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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

乞いのぼり

作者: 乙丸

 布越しに両手に包んだ金魚を空へ放ってやると、薄い尾鰭が左右に揺蕩いながら昇っていった。赤白の鱗が日光を浴びて煌めき、鰭が波打つたびにその姿が小さくなっていく。


「──あ」


 真横から飛来した黒い塊が金魚を掻っ攫った。

 目で追った先には、鴉に咥えられて息絶えた金魚がいた。

 またダメだった。


「那月。また金魚か」


 振り返ると、盆栽が並ぶ広い庭先に父が立っていた。那月は平らな飛石の上でへらりと笑う。


「今年は上手く行ったと思ったのですが」

「鯉でなければ空では生きていけないぞ」

「分かっております」

「そろそろ諦めたらどうだ? もう十年になる」

「……約束したものですから」


 顔を隠すように額を掻くと、頬に着物の袖が当たった。

 父は四角い顔をしかめたものの、何も言わずに那月から背を向けた。家業を全く引き継がない息子に、父はほとほと愛想が尽きたらしい。百年も続くのぼり鯉養殖が自分の代で潰えてしまうのだから、父の冷たい反応も仕方のないことだった。


 草履で砂利を踏みながら、父は無言で庭から去っていった。それを見送った後、那月は再び空へと顔を向けた。金魚鉢よりも深い蒼色の空には、色鮮やかな鯉の群が帯状にうねりながら東へと昇っていくところだった。


「今年の()も鯉で終わりか」


 那月は()と呼ばれる鯉の横断幕を目に焼き付けると、眩しそうに目を伏せた。


 ──金魚の()を見てみたい


 ──じゃあ、ぼくがいつか見せてあげるよ。どんな場所からでも見えるぐらい、月みたいな金魚


 ──約束ね


 色褪せない約束が耳の奥で蘇ってくる。

 那月は瞼の裏に涙が溜まるのを感じながら、砂利を跨いで、縁側に下駄を揃えて家に上がった。


 また新しい金魚を育てるために作業部屋へと足を向ける。そこはいつも障子をあけ放っているので、常に崖下の海から吹き上がる潮の香りで満ち溢れていた。


 そして十二畳の部屋のど真ん中には、巨大な四角い水槽が鎮座していた。


「泉希。おはよう」


 声をかけても水槽の中から返事は来ない。橙色の着物に身を包んだ少女が仰向けに沈んでいるだけで、今日も目覚める気配はなかった。


 泉希は、水の中でしか生きられない病に侵されていた。五歳までは普通の子供のように地上を駆け回っていたが、ある時から身体が干からび始め、足が砂のように砕けてしまった。急いで水槽の中に入れた時には脳から水分が抜け出てしまった後だったので、彼女は目覚めなくなってしまった。


 この奇病を治すことはできないらしい。海の向こうの医者もわけの分からぬ漢方だけ処方して、家から多額の金を巻き上げてさっさと逃げてしまった。皇のいるこの都でも、治せる医者は見つからなかった。


 あれから十年。水槽の大きさに合わせて錦鯉が大きくなるように、泉希も毎年買い換えられる水槽で、年相応に成長し続けていた。だが、来年からはこれ以上大きな水槽を買えなくなる。成長期でこれからどんどん大きくなる那月は、小さいまま年老いていく泉希を見守ることしかできなくなるのだ。


 いっそ殺してあげた方が幸せなのかもしれない、と何度も思った。だが、触れれば脈があり、時々彼女の薄い唇から泡が零れるのを見ていると、どうしても最後の一線を越えられなかった。


 那月は水槽に額をこすり付け、しばしのあいだ瞑目した。それからいつものように、作業部屋の奥にある生簀へと歩き出した。床を改造して作った生簀の中には、父が作り上げた美しい鯉たちと、出来損ないの金魚が泳いでいる。網で区分けしなければ、金魚たちはあっという間に鯉に食われてしまうだろう。


 ()に選ばれるのは、美しくも悪食な鯉だけだ。悪食でなければ空では生き残れない。


「カァ」


 崖の方から鴉の声がした。同時に、重いものが床に落ちる。


 驚いて振り返ると、黒い羽根をまき散らした鴉の死体が転がっていた。羽根や尾が琉金の鰭のように変色しており、眼球も膨らんで頭蓋からはみ出している。


「あ、金魚だ……」


 奇形化した鴉の部位が、先ほど食われてしまった金魚にそっくりだった。あれも確か琉金(りゅうきん)だった。白と赤の鱗に交じって、点々と黒が浮かぶ模様。毎日その子の面倒を見ていたのだから、忘れるはずもない。


 那月は死に絶えた鴉を腕に抱えてじっくりと観察した。死因は外傷ではない。内側から芽生えた首の(えら)で窒息してしまったらしい。水があればこの鴉も生きながらえたのかもしれない。奇病に侵された泉希のように、水槽の中で飼ってやれれば。


 ぽつ、ぽつ、と縁側に水滴が落ちてくる。顔を上げると、那月の頬に雨が落ちてきた。やがてそれは激しい群れになって、作業部屋を濡らしてしまうぐらいの横殴りの雨となった。空を泳いでいた()も暗雲の中に消え失せて、しばらく見ることは叶わないだろう。


 着物と死体が重く濡れていくのを感じながら、那月はほの暗い思考を巡らせた。


 那月の双眸が金魚の生簀へ向けられる。畳が濡れるのも構わず、彼は水槽のそばを横切って、鯉と金魚を区分けする網を外へと引き上げた。即座に金魚の方へと鯉が群がり、水が激しく飛沫を上げた。はがれた鱗がキラキラと水面と集光模様を彩り、やがて煙のような血がぼんやりと広がっていく。


 ()を生むには、もっと大きな餌がいる。


 那月は雨水で濡れそぼった掌をじっと見つめた後、躊躇いもなく生簀の中へと飛び込んだ。


 …


 ……


 ………


 水槽の中で少女は目覚めた。


 ──もうすぐだよ。


 そんな幼馴染の声を、泉希は夢現に聞いていた。那月が近くにいる気がして、無性に会いたくなった。


 ぐるりと水の中で顔を動かすと、長い髪と薄い着物がふわりと水中に広がった。美しい珊瑚や貝殻で飾り立てられた砂に手をついて、ガラス越しに部屋を見回す。薄暗い那月の作業部屋は相変わらず散らかっていたが、今日はなぜだか餌箱や網、タンスまでもが宙に浮かんでいた。


 明らかに異常な作業部屋の様子に、もしやまだ夢を見ているのかと泉希は頬をつねった。痛い。


 頬をさすりながら立ち上がろうとするが、足の感覚がない。そういえば眠りにつく前に足が砂になってしまったのだった。泉希は着物をたくし上げて、鰭と化した足の皮膚に触れてみた。太ももの半ばから骨が消えてしまっているが、那月が愛した金魚に似ているおかげで、喪失感よりも愛おしさがこみ上げてくる。


 早く那月に会いたい。


 泉希は鰭を動かしながら、水槽から顔を出すべく背伸びをした。

 だが、どれだけガラスの敷居を越えても水が途切れない。完全に水槽から抜け出したところで、泉希はやっと、部屋が丸ごと水中に沈んでいるのだと気づいた。


 何が起きているのだろう。津波が来ていたのだとしたら、家が木端微塵になっているはずだろうし、崖沿いの那月の家が洪水で沈むなんてこともあり得ない。何が起きているのか全く分からないまま、泉希は必死に宙を泳いで外へ飛び出した。


「馬鹿な息子だ……」


 ふと視線を下げると、庭先で那月の父が佇んでいた。水の中だというのに地面に足をつけており、着物も全く濡れていない。あの人は何年も前に死んでいたはずだから、濡れないのは当たり前かもしれない。


 見晴らしの良い縁側を抜けて家の屋根へと回り込むと、想像を絶する光景が広がっていた。


 無数の金魚が、都の街を泳ぎ回って空へと渦巻きながら吸い込まれていく。それらがじわじわと()を形作って、鯉の横断幕を後ろから追いかけて捕食し続けていた。鯉もただ喰われてばかりではない、()の尾を追いかけながら、二匹で環を描くように回り続けていた。


 金魚の龍から長く轟くような咆哮が聞こえてくる。誇らしげな響きを聞いて、泉希は水中なのにへたり込みそうになった。


「はは……あれ、那月だ……」


 月のてっぺんまで伸びた水槽の中で、都の人たちは歓声を上げている。生者はびしょびしょで着物が邪魔そうだったが、死者は打ち上げ花火でも見ているようにあれやこれやと野次を投げていた。


 霊来の日、鯉は天に昇り、()となって死者を迎えに行く。


 五日後の霊送の日に彼は消えてしまうだろう。

 泉希は来年までに忘れぬよう、空で踊る那月の姿を目に焼き付けた。

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