第三話:雨宿りの君と、一万円の虹
屋根付きのベンチから一歩、二歩と歩くと、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。さらに数歩歩くと、数秒の間にその雨はザーザー降りの豪雨へと変わった。
生憎、傘は持っていない。急いで帰って風呂でも入れば風邪は引かないだろう、と思って走り出そうとしたが、振り返るとベンチから大粒の雨が降る空を見上げて、彼女が立ち尽くしていた。
彼女もまた傘を持っていない。彼女はただ、雨粒が落ちる灰色の空を見上げていた。昨日の天気予報では雨が降るとは言っていなかった。天気雨のようなものだろう。しばらくすれば晴れるだろうと思ったのは、早計だった。
――雨宿り、しばらく付き合ってもいいかな。寮の食堂での朝食は食べられなくなるけれど、こんな時くらいコンビニで済ませてもいいだろう。
ベンチに引き返すと、彼女は僕に言った。
「あなたも傘を忘れたのね。天気予報じゃ朝は晴れる、って言ってたもんね」
「そういうわけだから、僕もしばらく雨宿りしていくことにするよ」
僕らは、ここでしばらく雨宿りすることになった。会話は途切れた。それでも、気まずい雰囲気ではなかった。
ただ優しく吹き付ける南風や、雨の音が地面に落ちる音が、僕らを歓迎しているようだった。ふん、ふんふーん、と彼女が鼻歌を歌えば、その綺麗な音色がこの空間を包み込む。まるでこの世界に僕らしかいないような感覚に陥る。
だが、それは束の間のことだった。前方の空がピカリと光ったかと思うと、ゴロゴロ、ドッカーンという轟音と共に、地響きが伝わってきた。
「ひっ……、雷だ。天気予報の嘘つきぃ~、晴れるっていうからせっかく来たのにぃ」
「だ、大丈夫。雷は音がすごいけど、大抵は落ちることはないよ。多分だけど」
隣で彼女がびくっと体をひそめながら、小声で独り言が聞こえてくる。僕は彼女を覗き込むように声を掛けた。僕も少し怖いのも事実だった。実際のところ、外出中に雷が鳴り始めたのは今回が初めてだ。
天気予報はあくまで予報であり、絶対ではない。天気図から解析した予想に過ぎない。まあ、こういうこともある。
手持ちのスマホで調べると、晴れの予報が昼過ぎまで雨に変わっていた。この雨はしばらく止みそうにない。どうするべきか。時刻は七時を過ぎていた。
彼女は何かを思い出したように、はっと我に返る素振りを見せると、
「今、何時だか分かる? 私、携帯を家に置いてきちゃって……」
「ちょうど七時を過ぎたところだよ」
「え、もうそんな時間なの。帰らなくちゃ、じゃまたね」
彼女は立ち上がると、雨の中を駆けていこうとする。しかし、雨はザーザー降りで、おまけに雷まで鳴っている。
僕は、この状況下で何ができるかを判断した。去っていく彼女を引き留めるわけではないが、僕にできることはただ一つだけあった。
そう、指差す先は、土手の手前の信号で止まっているタクシーだ。僕の目は良いから分かる。あのタクシーにはまだ人が乗っていないようだ。財布の中から差し出したのは一万円札だった。タクシー代は、隣町なら千円札を数枚ほどで足りるだろうが、財布の中には一万円札しか入っていなかった。
「ちょっと待ってて。これ使ってあっちに止まっているタクシーに乗るといいよ」
少し手前のコンビニで崩してもいいが、それではタクシーが行ってしまうだろう。一万円は大きな額だ。簡単に差し出していいものではないことは分かっている。
けれど、僕は目の前の彼女をずぶ濡れにさせたくなかった。おそらく、僕みたいな人間に優しくお喋りしてくれたのが原因だ。
その原因は、僕にとって悪いものではなかった。むしろ、楽しい時間とさえ思えたのだ。まあ、家に帰れば数万円はあるし、銀行でもお金はある程度下ろせる。
「え、これって一万円だよ。私なんかのような見ず知らずの人に貸したら、返ってこないよ。百二十円と訳が違うんだよ」
「じゃあ、今度ここで会ったら返してくれればいいよ。今は急いでいるんでしょ」
彼女が遠方からの散歩なら、再び出会う確率は、ほぼゼロに等しい。それでも、僕の一万円がこの時のために使われなかったら、何になるだろうか。
その理由こそが、彼女を助けたいという思いだけで、これが僕の一心だった。
「うん、分かった。今度絶対に返すから! ええっと、ユキチ先生、今日はありがとう」
「じゃ、今度こそまたね。どこかでまた会えたら返してね」
スカートの裾をちょこんと持ち上げて、ぺこりとお辞儀をする。変なあだ名を付けられた僕は、手を振って見送ると、彼女は一目散にタクシーの方に駆けていった。
その「今度」がいつになるかは分からないけれど、僕は少しだけ良いことができたと思えた。一万円は泡のように消えて無くなったけれど、心は何故か満たされていた。帰宅後、雨上がりの朝の水溜まりが、キラキラと太陽光を反射していたことだけは、しっかりと覚えていた。
今回のオチ。
雨はあれから一時間もしないうちに止んでしまい、結局、寮の食堂のご飯を食べることはできなかった。雨上がりにアパートから再度出直し、千円札を握りしめて近くのコンビニでサンドイッチを買って住宅街を歩くと、空には綺麗な虹が掛かっていた。
入学式前日の朝の一部始終。それが彼女との出会いであり、始まりだ。今日の朝のありきたりで変哲もない出来事。
だが、何故かこの日のことを忘れることはないだろうと、僕は思った。