王子様の夏休み 3
もちろんできなかった。
というか飲む前からふたりの大学生はまったく役に立たなかった。
問題文が読めない、とフェリクスが早々にギブアップしたのはまあ仕方がない。
清乃に日本史の問題の答えはこれで合っているかと確認すると、彼女は一瞬固まって、問題文に出てきた人物の好物はアレとコレだ、どこそこから取り寄せて、とか語り出した。入試には絶対出てこない雑学。彼女は受験終了と同時に受験勉強の内容は忘れました、というタイプだった。
ダラダラと深夜まで飲み続けた飲酒組は、誠吾が眠くなるより先に寝てしまった。
誠吾は夏休みのワークを閉じると、浴衣の前をはだけて綺麗な寝顔を見せるフェリクスの身体にばさりと布団を投げ掛けた。
清乃はさすがに最後まで理性を残しており、廊下に一番近い布団の中でちんまりと眠っている。
広縁に続く障子を開けると、中庭を眺めることができるようになっていた。
綺麗に整備された情緒ある庭には、散策する人物の姿が見える。こんな深夜に。
酔っ払いにしては後ろ姿が若過ぎる。白いワンピース、多分まだ十代。
誠吾は姉の飲み残しに水を足したグラスを持って、コソコソと障子を閉めた。
振り返ると、もう白いワンピースは見えなくなっていた。
我ながらショボい非行である。
誠吾は広縁に設えられた籐の椅子に座って、グラスを眺めてみた。
透明。水の色。
姉の清乃が酒に弱いのは、両親からの遺伝だ。つまり高い確率で誠吾も弱い。慎重にいく必要がある。
おそるおそるグラス内の液体を飲んでみる。ごくり。
……冷たくて美味い。水の味。
まあそうだよな、と独りで笑いたくなる。
清乃は最後のほうはグラス一杯の水に酒を数滴垂らしただけのものを飲んでいた。その時点で、未成年が飲んでも法律に引っかからない薄さだったはず。
そこに水を足せばそれはもう水だ。
非行失敗。
誠吾は残りの水を一気に飲み干すと、はああ、と息を吐いて椅子の背もたれに体重を預けた。
これ昔じいちゃんが座ってた椅子みたいだな、と思いながら、改めて広縁内と中庭とを眺めてみる。
両親に連れられて旅館に泊まったことは、誠吾の記憶している限り二度しかない。それもこんな高級感ある旅館じゃなかった。料理が美味しいと評判の、民宿に毛が生えた程度の宿だった。
この旅館は、ユリウスの父から予算を与えられた清乃が色々調べて予約したらしい。
外国人の受入れ体制が、高級感は必要か、やっぱりご飯と温泉は期待してくるよね、などと電話の向こうでぶつぶつ言っていた。
アホな高校生は、さあ、それでいんじゃね、くらいしか言うことがない。
清乃もほんの三年前は今の誠吾と同じような世間知らずの高校生だったのに、知らない間に大人のようなことができるようになっている。
清乃は元々、地元で一番の進学校をそこそこの成績で卒業するような奴だ。趣味の読書の片手間の勉強で国立大学に合格し、家を出てからは淡々と自活している。
運動系の成績は壊滅的だが、その他は何をやらせてもそれなりにできる有能な人間なのだ。
誠吾の姉は地頭が良く生活力があり、その気になれば喧嘩だってできる。
中高と茶道部に所属して茶菓子を食べていた過去があるというだけで、外国人には細かいことは分からんだろうと、それっぽく大和撫子を演じる度胸もある。
顔と体格は同類項の童顔チビだが、誠吾と清乃は似ていない姉弟だ。
こういうのもシスコンの一種なのだろう。
誠吾はずっと、姉に対する劣等感を抱えて生きてきた。
性別が違って幸いだった。誠吾が出来ないことでも、まあ女の子と男の子じゃ違うよね、で片付けられてきた。
同性の兄弟だったら、色々拗らせまくっていつまでも終わらない激しい反抗期を演じていたに違いない。
(今更そんなことやらねーけどな)
春先に人生初の海外旅行をしてきて、大袈裟でなく姉弟揃って死にそうな目に遭った。
そんな場所でも清乃は相変わらず淡々と物事に対処し、自力救済を試みていた。
そのなかで彼女が一番頼りにしたのが誠吾だ。
周りが全部敵だったわけじゃない。そうかもしれないと思いながらも、彼女は確実に味方になってくれる人物を見極めた。
その上で、十七年間共に育った、何も出来ない弟を一番に頼った。幼い頃のように姉弟力を合わせて、窮地を乗り切ろうと試みた。
清乃は恋愛漫画のヒロインのように、自分に好意を寄せる美形を無条件で信じたりしなかった。
その代わりに弟を選んだ。彼女は姉として弟を守るのと同時に、弱者として武道経験者の誠吾に守って欲しいと望んだ。
そのことが馬鹿みたいに誠吾の力になったのだ。
身内だから自然なことだったのかもしれない。だけど、清乃からの信頼は誠吾を強くした。彼女と離れている時間も、独りででも闘う意志を持ち続けられた。
離れて暮らした二年の間に、姉を見下ろすまでに成長していた自分にようやく気づけた。
ラスボスの腹心の部下。悪くない、と思った。馬鹿みたいだけど。
十七歳にしてようやく、シスター・コンプレックスから卒業できたような気がしたのだ。
「セイもたまにはキヨにはんこうするのか」
「うおっ」
薄く開けた障子の向こうから、フェリクスが含み笑いの顔を覗かせている。
「キヨがねてるすきにのんでみるか」
日本よりも飲酒許可年齢が低い国の彼は、未成年に気軽に日本酒を勧めてくる。
「やめときます。バレたら家に帰されるんで。これも水でした」
「えらいな」
「だって姉ちゃんこええもん」
「きもちはわかる。おれもエルヴィラとカタリナはこわい」
そのふたりはみんなが怖がっている。フェリクスの従姉と、乳母の娘。魔女と鬼教官だ。最恐の姉がふたりも。
「レベルがちげえ」
「ここだけのはなし、キヨもこわい。おまえのあねはなにをするかわからん」
「……そうなんすよ。分かってくれます?」
「あいつはこわいが、よわいおんなだ。おれみたいなのとふたりにしてやるな」
障子一枚隔てただけだ。何かあったらすぐに気づく。と思ったが、つい今しがたフェリクスが起きたことに気づかなかったのは誠吾だ。
ちょっと出来心で、とフェリクスが清乃の布団をめくっていたとしても気づかなかったはずだ。
それを律儀に指摘してくるのか。紳士だ。やっぱりかっけえ。何かあったときに無実を証言して欲しいだけかもしれないが。でもかっけえ。
「寝顔の写真でも撮って脅すんすか」
「キヨのねがおはどこででもみれるけどな」
確かに。今日もサービスエリアでちょっと寝る、と運転席で仮眠をとっていた。
右ハンドルに慣れていないために後部座席に座っていた大人には誠吾が付き添って、サービスエリア見学に行ったのだ。
男女関係には潔癖気味のくせに、脇が甘いのだ。弟もいるから外国のチャラ男と同室でも別に、って有りなのかよ、と誠吾は正直思っていた。カタリナも困っていたのに、いいのいいの、と押し切っていた。
ズボラでガサツだから、ケッペキになり切れないのだ。
「あんな姉ですんません」
「うちのおうさまがキヨをリクルートしてるってきいたか」
「いや。初耳っす。そんな話になってるんすか」
魔女退治の仕事か。清乃のことだ、そんなもの秒で断っただろう。
「おじさんはセイのこともかってる。どきょうがあるといってた」
「はあ」
もうじき十八になるというのに、姉の眼が怖くて非行のひとつもまともにできない男だが。
「おやもつれてきていい。キヨといっしょにうちにこないか」
何言ってんだこのひと。酔っ払ってんのか。
「せっかくのお誘いですが、お断りします」
「そうか。きがかわったらおしえてくれ」
「了解です。そろそろ寝ますか。おやすみなさい」