第一話:春告げるは、出会いの予兆
二千十五年、春。
今年も春がやってくる。この春は、僕にとって人生で十五度目の春だった。
――しかし、それはこの惑星で人類が何千年も歩んできた歴史から見れば、あまりにちっぽけな時間に過ぎない。
人類が生まれる遥か昔、数億年という壮大な歴史がそこにはあった。生き物が存在し、生命を育むこと。それは地球では当たり前だが、宇宙の広大な空間、数多の惑星の間では、決して当たり前のことではない。月にも、火星にも、木星にも、水は存在せず、生物の痕跡すら確認されていない。私たちが「当たり前」と呼ぶ日常は、銀河の視点から見れば、途方もなく特別な奇跡なのだ。
話は逸れたが、今年の春は僕にとって、まさに『特別』だった。つい先日、長年使い慣れたガラケーをスマートフォンに機種変更したばかり。いやいや、それも確かに特別な出来事だが、何よりも大きかったのは、僕が世間一般で「難関」と称される高校に合格したことだ。
夢も趣味もこれといったものはなかったけれど、成績だけは良い方だった。学校でトップテンに入るほどのずば抜けた頭脳は持ち合わせていない。「そこそこ」という表現が一番しっくりくる、可もなく不可もない成績。具体的に言えば、「中の上」といったところだろうか。自慢できるほどではないが、それでも高校に合格したという事実だけは、揺るぎない僕の功績だった。
そんな僕を褒めてくれるのは、いつも家族や友人、そして先生たちだけ。それだけで十分幸せなはず、そう問われれば迷わず「幸せだ」と答える。
それでも、心の奥底に、何かが足りないような漠然とした感覚が残るのもまた事実だった。夢や目標があれば、もっと違った世界が見えるのだろうか。いや、それは単なる杞憂に過ぎない。結局、あの頃の僕は、ただひたすらに「今の自分」を肯定することに必死だった。
後になって気づく。夢や目標は、見つけるものではない。ただひたすらに生きるという努力の過程で、自然と『見つかる』ものなのだと。
生きる目的すら持たなかったあの時の僕は、一体何を手にしてきたのだろう。これまでの人生で、僕が掴んだものは、果たして何があったのか。
人はとかく他人と自分を比べたがる生き物だ。けれど僕は、他者と比較されること自体を、取るに足らない些細なことだと思っていた。
「僕は僕で何者でもない。一人分の人生を生きる冒険者だ」――いつか、ゲームの主人公のようなそんな言葉を口にしてみたい。そんな日が、果たして僕に訪れるのだろうか。
結局のところ、僕はまだ、人生を全力で生きられていないのかもしれない。そう感じた、入学式の春だった。
そんな僕の視界を、色鮮やかに染め上げ、時には血潮のように熱く湧き立つ感情を教えてくれたのが、校内でも「上品気質」で有名だった『先輩』だった。
時は遡る。物語の起点は、入学式前日の、二十数時間前へと遡る。
僕が通うことになった高校は、県外にあった。当然ながら、学校指定の寮での一人暮らしが始まる。親が僕に合わせて引っ越すなど、ありえない話だった。
その高校を選んだ特別な理由は、なかった。「君なら受かる」と太鼓判を押してくれた担任の先生の勧めが、唯一の動機だ。その高校で「これをしたい」という具体的な目的もなく、ただ「将来、普通に大学に行って就職してくれればいい」という両親の願いに沿って決めた道だった。
引っ越しの手続きも、荷造りも全て自分で済ませ、いざ入学式――、とはいかない。大抵の場合、入学式の前日は、余裕を持って一日自由に過ごせるように設定されているものだ。寮母さんへの挨拶も、部屋割りも既に終わっていたので、街を散策してみるのも悪くないだろう。そう思い立ち、学校から比較的近い街並みを歩いてみようと、僕は外へ出た。
東北に位置するこの地域は、まだ春とはいえ、空気が冷たく肌を刺すようだった。
時刻はまだ早朝五時。吐く息は、白く凍りつくように空気に溶けていく。寮の池の水面は、半分ほど氷に覆われていた。
池の鯉は、凍り付くような環境にも適応する性質を持つというが、それは本当らしい。
引っ越し前に購入したニット帽と首元のネックウォーマーが、こんなところで役に立つとは。首元の温かさが、じんわりと体に染み渡る。ほんのりとした暖かさが心地よい。寒さから身を守るには、首、手首、足首の「三つの首」を温めるのが肝心だという。太い動脈が通る重要な部分であり、皮膚が薄く外気に晒されやすい首元を温めることで、温められた血液が体内を効率よく巡り、内側から体が温まるのだ。
住宅街を抜けると、河川敷が広がっていた。昼間には、釣りをする人を何人か見かけることがある。
何が釣れるのかは定かではないが、釣り人が集まるということは、きっとそこが釣りの名スポットなのだろうと僕は推測した。
『釣り』。人生で一度は体験してみたい気もするが、辛抱強く魚が掛かるのを待てるほどの忍耐力は持ち合わせていないので、おそらく無理だろう。
河川敷の土手沿いの自販機で飲み物を買おうと財布を見ると、一万円札が一枚入っているだけだった。大抵の自販機は千円札しか使えず、五千円札が使える自販機は滅多にお目にかかれないレアものだ。ましてや二千円札など、さらに稀中の稀。自販機によっては対象外の二千円札を飲み込んだら、そのまま出てこない可能性もあるだろう。
まあ、僕は二千円札を目にしたことすらないのだが、日本では「二」のつく紙幣に馴染みがないことから、あまり普及しなかったらしい。需要が少なく、目にする機会も減っているため、出金や両替用の二千円札はほとんど見かけなくなったのだ。
「また、コートの内ポケットに二百円程度入れておいたのが役に立つとはね」
冬場は、ブラウンのトレンチコートをよく着ていた。実家のある関東も、ここほどではないにせよ、一月あたりに霜が降りる季節になると気温は一桁台まで下がる。やはり寒いものは寒い。
何かあった時のために小銭が必要になると思い、コートの内ポケットには常に数百円ほど入れてあった。上級者になると、小銭入れを作ってまで小銭を持ち歩く人もいると聞いたことがある。僕も一時期はその「上級者」だったが、内ポケットに入れておく手軽さから、いつしか小銭入れは持ち歩かなくなっていた。
普段は札しか持ち歩かない性分だが、こうした飲み物をちょっと買うような時には、この小銭が非常に役立つのだ。
自販機では、冬は冷たい飲み物よりも温かい飲み物の方がよく売れるらしい。
統計を見たわけではないが、冬場の自販機には冷たいドリンクよりもホットコーヒーやスープ系の飲み物が多く並び、大抵、僕が飲みたいものは売り切れになっている。
近年では、チゲスープや味噌汁のような辛みが効いたスープ系の飲み物まで登場している。
僕はコーヒーをあまり飲まない。特別嫌いなわけではないけれど、眠気覚ましに飲むことはよくあった。特技と趣味が一致しないことは誰でも知っているだろう。ただ、家に嗜好品がコーヒーしかなかったから、それが当たり前になっていたのだ。
けれど僕にとってコーヒーは、『眠気覚まし』以外の何物でもない。自販機で買う飲み物くらいは、甘いものが飲みたい。要するに、そういうことだった。
ココアかコーンポタージュかで悩んでいると、背後から声が掛かった。
「私もそこの自販機使いたいんだけれども、お先いいかしら?」
「あ、ええっと、はい、お先どうぞ」
「どうも」
自販機の近くの街灯が、明るくなったばかりでチカチカと点滅している。紺色のジャケットに白のフリルドレス、そして赤のマフラーを身につけ、背中まで伸ばした栗色の髪が印象的な女性だった。年齢は、僕と同じくらいか、もしかしたら少し下だろうか。
彼女はバッグから何かを探しているようで、悪戦苦闘している。数十秒が経過し、やがて僕の方を振り返ると、困ったように頭を掻きながら言った。
「百二十円、貸してくれないかしら? 後で返すから。一生のお願い!」
見知らぬ他人に「一生のお願い」と言われても、正直、説得力に欠ける。しかし、美人に切羽詰まった表情で迫られては、貸さないわけにはいかないのが男の義理というものだろう。
だが、見ず知らずの人にお金を貸すという行為は、実際にはお金を「貸す」のではなく、実質的に「捨てる」行為に等しいと僕は知っている。
とはいえ、目の前で手を合わせて頼み込んでいる人の願いを断るほど、僕は薄情ではなかった。
「じゃあ二百円でいいですか」
「では、遠慮なくご厚意に甘えさせていただきます」
「じゃあ、ちょっとだけ待ってて」
「うん」
二百円を内ポケットから取り出し、彼女に右手を差し出す。すると、彼女はほんのりと笑顔を浮かべ、僕の右手から二百円を受け取った。
名も知らぬ彼女は自販機と向かい合い、小銭を投入する。ピッ、ガシャンという音と共に自販機が飲み物を吐き出し、残りの小銭がじゃらんと落ちてきた。
それらを取るために、スカートの裾をちょこんと持ち上げ、小さくしゃがみ込む姿は、何となく可愛らしいと感じた。
「やっぱり冬はホットココアが良いのよね」
ココアの缶を頬に当てて、彼女は満足そうに言った。僕もたまに自販機で飲み物を買った時に独り言を言ってしまうから、その気持ちはよく分かる。
まあ、近くに誰もいないのが前提だけど。
「飲み物代はいいですから、ちゃんとお釣りは返してくださいね」
「それは助かりました。実は財布を持ってくるのを忘れていたので。では、お釣りの六十円、きっちり返します」
「ええっと、そこの自販機のココアって百二十円でしたよね」
「バレたか。では八十円ちょうど返すね」
「はい、よろしくお願いします」
お釣りを受け取ると、それを内ポケットにしまい込み、肝心なことに気づいた。小銭が八十円しか残っていないのだ。財布には一万円札があるが、小銭はもうない。自販機を見ても、八十円で買える飲み物など普通はない。
しかし、隅に百六十ミリリットルの小さな缶コーラが置いてあるのが目に入った。自販機で八十円というのは珍しい。夏ならば迷わずこのコーラを買っていただろう。
今は冬だ。そしてここは東北。今飲むとしたら、できれば温かいものがいい。それでも、喉が水分を欲しがっているのは事実だ。
仕方なく、八十円のコーラで我慢することにする。先に僕が温かい飲み物を買っていたら、彼女にお金を貸すことはできなかっただろう。
一つ良いことができたと思えば、それで十分だ。何より、隣でニコニコと笑顔を浮かべている彼女の表情を見ているだけで、既に僕の心は温かくなっていた。
ピッ、ガシャコン、と音を立てて出てきたコーラを手に取り、来た道を引き返そうとする。だが、背後からの一言で僕は引き留められた。
「よろしかったらお礼も兼ねて、あのベンチで一緒に飲みませんか?」