第81話 ノルマンディウム上陸作戦 1
——太平暦1724年 8月30日
「諸君! 今日、我々は歴史に名を刻む! 多くの者が——」
揚陸艦の甲板の上に整列し、演台の上に立って偉そうに演説する名前も覚えていないような大佐を見上げる。
たいして興味もない大佐の話を聞き流しながらこれから上陸する海岸に想いをはせる。
噂によると敵のほとんどはライデンシャフト共和国が西部戦線に惹きつけているから大した抵抗はないだろうという事だった。
この場に居る者の大半は、この作戦が終わった後の給与のことしか考えていないだろう。
というのも私自身、自家用車を買いたかったからちょっとした小遣い稼ぎのつもりで今作戦に志願した。
ちなみに前職はスーパーのレジ打ちだ。訓練所の教官曰く銃を撃つのはレジを撃つよりも圧倒的に簡単だから安心しろとのことだった。
実際射撃訓練の時は最初こそ音や衝撃に驚いたものの、慣れれば確かにレジ打ちよりは簡単だった。
無駄に長い大佐の演説がようやく終わり、私はあと少しで手に入るであろうマイカーを夢見ながら上陸用舟艇に乗り込む。
大きな船と違って小さい上陸用舟艇はとても大きく揺れ、緊張と、船酔いによって多くの者が嘔吐していた。
私はどうだったかだって? もちろん吐いたさ。それこそ盛大に舟艇のど真ん中で。
そんな吐瀉物の鼻を刺す臭いに包まれながら私たちは船に揺られていると、急に轟音と共に上から水しぶきがかかる。
何が何だか分からずに頭を下げていると私なんかよりもずっと年下の小隊長が叫んでこの音の正体を教えてくれる。
「安心しろーっ! これは、敵の砲撃によるものだ! そうそう当たりはしないから大丈夫だ!」
小隊長がそう言った直後、横にいた上陸用舟艇が爆破炎上する。敵の砲弾が直撃したのだ。
それを目の当たりにした私たちは半狂乱になる。それはそうだ、たった一発で一個小隊、約四十名が海の藻屑になるのだから。
何とか混乱をおさめようとしている小隊長の努力も虚しく、混乱は収まることなく上陸用舟艇は接岸し、無慈悲にその前面の扉が開く。
早くこのクソったれなボートから降りようと皆が考えていたため、一気に全員が出口に殺到する。
そんな私たちを迎えたのは恐ろしい程の機関銃の弾幕。
扉が降りて三秒も経たないうちに前の何列かがバタバタと斃れていく。
あぁ、ここで死ぬんだな……。なんて考えていると小隊長の「舷側から飛び降りろ!」という叫びが聞こえて我に返る。
撃たれないことを祈りながら舷側をよじ登ってドチャッという音と共に海に落ちる。
しかしそれは私が知る海とは程遠いものだった。
誰のかもわからないような手や脚がプカプカと浮いていて、その水の色は真っ赤なのだ。
まるで地獄のような光景の中、ただ死にたくないという思いだけで海岸にある対戦車用の障害物の裏に隠れる。もうマイカーの事なんか頭にはない。
浜に上陸しても砲撃は止むことはなく、私はただ障害物の裏に膝を抱え込むようにして蹲って爆発音がするたびに身をすくませる。
防水用のビニールに包まれた銃を地面においてあたりを見回すとそれこそ阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
おそらく孤児であろうある少年は自分のかも分からない千切れた腕を持ってあたりをさまよっているし、ある女性はおそらく交際中の彼氏と共に志願したのだろう。その彼氏と思われる男を泣きながら引きずりひたすら「誰かーっ!」と叫んでいる。ただ、その男の体半分は無かったが……。
血と糞尿と潮と硝煙の匂いが立ち込める中、ある者が私の肩を掴んで揺さぶる。
小隊長だ。
「おい! こんなところに居たら蜂の巣にされるぞ!」
「出たら撃たれます! 私、ヤダ! もう嫌だッ! こんなんだって思ってなかったッ!」
「あぁそうかい! これが戦場だ、分かったか愚か者が! 死にたくなかったら俺についてこい! あの稜線まで走るぞ! ……3,2,1、今だ! 走れ!」
機関銃の弾が頬を掠める中、声にならない悲鳴をあげながら走る。
砲撃にやられたのか腹が裂けて中身を砂浜にぶちまけている少女が私に手を伸ばして助けを求めてくるが、こんなところで止まったらそれこそただの的だ。
心の中で少女に謝りながらようやく稜線までたどり着く。
確かにここならさっき私が隠れていた場所よりも安全だ。
そう思っていると、私と同じことを思って安心したのか軽く立ち上がったものがいた。
そのとたんに彼の頭は何発もの機銃弾を喰らって頭の上半分が消し飛んだ。
そうだ、此処には安全なところなんてどこも無いのだ。
私が思っていた戦争はこんなものじゃなかった。それこそ週末に家族と共に紅茶片手に観ていた戦争はこんなものではなかった。
カメラは引きでしか戦場を映していなかった。ズームアップしたらこんな地獄が広がっていたのだ。
戦場の本当の顔を知らなかった私は、国という概念が出来て戦争に孤児以外の成人済みの民間人でも志願できるようになったと聞いた時は喜んだ。
私もあんな舞台に一人の英雄として立てるのだと、その上結構稼げるのだと……。
だが愚かだった。こんな地獄に英雄なんていない。いるのはさっきまで人だった肉塊と、怯えたただの人間、そして何とか生き残ろうとする人間だけだった。
そんな地獄に居て私たちは前進できないでいた。それは決して我々全員が怖気づいて前進しないのではない。出来ないのだ、鉄条網によって……。
ある勇敢な工兵が鉄条網を除去しようと身を乗り出したがたちまち蜂の巣にされ、風穴だらけになって私たちの元まで転げ落ちて戻ってきた。
私が撃たれないように必死で頭を下げながら、防水用に装着しているビニール袋から銃を出しているとキュラキュラという独特の音が聞こえてくる。
戦車だ。そんな戦車が私たちの元までやってくる。この地獄にやってくる戦車はさながら白馬の王子様だ。
「おい皆! 戦車が来たぞ! これで鉄条網を乗り越えられる! あれについて——ッ!」
小隊長があれについていくぞと言おうとしたところで爆音と共に折角やってきた戦車の砲塔が吹き飛ぶ。
「——あぁ! クソったれ! おい、マリア! 爆破筒は持っているか!?」
「はい! 持ってます! ですが鉄条網を吹き飛ばしたら機関銃から射線が通りますよ!」
「あぁ! だがやるしかない! ここにいてもいずれ砲撃で吹っ飛ぶぞ! やれ!」
「了解!」
マリアと呼ばれた少女は爆破筒と呼ばれる筒を取り出し鉄条網に突っ込んでピンを引き抜く。
「吹っ飛ぶぞ!!」
シューという音の後爆破筒が爆裂し盛り土ごと鉄条網を吹き飛ばす。
「行けーっ! 止まるな! とりあえず奥の塹壕に飛び込め!」
小隊長の声にはじかれたように皆が走って突入する。無論機関銃から射線は通っているため何人も撃たれて倒れる。
そんな中私は歯を食いしばって、涙で顔をグチャグチャにしながらなんとか塹壕に飛び込む。
ようやく飛び込んだ塹壕で私を迎えたのは十代前半の幼い少年。私も彼も驚いていた。
何も言わぬまま数秒が過ぎ、私が子供だからと微笑んで手を差し伸ばしたところで彼は腰のナイフを抜いて私に覆いかぶさり、私にナイフを突き立てようとする。
胸に刺さる寸前で何とか受け止めて、何とか体を捻って今度は私が彼に覆いかぶさる形で押し倒し、彼の手に握られていたナイフの切っ先を彼の方に向けて力一杯押し込んでいく。
やはり幼い少年の腕力はたかが知れたもので、ナイフは彼の軍服を裂いて、彼の皮膚を突き破り、彼の臓腑に到達する。
何とも言えない気持ち悪い感触を手に覚えながら私はナイフを捻って彼の息の根を止める。
最期に彼は「お母さん……」とだけ呟いて、開ききった瞳孔で空を見上げるだけとなった。
私が初めて殺したのはまだ幼い憐れな少年だった。
生き残ったという喜びと、可哀そうな少年を殺してしまったという何とも言えない罪悪感の中で私は大粒の涙を流しながら声高らかに笑っていた。