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29嫁 メイド長 ヒンメル=ユニヴェール(5) 宴の終わり

「おっ。姉ちゃんもやる気やな。ほな交替や。『蒸気ゃ』には続きがあんねん」


「ネコのじゃれあい♪ 屋根の上。私とあなたは――」


 白塗りの女が愉快に三味線をかき鳴らす。


「何ですかその歌は」


 露骨なメタファーにヒンメルは顔をしかめた。


「そない怖い顔で睨まんといてえな。昔からの決まりやさかいしゃーないやんけ」


「勝てばええんどす。勝てば」


 ドウジマと白塗りの女はにやにや笑っている。


 どうもこの異世界人たちは、ジャンとヒンメルの関係を男女のそれだと勘違いしている節がある。


「いいじゃないか。師匠。俺も久々に師匠と手合わせしたいよ」


 ジャンは異世界人の無礼な振る舞いも気にせず、やる気になっている。


「……かしこまりました」


 ジャンがそう言うならば、ヒンメルも全力で相手をせざるを得ない。


 こういう場面で手を抜くとこを、ヒンメルの主は嫌う。


 大きく呼吸を二回、小さく三回、中くらいのを一回。


 これで身体が切り替わる。


「ほなもう一回いきますえ。ネコのじゃれあい♪ 屋根の上。私とあなたは――、私とあなたは――」


 女の言葉が間延びして聞こえる。


 全ての光景がスローモーションに変わる。


 五感が大幅に強化され、ジャンの一挙手一投足を把握する。


 伸びてくる拳。


 その楽しさが沸き立ってくるような匂い。


 緊張と弛緩の中間の、ベストなゾーンに入った眼。


 ここまでして、やっと対等だ。


 魔法を使えば、ジャンは必ず勝つだろうが、敢えて彼は使わない。


 体術を練るのを楽しんでいる。


 二回のあいこ。


 そして結局負けた。


「おっ。勝った!」


「……参りました」


 拳を突き上げるジャンに、ヒンメルは頭こうべを垂れる。


「ほんまあんさんお強おすなあ」


「ほな姉ちゃんは床に仰向けに寝転がって! 兄ちゃんはその上におおいかぶさってや!」


「私とあなたは床の上―♪ 床の上―♪」


 異世界人たちに扇動されるがまま、ヒンメルは床に寝転がって天井を仰いだ。


(くだらない……)


 そう思いながらも、どこか悔しいヒンメルもいる。


 こんな些細な遊びですら、後宮ではジャンと素直にやり合える環境にはない。


 毎日鍛錬がてら殴り合えた昔を懐かしく思う心もある。


「え? えっと……」


 ジャンが珍しく躊躇して、ヒンメルを一瞥する。


 世界を統べる立場になっても謙虚さを忘れないヒンメルの主は、自分に遠慮しているのだ。


「坊ちゃま。郷に入っては郷に従えと申します。決まりは決まりです。王が私情でルールを破るのは許されないことです」


「そ、そうだな――床の上―、床の上―」


 そう後押しすると、ジャンが意を決したようにヒンメルに覆いかぶさり、上ずった声で歌う。


 長いまつ毛と澄んだ碧眼はそのまま。


 しかし、彼は随分と大きくなった。


 ジャンが唾を呑み込む。


 突き出た喉ぼとけが上下する音が、やけに大きく聞こえた。


(初めて坊ちゃまに負けたのは、何年前のことでしたっけ……)


 自分の半分くらいの背丈の少年に敗北し、組み敷かれたあの時、ヒンメルは彼の築く未来への果てしない希望を抱いた。


 それが実現した今、大人になった彼を前にして思うのは――。


(本当にいい男に育ってくれました)


 七割の母性と三割の憧憬で出来ている不遜な感情を抱くことを許されるなら、ヒンメルはそれを『愛』と呼ぼう。


「なんや初々しいなあ。外人さんやのに、万葉集の世界観を見てるようやわ」


「ドウジマはんも見習ったどうどすか。女は永遠の少年に憧れるもんどすえ」


 宴はやがて酣たけなわを迎え、泡のように弾けて終わった。



 店の外に出ると、むわっとした熱を孕んだ夜気がヒンメルたちを迎えた。


「っちゅう訳で、この地図通りに行ったらええお茶が買えるで。店主には話つけてあるさかい」


 メモ帳に走り書きした地図をジャンに手渡しながら、ドウジマが言う。


「すみません。何から何までご配慮頂いて」


「かまへんかまへん。ほなな」


 多くを語らず、ドウジマは去って行った。


「いやあ。いい人だったな。この世界で言うところの、『粋』っていう言葉の意味を教えられた気がするよ」


「……見た目に似合わず善人でしたね」


 ヒンメルは遊び人を好かないが、引き際をわきまえているところは素直に良いと思った。


 王にも名君と暴君がいるように、遊び人にも上と下があるのだろう。


 ぼんやりとした灯りが照らす石畳を歩いて二人で、目的地の茶葉を売る店へと向かう。




「すみません。ここで素晴らしい緑茶が買えると聞いてきたんですが」


「ドウジマはんからお話はうかがっとります。今、商品を持ってくるんでそこでお休みください。よかったらその間に玉露とようかんでも召し上がってください」


「どうもありがとうございます」


 店主は店の傍らに設置された長椅子を指さした。


 そこにはお盆の上に、茶色の菓子――ようかんがのった皿と花柄の椀に入った緑茶が置かれている。


「正直に白状するとな」


 ジャンはお茶を一口、口に含んでから、小声でそう切り出した。


「はい」


 ヒンメルは相槌で先を促す。


「師匠に覆いかぶさった時、ちょっと欲情したよ。俺も汚れちまったな。昔は師匠と一緒に風呂に入っても、微塵もそんなことは考えなかったのに」


 ジャンは心底申し訳なさそうにそう呟いた。


「……お戯れを」


「割と本気なんだけどな。今更だけど、師匠って綺麗なんだなあって再確認したよ」


「そういう台詞は坊ちゃまの後宮のご婦人方におっしゃってください。私を口説いても何の生産性もありません」


「いや、口説くっていうか素直な感想だよ。感想」


「感想でもみだりに口にしてはなりません。私だから良いものの、他のメイドに同じような言葉をかけたら舞い上がって面倒なことになります」


「厳しいなあ、師匠は。でも、そんな風に言われるとかえって、デートに誘いたくなってくるな。今日はたまたま時間が空いたからだけど、今後は定期的にチキュウで会おうか。一か月……は無理かもしれないけど、せめて三か月に一回くらいはさ」


「――本気ですか?」


 ヒンメルは目を見開いて、ジャンを見た。


「割と。俺と師匠はお互いに分かった気になってるけどさ。やっぱり、立場が人を作るっていう面もあるからさ。皇帝とメイド長っていう立場だとだんだん認識がズレて、心が離れていくのが心配なんだよ。師匠には後宮の管理っていう重要な仕事を任せちゃってるし、なるべく以心伝心でいたいっていうか、そういう隙間は埋めておきたい。だから、腹を割って話す機会は必要だと思うんだけど……どうだ?」


 この顔は反則だ。


 いつもおどけているくせに、こうやってふと真剣な表情になるからずるい。


 一体何人の女が、この顔に心の奥底をとろかされてしまったのだろう。


「……職務に関することなら私に否が応はありません」


 ヒンメルは淡々と言って、ギョクロを口に含む。


「よしっ。決まりだな。ついでに俺が死ぬまでに、何とか師匠に俺を男として見てもらえるように頑張ってみるか!」


 ようかんを冗談めかして言う。


(とっくに見ていますよ。坊ちゃまに押し倒された時、嬉しいと思ってしまった自分がいることに愕然としました)


 喉を通らないその言葉は、外に出ることなく、口中のギョクロの甘みの中に仄かに溶けていく。


 こうして、ヒンメルの完璧で精緻な日記の中に、決して埋まることのない隙間ができた。


 それを『二人の秘密』と言い換えた時、高鳴る胸のときめきを、ジャンが知ることは一生ないだろう。


 しかし、それでいいのだ。


 なぜなら、ヒンメル=ユニヴェールは偉大なる帝国の後宮の、メイド長なのだから。

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