王子様の夏休み 8
夕暮れ刻になっても、八月初旬の日本は暑い。
潮風はベタつくし汗はいつまでも引かないし、蚊に刺されるし。
清乃は毎年、早く秋になれと念じながらこの季節をやり過ごしている。
たまには楽しんでみるかと一念発起したら、夏好きな因縁の相手に遭遇してしまった。やっぱり早く秋になればいい。
寒いくらいに冷房の効いたスーパーを出ると、またもわっとした空気に包まれた。
「あんなに嫌がるとは思わなかったんだ。ごめん」
スーパーの袋を両手に提げて人通りの少ない道を歩きながら、ユリウスがぼそぼそした声で謝った。
「最初から言ってるでしょ。なんであんたがアレをあたしに推すのか分かんないよ」
「そうだな。強引だった。でもキヨもひどくないか。マシューが帰ってきたのを確認してから泣くのは卑怯だ」
おかげでユリウスとルカスは、マシューに頭を鷲掴みにされ説教されることになった。清乃は労せずして彼らの囲みから逃げた形だ。
小顔の王子様の頭は力を入れて掴みやすかったらしく、ユリウスは珍しく絶叫していた。超能力大国のSPは抜かりなく彼の視界を掌で塞ぐ形で頭を掴んでいたため、PKを使って抵抗することは不可能だったようだ。
「あたしそんな女優じゃない。泣くのを我慢するのをやめただけだもん」
「同じことだ」
女の涙を見たらおろおろするくせに、半分嘘泣きだと気づいてからのユリウスは強気になった。
マシュー相手に、よく見ろあれ嘘泣きだ、オレは何もしてない! と叫ぶ様子を、清乃はしれっと眺めていた。
「それだけ嫌だったの。やだって言ってるんだからやめてよ」
「でもそんなこと言ってたら、キヨは世の中の男全部が嫌なままだろ。一生彼氏なんかできない」
「そんなことない。大人で優しい筋肉なら嫌じゃない」
マシューだな。彼はカタリナのものだから、日本人のマシューを探す方法を模索するしかない。今度ふたりの出逢いを聞いてみよう。
「優しい筋肉ってなんだ」
防砂林の中に延びる道に入ってすぐ、ふたりして松の木の下にしゃがみ込んだ。
アイスクリームの袋を開けて齧りつく。溶けかけのアイスには簡単に歯を立てられた。
完全に溶けてしまう前にと慌てる清乃を尻目に、ユリウスはあっさり食べ終わってしまう。
「キヨって食べるの遅いよな」
「普通です。十代男子と比べないで」
「顎が小さいから咀嚼力が弱いのか。口の中に一気に入れられないのか」
「観察するな」
口の周りにアイスが付いたら恥ずかしい。
清乃がユリウスに背を向けると、彼は楽しそうに笑い声をたてた。
「別に見たっていいだろう。可愛いから見ていたい」
「…………」
無言になって残りのアイスを全部口に入れてしまうと、清乃はじっとりした眼でユリウスを睨んだ。
「今度はなんだ」
「……ユリウスはすぐそういうこと言うくせに、なんで彼氏つくれってせっつくの」
「キヨがつくるって言ったんだろう」
「そんなの彼氏いない子みんな言ってる。積極的に探そうとしなくても、誰もその子を咎めたりしないよ。あんたダイエットするって言いながらお菓子食べる女の子に、ダイエットしたいなら食べるなって言うの?」
「えっ言ったら駄目なの?」
「駄目に決まってるでしょ。そんなの世界中どこに行っても同じだからね」
「そうなのか」
「そんなカオしてるくせに、なんでそんなことも知らないの」
「カオは関係なくないか。ていうかなんの話だ」
何を言いたかったのか、清乃もよく分からなくなってきた。
「……もういい。帰ろう」
「あ」
ユリウスが小さく声を上げた。
「ぁあ?」
別の人物の声が付け足された。
ユリウスの視線を辿った清乃は事態を把握し、最も有効と思われる生存行動を瞬時に選択した。
すなわち、走って逃げた。
「ユリウス足留めよろしく!」
足が遅い上にビーチサンダルなんか履いていては逃げ切れるわけがない。だが今の清乃には協力者がいるのだ。
「了解」
「てめえなんだそれ待てごるぁ!」
高橋がサルのように吼える。
「うっせーばーか! ばーかばーか!」
ユリウスの存在に気が大きくなった清乃は、振り返って罵倒してやった。
「やっぱどっちもどっちな気が……」
「そこどけやガイジン! 待てごら杉田あ!」
争う声が遠ざかっていく。
清乃は必死で走って、貸別荘の玄関から飛び込んだ。
出迎えてくれたカタリナに状況を説明している最中に、マシューとルカスが矢のように飛び出して行った。
が、すぐに帰って来た。
「ただいまあ」
能天気なユリウスの挨拶と共に、ガラの悪い日本人が三人現れた。
「うおっなんだここ、すげえ別荘」
「やっぱユリウスくんち金持ち?」
「うん、そこそこ。でもここは借りてるだけだから」
馴染んでいる。何故。
「おう、なんだ誠吾もいたのか」
「ちわっす」
誠吾まで。いつの間に名前を呼ばれて挨拶するような仲になったのだ。
何これ。孤立無援? 四面楚歌? 孤軍奮闘する必要があるのか。無理だ。
「あれ。キヨは? さっき見えた気がしたんだけど」
「……さあ」
清乃が隠れるところを見ていた誠吾が言葉少に答えるのが聞こえる。
「あの野郎またか!」
男じゃないし。ばーかばーか。
【ユリウス、なんでそいつ連れて来た。キヨはそいつから逃げてるんだろう】
ナイスだフェリクス。さすがビーチでメンチ切り合っただけある。高橋に対する悪感情を持っている。
【キヨに話があるって言うから。オレたちも立ち会っていいって言うし】
清乃には話などない。
その後も何やら喋っている声が聞こえてきたが、清乃はその場から動かずじっとしていた。
清乃が発見されるまで、それからまた少し時間がかかった。
「うわっほんとにいた」
だいぶ前に招かれざる客の声は聞こえなくなっていたが、念のため就寝時刻まで動かずにいるつもりだったのだ。
シーツの替えや消耗品のストックが収納してある棚の奥で膝を抱えていた彼女は、膨れっ面でユリウスを見上げた。
彼の後ろにはルカスがいる。透視だかなんだかやって探したのか。
「こんな狭いところよく入れたな」
チビを舐めるな。デカい奴にはできないことができることもあるのだ。
「かくれんぼに超能力使うのはずるいよ」
「もーいーよ、も言わない奴をどうやって探せと」
「裏切者。もうユリウスのことは信じない。アジトまで知られたら捕まるのも時間の問題だよ。ズラかる準備を」
「キヨはどこの犯罪組織に所属しているんだ」
「あたしもうアパートに帰る。じゃあね。後はみんなで楽しんで」
駄々をこねる子どもに、大人がやれやれとなる空気が漂った。
こいつら歳下のくせに。
【キヨ、汗をかいているわ。とりあえずお風呂に入りましょう】
カタリナが優しく促してくれるから、清乃は大人しく頷いた。
【……はい】
【普段はシャワーだけで済ますけど、昨夜の温泉は気持ち良かったわ。浴槽にお湯を溜めてまた一緒に入りましょう】
男はシャワーだけだが、女ふたりで使うバスルームには大きな浴槽があった。ふたりでも入れそうなサイズだ。
金髪美女と混浴は恥ずかしいが、昨日すでに経験済みだ。一回も二回も同じだ。
【はい】
濡れた髪の毛を鼻歌混じりのマシューが乾かしてくれる。
顔が赤くなってる、と冷たい化粧水をつけたコットンでカタリナが頬を冷やしてくれる。
清乃はリビングのソファに座って難しい顔を崩さないまま、歳上カップルのなすがままになっていた。
【お宅の家、養子をもらったのか】
【可愛いでしょう? あげませんよ】
【いらん】
フェリクスとマシューが適当なことを言っている。清乃とマシューは九歳しか違わないのに。
【キヨ、今日日焼け止めを塗らないまま上着を脱いだでしょう。背中も赤いわ。明日は忘れず塗らないと】
【明日は海には行きません】
【職務放棄はよくない。キヨは契約書にサインしたんだろう】
ドライヤーの音に負けない程度の声でマシューが諭しにかかる。
【やむを得ない事情により契約を破棄するときには、雇用主の許可を取ることって書いてありました。陛下にお電話を】
サインする前に辞書を引きながら隅々まで英文を読んだのだ。抜かりはない。
契約を続行するために海に行けば危険が生じるというのは、立派なやむを得ない事情にあたるはずだ。
【今日は忙しくてアポ無しの電話には出られないはずだ】
【契約の意味】
それこそ契約不履行にならないか。
【あれ何? 馴れ馴れしくないか?】
離れたところから裏切者がぶつぶつ言っている。
【パパとママだからいいんじゃないか】
【カタリナ小さい子好きだからな】
【あーな。いっつもロンにだけ微妙に優しいし】
【初耳。俺優しくされてた?】
【セイにも優しいし】
【へー。俺チビでよかった】
カタリナにも聞こえているだろうに、彼女は平然としている。事実だからだろうか。
彼女は義務感から清乃に親切にしてくれているのかと思っていたが、そこには個人的な感情も含まれていたのだろうか。
嬉しい。チビでよかった。
【じゃあなんでカレシはゴリラなんだよ】
【強いからじゃね。自分よりデカいのに弱い俺らは許せないんだろ】
野生動物みたいだ。彼らの国では強い人が偉いのだ。怖。
カタリナが気にしていないようなので別にいいが、よくもそんな聞こえよがしに喋れるものだ。後でシバかれるとか考えないのだろうか。
つまり仲良し、という結論か。
【ユリウスって、絶対自力でキヨのこと見つけられないのな】
【自国でも無理だったんだから、日本ではもっと無理だろ】
【まあ出逢いからしてあれだし】
【あれって言うな】
【キヨを見つけ出したのはユリウスでなく、ジェニファーでした】
【キヨはエルヴィラを好きになりました】
【めでたしめでたし】
【めでたくない……!】
子どもたちは楽しそうだ。
清乃はこんなに真剣に悩んでいるのに。