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王子様と過ごした日々 4

 王子様と過ごした日々を想う時間は少しずつ減っていった。

 彼氏ができても、そのひとが夫になり一緒に暮らすようになっても、変わりたくない、自分のままでいたいという清乃の我儘はおおむね叶った。

 それでもいつまでも未熟な学生の頃のままでいるわけにもいかない。

 それなりに妥協することを覚え、時に自ら望んで生活を変え、とするうちに清乃もなんとなく歳相応に成長していった。

 過去を思い出して懐かしむことはもちろんある。

 歳上の夫のだらしない姿を見て、ユリウスは歳を取ってもこんなおっさんにはならないんだろうなと考えることもある。


 でもユリウスがここにいたとしたら、自分のズボラを棚上げしてよく言えたな、と呆れることだろう。

 今はちゃんとしてるもん、と清乃はきっと言い返す。

 週二回、家中のゴミを集めて、余裕があれば掃除機もかけて掃除機内の掃除もして、風呂の排水口に詰まった髪の毛を取り除いて。それらを朝早くに全部まとめてから玄関に置いておく。

 夫の出勤時間までにそこまでできたら、慌てて着替えなくても済むのだ。

 午前中に洗濯物は干すし、新築一戸建てに絶対必要だと付けた食洗機に、朝食で使った食器をセットすることもやる。

 ほら、ちゃんとしてる。

 リビングが散らかっているのは仕方ない。

 完璧を目指したら壊れる。このくらいでいいのだ。

 それだって夜の時間に余力があれば、嫌々ながらも床に散らばった物を拾ったりするのだ。今はやらないけど。

 だってほら、また聞こえてきた。

 清乃を求めて泣く声。


 

 ユリウスほど真っ直ぐに好きになってくれるひとなんて、一生現れないと思っていた。

 だけどそんなことなかった。

 彼よりももっと強く切実に清乃を求める存在が今、腕の中にいる。


 清乃の姿が見えない、それだけでこの世の終わりが来たように絶望して泣き喚く、不可思議な生命体。

 この子には自分が必要なのだと、全身でそう強く感じた。二年前から今まで、その感覚はなくなっていない。

 かつて、こんな未来の可能性を自ら手放そうとしたことがある。

 あのとき彼が頷いていたら、と考えることはもうしない。

 清乃には、今の現実(この子たち)以上に大切なものなどないのだ。

 生後四ヵ月の長男のオムツを替え授乳して寝かしつけ、そうっと寝室のドアを開ける。

 その瞬間、緊張感を持ちつつも穏やかだった気持ちが、一気に刺々しいものになった。


 ガチャ。

 多少は控えめに玄関を開く音が聞こえた。

 たったそれだけの音に反応して起きるのが、赤子という生き物なのだ。

 ふぇ、と声を上げる子を素早く抱き上げて、清乃は怒りを鎮めようと試みた。

 健やかな寝息を聞かせてくれる上の娘は二歳。もう玄関の物音くらいで起きたりはしないが、弟のギャン泣きに耐えきれず目を醒まして泣き出すことはある。

 今のは、夫が帰って来た音だ。

 仕事ではない。今日は早く仕事が終わったと言って帰って来て、またしれっと出掛けて行ったのだ。

 空気のようだった夫が、最近悪い意味で存在感を持つようになった。

 変わったのは俺じゃなくそっちだろう、と彼は言うけれど、変わらないそっちが悪い、と清乃は返している。

 どこの家庭でも同じようなバトルを繰り広げているらしい。



「……清乃さーん」

 玄関から控えめな声がする。うしろめたいことがあるときの呼び方だ。

 あの野郎、何をやらかした。

 清乃は嫌な顔を隠そうともせず、子どもを抱いたまま玄関に出た。

「……なに」

「あっちょっとパジャマはあれかも」

「はあ?」

 なんで。こんな夜中に外に出させる気か。釣り道具の片付け手伝って、とかだったら明日の夕飯はないものと思え。

 一瞬でそこまでの文句の言葉を組み立てた清乃は、夫の頭の向こうを見た瞬間にその台詞を全部忘れてしまった。



「大物が釣れた」

 悪びれない夫が釣果を披露する。


「……大物。過ぎでしょ。新種の魚か」

「こんばんは。新種の喋る魚です」

「すごいだろ」

「うるせえよ」

 条件反射だけで口を動かしながら、清乃は自分の顔が笑っていることに気づいていた。

 それを見た夫が妻の怒りを回避できたと安堵の笑みを漏らし、新種の喋る魚を名乗る人物もおかしそうに笑った。


「突然の訪問ごめんなさい、Mrs.ミサキ」

「まったくだよ。びしょ濡れで震えてる理由は後で聞くから、とりあえずお風呂入っておいで」

「ありがとうございます。あの、この子も一緒にいいですか」

「……子?」



 清乃の夫、三崎康太は海の男だ。

 何故漁師にならなかった、と言いたくなるくらい、余暇の大半を海で過ごす。

 もちろん清乃はついて行かない。

 最初のうちは物珍しさもあって何度か釣りに付き合ってみたこともあるが、すぐに飽きた。

 海の近くに家を建てると決めたときから、こうなることは分かっていた。

 今夜も仕事後、子どもたちが寝ていることを確認するといそいそと出掛けて行った。

 清乃はその後ろ姿を見送ることもなく、ソファに寝転がったままいってらっしゃいと言ったのだ。

 深夜まで海で過ごすのだろうと思っていたら、存外早くに人間を釣って帰ってきた。

 清乃は慌てて康太の新品の下着とスウェット、自分のトレーナーとハーフパンツとを出してきた。

 他人には見られたくない生活感溢れるリビングを片付けながら、清乃は夫に文句を言い続けている。

 すっかり覚醒してしまった四ヵ月児が寝返りをする、と見せかけてしない、でもやっぱりしたい、できない、の繰り返しを見守りながらのため、片付けはあまりはかどらない。


 乳幼児のいる自宅に気軽に他人を連れて来るな。

 でもあのひと、キヨちゃんの友達だろ。海に落ちてたら拾うしかないじゃん。子どももいたし。

 だからって! 夜中、パジャマ! 家ごちゃごちゃだし! この後責任持って寝かし付けてよ!


 小声でやり合っているところに、大小の来訪者が風呂場から出てきた。

 それぞれ丈が足りないメンズのスウェットと、袖を折り曲げたレディース服を着ている。

「シャワーと着替え、ありがとうございました」

「……ありがとうございました」

 笑いを噛み殺している大人のほうはともかく、子どもに聞かせてはいけない遣り取りをしてしまった。

 不安そうな幼い顔に視線を合わせて、清乃はなるべく穏やかな声を出した。

「はい。どういたしまして。服大きかったね。しばらくそれで我慢してて」

 ふたりを引き上げる際に海水をかぶったらしい康太も風呂場に追いやってから、清乃は改めて来訪者に向き合った。

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