揺れ、店先から漂う香りは甘辛い醤油と出汁の混ざり合った匂いだった。木のカウンターには湯気を立てる大鍋が並び、蓋の隙間から「コトコト」と煮える音が漏れていた。大根の煮物は透き通るような柔らかさで、表面に黄金色の煮汁が艶を残していた。人参は橙色を鮮やかに保ち、牛蒡は土の香りを残している。汁を啜れば醤油の深みと昆布の旨味が重なり、喉の奥に温かさが残る。器の縁に添えられた青菜が彩りを添え、目にも美しい。


 昼時に入った天ぷら屋は、白木のカウンターが清潔に磨かれ、壁には季節の花が生けられていた。海老の天ぷらは竹の籠に盛られ、衣が黄金色に輝き、横には青い大葉が添えられていた。箸で割ると「サクッ」と軽やかな音を立て、口に含むと衣の香ばしさと海老の甘みが舌に広がり、鼻に抜ける香りは海の記憶を呼び起こす。茄子の天ぷらは衣の中に紫の艶を隠し、噛めばじゅわっと油と旨味が溶け出し、抹茶塩をひとつまみ振れば舌に清々しい苦みが走り、油の重さを軽やかにほどいてくれる。


 午後に訪れた蕎麦屋は、古い木の香りが漂い、店内には水の音が響き、蕎麦を打つ「トントン」という音が耳に心地よかった。ざる蕎麦は竹の笊に盛られ、細く艶やかな麺が冷水で締められ、指先にひんやりとした感触を伝える。口に含むと蕎麦の香りが鼻に抜け、舌に淡い甘みが広がり、つゆは鰹節の香ばしさと醤油の深みが重なり、麺を潜らせると香りが立ち上る。喉をすべる冷たさが心地よく、夏の風のように体を駆け抜けた。


 夕暮れに立ち寄った甘味処は、木の格子窓から柔らかな灯りが漏れ、店内には黒蜜の甘い香りと餡の柔らかな匂いが漂っていた。お汁粉の椀は朱塗りで、湯気の立つ表面に小豆の粒が浮かび、焼いた餅は表面が香ばしく焦げ目をつけ、中は柔らかく伸びていた。口に含むと餡の粒が舌にやさしく触れ、甘みが広がり、喉をすべる甘さは心をやさしく包み込む。器の赤と餡の深い色が美しく調和し、外の寒さを忘れ、体の芯まで温まった。


 夜の寿司屋では、木のカウンターに座ると板前が握る寿司が次々と並べられる。赤身の鮪は艶やかに光り、口に含むとしっとりとした旨味が舌に広がる。白身の鯛は淡い甘みを残し、海苔の香りが鼻に抜ける。器は白木の板で、寿司の色彩が際立ち、目にも美しい。


 居酒屋に立ち寄ると、炭火で焼かれる串の香りが漂い、音が「パチパチ」と弾けていた。焼き鳥は照り焼きのタレが艶やかに光り、口に含むと肉の旨味と甘辛いタレが舌に広がる。器は陶器で、串が整然と並び、目にも楽しい。


 おでん屋では、大鍋から立ちのぼる湯気が店内を満たし、昆布と鰹の香りが鼻をくすぐった。大根は透き通るように柔らかく、口に含むと出汁の甘みが広がる。卵は黄身がほろりと崩れ、練り物は弾力を残して旨味を伝える。器は深い陶器で、湯気が立ち上り、心まで温めてくれる。


 鰻屋では、炭火の香りが漂い、蒲焼きの艶やかな照りが目を奪う。器は長方形の漆塗りで、白いご飯の上に鰻が整然と並び、タレの甘辛さが米粒に染み込んでいた。口に含むと、皮の香ばしさと身のふっくらとした柔らかさが舌に広がり、鼻に抜ける香りは炭火の記憶を呼び起こす。


 京料理の小料理屋では、八寸の盛り合わせに胡麻豆腐、青菜のおひたし、鯛の刺身が美しく並んでいた。胡麻豆腐は舌に乗せると絹のように滑らかで、胡麻の香りがふわりと広がる。鯛の刺身は淡い甘みを残し、醤油の塩気がその旨味を引き立てる。器の色彩と盛り付けの美しさが、料理そのものを芸術に変えていた。


 夜更けのラーメン屋では、豚骨の香りが濃厚に漂い、湯気が立ちのぼる。器は白磁で、黄金色のスープの上にチャーシューが並び、青ネギが鮮やかに散らされていた。スープをひと口すすると、豚骨の濃厚な旨味が舌に広がり、脂の甘みが喉の奥にじんわりと残る。表面に浮かぶ油の粒が光を反射し、湯気の中できらめいていた。麺を啜れば「ズズッ」と音が響き、もちもちとした弾力が歯に心地よく、喉をすべる熱さが体を震わせる。チャーシューは箸で持ち上げるとほろりと崩れ、脂身が舌の上でとろけて甘みを残す。器の縁に描かれた藍色の模様が、濃厚なスープの黄金色をさらに際立たせていた。店内には湯気と香りが充満し、客の啜る音が重なり合って、まるでひとつの旋律のように響いていた。


 ラーメン屋を出ると、夜風が頬を撫でた。濃厚な豚骨の余韻がまだ舌に残っていたが、私はさらに歩を進めた。食べ歩きの一日はまだ終わらない。


 次に足を運んだのは、豆腐料理を専門に出す小さな店だった。暖簾をくぐると、白木の香りと湯葉の甘い匂いが漂う。カウンターに並んだ器は小ぶりで繊細、豆腐田楽が美しく盛られていた。焦げ目のついた味噌が艶やかに光り、口に含むと豆腐の柔らかさと味噌の香ばしさが舌に広がる。湯葉のお吸い物は透明な出汁に薄い湯葉が浮かび、口に含むと絹のように滑らかで、鼻に昆布の香りが抜けていく。器の白と料理の淡い色合いが調和し、目にも優しい。


 その後、私はお好み焼き屋に立ち寄った。鉄板の上で「ジュウジュウ」と音を立てる生地から、ソースの甘辛い香りが立ち上る。キャベツの甘みと豚肉の旨味が重なり、仕上げに青海苔と鰹節が踊るように振りかけられる。口に含むと、外は香ばしく中はふんわりと柔らかく、ソースの濃厚さとマヨネーズの酸味が舌を包み込む。鉄板の熱気が頬に伝わり、食欲をさらに刺激する。


 さらに歩いて、うどん屋に入った。店内は木の香りと出汁の匂いが満ちていた。大きな丼に盛られたかけうどんは、透明な出汁の中に太く艶やかな麺が沈み、湯気が立ち上る。箸で持ち上げると麺はもちもちと弾力があり、口に含むと出汁の旨味と小麦の甘みが舌に広がる。刻んだ葱の香りが鼻に抜け、天かすの香ばしさが食感を豊かにする。丼の縁に描かれた藍色の模様が、料理の温かさをさらに引き立てていた。


 夜も更け、私は最後に小さな居酒屋に立ち寄った。そこでは季節の鍋が用意されていた。土鍋の蓋を開けると、湯気がふわりと立ち上り、鶏肉と野菜の香りが鼻をくすぐる。白菜は甘みを増し、椎茸は旨味を放ち、鶏肉は柔らかく煮えていた。スープを啜れば、塩気と旨味が絶妙に重なり、体の芯まで温まる。器は素朴な陶器で、鍋の湯気と共に心まで包み込んでくれる。


 一日を通して、私は十数軒の店を巡り、多くの料理を味わった。焼き鮭の香ばしさ、煮物の温もり、天ぷらの軽やかさ、蕎麦の涼やかさ、甘味のやさしさ、寿司の艶やかさ、焼き鳥の香ばしさ、おでんの滋味、鰻の炭火の記憶、京料理の繊細な美しさ、ラーメンの濃厚な旨味、豆腐料理の淡い優しさ、お好み焼きの熱気、うどんのもちもちとした弾力、鍋の温かさ――それらすべてが五感を満たし、祖母の言葉「素材の声を聴くんだよ」が少しずつ理解できるようになった。和食は、舌だけでなく心を満たす料理だ。夜の街を歩きながら、私は静かに決意を新たにした。祖母の店を守り、和食の良さを伝えるために。




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