王子様と芸術の秋 3
危険を察知してすぐに踵を返したが、逃げ切れるとは思っていなかった。
おまえの思い通りになってたまるかと、意思表示をしただけだ。
だがまさか、こんなことになるとまでは想像していなかった。
就活バッグを取り上げられた清乃は、走って逃げるフェリクスを追いかけた。
「カバン返せ! 信じらんない、子どもか!」
リクルートスーツにパンプスで全力疾走。なんて恥ずかしい。
だが財布も携帯も取り上げられてしまっては、家に帰ることもできない。
(ちょっと待て、落ち着け清乃)
どれだけ頑張って走っても、清乃の倍のスピードで走ることが可能な男に追いつけるはずがない。
無駄である。走っても周囲の注目を浴びて恥ずかしい思いをするだけだ。
奴は何をしたいのだ。
何喰わぬ顔で息を整えながら歩き出した清乃に、集まっていた視線が少しずつ減っていく。
フェリクスの目的。
清乃に追いかけさせたかったのか。つまりどこかに誘導しようとしていた。追いかけたら駄目だ。
(…………)
「キヨ。ごめん。おれがわるかった。あやまる。あやまるからけいさつはかんべんしてくれ」
近くにあった交番に向かって歩く腕を掴んだ男を冷たい眼で見て、清乃は就活バッグをひったくった。
そのまま無言で歩き、交番近くの歩道脇に立ち止まる。
【話ならここで聞いてやる。さっさと喋って国に帰れ】
交番内のお巡りさんはまだこちらに注目していないが、異変があればすぐに来てくれるはずだ。
日本の警察官は優秀だ。田舎娘丸出しの就活生がデカい外国人と揉めていたら、どちらが悪者か一発で分かってくれる。
【……おまえ友達相手にここまで】
【引ったくりの友達なんて持った覚えはない。用件は】
一応気を遣って、苦手な英語に切り替えてやったのだ。感謝してさっさと喋って帰れ。
【……昨日言っただろう。本当に困ってる。一緒にオーケストラを聴きに行って欲しい。それだけだ】
【あたしも昨日言った。中学生に化けるのは無理だよ。多少揉めるのは覚悟して、適当な女の人連れて行けばいいじゃん】
【それをやったら、その女性に迷惑がかかるだろう。だから作戦変更することにした】
【すでにあたしに迷惑かけてることに気づけ。あと日本で外国語は目立つ。いつまでもここにいたら職質かけられると思え】
清乃は交番内に視線を投げるだけでいい。
先ほどちらっとこっちを見た警官は、すぐに反応してくれるはずだ。
【…………落ち着いて話をしよう。スギタさんとランチをご一緒したい。もちろん代金はこちら持ちだ】
「いいだろう。ただし次に何かしたらすぐに通報する」
「わかった。Ms.スギタ、エスコートさせてくれ」
「気持ち悪い。横に並ぶな。前を歩け」
【おまえやっぱりうちに来いよ。その戦闘意欲、魔女狩り向きだ】
「闘えません。ただの防犯意識です」
結局観光はやめることにした。
ふたりで観光名所巡りなんて、デートの真似事は最初からやめるべきだったのだ。東京タワーはまた次の機会に行くことにしよう。
全国チェーンのファミレスなら、仕事の打ち合わせに使うサラリーマンもいる。恋人でも友人でもない赤の他人の異性と食事をしても、なんら問題のない場所だ。
セレブの口に合わなくても知ったことか。
【とりあえず今日の話だ。日本でキヨが子どもに見えないことは理解した。だから俺の秘書として来てくれ】
【秘書】
フェリクスが言ったらいかがわしい単語に聞こえる。不思議だ。立派な仕事なのに。
【そのスーツ、確かに大人に見えるぞ。それで考えたんだ。俺は日本滞在中、現地をガイドする人間が必要だった。キヨは語学と社会勉強のため、父親に派遣された大学生。俺は世間知らずな令嬢を、責任持って夜遅くなる前に家に帰さなきゃならない。どうだ。完璧だろう」
「どこの世界の金持ちの話だよ」
清乃が父親に派遣されるところなんて、酔っ払いが迎えを待つ飲み屋くらいだ。盆正月に帰省すれば、大抵送迎要員に駆り出される。
【ここの王子の話だ。それらしい服と頭と顔にしてやるから、今から買い物に行こう】
「行くわけないでしょ。そういうのは少女漫画の世界に任せとけ」
金持ちのカレの手でドレスアップして、なんてこいつ相手にやる気はない。
キモい、以外の言葉が出てこない。
【仕方ないだろ。おまえの化粧が下手くそなのが悪いんだ】
「ほっとけ。就活メイクだ」
頑張って勉強したのに。そんなにひどいのか。事実だとしても、化粧の必要がない美形男に指摘されたらムカつく。
【全然変わってないだろ。やる意味あるのか、それ】
「スッピンじゃないことが伝わればいいことにしてる。だから意味はある」
【……分かった。スーツでいい。頭と顔だけなんとかしてこよう。そこら辺の美容院に行って来い】
何故こんなに失礼なことを言われねばならないのだ。
これが一般的な、清潔感ある就活スタイルのはずだ。
「断る。恥ずかしい格好をしてるつもりはない。フェリクスが困ってることは分かったよ。だけど大学生が社会勉強で秘書役やるなら、着飾る必要なんてないでしょ」
「キヨはほんとにがんこだな」
「王子の旅先の恋人役なんて絶対やらない」
「……バレたか」
そのくらい分かる。世間知らずな大学生をガイドに、とか役に立たないにも程があるだろう。
外国のチャラ王子に娘を差し出す父親なんか、実在しないことを祈りたい。
「馬鹿にするのも大概にしとけよ」
【架空の女なら問題ないかと思ったんだがな】
「今後は騙し討ちなんかしない、アポ無しで来ない。約束するなら、昨日の制服着てやる。出せ」
「……いいのか」
「ユリウスからメールが来た。フェリクスを助けてやってくれって」
フェリクスの様子からはそうは見えないが、アッシュデールでは結構な問題になっているらしい。
国王のダヴィドが最近手に入れたというイギリス人作家のサイン本の画像が送られてきた。
令嬢の押しに負けたら、フェリクスは避妊手術を施された上で婿入りするしかなくなるそうだ。すごい話だ。
元は彼がチャラチャラと声を掛けたのが原因らしく、最悪そうするしかないな、となったのだ。
ならそれでいいじゃん、と清乃は思ってしまうのだが。間違ってはいないはずだ。
【……ユリウスが】
「あの子ちゃんと気づいてたよ。あんたがユリウスから気を逸らさせるために、その女の人に声掛けたんだって」
大切な従弟のために自分の身を差し出した。ブレない男だ。
原因が原因なだけに深刻な素振りを見せることもできず、なんとかする、とうそぶくしかなかった。
【…………仕方ないだろう。あの女の押しにはユリウスじゃ勝てない。歳下の親族のフォローも年長者の仕事だ】
そういうフェリクスも負けている。
どんな女性なのだ。彼がここまで困らせられるとは。
「気になるから行ってあげる。子どもっぽくしてればいいだけでしょ」
【ああ。助かる。持つべきものは童顔チビの友達だな】
「友達になったつもりはない。行くだけだよ。何もしないからね」
清乃は中学生になり切って、というかあまり何も考えずにただスーツを着たフェリクスの後ろをついて歩いた。大人じゃないなら、マナーを知らなくても大目に見てもらえるだろう。
人が多くなってきたところで彼が手を差し伸べてきても、絶対に握らない、と書いた顔をただ見せてやった。
クラシックの知識なんてないから眠いだけだし、そもそもクラシックなのかどうかも不明だ。定義を知らない。多分世界的に有名な楽団なのだろうけど。分からん。
せっかくの機会だから本物を聴いてみようとは思ったのだが、睡魔には勝てず少し居眠りをしてしまった。
掌をつねられた痛みで清乃が目を覚ますと、顔を引き攣らせたフェリクスの横顔が隣にあった。
最後に会場中の人間が拍手をしていたから、それは欠伸を噛み殺しながら真似しておいた。
おまえ最悪だな。何故寝る。すごいオーケストラなんだぞ。ちゃんと聴けよ。
だって眠かったんだもん。あんなの学校の授業で聞かされたことしかないんだから。
言い合いながら席を立ち、出口に向かう途中で何度かフェリクスが話しかけられていた。
日本語だったり英語だったり、どこだか分からない国の言葉だったり。
清乃は黙って、おかしいな、ここ日本だったはず、と思いながらフェリクスの陰に隠れて立っていた。
友人の妹、という言葉が聞こえたときだけ取り繕った微笑で会釈をしたくらいで、あとは無言で通してやった。
何人か若い女性はいたが、どれがくだんの令嬢なのか分からなかった。ただ全員美人だったから、こっそり鑑賞できた時間は音楽を聴いていたときよりも有意義に過ごせた。




