「自分の行いは、いつか返ってくる。――ただし、」
「妻と息子……が、病気で……」
「貴様はどこまで……!」
「お父様」
わたしは今にも殴りださんとする父をたしなめる。
「困ったときはお互い様。そのお金、お貸ししますわ」
にっこり笑うと、みるみる元婚約者の表情が明るくなる。父は納得していないようだが、わたしの言葉に黙り込んだ。
「わたしの個人資産から貸し出すので、サンジュ家には痛手はございませんわ。契約書も、わたし個人と結ぶということで」
「ありがとう!ありがとう、モニカ!」
ひたすら頭を下げる元婚約者を見ても、わたしの心は不思議と凪いでいた。
サンジュ伯爵家の三女として生まれたわたしには、デリク・ビーストンという侯爵家の婚約者がいた。サンジュ伯爵家が生糸を主産業としており、ビーストン侯爵家は絹織物が主産業としているため、事業提携も踏まえた政略結婚である。
幼いころに結ばれたこの婚約で、わたしは何人もの家庭教師から厳しく育てられた。ビーストン侯爵家の次期侯爵夫人として立派な淑女になるためだ。
誰かに甘えることも許されず、泣き言を言えば両親からも叱られる。それでも耐えられたのは、婚約者のデリクがとても優しく、隣で支えてくれていたからだ。勉強がつらいときも、家庭教師から厳しく怒られたときも、デリクの前では素直な気持ちを吐露することができた。デリクはわたしが泣き止むまでそばにいてくれたし、こまごまとした気遣いを感じる贈り物や手紙のおかげで、わたしはかろうじて前を向けていたのだと思う。
十年の厳しい教育を耐え抜き、わたしは王都にある貴族が通う学園に入学することになった。ひとつ年上のデリクは先に学園に入学しており、学園が忙しいのか、この一年は会うことも手紙のやり取りもほとんどなかったけれど、同じ学園に通うようになればまたいつものように交流が持てる。
入学前のわたしは、無邪気に婚約者との再会を心待ちにしていた。
学園に入学して数日も経つと、なぜデリクがわたしに会いにもこず、手紙もろくに寄越さなかったのかがよくわかった。デリクは、マリアージュ・アーネスト子爵令嬢に骨抜きになっており、学園では恋人のように毎日ぴったりくっついて歩いているようだ。
マリアージュは、わたしと違って目鼻立ちのはっきりした美人で、スタイルもよく、男性を魅了する令嬢そのものだった。幼いころにわたしと婚約を結び、家族以外の異性といえばわたしくらいだったデリクにとって、マリアージュは刺激的で、すぐにのめり込んだようである。
マリアージュの存在を知ったわたしは、どうにかデリクと話そうとデリクのクラスに何度も通った。しかし、ろくに勉強もしていなかったらしいデリクのクラスは、成績下位者が多く、当然他家の貴族の人間関係も何ひとつ理解していなかったため、わたしがデリクの婚約者だと伝えても信じてもらえなかった。なんならデリクのストーカーと思われたのか、デリクと会わせないようブロックされ、時には心ない言葉を投げつけられることもあった。
どうすればいいかわからなかったが、両親に言えばまた怒られるのではないかとためらわれたし、長年の教育の賜物で感情をうまく表に出せなかったわたしは、何を言われても淑女の笑みを崩すことができなかった。わたしがもっと非凡な女であったなら、この立場を利用して悲劇の令嬢になれたかもしれないのに。
わたしのクラスメイトたちは、わたしとデリクの婚約のことも、デリクとマリアージュがまるで恋人のように振る舞っていることも知っていたが、デリクが次期侯爵であったこともあり、どう扱っていいかためらっているようだった。孤立していたわけではないが、わたしは明らかに浮いていたと思う。友人は何人かいたが、本音を言えるほどの人間関係は築けなかった。
わたしはひとりでデリクとのことを抱え込み、ストレスで食欲がなくなったり髪が抜けたりしても、何でもないふうに装うことだけは厳しい教育で身についていたので、にこにこと笑みをたたえて毎日を過ごすしかなかったのである。
そんな状態が二年も続くと、さすがに耐性がついてきたのか、悲しいとか悔しいとかいう感情は抜け落ちて、ふつうに食事もできるようになったし、髪も抜けなくなった。
かと言って、デリクと婚約解消をしようと思うこともなく――はたから見たら行動も起こせない愚か者と思われていたかもしれないけれど――ただ、「気にするだけ時間の無駄」と勉強に打ち込むことかができた。
そのおかげで学年一位を常にキープしていたし、強制される勉強は苦痛でしかなかったけれど、自発的に学ぶ勉強が楽しいことにも気づけた。わたしにとっては一番の財産だったかもしれない。仮にデリクと婚約破棄をして、修道院行きになったとしても、孤児たちに勉強を教えながら暮らしていくのも悪くないかもと思えるようになったからだ。
こうしてデリクとの婚約関係はそのまま、しかし一切婚約者らしいこともないまま、デリクの学園の卒業式が近づいていく。卒業パーティーは、本来婚約者を伴って参加するものだが、デリクからエスコートの申し出は当然なく、ここでようやく両親も違和感を覚えたようで、わたしに連絡を取ってきた。
学園に外出届を出し、久々にサンジュ伯爵家に戻ると、両親はめずらしく不安げだった。てっきり叱られると思っていたので拍子抜けだ。
「モニカ、デリク君のことだが」
「はい」
「デリク君とは、うまくいっているのか?」
「今のところ、大きな問題は起きていませんわ」
そう、わたしとデリクの間に「問題」は起こっていない。そもそもデリクと話すことすらできないので、「問題」が起こりようがない、というのが近いけれど。
「なら、どうして卒業パーティーのエスコートの申し出がないのかしら……」
両親はなんとなく、その理由を察していそうだ。もしかするとビーストン侯爵家も把握していて、「若気の至り」くらいに思っていたのかもしれない。
「おそらく、わたしではなくマリアージュ・アーネスト子爵令嬢様をエスコートされるのかと思います」
「なんですって!?」
母の顔がますます悪くなる。父は表情こそいつも通りだったが、肩が震えていた。
「ビーストン侯爵家からは、卒業までに何とかすると聞いていたのに……」
父がぼそりとつぶやき、わたしは心のなかで納得する。やはり、両家はデリクとマリアージュのことを把握していたようだ。その上で、デリクはそこまで馬鹿ではないと無邪気に信じ、見守っていたのだろうか。学園の成績がふるっていない時点でわかっていてほしいものだが。ビーストン侯爵家が、侯爵家のなかでも末席である理由が非常によくわかる。
わが家は家格が下ということもあり、あまり強く言えなかったのかもしれない。わたしが早めに相談していれば何かが変わっていたのかもしれないが、あのときのわたしはまだまだ無知だった。両親にうまく伝える方法もわからず、悲劇の令嬢として立ち回ることもできなかった。
ある意味この事態は、起こるべくして起こったのかもしれない。
「とにかく一度ビーストン侯爵家と話をする。学園には話をするから、モニカはしばらく家にいなさい」
婚約者にエスコートもされずに卒業パーティーを出席するのは、サンジュ伯爵家の醜聞にもなる。それが理解できたわたしは、素直に頷いた。
結局、わたしとデリクの婚約は解消される運びとなった。なんとデリクとマリアージュの間にはいつの間にか子どももいたらしい。ビーストン侯爵家とサンジュ伯爵家の事業提携は、規模を縮小して継続することになり、さらにビーストン侯爵家から莫大な慰謝料をもらったようだ。平民であれば一生遊んで暮らせるほどの金額である。
その代わり、婚約解消の顛末をわが家は他貴族に話さないという密約を交わしたらしい。そんな密約を交わしたとて、高位の貴族ほど事情はわかっているというのに。
父は慰謝料をすべてわたしの個人資産としてくれた。わたしに対しての負い目があったのだろう。それに、婚約を解消されたわたしにはこれから先まともな縁談は望めない。どうなっても生きていけるように、という父なりの愛情表現だったとも思える。
婚約を解消したわたしは、引き続き学園には通い続けた。どんな噂になるかと両親は反対したが、もう勉強くらいしか楽しみのなかったわたしにとって、これだけはどうしても譲れず、「反対するなら修道院に行く」と伝えたら渋々了承してくれたのだ。婚約解消後に修道院に行けば、この婚約解消がサンジュ伯爵家の瑕疵だと思われかねない。そういうことがわかるくらいに、わたしは本当の意味で知識を身につけることができていた。
思えば幼いころからの教育は、デリクをいかに支え、デリクをいかに立て、デリクをいかに癒し……つまり、自分を殺す方法を学んでいた。でも今は、知識で自分を生かす方法を学んでいる。だからこそやめられなかった。
学園でのわたしは引き続き学年一位をキープし、婚約解消のことを抜きにすれば、他の生徒たちからも一目置かれる存在になっていたと思う。婚約解消された令嬢なんてどんな陰口を叩かれてもおかしくないのに、逆に人との交流が増えた。もちろん、婚約解消のことを聞きたい出歯亀のような人もいたけれど、純粋にわたしの努力を認めてくれる人も何人かはいた。
これまでにないほど穏やかな心持ちで過ごせた一年だったと断言できる。
だからだろうか、卒業目前に、わたしが久しぶりに元婚約者と会うことになったのは。
婚約解消のときすら何もなかったデリクが、サンジュ伯爵家に突然やって来たのは、わたしの卒業式が二ヶ月後に控えたある雨の日だった。
すでにすべての学問を修めていたわたしは、自宅でのんびりしながら、卒業パーティーのための準備も進めていた。今のわたしに婚約者はいないので、父にエスコートしてもらうつもりだ。
両親と当日に着るドレスの最終確認をしていたところに、非常に気まずそうな顔をした家令が入ってくる。家令によると、デリクがわが家に来て、わたしに会いたいと言っているという。
「どこまで馬鹿にすれば!追い返してやれ」
父が声を荒げ、母も強く頷く。わたしは最近聞いたビーストン侯爵家のある噂が頭をよぎり、両親をなだめる。
「何かお困りなのかもしれませんわ。お会いしましょう」
「モニカ!?」
「念のため、お父様も立ち会ってくださいますか?」
わたしは感情を悟らせない淑女の笑みを浮かべ、父に言う。父は少し逡巡したあと、「わかった」と小さく頷いた。
久々に会ったデリクは、頬もこけ、目にもあまり生気がなかった。わたしが最後に会ったときは、次期侯爵としての自信に満ちあふれていたはずだが。
「お久しぶりです、ビーストン侯爵様」
わたしが淑女の礼をとると、デリクは目を見開く。
「モニカ……」
「あら、もう婚約者ではございませんので、どうかサンジュ伯爵令嬢とお呼びください」
有無を言わせぬ笑顔で言うと、デリクが黙り込む。父は何も言わないが、かなり怒っているようだ。
「す、すまない」
「ところで本日はどのようなご用件でしょうか?先触れもなくお越しになるなんて、とんでもなく火急のご用なのですよね?」
わたしの言葉に、デリクは俯いてしまう。先触れもなくやって来て、元婚約者を名前で呼ぶという非常識の見本市みたいなことをしている自覚があるのか、その肩は小刻みに震えていた。
「お金を、貸していただけないでしょうか」
ようやく口を開いたデリクから出た言葉は、謝罪でも、卒業の祝いでも、わが家を慮る言葉でも何でもなく、金の無心だった。
――そういうわけで、冒頭に戻るのだけれど。
どうやらマリアージュは出産後の肥立ちが悪く、その上、そのマリアージュが命がけで出産したひとり息子は生まれつき心臓が弱いらしい。マリアージュとその息子のため、ビーストン侯爵家には高価な薬が必要となった。その薬代のため、金が必要なのだという。
ビーストン侯爵家の絹織物は、なぜか最近品質が落ちて売れ行きが落ちているらしい。工場労働者の賃金を無理に下げたとかで、不満を持った彼らのストライキが起こったせいだと言われている。
わたしは、ビーストン侯爵家の慰謝料の一部をデリクに無利子で貸すことにした。デリクは涙を流して、わたしに礼を言った。思えば、デリクにここまで感謝されたのは初めてのことだったかもしれない。
デリクが帰宅したあと、わたしはあまりにもデリクの惨状が気の毒に思い、友人たちにビーストン侯爵家の窮状をやんわりと伝えて、よい医者はいないかと相談した。友人たちもビーストン侯爵家を気の毒に思ったらしく、根掘り葉掘り事情を聞いてくるので、わたしは涙ながらにその様子を教えてあげた。もちろん、「他の人には言わないで」と念押しをすることも忘れずに。
おかげでビーストン侯爵家に同情した他家の貴族から、医師や薬師、果ては呪術医までいろいろな紹介があったようだ。貴族社会はもっと打算的な社会だと思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。デリクは、紹介されればその医師や薬師、呪術医にすがり、わたしの貸したお金を惜しみなく使っていた。
卒業パーティー当日、わたしは父のエスコートを受け、堂々とパーティーに参加していた。成績優秀者としても表彰され、心なしか父も得意げである。これでわたしにまた縁談が望めると考えているのかもしれない。
わたしは友人たちと卒業の祝いや別れの悲しみを伝え合いながら、卒業パーティーを楽しんでいた。
「モニカ……!」
そんな祝いの場にふさわしくない、焦ったような声にわたしは小首をかしげる。見れば、さらに痩せ細り、顔色も青いデリクがいた。デリクはすでに学園を卒業したはずなのに、どうやって入場したのだろうか。
「モニカ!頼む、もう少し金を貸してくれないか?」
「おい!誰かこいつを追い出せ!」
父が衛兵に声をかけるが、わたしはそれをやんわりさえぎる。
「お父様、落ち着いてください」
「だが!」
「モニカ、頼む!マリアージュが……息子が……」
膝をついて懇願するデリクに、わたしは困ったようにため息をつく。
「お貸しできればよかったのですが、契約書に『全額返済がないまま、再度貸すことはしない』とはっきり書かれていたはずですわ」
「なっ……!モニカは、俺の妻と息子が死んでもいいと言うのか!」
デリクの勝手な言い分に、父が今にも殴りかかろうとする。そうこうしている間に衛兵がデリクをおさえ、父も拳を引っ込めた。暴れるデリクに、わたしは会場を見回す。
「どなたか、ビーストン侯爵家にお金を貸してくださる方はおりませんか?」
わたしの言葉に、会場がしんと静まりかえる。暴れていたデリクもその言葉に静かになった。
困ったように会場を見回すが、どの貴族たちも目を合わせようとしない。ビーストン侯爵家に医師や薬師、呪術医を紹介した貴族たちも、気まずそうに目をそらす。
「お願いします!誰か……誰か……」
デリクが再び膝をつくが、それを見て動き出す者は誰もいなかった。衛兵は少々気まずそうに、再びデリクを抱えるようにして引きずり出す。力なく引きずられるデリクを、貴族たちはまるでないもののように視界から外していたのだった。
デリクの乱入から三ヶ月後、デリクの努力もむなしく、マリアージュも息子も亡くなったという話が耳に入る。デリクはわたしからの借金以外にも、屋敷も抵当に入れてお金を工面していたようで、マリアージュも息子も家も失ってしまったようだ。
あまりにも哀れな元婚約者の様子に、わたしはお悔やみを申し上げようと葬式に参列する。もちろん両親には止められたけれど。
仮にもビーストン侯爵家の葬式だというのに、参列者はほとんどおらず、前ビーストン侯爵夫妻の姿も見えなかった。埋められる棺を前に、デリクは力なく座り込んでいる。
「ビーストン侯爵様」
わたしが声をかけると、デリクが驚いたように目を見開く。
「このたびはお悔やみ申し上げます」
そう告げると、デリクは立ち上がり、涙を流した。
「モニカ!やっぱり……やっぱり君が、俺の真実の……」
デリクの手が伸びたのを、わたしは笑顔でさっと避ける。
「モニカ?」
「大変申し訳ございません。ですが、わたしとビーストン侯爵様は債権者と債務者の関係ですので、あまり近づくのはよろしくないかと存じます」
わたしの言葉に、なぜかデリクは傷ついた顔をする。愛する妻と息子が眠る棺に背を向けて、本当におかわいそうに。
「……かわいそうですわ」
「え?」
「自分の行いは、いつか返ってくるという話を聞いたことがあります」
いつだったか、学園の図書室で読んだ遠い異国の本を思い出す。
「――――」
小さくつぶやいたわたしの言葉に、デリクは地面に額をこすりつけて泣き始めた。やはり、愛する者を失った悲しみは大きく、わたしのお悔やみくらいでは心が紛れることもないだろう。
わたしは小さくため息をつき、その場をあとにする。
その後のデリクがどうなったのか、わたしにはわからない。ビーストン前侯爵が再び侯爵となり、没落寸前の侯爵家を立て直そうと奮闘しているらしいという話は父から聞いている。ビーストン侯爵家との事業提携はいつの間にか白紙になっていて、父は別の絹織物を主産業としている貴族と契約を結んだそうだ。今回は婚約もなく、すんなり結べたらしい。
どうやら、わたしの話を聞いて、ビーストン侯爵家に呪術医を紹介した貴族のようだ。
「自分の行いは、いつか返ってくる」
わたしはあの日の葬儀に思いをはせていた。デリクに送った「お悔やみ」の内容は、たったひとり墓場まで持っていくつもりだ。
「――ただし、返ってくるのは、自分とは限らないようですよ?たとえば……自分の愛する者とか」