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ある小料理屋の開店の物語  作者: 双鶴


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1/8

プロローグ

 祖母の葬儀は、冬の柔らかな陽射しの下で営まれた。境内に差し込む光は冷たい空気の輪郭をやさしく溶かし、焼香の煙は薄い絹のようにたゆたう。そのほのかな甘苦さが鼻先を撫で、胸のうちに静かな温もりを落としていく。黒い喪服の列は雪のように寡黙で、しかし列の後ろには祖母の店を愛した顔ぶれが並んでいた。近所の八百屋の夫婦は目を潤ませ、「おばあちゃんの煮物は忘れられない」と小さな声で言った。毎週末に通っていた老夫婦は、少し微笑んで「漬物の酸味が恋しい」と語り合う。仕事帰りの若い会社員は、深く頭を下げて「ここで食べると疲れが消えました」と呟いた。祈りのざわめき、その合間に高鳴る心音のような記憶の声。祖母の料理は、ただ空腹を満たすものではなく、人の心に火を灯すやさしい明かりだったのだと、私はあらためて知る。煙の向こうに浮かぶ祖母の笑顔は、どこまでも穏やかで、湯気の匂いをまとっていた。


 私はふと、幼い頃の食卓を思い出す。冬の夜、祖母の土鍋から立ちのぼる湯気は白い綿の束のように広がり、薄い膜になって鼻腔をくすぐった。蓋を開けるたびに「コトコト」と煮えたぎる音がやわらかく部屋に満ち、木の床まで温かくなるように感じた。大根をひと口含む。ほろり、という音を立てずに崩れる柔らかさが舌に溶け、出汁の甘みが脈を打つように広がって、体の芯までしみていく。歯に触れると一瞬だけ抵抗し、その次にまるで雪が消えるようにほどける。表面に艶の残る煮汁が唇を滑り、喉の奥でやさしく座を占める。漬物の皿が出てくると、箸先が吸い寄せられる。噛めば「パリッ」と小気味よい音が耳をくすぐり、酸味が細い刃先のように舌に触れて、すぐさま丸い甘さに融けていく。白いご飯の湯気は米の香りをふわりと持ち上げ、茶碗の縁の温度が指に伝わってくる。炊きたての米粒が舌の上でほのかに粘り、漬物の塩気と交わって、呼吸がひとつ深くなる。


 夏の食卓は涼やかな色をしていた。冷やし茄子を生姜醤油でいただくと、まず指先にひんやりとした感触が落ちてくる。水面から掬い上げたような冷たさが皮膚にまとわり、そのまま舌に流れ込む。茄子の淡い甘みと醤油の塩気、生姜の清々しい鋭さが折り重なり、喉をすべるときには風鈴の音が遠くに聞こえる気がした。鼻に抜ける香りは、雨上がりの庭の土の匂いと似て、青い。薄い皿の上に凝縮される季節は、冷たさだけでなく、光と影の柔らかい境目を連れてくる。祖母は、すり鉢で胡麻を当たりながら「素材の声を聴くんだよ」と笑った。すりこぎが胡麻を押し潰す「サラサラ」という乾いた音は、やがて油がにじみ出て「しっとり」と変わり、香りがふわりと立ち上る。子供だった私はその意味を知らなかったが、今はわかる。あの言葉の中に、祖母の手の温度と時間と注意が宿っていた。


 祖母の台所には、音が層を成していた。包丁がまな板を打つ「トントン」というリズムは、呼吸の速さに寄り添い、木べらが鍋肌で奏でる「コン、コン」が合いの手を入れる。湯の底から上がる小さな泡の「コポコポ」、醤油を差したときの「すっ」とした香りの梯子。寒い日には味噌汁の白い湯気が、障子の紙に薄く影を落とした。その影は分厚い絵本のページのようで、触れると破れそうなほど薄く、しかし指先に微かな温度を返した。五感すべてが、祖母の料理に包まれていた。食卓にはいつも、安心とやさしさが満ちていた。


 やがて私はイタリアへ渡り、華やかな厨房で修業を積んだ。初めて立つ大きなステンレスの台は、冷たく硬く、反射した光が鋭い。オリーブオイルを鍋に落とすと、黄金色の液体が底で薄い膜を作り、熱を受けて「ジュワッ」と息を吐く。鍋が油の光を抱き、細い糸のような泡が縁から走る。トマトを割る瞬間、鮮烈な赤が刃にまとい、指に酸の香りが移る。塩をひとつまみ、手で高くから落とす。砂のように軽く、粒が光って、一瞬だけ空中で止まって見える。ガーリックを潰すと、鋭さに甘さが追いつき、室内の空気の密度が変わる。バジルの葉をちぎると青々とした香りが指先から立ちのぼる。葉の薄膜が破れる細い音は、耳の奥で「ぴん」と鳴った。乳化したソースは艶やかで、表面張力が皿の白に沿って滑る。スプーンを通すと粘度がわずかに抵抗し、次の瞬間に絹のようにほどける。皿の上には絵画のような料理が並び、ひと皿ごとが舞台で、グラスの触れ合う音が客席を華やかにする。拍手の音は高く、歓声は熱気と混じり、厨房の床のゴムが靴の底で鳴る。そこでは「技術」と「演出」がすべてで、温度は秒単位、視線は刹那を狙っていた。


 けれど祖母の店に戻ると、空気は別の速度で流れていた。静かな出汁の香りが、薄い霧のように台所全体を包む。昆布が湯の中でゆっくりと旨味を放ち、時間が水に溶けていく。鰹節をつまむ指先に微かなざらつきがあり、ふわりと舞い落ちると、潮騒のような、遠い海の端の音が鼻に届く。煮立たせない温度のやさしさ。火は暴れず、鍋肌に寄り添って、泡を大きくしない。匙でひと口すくえば、透明な旨味が舌に広がり、喉の奥に静かな余韻を残す。油の艶やかな重さはないのに、腹の底にやわらかな安堵が降りてくる。出汁の色は淡い金で、ふちに光が薄くたまる。この香りは、記憶の中の冬の湯気や夏の水面に、静かに糸で結びつく。イタリアンの華やかさと和食の静けさ――その対比は、私の心に二つの拍動をつくる。ひとつは熱と拍手に向かい、ひとつは湯気と沈黙に向かう。どちらも料理の言葉なのだと、はじめて素直に感じた。


 葬儀の後、私は店の戸を開けた。木の床板がやさしく軋み、昼の人の気配が消えた後の静けさが深い湖の底のように広がる。暖簾は外され、入口のガラス戸には街灯の淡い輪郭が映っている。けれど、そこに祖母の料理の余韻が残っていた。煮物の甘い香りが木の壁に染みつき、焼き魚の香ばしさが空気の奥に潜んでいる。鼻腔の奥でその匂いが「まだここにいるよ」と囁く。


 棚には土鍋やすり鉢が並ぶ。手で触れると、陶器の肌が冷たすぎず温かすぎず、なめらかに指先を受け止める。すり鉢の縁は細く擦り減っていて、祖母の掌の記憶が確かに刻まれていた。包丁の柄は細かな傷で曇り、まな板には深浅の線が走っている。そこには長い時間の音の波形が刻まれて、木目の間に眠っている。小さな醤油差しの口には乾いた醤油の跡が薄い輪になって残り、琥珀色の層が光を吸う。


 冷蔵庫を開ける。艶やかな銀鱈が静かに横たわっている。白身はしっとりと光を反射し、指先で触れると海の冷たさが伝わってくる。小松菜は青々と葉を広げ、茎を手で折ると「ぱきっ」と瑞々しい水分が弾ける。葉の表面に小さな露のような輝きが残り、指に緑の匂いが移った。南瓜は鮮やかな橙色で、刃を入れれば「きゅっ」という抵抗のあとに表皮がほどけ、ほのかな甘い香りが漂う。イタリアでなら、この銀鱈を香草とパン粉で包み、オーブンで黄金色に焼き上げ、仕上げにレモンを絞るだろう。小松菜はオリーブオイルとガーリックでさっと炒め、鮮やかな緑を皿に映えさせる。南瓜は、甘みを引き出してリゾットに仕立てるのが定番だ。鍋の底でオイルが光り、乳化したソースが皿の白を滑る映像が、まぶたの裏のどこかに常に用意されている。けれどここは日本。祖母の小料理屋。客が求めるのは、静かな和食の滋味であり、余白の美しさだ。


 私は祖母の土鍋に水を張り、昆布を沈める。水面に薄い波紋が広がり、昆布がゆっくりと重さを受け入れていく。火を入れると、やがて湯気が立ちのぼり、ふわりと海の香りが広がる。耳を澄ますと、鍋の底から小さな泡が立ち上がる音が聞こえる。「コポコポ」という、ほとんど感触に近い音。湯はまだ沸点に届かず、控えめな熱だけが旨味を引き出している。鰹節をひと握り、指の間から雨のように落とす。ふわり、と落ちる。薄い木片が湯に触れる瞬間、香りが広がって、鼻腔の奥に暖かい景色をつくる。台所に柔らかな香ばしさが舞い上がり、古い木の戸にまで染み渡る。匙でひと口すくう。透明な旨味が舌の上に広がり、塩と油に頼らないのに、輪郭がはっきりしている。喉の奥に静かな余韻が残り、肩の力が自然と抜ける。思わず呼吸が整う。祖母が守り続けた「和食の良さ」とは、この静かな滋味なのかもしれない、と胸の奥で言葉が丸くなる。


 私は鍋の湯気の向こうに祖母の横顔を探す。すり鉢の胡麻の香り、味噌の蓋を開けるときの漬け込まれた時間の匂い、炊き立ての米の湯気に混じる微かな甘さ。音も香りも温度も、祖母の生き方と結びついていた。素材の声を聴く。それは耳だけではなく、指と舌と鼻と目、そして心の柔らかい場所で聴くことだ。私はその場所に、どれほど長く向き合ってこなかっただろう。イタリアでは技術に熱を注いだ。秒で判断し、華やかさをつくることに集中した。その代わりに、静けさが語る言葉をどこかで取りこぼしていたのかもしれない。


 店を畳むべきか――その思いが胸の内側で小さく、しかし鋭く動く。出汁の取り方すら身についていない私に、和食を継ぐ資格があるのか。祖母の包丁の重さは、讃えられたイタリアンの包丁とは別の重さをしている。すり鉢の縁は、私の指に新しい学びを要求する。迷いは、薄い紙のように折り畳まれては開き、開いてはまた折り畳まれる。戸口の外の風は冷たく、しかし頬にやさしい。鍋の湯気は頬を撫で、目の縁に薄い水の膜をつくる。


 そのとき、祖母の遺言がよみがえる。

 ――「和食の良さを伝えてね。」

 その言葉は、まるで昆布の旨味がじわりと広がるように、胸の奥に染み込んでいく。響きは強くない。けれど、長い余韻を伴って、私の中で静かに居場所をつくる。迷いは完全には消えない。消えないからこそ、香りに寄り添えるのだと思う。湯の音に耳を澄まし、素材の声に舌を澄ます。祖母の言葉は、私の背中をやさしく押し出す。指先が、いつもより少しだけ確かになる。私は静かに決意した。ここから、未知の挑戦を始めよう。華やかな技術を誇るのではなく、静かな滋味を聴き取るために。祖母が守ってきた温度と間を、私の手の中でたしかに受け取り、伝えるために。


 店の灯を落とす前に、もうひと口、出汁をすくう。匙が鍋肌に触れる音が薄く鳴り、金色の小さな湖面が揺れる。口に含む。海の遠さ、木の近さ、時間のやさしさが重なって、胸の内に静かな火が灯る。私は鍋の蓋を閉め、台所の明かりを一つずつ落としながら、耳の奥で祖母の「トントン」を聴く。扉に手を掛けると、木の温度が掌に移る。外の風は冷たいが、頬にやさしい。私は戸を閉め、夜の静けさに身を委ねる。明日、食べ歩きに出よう。匂いを重ね、音を集め、舌で確かめる。技術ではなく、やさしさで料理を聴くために。祖母の灯火が揺らがないように、そして私自身の灯火が、新しい風の中で静かに立ち上がるように。

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