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多恵さん 旅に出る Ⅳ  作者: 福冨 小雪
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多恵さんと幽霊さん達は悩み苦しむ鬱病の幽霊藤子さんを救えるのか?

 5月、多恵さんの大好きな季節だ、六色沼の周りの木々は燃え立つような緑だし、吹く風さえ若葉の香りを含んでいるように感ぜられる。

そんな中、只管多恵さんは瀞八丁の画と格闘中だ。色鉛筆や水彩で描いたものを油絵に描き直す仕事は、簡単なようで中々一筋縄では行かないのだ。特に淡い彩の水の色は油絵より水彩の方が上手く表現できるような気がするのは、多恵さんの単なる妄想に過ぎないのか?返って那智の滝のような豪壮な水の流れや水しぶきの方が油絵にはあってると多恵さんは思う。否々そんなことはない、ただわたしの技量が足りないだけ、もっともっと研鑽を積まなくてはいけないと思い直して、多恵さんは今日も頑張る。

 朝の勤行ではないが一頑張りにけじめがついた所で、コロナで我が家に閉じ込められ、空腹でうめき声を上げている(だろう)大樹さんや真理ちゃんのお昼御飯をパッパッパと軽い物で済ませ、ほっと一息。ついでに夕御飯のお使いに出かける。玄関の鍵も掛けてエレベーターの前まで来た所で、あっマスクを忘れたと引き返す。先日なんか下まで降りマンションを少し出て歩いた所で思い出した。そのマスク自身が日本全国品切れ状態で、多恵さんの周りも中々手に入らない状態が続いている。多恵さんのマスクは、母上がもう売る事も無い(何しろ漢方専門店なので)と、倉庫に仕舞いこんでいた物を間に合わせにと送ってもらったものだ。布製のは少し小さく多恵さん用にしかならないが、ナイロン製のはやや大きめでかろうじて大樹さん用にも使える。まあマスクがドラッグストアの前に朝早くから長蛇の列を作らないと手に入らないと言うから、贅沢は言えない。この奇怪な現象が無くなる日が1日でも早く訪れるように祈ろう。

買い物の帰りに六色沼に寄ろう。五月の日差しは結構強いので、木陰がありがたい。この間まで柔らかくひ弱に見えていた若葉は生い茂り、スッカリ逞しくなった。花壇にはバラの花が華麗なる姿を見せている。ああ、もう直ぐ6月、6月になれば学校も職場もこの重苦しい不要不急の外出禁止が解かれるんだなあ、と多恵さんは考える。他の国に比べれば日本は随分外出禁止だって緩やかな中で終わりを迎えようとしているが、本とにこのまま終わるのか?夏休みが来て、子供をどこかに連れて行ってやりたいと思うのは親であれば仕方の無い事、戦争中ではないのだから。うーん、それでは屹度又再び蔓延するだろう。わたし自身も矢張り遠出は出来ない。多恵さん唇をかむ。

「何を悩んでいるんですか、河原崎さん?」

出、出たー、杉山君。周りを見回す。一人のようだ。

「今日は俺一人ですよ。良介と輝美さん、スッカリ意気統合して俺は厄介者扱い。いじけちゃいますよ」

「あなたもそろそろ奥さんの所に帰ったら。もしかしてお嬢さん、待っていらしゃるかもよ」

「と俺も思ってこの間帰ってみたんですよ」

「あらあ、良かった。それでどうしたの?」

「娘が言うには、今もしかしてママは好い人見つけたかもしれないから邪魔をしないで頂だい、って訳」

「まあそうなの。幸恵さん、好きな人が。良かったわ、今度こそ幸せになって欲しいなあ」

「で、そう云う訳ですから、当分俺、こっちに居るわ」

「どうしてお嬢さんに、俺は絶対に邪魔しない、罪滅ぼしにママが幸せになれるように見守ってあげると言わなかったの。若しかして少し幸恵さんに未練があるのかな?」

「俺だって幸恵に幸せになって欲しいよ。でも娘は俺を信用してないんだ。ま、生前の行いが悪かったからなあ」

「ふううん、お嬢さんの気持ちも分からないでもないか。仕方が無い幸恵さんのこれから先を少し見守ろう。それからあなたの身の振り方を考えるしかないわねえ」

「ヘヘヘ、それじゃ今まで通り河原崎さんの傍に居させてもらいます」

「そ、それは困るわ、どうしてわたしが人の夫だった人の、幾ら死んだ身とは云え、面倒見なくちゃいけないの」

「で、でも、俺行くとこないし、河原崎さんの傍が一番居心地好いんだもん」

「わたしは御免被ります。石森さんの所でも、良介さんの所でも行って、守護霊になる修行をしてらっしゃい。それが一番誰にも迷惑かけず、歓迎される方法よ」

「ヤ、ヤッパリ。河原崎さんに冷たくされると俺、何か鬱になって又死にたくなちゃうよ、本当に」

「もう死んでんだから、死ぬことは出来ないけど・・・でも鬱にはなれるわ。困ったわね、良介君ー、聞こえたら出てきてよ、お願い!」

六色沼に雲がかかる。少し冷たい風が吹いてきた。若しかしたら多恵さんの声が届いたのか?

「河原崎さん、段々念力強くなっていません。絶対今の声良介に届いてますよ、驚いたなあ」

少し立つと現われた現れた良介君。

「え、僕呼びました、河原崎画伯。何か凄い力で呼び出された感じです、初めて感じる力ですよ、どうしたんですか?」吃驚眼の良介君。

「ごめんなさいね、杉山君が大変なの。彼死にたいとか、鬱になりそうとか言ってるのよ」

「え、杉山さんが。どうしたんですか杉山さん、しっかりして下さい」

「5月は鬱に陥る人が多いとか聞いているけど、幽霊さんも同じなのかしら」

多恵さん、もう一度杉山君の顔を見る。幽霊だから元々顔色悪いので、顔色では判断できないが表情では何とか判断できそう。うーん、何時ものひょうきんさは丸っきり失われているようだ。

「そう云えば、去年も河原崎さんにお会いする前にすっごく落ち込んでいたことありました。競馬か何かで予想が外れた所為だと、石森さんも僕も思っていたんですが、そうではなかったんですね。その後あなたに会えるからと言って、直ぐに元気を取り戻したんで、今までスッカリ忘れていました」

良介君が現れたので少しは安心したか、杉山君傍のベンチに腰掛て静かに目を瞑っている。

「何だかあなたや輝美さんに邪魔者扱いにされ、娘さんの所に戻ったのはいいけど、奥さんに今ボーイフレンドが出来かかっていて、帰って来るなと追い出されたみたい」

「僕達杉山さんをのけ者扱いになんかしてませんよ、全然。ある日突如として彼、僕達の傍から消えてしまったんです」

「そうか、彼って寂しがり屋なのよ。何時もワイワイガヤガヤ、その中に居たいのよね。だから少しでもそれから外れると自分はもう用無し人間と思い込んでしまうのね。それに躁鬱の起伏も激しいから。困ったわねえ、彼を何とかしなくてはいけないわ。そうだ、もう直ぐ非常事態宣言が緩和されるから、隣の区にあるイザナギ公園でもみんなで行って、わたしはスケッチ、あんたらは・・・適当に遊んだり、あの周りには料亭も多いから酒盛りしたりする。そう言いくるめて彼を励まし、何とか今日の所は引き取ってくれない。このまま彼をほったらかす訳には行かないでしょう」

「そりゃそうです、僕にとったら大恩人、いやー、大恩幽霊様ですからほったらかすもんですか。ここは僕に任せて下さい」

「ありがとう、じゃあ杉山君、良介君もああ言ってるからわたしは帰るわ。今度会う時は愉快な杉山君に戻っている事を祈っているわ」

 ヤレヤレ酷い目にあったと多恵さんは家に戻る。体が少し冷えてしまったのは杉山君が鬱になって、折角の上がり始めた守護能力の低下によるものだろう。一先ず今日はこれから画の続きとおやつの時間を切り抜けよう。

 6月になり、緊急非常事態宣言と云う今まで出合った事もない状態から少しだけ抜け出られたが、考えるに7月に迫ったオリンピックを遣りたいが為のものではないのか?しかしそう簡単にコロナが収まってくれるのか、みんな疑っている、否殆どの人が信じていない、こんな状態でオリンピックが開けるわけが無いと。オリンピックを当てにして投資した人々のうめき声が、恨みの声がやがて聞こえてくるだろう。

今だってこの宣言で大変な赤字を出している所がゴロゴロしているのに、これから日本はどうなるんだろう。多恵さんは余り政治にも経済にも普段感心がないが、こんな社会の中では考えざるを得ない。

 やがて6月になり漸く非常事態宣言が解除された。

まあ、気分晴らしに幽霊さん達と約束したイザナギ公園にでもスケッチしに出かけよう。大樹さんや真理ちゃんの世話係から解放されて、めでたいたりゃありゃしないわ。

 鼻歌交じりで、画材道具を押し込んだバックを肩に掛けて駅に向かう。「あ、呼び出さなくちゃいけないのかな?」と云う考えが脳裏を掠める。でももう少し、一人で居たい。やっとやっと学校が始まり、大樹さんも教授とデートしに出かけ、自由の身になれたんだもん。

イザナギ駅に着く。繁華街を通って大きな欅が続く参道に辿り着く。今日は晴れているのでこの欅の参道は実にありがたい。神社に着く前にありがたいんだから、神社でお参りしたらもっともっとありがたい事があるかも、なんて多恵さん一人でニヤニヤ。

その神社に一応お世話になりますとお参りをして、裏の公園の方に足を向ける。入梅前だがこの所降り続いた雨の所為で、木々の茂りが凄い。池の水も満々で余り風も強くなく、時々白波が立つ程度だ。

「酷いですよ、何時になったら呼んでくれるんですか」良介君の声だ。

うーん、余り気分が良くてスッカリ幽霊さん達の事を忘れてた。後ろを振り向くと、居た居た杉山君、良介君、輝美さん、それに石森氏まで。

「御免なさーい、今呼ぼうとしてたのよ。でも良く分ったわねえ、わたしが今日ここに来る事が」

「はあ、実は杉山さんがあんまりあなたの事を恋しがるもんで、石森さんも呼んでなだめたんですが、これが中々収まらない。仕方なくみんなで六色沼の周りでうろうろしてたんです」

「そうだったの。で、彼の鬱状態はどうなったの、少しは良くなったのかな?」

「うーん、この通り。良くなったとは言えないですよね。殆ど喋らないし、笑わないし」石森氏。

多恵さん、杉山君を見つめる。微かに頬笑む。確かに重症だ

「でも、河原崎さんにはすっごく会いたいらしいです。それしか彼、呟かないんですから」

輝美さんが心配そうに言葉を挟む。

「仕方が無いわねえ。暫くこのままほって置きましょうか、別に死ぬ訳じゃないし、時がたてば直ってくるわ。ほら、彼も頷いている。わたしここでスケッチしてるから、あなた方適当に遊ぶなり、何か美味しい物でも見繕ってここで酒盛りでもしていたら。前にも言ったとおり、この周りは老舗の料亭が多いみたいだから良い物が見つかるわよ」

杉山君だけを残して3人は姿を消した。

「あなた、生きてる時は、鬱になってるからわたしの前に姿を現さなかったと、確か聞いたような気がするけど、今は平気なの?」

画材を広げスケッチに取りかかる準備をする。

「あれは・・あれはあなたに、河原崎さんに嫌われるんじゃないかと言う思いが高じて鬱になったで・・心はあなたに会いたくて堪らなかったんです」

「じゃあ今は平気なの」

「だってこの間、河原崎さん、俺が傍に居させてくれと頼んだ時、厭だと言ったでしょう。それで鬱になったんだから、それ以上鬱になりっこないんです」

「ふうん変なの。まあ良いや、それが原因なら直ぐ治るわよ、あなたの鬱」

樹木の間からチラチラ池が見えるのが実に清清しい。スケッチする手も踊るようだ。

「好い絵ですね、傍で拝見させて頂いて宜しいですか?」

この声は生きてる人の声だ。

「ええ、どうぞ、ご遠慮なく」

「プロですね、絵も上手いし、見てて良いなんて言ってくださるのはプロしかいない」

「まあ、売れない画家ですよ、本とに」

見れば七十過ぎの上品そうな男性だ。

「何時もこの辺りを散歩してるんですが、お会いするのは初めてですね」

「ええ、月見区の方に住んでいるんですが、時にはイザナギ公園辺りも描きたいなと思いまして。大学出るまではここの近くに住んでいましたから」

「そうですか、わたしの家は隣駅の御先町なんです。昔は近くの市民の森をぐるっと散歩してからここへ来て、それから更に脚を伸ばして、イザナギの繁華街を見て帰っていたのですが、今は腰を手術してから長く歩くのが余り良くないと医者に言われて、ここで少し休んでから電車で帰るんです」

「まあ、健脚でいらしたんですね」

「若い時は良く山に登りました。でも結婚してからは家内が心配性で中々登らせてくれないです。それでも何とか理由をつけてコッソリ登っていました。段々それも難しくなって・・本とに内のは心配性が酷くて、遠出は出来なくなりました。そこでわたしも考えましてね、東京に行くと言っては高尾辺りを登ってとぼけていたんですよ、ハハハ」

彼、多恵さん以上の健脚ぶりだ。

「凄いですねえ、わたしも歩くのを気にしないほうですが、あなたの方は気にしないどころか大好きと来てる。奥さんもお手上げですね」

「でも今となれば、もう少し家内の言う事を聞いて置けば良かったと思います。こうなったのも歩き過ぎが原因らしいですから」

「そうですか、でも今だって、本当は市民の森を奥さんと二人で歩くくらいが丁度良いのではありませんか?誘っておあげになれば、奥さんだって屹度お喜びになりますよ」

「実は内のは外を出歩くのが嫌いでして。まああれは鬱病ですね、殆ど一緒に出歩いたことがないんですよ、何回も誘ってみたんですが、駄目でしたね。桜が綺麗だよ、と言っても、桜を見て何が楽しいのと言うんですよ。はあ、これには参りました」

「奥さん、お花嫌いなんですか?」

「まあそうなんでしょうね、綺麗だなとか、珍しい花だと思ってスマホに撮って見せるでしょう。無反応でした」

何て寂しい横顔なんだろうと多恵さん、スケッチする手を緩めて男性の顔を見つめる。

「でも奥さんを愛していらしゃるのね」

「愛してましたよ、あいつは何時までも綺麗でしたし、心配性で暗い性格でしたが、良くわたしの為に尽くしてくれました。それに・・・それに、あいつは抜群に料理が上手かった。本当に旨い料理を作ってくれました。もうそれも・・・」

「亡くなられたんですね。癌か何かですか?」ぼんやり遠くの池の方を見つめる彼に聞く。

「ハハ、いえ、そうじゃないんです。今年の4月の初め頃、あれは4月の5日でしたよ。桜が満開で何時ものように市民の森に出かけました。あれは『行ってらっしゃい、気をつけてね』と少し微笑んで手を振ってくれました。わたしはそれを見て、ああ、今日は気分が良いんだなあと判断したんです。そこで安心して市民の森へ向かい、一通り桜や雪柳などを見て、何時ものようにここへ来ました。ここも桜が満開で、緊急非常事態宣言中でなければ、見物人がワンサカ居たんでしょうが、この宣言下ですから殆ど人が居なくて、売店も博物館も閉鎖中。少し喉が渇いたので販売機でお茶を買い、駅で、勿論公園前の駅で電車を待っていたんです。ところが電車が中々来ないのです。そこで駅員に聞いた所、先程この先で人身事故があって、それで遅れているんだとか。そうですかとベンチに腰掛けて電車が動き出すのを待つことにしました。間も無くわたしのスマホに連絡の合図がありまして、家内がわたしの帰りが遅いので連絡してきたのだろうと出てみた所、声の主は男性です。しかも警察署の者ですと言うではありませんか。警察が一体わたしに何の用ですかと聞くと、実は女の人が電車に飛び込んで亡くなったんですが、その人が手に握り締めていた紙に書いてあったのが、今かけている電話番号だったんです、と言うではありませんか。『家内です。それは家内です』と言いました。実は前にもやり掛けた事があったんです。その時は未然に防げたんでが・・・」

「・・・」多恵さん、暫し声が出なかった。

一陣の風が起こる。桜や赤松の木が騒ぐ。木の間から見え隠れする池に白波が立ってキラキラ光る。

「春は・・・何故か暖かくなり始め、花も咲き出す季節なのに、人は死にたくなってしまう季節らしいですね、一年で一番。屹度奥さんも発作的に死にたくなられたんじゃないでしょうか」

「いやあ、遺書もあったし、あれは前から考えていたんじゃないですか。只、電車だけはみんなに迷惑がかかるから辞めようとは言ってたんですがね。ああ、そうそう彼女は花は好きではありませんでしたが、動物は、とりわけ鳥が好きで、ある動物園がこのコロナでお客を入れられなくて困っているのを聞いて、自分が死んだら、自分の両親から受け継いだ遺産を全額寄付する事に決めていたんです。先日動物園から電話がありまして、本とに頂いて宜しいのでしょうかと言うので、どうぞそれが彼女の望んでいた事ですからと答えました。そうですねえ、4,5千万位はあったでしょうか」

「まあ、でも、鉄道への補償金などもありますからそれを払って、残った分を寄付する事になさったら良かったでしょうに」

「はあ、でももう手続きしてしまいましたので。わたし達には子供も居ませんですし、何とかなるでしょ

う。只ね、家がね、駅前にありましてね、そこがロータリーになるとかで、駅から少し離れた所に今立替中なんです。そこに住まわせてやりたいと思わないではいられません。女房は全く関心がありませんでしたがね。今となって思うのですが、もうその時は死のうと決めていたんですかねえ」

「新しい家ですか、お寂しいですよねえ、一人でそこへ引っ越すなんて」

「今だって寂しいですよ、昼間はこうして歩き回っていますが、夜になると無性に寂しいです」

「そうだ、スマホお持ちでしたよね?あれでツイッターをなさったら、同じ興味を持つ人とか、若し犬猫が好きならそういったものを見て楽しむとか色々活用できますよ」

「スマホですか、成る程使いこなせば色々楽しむことが出来るんですね」

「同じ趣味のお友達も出来て世界が広がりますよ。勿論今まで知らなかった世界も知ることが出来ます。一度勇気を出して踏み出されてみたら如何でしょうか?」

「ハハハ、勇気を出して踏み出すか。まだまだスマホは初心者ですからね、良く分らない所があって道に迷ってばかりですが、頑張ってみましょうかねえ」

「それが良いですよ、人生、何ごとも前向き前向き。新しい家、新しい生き方、亡くなった奥さんだってそう思って応援していらしゃ居ますよ」

「そう思ってくれるでしょうか?死んだものの寂しくて寂しくて、早く傍に来てくれとは思ってはいないでしょうか」

「とんでもない、ご主人思いの奥さんだったんでしょう、あなたのことを心配しては居らしゃるでしょうが、決して早く傍に来て欲しいなんて少しも考えてはいらしゃら無いですよ」

「そうですか、そうですよね、あいつはそう云う奴でした。うん屹度、一人で頑張って生きて欲しいと思っているに違い有りません。この年でスマホを勉強するのは億劫だとズルズル今日まで来ましたが、一念発起、遣ってみましょう。何だか楽しみが増えました」

ここからのスケッチも殆ど終わっている。

「おお、いい画ですね。わたしは画を描く人を尊敬してるんです。写真家よりずっと」

「あら写真家って大変なんですよ、重い写真機抱えて被写体のあるところへ向かい、被写体の素晴しい瞬間が来るまで待たなくてはならない。本当に、これだ!と思える瞬間なんて待って待って待たなくちゃ撮れないんですから。まあ画は画、写真は写真の難しさと素晴しさがありますよ、尊敬して下さるのは嬉しいですが、写真家の人も尊敬してください。わたしも写真撮りますから」

多恵さん、持ってきた写真機を手に取って見せた。

「いやあ、今頃は誰でも簡単に写真取れるでしょう。わたしだってほら、ここいらで撮った花の写真。

ところが絵はそうは行かないではありませんか?そう云う風に解釈してください」

男性は立ち上がり、お邪魔しました、スマホ、もっと活用してみますと言って、近くの駅のある方角、池の脇の道を通って消えていく。

「行っちゃいましたねえ、彼」杉山君が傍に来て呟く。

「奥さん、俺と同じ鬱病だったんだ」

「でもあなたのような躁の時期がはっきりしない方だったようね」

後ろのほうが賑やかになった。彼等だ。多恵さんの傍に見知らぬ人が居たので、姿を現すのを控えていたらしい。

「お知り合いですか、今の人?」輝美さんが聞く。

「ううん、全然初めて会った人。絵が好きらしいわ、絵描きを尊敬してると言ってたから。それに奥さんを鬱病で亡くしていて人事ではないと思ったし、つい、話が長引いて」

「杉山さんも鬱病でなくなったんですか?」

「いやあ、彼の場合は、3分の2は謝金、賭け事につぎ込んだ謝金でにっちもさっちも行かなくなって、ビルから飛び降りたらしい」石森氏。

「でもそう云った状況を作り出したのは、彼の病気の所為だと僕は思います」良介君。

「優しいのね何時も良介君は。彼のギャンブル依存症は大学時代から、ううん、若しかしたらもっと前からかも知れないわ」

多恵さんの発言に苦笑いする杉山君。

そうこうしている間に、青いシートが敷かれ皿や箸が並べられる。料理や酒類も真ん中に置かれ、酒盛りの準備は整ったようだ。

「さあさあ、お立会い、これからコロナなんかに全然平気な幽霊様達の、楽しい楽しい大宴会の始まりだよ。ちょっと時期的には葉桜真っ盛りになちゃったけど、料理もドッサリ、お酒もタップリ。どれも超一流、しかもただと来てる。一緒に騒がなくちゃ損するよ」石森氏の名調子。

「早く、杉山さんもここに来て座りなさいよ。別に立ってても、幽霊だから疲れはしないけど、一応その方が落ち着くと思うので」輝美さんの明るい声。

みんなが杉山君を見つめる。

「俺・・俺・・前より大分良くなったみたい」思いがけない杉山君の返事。

「良かった良かった。このまま暗いままで行くのかと心配したよ」石森氏。

「僕が杉山さんをのけ者にしたのが原因だと聞いて、そんなこと思ってもいなかったのですが、杉山さんを少しでも躁に追い込むことが、僕の行動にあったらと、猛反省してたんです」

「わたし、杉山さんの明るくて愉快な所にどんなに救われたか知れないのに、本当に感謝し切れてもいないのに、このまま、ずーっと鬱状態が続いたらどうしようと気が気ではなかったわ」

「御免、少しひねくれてみたくなっちゃったんだ。でもお酒でも飲めば又陽気な杉山君に戻れるよ、大丈夫、大丈夫」

やっと元気を取り戻しつつある杉山君とその仲間の葉桜真っ盛りの宴を残して、多恵さん少しだけ場所をずらし、方向も変えてスケッチする事にした。

うん、何やら感じる。そうか先程の男性の連れ合いか。

顔色は悪いが中々の美人だ。

「先程の方の連れ合いさんですか?」多恵さんが尋ねる。彼女ちょっと驚く。それから頷いた。

「主人にあのように言って下さってありがとうございます。彼があのまま、寂しい、寂しいと暮らしていましたら、勝手に死んでしまった私ですが、矢張り辛いものがあります。私自身は今、生前可愛がっていたインコやウサギたちに巡り合えて幸せです。でも死んでも中々性格的なものは治りませんで、今も殆ど家の中から出られません。時々主人のことが心配でこうして様子を伺う時だけ外に出て来るのです。あのう、向こうで騒いでいらしゃるのは、わたしと同じ死んでしまった人達ですよね?」

「ええ、そうよ。一人は昔からの知り合いで後の二人は彼の知り合い。まあ友達の友達は皆友達と言うところかな。あと一人の女性は仕事上で知り合った人。彼女には画のモデルにもなってもらったの。みんな生前、悲しい死に方をしたの。でも今はその死さえ前向きに考えて、守護霊目指して頑張っているのよ。

ただ、わたしの知り合いが躁鬱病で、ここの所、やや鬱病気味で、彼の気持ちを盛り上げようとみんなで努力してる所なの。どうあなたも少しだけ見学して行ったら?」

彼女はちょっと驚いて多恵さんの顔を見ていたが、首を激しく振った。

「わたし、駄目です、あんな賑やかな場所には行けないんです。嫌いなんです、とても厭なんです。御免なさい」

「誤ることはないわ、何も。そうよねえ、嫌いなものは死んでも嫌いなもんだわ」

そこに輝美さんが遣って来た。

「生前はどんなものがお好きだったんですか?」

益々驚く彼女。

「御免なさい、色々有って姓は言いたくないの。だから輝美と呼んで。あなたは?

「じゃあ、わたしも藤子と呼んで下さい。わたしは静かなものがどちらかと言うと好きだわ。うーん、音楽ならクラッシックとか、画は日本画、水彩画の方が好き。でも油絵もけばけばしくないのなら好き」

「じゃあ、今度、二人で美術館やクラッシックのコンサート聞きに行きません。その時、わたしの生前の情けない生き方、教えてあげる。屹度あなたの方が数倍幸せだったと思えますよ、ね、多恵さん」

「輝美さんの人生を情けないとは思わないわ。あなたはあなたで頑張って、頑張りすぎて病気になって死んだんだから」

「それは分ってます、わたしは幸せだったと思います。でも堪らなく死にたくなって、どうしようもないんです。主人には感謝しかありません、だから今も主人を毎日見守っているんです」

「それがいけないんですって。わたしも良かれと思って、毎日この世に残された子供たちに付きまとっていましたが、多恵さんにこの世に恨みを残したり、自殺したものは相手を冷やしてしまう、冷気が強くて家全体を冷やしたり、相手を冷やして風邪や鼻水を引き起こすと聞かされ、思い当たることがあって止めました」

「じゃあ、どうすれば良いんですか、わたしが死んで一番気がかりなのは主人の事なのに」

「大変でしょうが家にいる時は仏壇の中にいて、外に出たら、自分の為、人の為に色んな経験をし、出来たら徳を積んで、早く守護霊になれば良いのです。わたしもあそこに居る人達も皆、それを目指しています」

「えー、わたし出来ません。どうやると徳を積めるのか全然分らないわ」

「わたしも最初は分らなかったわ。でもあの3人を紹介され、共に行動する事で本の少しずつ、守護霊までは行かないけど冷気が減って行ってるの。そしたらちょっとの間ならご主人の傍にいられるわ」

「わ、わたしも、あの人達の仲間に加わらなくてはいけないのかしら」

「だから、今はわたしとだけで良いの。コンサートに行ったり美術館を巡ったりしましょう。ご主人のことは仏壇の中から見守ってあげて」

「そうするしか主人を見守る方法は無いんですか。それなら仕方ないですね、そうさせて下さい」

「じゃあ今日はここまでにして、明日午前中にここで落ち合いましょう。あなた、ご主人のことが気がかりなんでしょう?早く家に戻りたいと顔に書いてあるわ。でも今言った事忘れないでね」

「ええ、分りました。少し思い当たることもありますから」

藤子と名乗った霊は彼女らの前から消えて行った。

みんなが遣ってくる。

「どうでした、彼女?」

「ええ、輝美さんが旨く遣ってくれたわ。これで彼女も大丈夫だとわたしは思うわ」

「そう、凄いね輝美ちゃん」何故か嬉しそうな良介君。

「まあ、男性諸君は暫くの間は遠くから見守るしかないけど」

「彼女、男性恐怖症なのかい」石森氏。

「そうじゃないけど、騒がしいのとか、賑やかなのとか苦手なの。だから今は輝美さんに任せましょう」

「そうか、それじゃ仕方ない。輝美さんのお手並み拝見と行くか」

「所で、杉山君の鬱の方はどうなったの?」

「お、俺、もう少しだと思うんですが、まだ調子が出ないんです」

「わたし、杉山君の鬱状態、今回初めて見たの。生きてる時は何回も有ったのよねえ。幸恵さん、大変だったと思うわ」

「結婚しなくて良かったと思うでしょう」石森氏が言う。

「結婚したいとは考えなかったけど、わたしがその気になるまで待つと言ったのに、さっさと結婚しちゃったから少し傷ついたわ。でも今になったら幸恵さんに感謝してる。だから幸恵さんには好い相手が見つかって、今度こそ幸せな結婚をして欲しいわ、心から」

「杉山さん、又落ち込んでいますよ、今の発言で」良介君が注意を促す。

「うーん、困った人ねえ、本との事が言えないなんて。え、もっと落ち込んだあ?御免なさい、根が正直なもんだから、ハハハ」

すると落ち込んでいたはずの杉山君も笑った。

「俺治ったみたい。河原崎さんの笑い声聞いたら、いっぺんで治ちゃった。昔からそうなんだ、河原崎さんの笑顔や笑い声を見たり聞いたりすると、忽ち元気出てくるんだ。だから河原崎さんと結婚出来たら、どんなに良かっただろうと思っていたんだ」

「まあ、わたしはあなたの治療薬だったの?」

「そ、そう言う訳じゃないよ。あくまでもベースは大好き、ちょっと恥かしいけど恋その物なんだ。だからその笑顔や笑い声に癒されるんだなあ。とてもとてもだよ」

「その笑顔に恋したのよね、杉山さん」輝美さんが言葉を添える。

「分ります。その人の、一人の存在がどれだけ自分を幸せな気分にしてくれるか。アー、僕も幸せだったんだあの人が居る、それだけで十分だったんだよ。その人が自分と結婚してくれるなんて夢のまた夢、あの人が正直に好きな人がいる、その人と結婚したいと言ってくれていたら、僕は彼女に協力してあげたのに。それなのに僕を幸福の絶頂からつきおとすなんて・・・」

良介君が生前の自分の辛い経験に思いを馳せる。

折角恨みの沼から這い上がってきたのに、良介君又落っこちゃう。

「駄目駄目、良介君。前を見るのよ、前を。過ぎたことを恨んでも何にもならないわ。今はこうして楽しい仲間もいるし、自由気ままに何でも遣れるんだから、あの暗い惨めな世界に戻って行っちゃあ駄目じゃないの」多恵さんが叫ぶ。

「そうだよ、俺なんか、浮気した女房とその相手の男のために、毎日どうすれば店が盛り上がるのか、考え、行動してるんだよ。お前も生きてる人間の為、否、死んでしまった人間でもいい、そいつ等の為に頑張って行きなよ」石森氏の言葉には真実が込められている。

「済みません。僕、杉山さんの河原崎さんに対する思いに釣られてしまいました。大丈夫です、もう戻りませんあの暗い嫌な世界には。今のこの僕が、この状態の僕が大好きですから」

「いやあ良介、御免な。ハハハ、お前だって生きてる人間の為に、この間まで雪に埋もれて頑張っていたんだもんね」

「雪に埋もれて?雪に埋もれた人をたすけたんじゃなくて」輝美さんが尋ねる。

「去年の秋に北海道に行ったのよ。そこでわたしが知り合った女の人が、わけ合って失恋していたの。その彼女が可哀想だと思い、彼女が立ち直るまで見守りたいと言って、嫌がる杉山君を道ずれに北海道で暫く過したのよ。あなたのことで呼び戻すまで」多恵さんが説明した。

「あああの時、思い出しました。あの時ですね、雪に埋もれていたのは」輝美さんが嬉しそうに笑う。

「ぼ、僕は雪に埋もれていませんでした」良介君が断言する。

「嘘だよう、彼女に新しい相手が現われて、心は雪の中。で、俺がそこから引きずり出して温泉通い。そう云う状況の中に河原崎さんの救いの電話、と言うのが本当の話です」

元気になった杉山さんが茶化す。

「ま、良いじゃないか、どちらでも。北海道だろう、雪に埋もれていてもいなくても冷たさは同じ同じ」

石森氏、断言する。

「北海道の人、気を悪くするわよ、それが本当としても。でも今日はここでのスケッチはおしまい。今日はあんまり捗らなかったわ、良い所なんだけど小さい時から見慣れてるし、小学生や中学生の時、写生といえばここだったからねえ、変り映えしないのよ、心が昔に戻ちゃう」

「緊急非常事態宣言も緩和された折だから、もう少し脚を伸ばしたら如何ですか。俺の所も良いけど軽井沢も今、夏休み前だしそう混んではいませんよ」石森氏の提案。

「うーん・・・良いかも。大樹さんと相談してみる。軽井沢の余りメジャーで無い所をスケッチしてみたいわ」

「長野のことだったら俺大抵の事分かりますから任せてください」

「わたしも軽井沢大好きよ。でもメジャーのとこだけしか知らないわ」輝美さんも乗り気。

「出来たらさっきの藤子さんも誘えたら良いんだろうけど、まだ無理よねえ」

「わたし、出発する前までに、彼女の好きそうなところを案内してあげて、出かけることが怖くないと言う事を教えてあげます。仏壇の中にズーと居ることよりも楽しいと思ってくれたら良いんだけれど。何しろ死んでも鬱病のままだから難しいわ」

「そうよねえ、難しいわよね。無理は益々彼女の心を閉ざしてしまうかも知れないから、やんわりと攻めるしかないわ。輝美さんのお手並み拝見という所だけど、良介君ぐらいは少し手伝えるかもね」

「俺達だって裏方に徹して、何処で何遣ってるって調べて上げれるよ。輝美さん達にだけ苦労させる訳には行かないよ。それにみんなで軽井沢に行きたいし」杉山君も張り切っている。

「じゃあそう言うことにして、今日はここまで。あ、あなた方は宴会の続きを楽しんでね」

「お、俺、河原崎さんを少し、イザナギ駅まで送って行っても良いですか。このまま分かれるのがちょっと辛いから」

杉山君の申し出を断る理由も無くて、多恵さんと杉山君は連れ立ってもと来た道をイザナギ駅へと去って行った。

 軽井沢への出発は大樹さんが7月から夏休み(学生だけだが)と云う事で7月の初めに決まった。今回は近場と云う事とコロナ禍の事も考えて、1泊だけにした。

所でオリンピックは、矢張り来年まで延期となった。でも来年まで待ったとしても、このコロナ、収まってはくれそうにもないけど。

ま、それはお偉い方たちの考えに任せるしかない。わたしは軽井沢へスケッチしに行くぞう!と多恵さん。

幽霊さん達への連絡は簡単、五色沼に立ち寄れば、あいつが必ず遣ってくる。そう杉山君がだ。

「ヤッパリあなたが現われたのね」

「ヘヘ、俺が一番暇なんで。石森氏は恋敵に色々教えることが忙しいし、輝美さんは新入りの藤子さんと美術館めぐりやコンサート聴きに行くのに忙しい。良介はそのサポートに忙しい。で、残った俺は只管河原崎さんからの連絡を待つ」

「ここで?」まさかとは思ったけど念のため尋ねてみた。

「はい、ここで」杉山君、しれっと答える。

「まあ、一人で?良く寂しくなかったわねえ、人一倍の寂しがり屋のあなたが」

「ヘヘ、ここいら辺りには暇な幽霊がゴロゴロしてまして、そいつらとマージャンや花札をして、暇を潰しているんですよ。何なら紹介しましょうか?」

「良いわよ、御免被りたいわ。これ以上幽霊のお守りは嫌」多恵さん慌てて断った。がそれは少し遅かったようだ。

「そ、そんな事言わず、俺達にも挨拶させて下さいよお」

がやがやとむさ苦しい、少々年季の入った男3人が姿を現した。

どう見ても彼等が自殺したとは考えられない。余りこの世に恨みを残して死んだとも考えられない。

「あなたたち、どうしてこの世に留まってるの?」

「へー、俺はまあ何て言うか・・ちょっと俺の口から言いにくいなあ」一番年嵩に見える男が頭をかく。

「こいつはここいらの空き巣を遣っていたんですよ。まあこそ泥ですね。根が小心者だから大物を狙え

ず、お陰で地獄にも行けず天国にも行けず」杉山君が助け舟。

「こそ泥!」多恵さん思わず叫ぶ。

「しー。そんなことで驚いちゃいけませんよ。次ぎのこいつは、詐欺師ですよ」

「ええっ詐欺師ですって。まあ沢山の人達を泣かせたのね」

「その手下ですよ、ハハハ。だからこうして地獄行きを免れているという訳です」

「ではこの人は?あなたと同じくらいの年かしら」

「こいつは、この月見区昔の月見市を牛耳っていたチンピラ上がりのやくざです。抗争に巻き込まれて出世もしないうちに殺された可哀想な奴です。まあ生きてる時にそれ程悪さをしなかったから、こうして幽霊家業をやっていられるんです」

「はあ、で、ここでマージャンをしているって訳?」

「その前は、毎日ここいらで飲んだり管巻いたり、幽霊同士で喧嘩ばかりの毎日でした。でも、この杉山さんが幽霊だって遊べるんだよって、みんなでマージャンする事教えてくれて。それからここいらも穏やかになりました。みんな杉山さんのお陰です。聴けばそう言った事を教えてくれたのはあなたさんだとか言うじゃありませんか。ここは一先ずお礼を申し上げたくって、迷惑とは思いましたがこうして姿を現しました。誠にありがとう御座いました」三人並んで頭を下げる。

「ででも、これから毎日マージャンしてるって大変なんじゃなくて」

「いえ、マージャン大好きですし、遊びは他にもありますから」三人仲良く頷き合う。

「そう、今は遊びに夢中なのね。そのうちチェスだとか囲碁や将棋にも興味湧いたりしてね」

「囲碁、将棋、ですか?うーん俺達には少しばかり高尚過ぎるなあ」

「でも物は試し、そこの碁会所でも覗いてみようか」

「うん、そうして見よう」

「俺、将棋のほうが好きだから、どこか将棋指す所探してみよう」

ワイワイザワザワ、何時の間にやら多恵さんの周りは幽霊さんが一杯。

「おーい、お前達。ここは河原崎さんの迷惑だ。一旦姿を消して話し合いはそれからにしてくれ」

杉山君の号令に消えていく幽霊さん達だった。

「ヤレヤレだわねえ。ここも杉山君の縄張りになっちゃんたんだ」

「まあ一応そう云う事になったみたいですね」

「でも彼等も良い霊になって何時かは行く場所を決めないといけないのよ。だからも少し世の中の為になることを学んで、心の浄化を図らなくちゃいけないわねえ」多恵さんが呟く。

「もう少し教養を高めなくちゃあ駄目かな?まずは遊びより勉強を教えたほうが良かったかな。でも今更、お前ら遊んでばかりいないで勉強しろなんて、中々いえませんよ」「

「そうよねえ、あの人達、たちまち引いて行くわねえ。まあおいおい必要に応じて教えるのね。そうそうここいら小学校や中学校も多いから、時たま見学会を開いてみると良いわ。興味を持つ人も居たりして。それから図書館やコンサート、絵画展にも連れて行くのも良くってよ。世の中、広いって事を再認識すれば、案外自分の人生、やり直してみようかななんて思ってくれるかもしれないわ」

「うーんそうだな、時間はあるんだから、色々試して見ようかな。ふんふん何か面白いことになりそうだよ、俺、何かこう遣り甲斐が出てきたみたい、これからの幽霊生活にさ」

「所で折角遣り甲斐が出てきたところを悪いけど、軽井沢行くの7月の初め頃にしたわ」

多恵さん、本題に入ることにした。

 梅雨に入っているのにこの所あんまり降らず、その日もぎらぎら太陽の欠片が降り注いで居た。

「わー良いな、軽井沢はここいらよりもずっと涼しいのでしょう」真理ちゃんが羨ましがる。

「そうね、コロナが収まったら又みんなで行きましょうね。今回はとり合えずママだけを絵のスケッチに行かせて頂だいな」

そう言い残して早朝家を出る。まだ今は日の強さは感じる物の暑さはそれ程感じない。でも日中の暑さを考えると、少々後ろめたさを感じないではいられないが、心を鬼にして後は大樹さんとお隣の藤井さんに真理ちゃんの事は任せよう。

 イザナギ駅から新幹線に乗り込む。コロナと時期がまだシーズンには早いこともあって、自由席でも座りたいほうだい(?)だ。「こっちこっち」と招く人あり。

良く見れば人ではない幽霊さん、杉山君だ。その後ろに石森氏と良介君がニコニコ笑っている。

女性陣は今日はパスなの?と思っていると後ろに気配がする。

「済みません、まだ藤子さんが男性に不慣れな物で」輝美さんが弁解する。

「良いのよ。そんなに早く慣れる訳ないわよ。来てくれただけで大成功だわ、ね、藤子さん。これからの旅を大いに楽しみましょう」

「旅を楽しむなんて、わたし、全然分りません。生きてる時に夫に何回も誘われたけど、嫌だって断って来たんです。どこがどう面白いのか分りません。でも輝美さんが居なくなって、仏壇の中で一人いるのが辛いので、こうして兎のミミちゃんとインコのピーちゃん、チーちゃんを連れてやってきました」

成る程、肩に2羽インコを止まらせ、腕には兎のミミちゃんを抱いてのお出ましだ。

顔色は前より少しは良い様だが、相変わらず世の中どうしてこんなにつまらない事に溢れているのか分らないと言った風情。

「まあ、そう言わずそこは少し通行の邪魔だから」と言いかけて多恵さん、あ、わたし以外普通の人には丸っきり邪魔にはならないんだと気がついたが、ここはこのまま押し通す事にした。

「邪魔になるから、杉山さん達が呼んでる方へ行きましょう」と男性諸君が待つほうへ移動する。藤子さんもしぶしぶながらも(多分)後に続く。

「はいお待たせしました。この席が良いの?」

「幾ら乗客が少ないとは言え、一人や二人乗って来ますでしょう?確率的にど真ん中が一番、我々が気付かれないと判断しました」

「成る程。でここいらを占領する訳ね。まさか結界は張らないでしょう?」

「良かったら今直ぐにでも。ハハハ、冗談ですよ。でも時と場合によっては張りましょうかね」

列車が動き出した。

「で、かけるのは右でも左でも、どちらにしても景色の善し悪しは余り変りませんから、どちらでもとどうぞと言いたい所ですが、今日は良く晴れていますでしょう?だから日差しの事考えて、左の窓際のほうが良いのではないでしょうか」ここは石森氏が取り仕切る。

「じゃあわたしは左側に決まりね。でもあなた方も日差しには弱いでしょう?わたしの前後の左側に座るの」

「まあそれでも良いんですが、この杉山君があなたのご尊顔を拝してないと収まらないと、ダダを捏ねるもんっですから、男性陣はここの通路にウロチョロしてます。女性のお二人さんは左側の席、河原崎さんの前方でも後方でも掛けて下さい。藤子さんには少し煩いかも知れませんが、軽井沢まで一時間余りで着きます。そしたらこのむさ苦しい我々の傍から清清しい世界へ飛び出せますよ」

「そうよ、わたし、軽井沢大好き。お洒落な物や美味しい物も沢山あるわ。そうそう美術館もあっちこっちに点在してるしてるから、わたし達そこを巡っても良いわね」輝美さんが藤子さんを元気付ける。

「それから、今日は野鳥の森と言う所に行くのよ。あなたの連れている鳥さんや兎さんも喜んでくれると思うわ」多恵さんも続ける。

「でも喜び過ぎてこの子達帰って来なくなるんじゃないかしら。この子たちが居なくなったら、今のわたしの心の平安は失われてしまうわ」藤子さん今にも泣き出しそう。

「大丈夫よ。少しの間は他の鳥や動物たちと一緒に成って遊ぶでしょうけど、その内必ずあなたの元に帰ってきますよ。だって彼等はあなたが亡くなるまでずうっと待っていてくれたんだもの」

「そ、それは彼女達がそんな場所を今まで知らなかったからじゃないの」

「うーん、でも彼女ら、みんな女の子なのね、彼女らは一旦死んだ後、外の世界を知ってるはずよ。それでもあなたの元に居ると云う事は、彼女らがあなたを大好きで、あなたの傍が一番居心地が良いと思っているからじゃないの?」

「本とにそうかしら?この兎のミミちゃんはたった一人ぼっちで2年しか生きられなくて、このピーちゃんは来て間も無く癌に罹って死なせてしまった。そして最後に来たチーちゃんは、獣医さんが卵を産ませると体力がなくなるからと言われて、餌を少ししかやらなくて栄養失調で死なせてしまったんですよ。そんなわたしを大好きなんて思ってくれているのかしら?わたし、チーちゃんが死んだ後、獣医さんも恨んだけどわたし自身も許せなくって、毎日毎日、お線香上げてお経を上げて許しを請っていたのよ」

藤子さん、本当に泣き出した。

「チーちゃん、屹度お線香上げてもらったりお経を呼んでもらったのが嬉しかったに違いないわ。だから今こうしてあなたの傍に居るのよ」

列車はスピードを加速して行く。畑や田んぼが続き、駄々広い関東平野を感じる時だ。

車掌さんが遣って来た。

乗車券を切りながら少し例によって首を傾げる。

「少しここ、冷房が効き過ぎてますね。今までの車両はそれ程ではなかったんですが、若し寒いようでしたら何とかしましょうか?」と来た。

「あ、ハイ、そうですね。でもわたし達が降りたら屹度又暑くなりますのでそのままで結構です。我慢します」多恵さん答える。でも回りは誰も居なかった。

「はー?ではこのままで良いんですね」車掌さん、首を傾げながらそこを立ち去って行った。

「さあ、ご機嫌直して。チーちゃん、屹度お中が空いて鳴いたでしょうね、あなたの居ない間、若しかしてご主人がコッソリ餌を上げていたかも知れないわ」

「そうですね、主人は優しい人でしたから。夜この子が鳴いていたのは、今思えば凄くお中が空いていたからなんだ。それを知らないで、どうしてこんなにこの子は鳴くのだろうと、近所の迷惑だと思って、夜はこの子と二人、コタツで寝ていました」藤子さん涙が止まらない。

「後悔しても始まらないわ、今はこうしてあなたの傍にいるんだから、彼女もあなたを許しているはず。

わたしはそう思うわ」

「俺もそう思う」杉山君。

「僕もチーちゃん、許していると思う。そうじゃなきゃあなたの傍にこうしていやしませんよ」良介君。

「そうだよ。過ぎたことを悔やんでも仕方のないことじゃないか。と言っても、俺も昔は随分、愚痴言って皆を困らせたもんだけど。まあその内、自分を許せるようになるさ」石森氏。

「藤子さんも昔は旅行に行ってらしたんでしょう?ご主人と一緒に」多恵さんが尋ねる。

「ええ、随分昔、わたしも若くて元気でしたから。二人で富士山や黒部とか、ああ、谷川岳にも行きましたよ、何しろ主人は登山が大好きで、主人が山に登って下りて来るのをわたしは下の旅館で待ってるなんて、変な夫婦ですね」

やっと泣くのを止めて藤子さんは思い出し思い出し語る。

「そんな訳で余り思い出しても楽しくありません。わたしって動物それも小さな鳥や大人しい動物以外、心引かれるもの無いんです。みんな、桜が綺麗とか、花を見ると幸せを感じるというけど、わたしは全然そんな気持ちになった事無いんです。主人は反対に花が大好きであっちこっちに行っては、スマホで今日はこんな花が咲いていたよと言って写真撮ってきては見せるんですが、何が嬉しいのやら?」

「何て事を言うの。酷いわ酷いわ、そんな優しいご主人に。御主人は余り外に行かない奥さんのために、せめて今はこんな花咲いているんだ、今日はこんなに良い天気で緑の中にこんな花を見つけたよ、って世間の事を教えてあげて居らしゃるのに、何が嬉しいのやらですって」

今度は輝美さんが泣き出した。

「そうだよ、輝美さんのご主人とは月とすっぽん、否、俺と比べても遥かに上。まるで夫の鏡みたいな人だ」杉山君が唸る。

「本とだ、そんな良い人は滅多に居ないよ、あんた。本当に感謝すべきだよ、どうしてそんな良いご主人が居ながら自殺するかねえ」石森氏も同調する。

「生きているのが詰まらなくて詰まらなくて、主人には悪いと思いましたが、死を選んだんです。輝美さんのご主人のことは伺っています。そんな主人だったら・・わたし・・即死にます。お子さんがいらしたんですね、それは少し気がかりですけど、そんな酷い人とは一緒に居られませんもの」

「そんな優しいご主人だから、ここまで持ったとと言う訳ですね」良介君が加わる。

「まあまあ、そう云う事なのね。人の苦しみは判りやすいものとそうでない物があるんだから、ここは藤子さんの死にたくなるほど生きるのが辛かったと言う気持ちを汲んで上げましょうよ」多恵さんが締める。

長いトンネルを潜った。ぱっと視界が開けて緑の世界が広がる。

「ほらもう少しで軽井沢ですよ」石森氏が教えてくれた。

藤子さんを除いたみんなの顔がほころぶ。藤子さんの肩に乗っているインコや腕に抱かれた兎さえ嬉しそうなのだ。

あーどうすれば彼女の心を開くことが出来るんだろう、と多恵さん苦悶する。ま、ここは一先ず、軽井沢の爽やかな空気を吸おうではないか。

「まずは何処に行きます」杉山君が尋ねる。

「そうねえ、わたしは自転車借りて雲場池へ、昔は白鳥が飛来したらしくてスワンレイクと呼ばれていた所でスケッチするけど、あなた方は旧軽井沢銀座通りにでも行って、色々物色してみたら?面白いものが見つかるかも知れないわ。ご婦人方には素敵なファッションの店も沢山あるから、似合う物探したらいいわ。藤子さんももう過去に捕らわれないで、若々しい今のファッションにしてみたら気分も変るわ」

すると、頑なだった藤子さんの顔が本の少しだけ変った。そうか、藤子さんは女性なんだ、おしゃれには関心があるみたい。ここは輝美さんに頼もう。

「輝美さん、藤子さんの新しい洋服、一緒に選んであげて。彼女、凄くファッションに興味が有るみたいだから」

「ええ、喜んで。わたしもニューファッションに興味深々よ。一緒にチャレンジしましょうね」

藤子さんが頷いた。もう一押しだ。

「ついでに化粧品店や美容院も覗いてみたら?」

「ええそうします、ね、藤子さん」輝美さんと藤子さんが顔を合わせてニッコリ笑った。

「マ、女性軍は女性軍に任せて、我々はなーんか面白い物見つけよう」杉山君が呟く。

「ここ軽井沢はゴルフ場ありますよねえ?僕ゴルフ、結構旨いですよ」

「へえ、良介がね、知らなかったよ。ようし男性軍は今からゴルフ大会だ。石森さんも良いでしょう」

「まあこれ以上日差しが強くならなきゃ、ゴルフも面白いかも」石森氏が天候を心配する。

「うーん、何とも言えませんね。生きてる人間にはこの天気はゴルフ日よりなんだけど、我々幽霊族にとっては、もうちょっと曇っていたほうがありがたいなあ」

「まあ、少々やって見て、日差しが強すぎたら他の面白い物探そうか?」

「ゲームセンターなんかやアスレチックなんかも探せばあるかもよ」多恵さん助け舟。

「あ、それが好いですね。アスレッチクなんてもう永い事やってない」良介君。

「お前、俺達幽霊だよ。何もアスレチックしなくても、空はふわふわ、木にぶら下がるのだって何時間でも。ここはゲームセンターだな、あるかどうか探してみようか」杉山君が良介君の案を一蹴。

「では、俺達は行き当たりばったりと云う事で決まり。所で連絡はどうします?」石森氏が話をまとめる(?)

「うーん、昼過ぎにはしなの鉄道で次ぎの中軽井沢へ行って、今日の宿泊する湯川温泉に荷物を預けてから、そこから先にあるピッキオとか言う野鳥の森へ向かい、そこでスケッチする積りなの。この森は是非藤子さんに見てもらいたいの。だからその時はわたしの念力送るわ」

「成る程。この頃河原崎さんの念力、強くなってるって評判だから」石森氏納得。

「じゃね、みんな、自分が幽霊である事を忘れちゃ駄目よ」多恵さん、念を押す。

 さて不要な荷物は駅のロッカーに放り込んみ、自転車を借りる前に、少し腹ごしらえをしなくっちゃあと近くの喫茶店に入る。卵サンドと紅茶を頼む。さすが軽井沢、紅茶の色と香りが素晴しい。パンも柔らかくて挟んである卵もタップリで美味しい。これはこれは始めから付いてるようねと多恵さん、心のうちでニッコリ。

次に自転車を借りる。予め場所は大体調べてあるが、一応レンタル屋さんに確かめる。サイクリングするのに丁度いい距離だ。日差しは強いがカラッとした風が何とも気持ちが良い。

10分程で緑で包まれた青い池に着く。清清しくて正しく心洗われるばかりだ。大きく深呼吸をする。

鴨だかアヒルだか水鳥が数羽、多恵さんの目の前を泳ぎ去った。

ここの散策路は一周、大体20分らしい。歩いて気に入った場所を探そう。

何処もかしこも今新緑の燃え出る季節だから、そこから覗く池の水も今日の青空を映して真っ青だ。

おおっ、ここがわたしには一番ピッタリ来る場所かなと多恵さん脚をとめる。

イーゼルを立て紙を乗せて書き始める。今回は水彩画にした。何だか軽井沢には水彩画の方が、色鉛筆よりピッタリ合っている、そんな気がしたのだ。

コロナのお陰なのか、人は滅多に通らない。お陰で絵はどんどん捗る。少し物足りないくらいだ。

「あ、画を描いていらしゃるのですね、少しここで見学させてもらって良いでしょうか?」

見れば多恵さんと同じ年頃の女性が傍に立っている。

「ええどうぞ」多恵さん、マスクをかけながら頷いた。

「お一人ですか?」

「ハイ、実は主人と二人でここには来たんですが、夫は一周するのは億劫らしく、お前一人で回って来いと言って、デンとベンチに腰を下ろして動こうとしないのですよ。でもそれは今回に限った事ではないんです、何処へ行ってもそう、一寸した高台に登れば好い景色が見れるのに、頑として受け付けない。ここまでで良い、車で登れない所は俺も登らない。とこう言うんですよ。同じ旅行するなら、少しでも多くの美しい物、面白い物を見たい、見てやろうと言うのが普通の人間でしょう。でもあの人の頭の中にはそんな思考は存在しないんです」

多恵さん、思わず噴出す。この人のご主人と言う人間は何とわたしの父にそっくりではないか。

「あ、御免なさい。実はあなたのご主人と良く似た人物をわたし知ってるの。それはね、わたしの父。わたしの父もね、どこかドライブに出かけても、決して高い所には登らない、歩いて行けてもちょっと距離がありそうだったらさっさとパス。言い訳は帰りの車の運転が出来なくなるからと言うもの。母は運転出来ないから、無理強いしないの分っているから」

「まあ。わたしは運転出来ますが、内のはわたしと一緒に乗る時、けしてわたしに運転させません。俺のほうが絶対に運転上手いんだ!って思っているんです」

「多分御宅の御主人は面倒臭がり屋なんでしょうけど、内の父はどうかしら?若い時は剣道やサッカーやってたって言ってたけど、今の父からは皆目伝わってこないわ。車の運転だって、わたしの弟が居る時は弟に運転させてるから、これは本当に脚萎え状態だわ。あ、思い出したわ、わたしが中学の時、剣道をやりだしたら、木刀2本引っ張り出して来て、暫く稽古をつけてくれたっけ。フフフ、これだけだわ、父の武勇伝は」

「剣道ですか。内のは柔道ですが・・・わたし達には子供が居なくて、教えてやりたくても教えられないとあの人の事だから言うでしょうけど、内心では子供居なくて良かったあなんて、胸を撫で下ろしてたりして」

風が吹き、池の水が波立つ。鴨が4,5羽、目の前を横切って行った。

「独身ですか?」女性が尋ねる。

「いいえ、実は夫という名のありがたいパトロンと、小学6年の女の子がいます。彼は何のスポーツをやる訳ではありませんが、別に体を動かす事には一向に厭うことはありません」

「結婚してらしゃるんですね。そうですよねえ、こんな美人、世間がほっときはしないですよ。で、パトロンと言う所を見ると、あなたはプロの画家さんですね。どうりで装備もしっかりしてるし、画は抜群に上手い」

大体の下絵が出来上がったので塗りに撮りかかろう。用意してきた水筒から水彩用の水入れに注ぎ込み、

パレットに絵の具を出して行く。

「水彩画が専門なんですね」

「いえ実は油絵が専門なんですよ。こうして写真代わりに、色鉛筆や水彩で描いて、その中から油画に相応しい物を選んで、後から仕上げるんです。勿論、念のため一応、写真も撮っておきますが。実際に大きなキャンバスを持って来て、何日もかけて、そこの場所で描く現場主義の方も大勢居らしゃいますが、私にはそんなに余裕が無いもので」

「人それぞれですよね。自分に一番合ってる方法で描く、無理して人に合わせることなんて無いですよ、

内の主人みたいに。フフ、愛する妻の為だって体を動かさないい、頑として自分の哲学を押し通す」

「でも、描いてる内に、どうしても確認しなくてはならないことがあって、もう一度来る事もあります。ご主人も体が悪い訳ではないのだから、どうしてもあなたのために行かなくちゃ成らない事になったら、

屹度立ち上がって歩いていかれますよ。わたしの父はもう体が殆ど動きませんので、行ってやらなくちゃと思っても無理ですが。その為にも今のうちに普段から歩く練習をなさっておく必要はありますね」

「ええ、結構近所は歩いているみたいですよ。平地を歩くのは大丈夫みたい、肥っている所為かしら少しの地面の傾斜が嫌なんですよ」

「内の父も、生まれた時から平地の所でしか育っていないから、坂や階段大嫌いなんです。それに凄く弱いくせにお酒が好きで、結婚以来飲まなかった日は、物凄く二日酔いした次の日だけ。それも本の数日だけだと母は嘆いています。体は痩せているんですが、困った物です」

「主人は肥ってる上に酒も飲みますし、タバコも吸います。うーん、とても不健康。それとなく言ってるんですが、全然改善する意思無しです。子供でも居れば、子供に注意されて仕方なく止めたなんて話聞きますので、その点は少し残念です」

「そうですね、わたしも父にタバコは止めるように頼みました。これは確かに効果ありました。でもお酒の方はどうも無理みたい。本人に言わせると量は以前より減らしているとのことですが、多分年をとって酔う速度が上がり、直ぐ酩酊状態になってしまうらしいと母が言ってました。どうも、アル中の世界に足を半分突っ込んでいるみたいですね父は」

「そうですか、でもタバコは止められたんでしょう。それだけでも立派です。子供の居ないわたしの家では、仕方が無いですからわたしが毎日毎日注意するしかありませんね。ダイエットの方はカロリーの少ないものをなるべく食べさせるようにしてるんですが、お昼は外食でしょう、どうしても脂っこい物になってしまいます。主人を健康にするのはとても大変ですねえ」

「本当に大変みたいですね、ひとえに奥様の頑張りにかかっているんですから」

画は大分進んだ。

「ああ、とっても素敵。水の色も森の茂りも本当に素晴しいわ。この赤い花がアクセントなんですね?ツツジかしら。でもこちらの木の白い花もとっても素敵です」

「ええ、水彩ではその色が中々出ないでしょう?昔は悩んだ物ですが、今はね、青とか緑とか他の色で浮き立たせれば良いと分かって、平気」

でもこの人の旦那さんは一向に帰って来ない奥さんの事が心配でないのかしら、と思っていた所に携帯の音色らしい音楽が響いた。

「あ、あの人からだわ」彼女嬉しそうに呟き、ちょっと失礼しますと傍を離れた。

「あの人、珍しくここへ来るそうです。わたしが凄い美人の絵描きさんの、そりゃ素敵な水彩画を描いてるのを見学してるって言ったら、あの人も見たいって出向く事にしたみたい」

「ええっ、わたし困るわ、そんな美人でもないし、化粧も日焼け止め塗ってるだけで何にも他は塗ってないんだから。第一マスクかけていたら殆ど美人かそうでないか、分りゃしないわ」

「いいえ、あなたが美人であることは十分分ります。でも夫にはマスク越しでは、多分分らないと思います。それは重々夫は承知の上、来てくれるんです。わたし達の話がまるで聞こえたみたい、嬉しいわ」

彼女、本当に幸せそうな笑みを浮かべた。愛してるんだ、夫も妻もお互いに。

「疲れたでしょう、ずっと立ちぱなっしだったから。そこのベンチで一休みしましょうか?わたしも喉が渇いたから」

二人はベンチに腰掛けて持ってきた缶入りの、夫々の飲み物を飲むことにする。

涼やかな風が吹き渡り、如何にも軽井沢にいると云う事を感じないではいられない。

「好い絵になりそうよ、あなた方のお陰で」

「あら、内の人は今の所、無関係でしょう」

「いいえ、素敵なご夫婦の存在が、素敵な絵を産むのよ。あなた方のご夫婦の愛がわたしの絵を輝かせてくれたの」

「まあ本当?絵だけでなくあなたの言葉まで素敵だわ。屹度夫もそれを聞いたら喜びますわ」

暫くして彼はやってきた。うむ、成る程、昔柔道をやっているのを髣髴させる体型だが、今はやっていないので、矢張り少し肥満の部類に入るだろう。

奥さんに促されて、照れくさそうにぺこりと頭を下げる。

「内のがお仕事の邪魔をしてたみたいですみません」

「いえ、一人で描いているよりも楽しく画けました」

「そうですか,それなら良いんですが、こいつ、おしゃべりが過ぎるんで迷惑かけてるんじゃないかと、心配でやってきたんです」

「あらあ、美人の絵描きさんに釣られてきたんじゃないの?」

「マ、それも半分あるかな。それに素敵な絵も見せてもらえるとかで、ハハハ」

「ありがとう御座いますが、実物はこんな顔でもうしわけないですね。絵はそこに描きかけですが、一応目鼻はついていますので自由にご覧下さい。一休みしたら、後もう少し頑張ります」

夫婦は二人して絵の所に行き何か話をしている。

やがて戻ってくると夫の方が名刺を差し出した。

「良い絵を見せて下さってありがとうございます。本当に素晴しい絵で、油絵になったらもっともっと重厚になり、迫力ある絵になるんでしょうね。それでわたしも家内も絵は見るのは好きなんですが、絵がどの位するのか全く分りません。でもわたし達には子供も居ませんし、少々の準備は出来ますので、この絵が油絵になったあかつきにはどうか私共にお売りできませんでしょうか」

多恵さんの胸に去来するものがあった。

「あのう、お売りすることは簡単ですが、わたしのお願いを聞いてもらえますか?実はあなた方、お二人の姿を見てたら、どうしてもこの絵の中にその後姿を描きこみたくなってしまったのです」

「え、わたし達の後姿をですか?」

「この絵に二人の人物か?・・・うん良いかも知れない。ただわたしのこの体型では、笑いを取るには良いかも知れませんが、折角のこの絵の雰囲気には合いませんよ。せめて絵の中だけでもスリムに描いてもらえませんでしょうか」

多恵さんも奥さんも声を挙げて笑った。

「ええ、それは承知しました。努力目標のお姿に致します。ではお二人とも、そうですね、・・ここに立って池を眺めていて下さい」

多恵さん、今度はスケッチブックを取り出し、二人と周りの景色を手早く描いていく。

「ハイ、お疲れ様でした。わたしは滅多に人物は描かないんですが、この絵には人物を描き入れた方が、断然ピッタリ来ると思います。それにお二人の夫婦愛が素晴しいと感じましたので、無理を言いました」

「絵のモデルは長くかかるものと思っていましたが、随分短い時間で仕上がったんですね」

「ええ、これは風景画の中の人物ですから。人物がそのものが中心で人を描くとすれば、当然長い時間かかります。でも本人にとっては人物画であろうが、そうでなかろうが、問題は自分がどう描かれている事ですよね。では、この絵、ご両人、如何でしょうか?匿とご覧ください」

二人は仲良く覗き込む。

「良く描けてますね、あんな短い間に。まあまあ、あなた、本当にスリムになっちゃって、若い時、出会った時みたいよ」

「ハハ、お前だってこの後姿は若い時みたいだ」二人楽しそうだ。

「益々欲しくなりました、是非お願いします」

号数は家庭向きにには少し大きめだが8号の大きさにして、値段は画廊に出すよりもうんと抑えた。勿論展示用などに出す物についても了承を得る。住まいも同じ勾玉県でしかも直ぐ近くの市と云う事で、描き上がったら持参する事にした。

彼等が去り、多恵さんも水彩画を描き終え、このスワンレイクを後にした。

正しくスワンレイクだったわ、と多恵さんは思った。それはテレビかツイッターで見たものだったが、怪我をしたメスの白鳥が治療されることになり、その間じっと待っているつがいらしい一羽の白鳥。メスが治療を終え、元気になって、湖に放鳥されるや否や、イソイソと愛しい妻の傍に泳ぎよる夫の白鳥。それに応じるメスの方も実に嬉しそうな素振りを見せていたと思うやいなや、2羽して優雅に踊り出した。うーん、まさかあの時の白鳥達が人間になってわたしの前に現われたんじゃないでしょうね、と多恵さん思わないでもない。でも白鳥にしては少し肥り過ぎ、あれじゃ飛ぶのもダンスをするのも難儀だわね。

雲場の池を後にして近くのレストランに入り、大好きなチーズとベーコンのピザを頼む。ミルクたっぷりなコーヒーも一緒だ。ああ、疲れた、でも良い出会いだったわと多恵さん満足。ピザは美味しいし、コーヒーもとてもマッチしてる。そうそう、野菜もね、旅に出るとついつい野菜不足になり勝ち、サラダも頼もう。

駅に戻り自転車を返す。駅のロッカーから荷物を出し、しなの鉄道で西軽井沢へ。

西軽井沢にはあっという間に着いた。それから北へ向かって暫く歩いて、左折すると今日の宿、軽井沢には珍しく小さな温泉旅館に辿り着く。

今度はスケッチブックと色鉛筆にしようと、水彩の一式は置いていく事に。今朝と比べると随分身軽だ。

後の荷物は帰るまで、大した物は入ってはいませんが、どうぞ宜しくと宿を出る。そこから又北上、暫くしてから今度は右手に目指すピッキオの森がある。

どこら辺りであいつらを呼び出すか、それが問題だ何て考えながら入り口までやってくる。

「えー、何のツアーに参加希望ですか?」と女性に声を掛けられる。

「すみません、わたし、画家なもんですから、この森を描きたくて」

「あ、そうですか、分りました。でもこの森には熊もいますので、余り奥のほうには行かない方が良いですよ。念のため熊よけの鈴を持って行って下さい」

「まあ、ありがとうございます。時々絵を描いてる時にも振って、十分気をつけます」と頭を下げる。

その時、後ろから声がする。

「この人は見かけは普通の女性ですが、実はツキノワグマなんて一撃で倒せる武芸百般に秀でた人なんですよ」

ギョッとして後ろを振り返る。こんな冗談を言う人はこの世の中に一人しかいない。うん、居た居た杉山君だ。やがてその周りに石森氏と良介君も姿を現す。

「どうかしましたか?」係りの女性が尋ねる。

「いえ何だか知ってる人の声が聞こえたみたいで」慌てて多恵さん答える。

「ええ、誰か男の人の声が聞こえたようでした」彼女も頷いた。

多恵さん、驚いてまじまじと女性の顔を見つめる。

「あなたも見えたりして?」恐る恐る多恵さん切り出す。

少し彼女は微笑んだ。

「長くここの受付やってますが、霊の見える方とお会いできたのは初めてです。それに霊の団体さんを引き連れている方も勿論初めてです」

「ハハ、初めはこの人だけが知り合いだったんですよ。でもこの幽霊さん、とても人じゃない幽霊付き合いが良くて、どんどん仲間が増えて・・」

「それはあなたが屹度幽霊さんの心に響く物を持っていらしゃるからだと、わたしは思います」

「御明察。そうなんです、河原崎さんの言葉が迷えるわたし達、子羊たちに進むべき道を指し示してくれるんです。わたしの幽霊付き合いの良さだけではありません。ほら、女性たちも現われた。鳥やウサギは付録ですが」

「まあ本当。オカメインコですね、彼女らは」

「ええ、そうです。わたし何故かオカメインコが大好きなんです」藤子さん前よりグッと明るく元気良く話せるようになっている。着ている物も若々しく色彩も華やかで、その所為もあるかもしれないが。

「彼女、死んでも鬱病、引きずっていて、動物だけしか心の安寧を得られなかったんですが、ここにいるみんなで、彼女の心を救いたいと努力してここまで来たんです。ここにくれば鳥や動物たちも沢山居るので、若しかしたらもっと彼女の気持ちを和らげる事が出来るかも知れないと思うんですが」

多恵さん、霊が見える仲間、受け付けの女性に、ここに来たもう一つの目的を告げた。

「そうですね、もう30分もすれば、野鳥を見るツアーが始まりますので、それに参加、いえ、他の方には見えませんので同行させてもらったら如何でしょう」

「それが良いですね、わたしはこの鈴を付けさせてもらって、絵を描きに先に行くけど、後はどうするかみんなで決めて頂だい。でもここにいたら邪魔だから一先ず外に出ましょう。本当に何から何までお世話になりまして、ありがとうございました」

多恵さんと幽霊ご一行は受付さんに礼を述べ外に出た。

それから班分けする事に。でもそれは簡単に決まった。藤子さんと輝美さん、良介君。これは崩せないグループだ。杉山君は絶対に多恵さんに付いて行くと言い張るので石森氏も多恵さんと同行する事に。

ただ心配なので、時々藤子さんグループの様子は二人のうちどちらかが見に行く事にした。

「じゃあ、お先に失礼」と多恵さん達は藤子さんグループに別れを告げ、出発。

「良い天気だけど、ここは木が生い茂って余り日が差さず、安心して多恵さんの傍を歩けますね」

杉山君ウキウキ気分。石森氏は何やら考え中。

「彼ねえ、今コロナで店というか長野そのものの観光が青息吐息でしょう、どうすれば新しい顧客を呼ぶことが出来るか、真剣に悩んでいるんだ」

「そう、大変よねえ。わたし達、絵の仲間が贔屓にしてたお店も、もう少し様子見て、それでもお客が帰ってこないようだったら、閉めちゃおうかなって言ってるらしいわ。大きい店ほど大変らしわね」

「うん、小さな店なら手当てで十分やっていけるらしい。だから石森の奥さんの店も今の所大丈夫だけど

これからの事考えると、おちおちしてられないって訳」

「本当は今頃、日本はオリンピックで沸き立っていたはずよ。それを当て込んで投資した人も居たけど、ウーン彼等は一体どうするのかしら。確実に言える事は日本は益々不景気になる、そしたら絵を買ってくれる人が少なくなると云う事よ。ああ、我々貧乏画家は手当てもないし、誰も振り向いてくれない」

「それはそうですね、我々飲食店だけが保護下にあるのか。何でだろう、他の所も苦しいはずなのに」「まあ、それは飲食店にはお店開けてれば、人が沢山集まって、お酒が入れば大声で騒ぐ人も出てくるでしょう。そうするとウイルスが飛んで、コロナに罹る人がどっと増える。それが困るのよ、これは苦しい人の救済ではなく、お店を休ませる為の手当てなんだから」多恵さんが説明する。

三人は話をしながら森をドンドン進む。成る程ここは野鳥の森だ。色々な野鳥の声が響き渡る。

少し開けた所が有って多恵さん立ち止まる。

「ここから見た景色が好いわ、木には白い花も咲いてるし、地にはオレンジのツツジの花々。周りは木々の茂り。言う事無しだわ。ここで暫くスケッチするわね。あなたたちは悪いけど、向こうの連中がどうしてるか見てきて頂だい」

「藤子さん、少し気難しい人だから、輝美さんも良介も手を焼いているかも知れないなあ。一チョ手伝いに行ってやろうか、な、杉山」

石森氏は快諾して、ややしぶり気味の杉山君を急き立てて消え去った。

やっと開放されてスケッチブックに向かう。

本当にわたしは好天に恵まれているわ、と多恵さんは天に感謝しかない。角度を変えて2,3枚仕上げたが、あいつら中々戻ってこない。

ついでの写真も撮る。花はうんと近くに寄っても撮って置く。絵を描いてる時に、どんな考えが浮かぶか分らないからだ。

少し日が傾いてきた。ここは絵を切り上げて戻ることにしよう。多恵さん、荷物をまとめると何時ものように肩に担いでそこを後にする。

暫く行くと、兎の幽霊が跳ねて多恵さんの傍までやって来る。

「あらあら、兎さん、遊びに夢中になって、ご主人を見失ったのね。屹度あなたのご主人、泣いているわね。さあ、わたしと一緒に行きましょう」多恵さんが手を差し伸べると兎は喜んでやってきてその胸に抱かれた。兎も霊だけだから軽い軽い、当たり前だけど空気そのものだ。ひんやりはするけど、別に自殺した訳でもないし、この世に恨みが有る訳でもないので心地良いほどのひんやり感だ。

さて、早く彼女に知らせなくてはと、例の念力を働かす。

ダダダッと彼等が現れる。

「ミミちゃん、あなたの傍に居たんですね?」藤子さん泣きながら手を伸べて、ミミちゃんを抱き締め、

恨みがましい目で多恵さんを見た。

「あなたが屹度帰って来ると太鼓判を押したから、わたし、安心してみんなを放して上げたのに、インコは飛んでいくわ、ミミちゃんは行くえ不明」

「インコの方は予め少し空中で待機してたんで、これは簡単にセーブ出来たんですが、兎の方まで手が回らなくて。あと一人必要でしたね」と良介君。

「そうね、兎君の云う事には、ここがあんまり楽しくて夢中になって遊んでいたら、ついご主人を見失ってしまったそうです。とてもあなたに会いたかったそうです、御免なさいと謝っています」

「そうだろうな、初めてこんな世界があると知って嬉しかったに違いない。俺はミミの心が良く分るよ、それにこのインコたちの心も同じ。ねえ、藤子さん早く修行して、普通の霊になり、この子達のために天国に行ってやりなよ。そうすればこの子達もアンタも天国の庭で伸び伸び遊べるんだよ」

「そうですね、わたしのこのめそめそ性格を直して早く天国に行ってやらなくちゃこの子達が可哀想ですね」と言うと、又泣き出した。そこで一同、大きく溜息をついた。

まあその日一日、藤子さんに振り回され気味の幽霊一同様お疲れ様でしたと多恵さん、深くお礼を述べ、鈴を返しがてら、あの受付の女性にも感謝の意を伝えた。

 「さあ、わたしはこれから予約してる温泉旅館に行くわ。あなた達は好きなホテルを見つけて、好きなものを食べたり飲んだりすると良いわ。ここは美術館も色々有るし、アクセサリーや小物も沢山あるみたいだから、それらを楽しんでもいいわね。何しろあなた方は寝なくて良いんだし、通り抜け自由、料金フリー。楽しまなくちゃどうするのよ」

多恵さん、少々ガックリ、グッタリ気味の幽霊さん達を励ました。

「そ、そうですよね、俺達、楽しむ為に多恵さんの旅に付き合っているんだから、今夜も思いっきり楽しもう。あ、それから忘れていたけど、俺達結界が張れるんだから、ちびちゃん遊ばせる時は結界張ってから、遊ばせるようにしようぜ」杉山君が切り出す。

「そうか、そうだよね。女性軍はまだ力が弱くて無理だけど、僕達の結界力は大分強くなってるからこれからはばんばん使おう。杉山さんナイスアイデアです」良介君も大いに賛同。

「ようし、さあ、先ずは女性軍に嫌われないように若い時を思い出し、うんと洒落たホテルを見つけ出し、豪華な晩餐会を開こう。まあその後は皆好きな事をやれば良いさ」石森氏がまとめる。

多恵さんはそんな彼等に別れを告げて、旅館に引き返した。

 旅館に着くと温泉に入り、幽霊さんと過して冷えた体を温める。ついでに旅館の浴衣に着替えれば、ホッと一息、くつろぎのひと時が訪れる。

「これこれ、これが旅館の良い所よねえ。それにこのまま夕食にありつけるなんて最高」と多恵さん、大いに頷いた。

夕食も中々の物で、肉食あり、魚あり、新鮮な野菜もたっぷり。

夕食が終わると、何時ものように今日の水彩画やスケッチを点検する。雲場の池は思わぬ収穫だったと多恵さんは考える。あの池にはどうしても何か、中心となるものが欲しかった。それが寄り添う中年の夫婦

それがこの絵にはぴったりする。若いアベックじゃ駄目、お年を召されたアベックでも駄目。あの年頃の二人が一番似合っていると多恵さん大いに満足する。

 翌日も実に良く晴れていた。天気の神様に感謝しなくてはならない、と雨に祟られた友人達の話を思い出して、自分の幸運を喜ばずにはいられない。

このまま歩いて目的地に向かっても良いが、旅館の人の話を聴いて、一旦中軽井沢に戻り、荷物はロッカーに放り込み、自転車を借りて目的地に向かう事にした。

「行きは少々上り坂できついですが、帰りはその分楽ですよ」と旅館の人は言い、ついでに近道も教えてくれ、熊よけの大きな鈴も貸してくれた。何しろせせらぎの音が煩いらしく、熊さんには小さい鈴では聞き取り辛いらしい。帰りには立ち寄って返す事を約束しありがたくお借りした。

 鼻歌交じりで自転車を漕いで行く。段々勾配が上がっているらしく、ちょと辛い感じ。でもその位で音を上げる多恵さんではない。これも修行の内と思えば。全然平気、若しかしたら修行の内にも入っていないんじゃないかと思える。

大体、この道が実に素晴しい、暫く立ち止まってスケッチしたくなる位だ。まだ9時前なので、人通りも極めて少ないし、車も少ない。スイスイ道なりに暫く進んで行き、そこからメインの道路から外れ、近道の方に入ると、通る車も無くなり、如何にも別荘地帯を駆け抜けていく感じだ。

やがて一つ目の目印、セゾン美術館が見えてくる。そこからやや行くと脇のほうに広い開けた所が有り、

そこが林間駐車場だ。その片隅に自転車を止めて鍵をしっかり架けてから目的地、千ケ滝を目指す。先ずはそこに続くせせらぎの小道へ向かおう。勿論あの大きな鈴も腰にぶら下げた。それに道具箱の中には多恵さん用と熊さん用の(?)パンも入っている。

「マ、出来たらお会いしなくて済ませたいわね、熊さん、お互いの為にも。一応この日の為に、誰にも言ってないけど、この所合気道も習得したわ」

多恵さんの飲み込みが随分早いと褒めてくれた先生の優しい顔を思い浮かべて「ウン」と頷いた。

「さあ出発進行!」多恵さん自転車から道具一式を左肩へと移し変える。

「ハイ、今日も相変わらず元気ですね」

出た出た、そろそろお出ましかとは覚悟はしてたが、今日も多恵さん一人にはしてくれないらしい。

振り返れば杉山君、石森氏を先頭に、後ろは良介君輝美さん藤子さん(付録の兎とインコ2羽付き)がくっつくように立っている。

「今日は殆どこのせせらぎの森と、千ケ滝を描くのに宛てるわ。あなた方も適当にこの森を楽しむか、この近くにも色んな遊ぶ所や、ショッピングする所があるから、そこで時間を潰すと良いわ」

「藤子さん次第だな。その動物たちを遊ばせるには、ここは昨日のピッコロとか云う森と同じくらい緑が多くてこいつらを遊ばせるのには最高の場所だ。でも昨日の事があるから藤子さんは不安一杯だろう。だけど俺達が手伝えば結界だって、見張る事だって出来るから心配無用だぜ。まあその内、兎も鳥もどうしたら藤子さんを安心させながら遊ぶことが出来るか、分かるようになるだろうけど」と石森氏。

「そうだな、一先ずこのせせらぎ橋を渡って、河原崎さんに同行しよう。そうすれば自ずとどうすれば良いのか分かってくるさ」杉山君。

「ではそう云う事で良いですね、藤子さん」良介君が優しく尋ねる。

「ね、そうしましょう、藤子さん」輝美さんももっと優しく声をかける。

「済みません、皆さんに迷惑かけて、こんなんじゃ普通の霊にもなれないわ、如何すれば良いのかしら」

又泣き出しそうだ。

「あなたがもっと前向きに考えればいいのよ。動物たちはあなたが大好きなんだから、少しの間、行方不明になってもいずれ帰って来ると、でんと構えていて御覧なさい。それからも少し笑って欲しいな。微笑むだけでも気分は明るくなって、普通の霊に近づくと思う」多恵さんが答える。

「そ、それが出来ないから死んじゃったんです。生きてる時、ある先生に言われたんです、楽しいから笑うんじゃない、笑うから楽しいんだ。鏡を見て自分に微笑んで見る。それを繰り返せば、あなたも笑えるようになるって。でも楽しくも無いのにわたし、全然笑えませんし、笑いたくもありません」

みんな、大きな溜息をつく。

「でも、動物たちといる時は楽しかったんでしょう?その時を思い出すのよ、ピーちゃんやチーちゃんに始めてあった時、あなたは屹度笑っていたはずよ」

「多分その時は笑っていたと思います。でもその後、この子達を辛い目に合わせてばかり。だから、思い出すのはそういったことばかりなんです」

「でもそのことは、今この子達の姿を見れば、全く気にしてない様子だわ」

みんな頷く。

「この子達はあなたと会った、あなたが飼ってくれた、そのことを感謝してるの。だからあなたはでんと構えていいのよ、この子達はあなたが大好きであなたのそばが大好きだから、少しの間離れていても、必ず戻ってくるわ。だってこの子達、他に行く所はないんだから」

「はい、少しだけ、少しだけ分ったような気がします」

「ほら、も少し笑顔でピーちゃん達を見てやって頂だい。そしたらこの子達もっとあなたが好きになる」

「初めて会ったときのように優しく微笑んであげて」と輝美さんも一緒にはげます。

橋を渡るとややなだらかな山道だ。そこを過ぎるとゆるい傾斜の坂道になる。

春が来るのが遅い所為か、木々はまだ若葉が多く、その下を行く多恵さんにはまるで黄緑色のシャワーを浴びているような感じに捕らわれる。岩間を流れる所謂せせらぎは実に透明で下の砂や小石、そこを泳ぐ小魚が良く見える。聞こえる音色も爽やかだ。岩の上には芹だろうか、真っ白い花が群がって咲いているのも目に飛び込んでくる。これには多恵さんも感動を覚え、スケッチを手短に、2,3枚ほど仕上げる。

暫く行くと、水音が急に強く大きく成って来た。向こうの方に滝のようなものが見える。下の方は浅くて広い水辺になっていて、暑い盛りには屹度ここに来たハイキング客を大いに喜ばす事だろう。

この滝のようなものは、滝ではなく人工的に作られたもので、災害防止の為の砂防ダムと言う物らしい。

たとえそれが人工的なものであっても、その周りの景色とマッチしていて、多恵さんの絵心を擽る。傍らにはおあつらえ向きに東屋もあるじゃないか。

今日の本格的スケッチの一枚目に取りかかろう。

東屋に辿り着くと、川の方からきゃあきゃあと言う声が聞こえる。どうやら我々より(と言っても他の人達には多恵さん一人しか見えないが)先客が居たようだと多恵さんスケッチブックを取り出しながら、そっちの方に目をやる。

犬も2匹いる。それに真ん中に居るのは2,3歳くらいの幼児、男の子。どう見ても子連れの若夫婦だ。

「川での水遊びかあ」

多恵さん、水遊びの好きな弟のエピソードを思い出していた。

まだ彼が1歳にもならない頃、父の会社の盆休みを利用して、秩父の長瀞に家族旅行に出かけた。出かけたまでは良かったが、この弟、猛烈な雨男。何しろ辰年生まれ、それにまつわる話にはいとまは無いが、これはその始まりと言って良いかも知れない。大体行く時から空は渋り勝ち。それでも一日目は何とか過せたが、翌日は本格的な雨。しかも8月にしては少々冷たい雨だった。2日目は川遊びをしようと言う計画だったが、川辺に着いた時にはかなりの本格的雨になってしまった。

「こりゃ川遊びは止めて、他の所へ行こう」と父が行った。でも弟は何故か水に入るのが大好きだった。

だから弟はそれを聞いてめそめそ泣き出した。後から母から聞いた話では(まだその時母は漢方学を知らなかった)肺系の弱い子は泣き虫が多いそうだ。

仕方なく父と母は本の数分だけ弟を水遊びさせることにした。弟は普段でも可愛い顔を(多恵さんは当時それを嫉妬していた)より一層輝かせ実に嬉しそうに手を挙げ、体一杯表現して見せた。

しかしそれが仇となり、秩父から帰って来るなり、それはそれは酷い喘息になり、入院した4階建ての病院中にその喘鳴音が響き渡るようだったと、多恵さんの母はそこの看護師さん達から聞かされた。

母が丁度店を開いたばかりの頃で、そのことが父が会社を辞める口実となり、先ずは安売り店としての薬屋をスタートさせる原点になったのだ。

「あなた達、わたしここで暫くスケッチするから、何処でも好きな所に行くか、遊んでいて頂だい」

多恵さんはそう言って、スケッチブックを取り出し色鉛筆も取り揃えスケッチを始めた。

「僕、こういった水面見てると昔石を投げて、水切りしたのを思い出すなあ。ここいらには適当な石も沢山有るみたいだし」良介君。

「おう、俺も良くやったよ。俺、上手いよ、何しろズーッと野球部でピッチャーやってたから、投げるのはそこいらの者には負けないはずだ」杉山君。

「ふふん、それは会社入る前の話だろう。俺は死ぬ直前まで蕎麦打ちしてたからな、そこそこ負けないと思うよ」石森氏。

「じゃあ一つ、勝負しましょうか?ゴルフは出来なかったし、やりましょうよ、ここは木が有って日陰になってるから安心して出来ますよ」

良介君の提案に後の二人の男性幽霊君も乗り乗りだ。

男性諸君、手ごろな石探し。どうやら見つかったらしい。幻の石を拾い先ずは良介君が投げる。

水面に幻の水輪が!幻ではない本物の水輪がぴょんぴょんと四個出来た。

「ワー凄い、良介君凄いわ」輝美さんが歓声を上げる。

「本と、凄いですね。わたしの父が何回も挑戦して、最高3回、水輪が出来たのを思い出したわ」

珍しく藤子さんも喜んでいる。

「ウーン、良介、中々やるな。よし俺も、石森さんに腕が衰えたなんて言われて、引き下がっていられない」杉山君、発奮する。

「あー、惜しい。3回だったわ」輝美さんの声。

「次は俺様だ、死んでも蕎麦打ちやってる毎日、二人には負けないぞ」石森氏の声。

彼、今も蕎麦打ちやってるのか?と多恵さん思う。

「あ、ヤッパリ4回でしたね。もう1回やりましょう!」

「やろうやろう。負けたままでは終わらせない」

「ハハハ、このまま負け続けたら永遠に終わらない」

「わたし達、あのダムの上まで行って見ましょうか?少し日が差しているけど木陰の方を飛んでいけば、大丈夫よ」輝美さんが藤子さんを誘っている。

「わたし、まだ上手に飛べないの」藤子さん。

「大丈夫よ、直ぐ慣れるわ。飛べるのが上手くなれば、あなたのインコちゃん達と一緒に成って飛んで遊べるのよ。素敵な事だと思わない?」

「えっ本当ですか?じゃあ頑張ってみます」藤子さん挑戦するようだ。

多恵さんはスケッチの手を休め、二人の女性群の姿を追った。輝美さんに手を取られながら、それでもこわごわと浮遊して行く藤子さん。片手にはしっかり兎を抱き締めているが、鳥たちは主人を励ますように彼女の周りを囀り飛び回っている。

良かった、これで少しは彼女に楽しみが出来たわ、と多恵さんまた絵の世界へと戻って行く。

若夫婦の奥方らしき女性が、多恵さんに気付いて東屋の方へ登ってくる。

「こんにちは!」女性が声をかけてきた。

「こんにちは、この近くにお住まいですか」多恵さんも挨拶をかえす。

「ええ、この近くに父の別荘がありまして」

「まあ、羨ましい。こんな素敵な所に別荘があるなんて」

「そう思うでしょう。でも実際に別荘を持つとなると、とても大変なんです。ま、お金持ちの人は良いですよ、管理人を雇えば、彼等が居ない間の家の細々した事一切合財やって呉れますから。そうは行かない我々のような身の丈のあってない者は苦労続きです。冬場近く遊びに来て、ついうっかり、ボイラーの水を抜かないで帰ろうものなら、春は水漏れの季節となってしまいます」

「ハハハ、聞いた事あります。ご主人が来た後、奥さんが来て湯沸しの水を完全に抜かないで帰って、大変だったなんて。でもいいなあ、この景色、何処を切り取っても絵になるんだもん」

「絵描きさんなんですね。わたしの主人は・・売れない作家、だから今も会社勤め、製薬会社に勤めています」

「まあそうですか。実はわたしの母が薬剤師で、色々有りましたが、今は漢方専門の薬屋です」

「ええっ、偶然ですね。でも内のは普通の製薬会社、わたしも働いていました。半分夫の夢を追う心に引かれて結婚しましたが、中々芽が出ません」

「それはわたしも同じ。少ない顧客を大切にするしかありません。で、今日はおやすみ?」

「はい、有給使って時々別荘を見に来てるんですよ。まあ管理人みたいな者ですね、早い話が」

「所で、入り口の所にアケビの花、もしくはアケビがなっている別荘ご存知ありません?わたしの恩師に当る、結構有名な画家で高田先生と言って、去年お亡くなりになったんだけど、まだ別荘は残っていると聞いているわ」

「アケビ、アケビねえ」

「紫の小さな花らしいわ。実は売ってる物は結構大きいけど、手入れもされていないから、精々拳くらいの大きさかしら、色は矢張り薄紫をしてるわ」

「そうですねえ、薄紫で拳くらい・・・ああ、子供の頃、見ましたよ。秋だったと思うけど、何かの連休を利用してここに来てた時、父と散歩してたら、入り口の所に実が成っていたわ。あれは何?て父に聞いたら、植物に全く関心のない父はじっと暫く眺めていたけど、何だろう?まあ植えてある所を見ると毒性の物ではないようだ、と言ってそのまま。帰って母に聞いたら、それは多分アケビだわと教えてもらったわ」

「ハハハ、紫がかってひょろ長く割れていたりすれば、少し気味が悪いと思わないでもないですよ。わたしの母が小さい頃、鹿児島のそれこそ小さな村に住んでいたの。そこはわたしの祖父の実家で、母がお中にいたもので、一時的にそこへ疎開してたのよ。祖母は海軍の将校だった夫が戦争が終わっても中々帰って来ないので、仕方なくその小さな村に遣ってきたの。母は田舎暮らしを全く経験したことが無くて苦労したらしいわ。ただミシンを持っていたからそれで家計を支えて子供3人を育てていたと聞いているわ。田舎だし、終戦で大体日本中に物がない時代、1,2歳が口にするものは、食事以外何にも無くて、何でも生糸を取る為、蚕を茹でる、その時、中に居るさなぎも一緒に茹で上がる、それを母は美味しい、美味しいと言って食べたらしいの。今でも母はその味を覚えているらしいわ。それより少し大きい子は走り回って、そこいらに生い茂る草木の実を食べる。祖父の家は庄屋みたいな所で、祖母たちはその隅っこの隠居している曾祖父母の家のほうに暮らしていたの、祖父は曾祖父の12人兄弟の一番末っ子で、長兄の息子みたいなものだったらしいわ。大きな家のほうにはその長兄夫婦とその子供たちが沢山暮らしていて、長兄のその長男は祖父と年が変らないのよ。その長男には母と同じ年の男の子と母より年上の女の子が二人居たの。勿論、長男の下にも何人かの未婚の男女が4人ばかり住んでいたとか。何だかこの家族構成、今のわたし達が聞くと頭の中が混乱しそうね。でももう少しでアケビに行着くから辛抱して聞いてくださいな。そんな毎日を送っていたある日、夜か夕方か、そんなに遅い時間ではないと思う。何しろ母が1,2歳の頃だもの、そんなにはっきりとは分らない、それに相手は野良仕事(多分)の帰りだから。夕刻遅く、どんどんという木の戸を叩く音。祖母が玄関と言うか土間と言うべきか、引き戸を開けると一人の男性。あら何々さん、どうしたのと祖母が言ってる。その男の人がこれ山で見つけたんだ、これ由美に食べさせてくれと男性は言ってる。祖母はでも、向こうにも子供が居るじゃないの、由美に貰っていいのかしらと祖母はは一旦断った。今考えてみたら、本家に持って帰っても小さい子が三人居て、誰に上げようか迷ってしまう、ここには小さい子は母一人、上の兄たちは年が十ばかり離れているから、妹思いの彼等にはチャンと理解できるだろうと、彼は思ったのね。そう云う訳でアケビは母の元へ。だから母は果物の中で一番好きな物はと聞かれれば、アケビと答える。でも実際にはその時以来、アケビを実際に見たことは殆ど無く、よって口にした事は無いの。屹度あの時食べた、味わったアケビの紫の感動の思い出が母のアケビなんだと思うわ。でもその所為か、紫繋がりとつる性繋がりで葡萄は本当に好きなんだなあ」

「そうですか、アケビにまつわる話。感動的ですね、何にも無かった時代、屹度美味しかったに違いありません。だからそんな小さいときの話、覚えていらしゃるんですねえ。わたし、1,2歳の頃のこと、何にも覚えていませんもの。そうそう、その家大体分ります。ええっと」

「はい紙と鉛筆。お願いします。教授から話を聞いた時、母の話を思い出したんですが、伺う機会が無いまま、教授は亡くなられてしまって。せめて家の前まで行けたらとても嬉しいわ。先生はそのアケビの花が大好きだと言われて、何枚も絵を描かれていました。紫と白い花、2種類あるのが自慢の種でした。実の方も数枚は有ったと思いますが、これは両方とも紫なんですって」」

彼女が書いてくれた地図は極めて分りやすかった。

「ありがとうございます。今日の帰りに寄ってみます。楽しみだわ、運が良ければ花が見られるかも知れない?若しかしたら花はもっと早い時期なのかしら」

「そうですね、そうだと良いですね、ここいらは春の訪れが遅いから若しかしたら咲いてるかも知れないわ。そしたらそれは神様のお引き合わせかも知れない。それとも亡くなられた先生の御引き合わせかも知れないですね」

「とっても素敵な響き。咲いていても咲いていなくとも、先生の別荘の前にお邪魔したいわ。先生を思い出させて頂いて本当に素敵な出会いをありがとう御座います」

そう言うと描き終えたばかりの水辺で犬たちと戯れる男の子のスケッチを彼女に渡した。

「ええっ、こ、これをわたしに下さるんですか。こんなに素晴しい絵、ただで貰う訳には行きません」

「いいえどうぞ貰って下さい。出来たら別荘の一番良い所に飾ってもらえたら嬉しいな」

「ええそれは勿論そうします。でも・・あ、今日は無理かも知れませんが、こんなコロナの世の中です。ご連絡いただければ何時でもスケッチしに来て、泊まるなりしていって下さい。ええっとここの所に私共の住所と、電話はわたしの携帯を書いて置きましたので。どうか、是非そうして下されば、わたし達喜んでこの絵を受け取れますので」

子供と犬を引き連れて彼女の夫もやって来た。

「あなた見て、素敵な絵よ。あなたや健一が水遊びしてしている時の」

「どれどれ、あっ、こりゃ凄い。健一の良い思い出になる絵だな。ほら健一と言っても、まだ健一は小さくて良く分らないか」

一応健一と言われた子は絵を覗き込んだ。でも矢張り興味を覚えないみたいで、又直ぐに犬達と遊び始めた。

妻は今までの事をざっと掻い摘んで話して聞かせた。

「それではこの絵を頂けるんですか。こりゃ嬉しいな、早速家に帰ったら居間の壁のど真ん中に飾ろう。ああ、その別荘ですね、わたしも知ってますよ、アケビ、アケビもなってるのを見たことあるし、花も咲いてるのを見ましたよ。花は・・あれはゴールデンウイークが終わった頃、様子を見に来た時見かけました。紫と白いのが入り乱れて、とても綺麗でしたよ」

そうか花は5月に咲くのか。でも花が咲いてなくとも小さな実は成ってるだろう。是非、ここのスケッチが終わったら、帰りに行ってアケビの絡む門前に立ち、ご無沙汰の許しを乞おう。

夫婦に別れを告げ、又緩やかに続く長い木で区切られた柔らかな小道に向かう事にした。ちょっとだけ杉山君に合図を送る。

「はい、はい。お話が弾んだようですね。女性郡も直ぐやって来ますよ」

「別に行動を共にしなくてもいいけど、まあ今の所パーテイーを組んでる仲間だから黙って行く訳には、行かないでしょう」

「はい、勿論そう言う訳には行きません。われらは同士です。いや、河原崎さんを幽霊の師と仰ぐ同士です。正しい幽霊はどう生きる、そうじゃない、もう死んでるんですから、正しい幽霊の身の処し方を学ぶと言うか、遊ぶと言うか、まあ心を鍛錬すると言っちゃあ大袈裟かなあ、まあそう云った者達の集まりですよねえ」

「まるでもうわたしまでもが幽霊になってるみたいだわ、そう言われると」

「まあ良いじゃありませんか。俺達仲間、みんな安らかな心になって、早く成仏するか、愛する人の為守護霊になるか、そのための集まり。だから中々それから抜け出られない仲間が居たら、手を差し伸べて助けたり協力する。ねえ、良い心がけでしょう。俺、そろそろ守護霊になれるかな」

「おいおい、一人で勝手に守護霊になっちゃうのか。お前がもう守護霊なら、俺様はとっくの前に守護霊だよ。何しろ恋敵をコッソリ助けているんだから」石森氏が割って入る。

「な、何が守護霊なんですか」良介君が女性郡を連れて現われる。

「いいえ、気の早い話をしてただけ。早く守護霊になって奥さんの元に行きたいって」多恵さん。

「え、杉山さん、奥さんの下に帰りたいなら、今直ぐにでも帰れるわ。若しお嬢さんが怖いなら、わたしが事情を話してあげても良いわ」輝美さんが申し出る。

「い、良いよ、本の冗談。俺、今のこの状態が最高なんだ。結構幽霊仲間にも慕われてるしな、旨い物も旨い酒も食べ放題、飲み放題。誰にも迷惑かけてないし、文句も言われない」杉山君、慌てて断る。

「そうだな、俺達食い意地張ってるし、飲ん兵衛だから守護霊にはなれないし、半分成りたくない」

石森氏、空を見てしみじみ呟いた。

「わたしは美味しいものを食べたり飲んだりするのは楽しいわ、でも守護霊の方がずっと魅力的だわ」

「ぼ、僕も守護霊のほうが良いです。でも、こうしてみんなと話したり、旅行したりするのって・・とても楽しくて魅力的です。さっきの水切りだってなんとも言えずワクワクして、子供の頃に戻ったみたいだった」輝美さんと良介君。

「わ、わたし、守護霊よりも早く成仏してこの子達と一緒に夫を待ちます。でも中々難しいのでしょうねえ、どの位かかるのでしょう」藤子さんが尋ねる。

「あなたがもっともっと明るくなって、前向きに何でも考えられるようになったら、屹度あなたの望む世界に行けると思うわ」多恵さん。

「藤子さん、今日空中飛んだでしょう。空中でピーちゃんやチーちゃんと遊べて、それが良かったらしく前より随分明るくなったわ。声を挙げて笑うの初めて聞いたわ」輝美さんが明かした。

「まあ、そうだったの。ウン、前より顔色が明るくなったようだわ。もう少しよ、他にも楽しい事、面白い事見つけて笑い顔、増やして行くのね.楽しみにしてるわ」

「わたし、今度イザナギに帰ったら公園でこの子達と一緒に公園で遊びます。夫もあの公園には毎日の様に行ってますから、わたしとこの子達三人、それにあの人、幻のような物ですが、5人揃います。あの人は気づきはしないでしょうが、それでも傍に居てくれるって事が幸せに感じられるでしょうね」

藤子さんの顔が輝く。屹度彼女はご主人を深く愛していたに違いない。それなのに自殺した。その訳は誰にも分からない、若しかしたら彼女自身にも良く分からないのではないか?生きる目標を失い、何もかもに喜びも楽しさも感じられなくて、体も心も重く、死んだらせめてこの重苦しさから逃れられるかと、残される者達の戸惑いと悲哀など良く考える事無く、死と言うものを選んでしまったに違いない。

あの公園で出会った彼女の夫の人の良さそうな、穏やかな顔を思い出す。そう、彼女もかなりの美形だけど、彼も若い時はすらりとしたスタイルでハンサムだったに違いない。美男美女の心優しい夫婦だったろう。彼女は今、それを思い出しているのかも知れない。

もう少しもう少しだわと多恵さんは思う。彼女は昔、もっと笑いに満ちた世界があったと云う事を思い出すだろう。そうすれば、もっと前向きの彼女になれるだろうと。

緩やかな階段を登っていく。片側は崖になり、下の谷川の渓流の様子が良く分る。腰につけた大きな鈴の音がジャラジャラと響き渡る。

「大きな鈴ですねえ」と杉山君が驚いたように呟く。

「ええ、このくらい大きくなくてはせせらぎの音が煩くて熊さんの耳には届かないらしいの」

「熊ぐらいなら、俺達で追っ払ってやったのに」

多恵さん笑う。

「まさか、幽霊のお供が付いてますからなんて言えないでしょう。旅館の人吃驚してひっくり返るわよ」

「ウーン、そうか。折角お役に立てると思ったのに」杉山君少し不満げ。

木橋を渡ると山道はややなだらかになり、そこからしっかりした木の枠組みで作られた手摺りのある木道を辿れば、目の前に今日の一番の目的である千ケ滝が現われる。

「ワアー凄いなあ」「綺麗だわ」「この間の那智の滝とはスケールが違うけど、これはこれで圧倒されるよ」「「僕この滝のほうが性格的には好きかも。誰でも受け入れてくれる感じが」幽霊さん達がてんでに滝の感想を述べる。

「この所の雨で水量が多いから、迫力満点だわ」多恵さんも十分に満足。

早速スケッチの準備に取りかかる。

「ウーン、横描きか、縦描きか迷うな。下の方まで十分しっかり流れ落ちてるから、これを描き込まなければ今の時期に来た甲斐が無い。そうだ、始めは縦描きで3,4枚描いてみて、次に横描きにしよう」

幽霊さん達は勝手にふわふわと滝の傍に行ったり、滝壺の下の方まで降りて入ったりしてる。

「あいつら、ヤッパリと言うか今ほど物凄く羨ましいと感じたことは無いぞよ」

多恵さんスケッチしながら呟いた。

1,2枚描いてると自分が凄くお中が空いているのに気付いた。バックの中から熊さん用と自分用に持ってきたサンドイッチや菓子パンを取り出す。

「熊さんには悪いけど後々の為、ここは人間様だけが頂くのが作法という物よ。熊さんがサンドやジャムパンの味を覚えたら大変だもの」多恵さん、サンドイッチ一袋とジャムパン、チョコパン、クリームパン

まで頂いた。朝食から時間が経っていたし、自転車や山歩きで相当エネルギーを使ったから、これでも足りないくらいだが、母に一度に沢山詰め込むと、体に悪いと言われているので我慢した。水筒に入れてきた紅茶もがぶがぶ飲む。

でも今回は何も言わなくても、藤子さんもみんなと一緒に行動してる。しかも楽しそうだ。もう鳥達は肩に止まらせなくても、彼女の傍を浮遊していて全然大丈夫に成っている。

「本とに彼女あと一息だわ、ウーン、でも何か足りない。何だろう?」

気を取り直して又絵と格闘する事に。

「滝壺の所に降りていったら、もっと迫力のある絵が描けるだろうな」多恵さん呟く。

「はい、待ってましたよ河原崎画伯。その道までご案内いたします」

「え、あら本当、ありがとう。ちょっとここ片付けたら直ぐ行くわ」

何時戻って来たかは知らないが、ここは杉山君の申し出に乗ろうと、そこいらの物をバックに入れられるものは全部入れ、残りの物も一まとめにして肩に担いで彼の後ろに従った。

木道を少しひき戻り、木枠の外れた辺りに下へ降りる細くて急斜面の獣道みたいのを下る。

「足元、気をつけて下さい。ぬるぬるして滑りやすいですよ、俺達幽霊には何にも障りはないけども」

そんな杉山君の憎まれ口を聞きながら一歩一歩下へ下る。

着いた。うん、水音も凄いが、水しぶきも凄い。

「わあ、迫力満点。マイナスイオンも満点。ここならすっごい絵が描けるわよ、杉山君」

「ヘヘヘ、俺もそう思ったんだ。何しろ俺の奥さんも画家だからなあ」

「あら、杉山さんて奥さんいらしたの。それも河原崎さんと同じ画家の」藤子さんが尋ねる。

「そうなんですよ、お嬢さんもいらしゃるんです」

幽霊さん達が二人の下に集まって来た。

「そうなのよ、でも生前、彼は河原崎さんを凄く好きだったけど、裏切って他の人と結婚しちゃったの」

輝美さんが話す。

「裏切っちゃあ居ないですよ、彼女が振り向いてくれなかったから、他の人と結婚したんですよ」

杉山君、必死に弁解。

「でも、杉山さん、河原崎さんに何時までも待つよ、君が僕と結婚しても良いと思ったら言って、それまでズーと待つよって言ったんだ」良介君が続ける。

「だから、それは、うちの奥さんが死ぬほどの病気になって、周りのみんなから俺が原因だって攻められて、結婚せざるを得なかったんだよ」杉山君弁解を続ける。

「だからこうやって、無事に死んでから、彼女に付きまとってるんだ」石森氏が止めを刺す。

「付きまとってるなんて。でも付きまとってるのか。でも少しは役に立ってると思うんだけど、ねえ河原崎さん」

「そうねえ、少しはね。今みたいに」

「ほうら、彼女もそう言ってる」

みんなが笑う、藤子さんも笑う。

「でもわたしは彼が立派な守護霊になって、奥さんの元に帰る日を待ち望んでいるのよ。本当に、心から」

多恵さんは笑っては居ない。彼の妻幸恵さんのことを思うと、心が痛む。早く彼女の元へ帰って欲しい、彼女の優しい愛に気付いて欲しい。どんなに彼が多恵さんの役に立とうとも、否、役に立てば立つほど。

「さあ、気を取り直して、滝のスケッチ描こうかな。この迫力、頂きます」

再びスケッチブックと色鉛筆を取り出し、一番迫力を感じる所に陣取る。

みんなが多恵さんの周り集まり、絵を覗き込む。

「素晴しいわ、本とに滝の音が聞こえて来そう」

初めてきちんと多恵さんの絵を見て、感動して藤子さんが叫ぶ。

「わたし、彼女に絵を描いてもらったのよ。わたしの両親が依頼したの。勿論生前のわたしの絵だけどモデルになれって言われて、暗い顔したわたしを明るくしてくれたり、運動させたり、アレコレ手を焼いてくれたの。お陰で夫に対する恨みも半減したし、彼等とも友達になれたのよ」

「特に良介とは仲良くなって、俺、ほったらかし」杉山君が口を挟む。

「僕は杉山さんをほったらかしにはしていませんよ。失恋して絶望し悲しみの泥沼に落ち込んでいた僕を助け出してくれた杉山さんをほったらかしにする訳が無い。何時も尊敬し頼るべき人だと思ったいるんです」

「俺もありがたいと思っているんだ。死んでも妻の浮気と浮気相手が許せなくって、酒びたりの日々を送っていた俺に声かけてくれて、河原崎さんに引き合わせてくれたんだから」

多恵さん、滝の絵を描きながら列車「あすさ」で初めて会った3人の幽霊君達のことを思い出していた。

「皆さん、生前に色々苦労がおありだったんですねえ」藤子さんが溜息混じりに言う。

「そうだよ、だから成仏できないでいるんじゃないか」石森氏。

「アンタなんか、本当は優しい旦那に恵まれて、家も新しい家が出来上がり幸せの真っ只中にいても良かったはずなのに、どうして人生に絶望して、よりによって鉄道自殺なんかやるかねえ」石森氏続ける。

「分りません、ただ何もかも面白くなくて、不安で、体も泥沼に引きずり込まれるみたいで・・わたしだってその理由を知りたいくらいです」藤子さんの泣き声。

ああ、あ、又、元の藤子さんにもどちゃった。その藤子さんを慰めるかのように2羽のインコが周りを飛び交い、美しい声で歌って慰める。

「いいのよ、誰だってふと死にたくなる衝動に襲われることがあるわ。こうして死後もあなたを慕ってくれるもの達がいるんですもの、何とか早く明るい藤子さんになってみんなで楽園に行きましょう、そこで優しいご主人が来るのを待つんでしょう」輝美さんが慰める。

「ええ、そうでした。わたし、泣かない努力をしないといけないわ。みんなは生前悲しい目にあったり、辛い目、酷い目にあったというのに今は穏やかで明るいんですもの、わたしはその万分の一も辛い目にあっていないんだから、もっと、もっと明るくしてないといけないんだ。御免ねみんな」

やっと藤子さんの気分が収まったので、幽霊さん達は滝をよじ登ったり、はたまた滑り降りたりと遊び始めた。

多恵さんはスケッチを仕上げていく。

その時、ふっと後ろに人の気配を感じて振り向くと30か40歳くらいの男性。

「絵を描きにいらしたのですか・」

「ええ、絵描きなもんで」

「へええ、上手いですね」

何やらこの男、危険な匂いがする。多恵さん心の中で身構える。

「ここいら熊が出没するらしいですよ。それに幽霊もね」多恵さん、男性に一応警告する。

「え、熊となんですって」男が近づいてくる。

多恵さん、近くに居た杉山君に目配せした。こんな男の一人や二人、多恵さんの腕で組み伏せられるだろうが、手荒なまねはしたくは無い。ここは幽霊さんの力を借りよう。

「幽霊ですよ、幽霊。ほらあなたの傍にもう来てるわ」

男はふふっと笑った。

「そんなんで俺様が引き下がると思ったらチャンチャラおかしいぜ、大体女一人でこんな所に来るのが間違ってるんだ。冗談は止めて大人しくしろ」

男の手が多恵さん目掛けて伸びてくる。杉山君は傍観する気だ。と思う間も無く、習いたての合気道でその男を投げ飛ばしていた。

「アイテテテ。畜生、女だと油断したのが間違いの元だ。今度はそうは行かないぞ」

男は性懲りも無く又多恵さんに襲い掛かってくる。

又投げ飛ばされた。

「あなたねえ、何回やっても同じよ。それにここに来る人達の迷惑も良いとこだわ。一回なら兎も角2回も襲うとは、許せないわ。警察に連れて行きたいとこだけどわたしはこれから行かなきゃならないところが有るの。幽霊さんに小さな結果を作ってもらって、警察の人が来たら、あなたの罪を一切合財白状し、罪に服しなさい」

「結界?」男は腰を擦り擦り尋ねる。

「そうよ、結界。所謂お坊さんなんかが張る結界とは反対の幽霊さんが張るものなのよ。だからすこし寒いかも知れないけどわたしに手を出した罰だと思ってね。あなたが正直に言わない限り決壊は解けないから、なるべく早く泥を全部吐くことね、これまで何人もの女性を泣かせたり傷つけてきたんでしょう?幽霊さん達にはみんな分っていると思うわ」

石森氏も良介君もやって来た。

「悪い奴を又捕まえたんですね。武勇伝は聞いてはいましたがね、実は目の前で見るのは初めてなもんで傍観してたんです」杉山君。

「おやこいつトンずらしようとしてるな」石森氏。

「早く、結界に閉じ込めましょう」良介君。

「そう、でも一応手だけでも縛らないと格好つかないわね。何か紐のようなものは無いかしら?」

「はいそこいらのつる性の物で適当に縛ってください。俺達がそれを固く補強しますから、ハハハ」

一応男が逃げないように結界内に閉じ込めると、蔓のような植物を探す。

「有ったわ、藪倒しのような柔らかい雑草でも良いのかしら」

「結構結構、十分だよ。ええっと幽霊念力で。おーい、石森さーん、ちょっと力を貸してくれ、この草を強くしたいから」

「あいよ、じゃ良いか、せーのエイ!」

「はい、これで白状しない限り切れもしないし、解けもしない」

多恵さんは念力のかかった蔓で結界の中でバタバタ暴れている男の手首を縛る。

「可哀想だから少しゆるめに縛ってあげるけど、あなたが今までしてきた悪事を思い出せるだけ、警察の人に言わない限りこの紐は切れないし解けないのよ。警察の人が来たらそう云うの、分った」

男は未だ理解していないようだが、いずれ何となく分るだろう。

携帯で警察に連絡する。

警察の方も理解不能だったが、兎も角多恵さんの住所や連絡先を言って、男が少し可哀想だから早く来てやってくれと頼み、自分は用が有って行かなくちゃならないから後は宜しくと電話を切った。

「じゃ、警察の人が来るまで適当に遊びながら彼を見てて頂だい。警察の人が来たら結界も外さなくちゃいけないし」

「後は任せてくれ、俺達が適当にやってやるさ。先生の別荘にも行くんだろう」

「それからお土産も買わなきゃいけないし」多恵さん。

「じゃあうちの子達にも何かお土産、お願い」輝美さん。

「勿論よ。もう大体決めてあるの、あなたのご両親にもね」多恵さん応じる。

念の為の写真を4,5枚撮ると荷物をまとめ多恵さんは千ケ滝を後にした。

途中で警察の人に出会ったが、ご苦労様と会釈をしてすれ違った。

自転車置き場に戻り、荷物を放り込むとここからそれ程遠くない先生の別荘を目指す。例の裏通りから更に入り込んだ所、周りの別荘も先生の別荘も誰も居ないらしくヒッソリしてる。

アケビだ、母の思い出が詰まったアケビに違いない。未だとても小さくてハッキリとは判らないが多分これに違いない。

良く見ると!花が紫の花が、ああ、白い花も、2,3ケ箇所咲いているではないか!狂い咲きだろうが、何と云う幸運。

「どうだね、河原崎君。君もこの花、気に入ったかね」先生の声がする。

後ろを振り向くと高田先生のにこやかな顔。

「ええ、とても。沢山咲いてる時に来て、是非描きたいと思います」

「君が来てくれる様な気がしてアケビに念じて咲かせてやったんだ」

「ええっ、先生、そんなことお出来になるんですか?」

多恵さん吃驚して先生の霊の顔を眺める。

「ハハハ、まさかね。そんな事出来たらもっと景気良く。ぱっと咲かせるさ」

「そうでしょうね、吃驚しました。そんな事出来たら、ついでに熟成した実も2つ3つ、欲しかったですと言いたかったんですが」

「おや、君、アケビ好きなのかい?」

「いえ、わたしは食べた事ないですが、わたしの母が戦後の何も無い時代に、親戚のおじさんに貰ったアケビの実の思い入れが強い物ですから」

「そうだったのか。生きてる時に聞いていたならば、2つ3つと言わず、他ならぬ河原崎君だもの、10個ばかり持って来てあげたのに。何にも言わないから」

「周りに他の学生も居たから言えなかったんです」

「そうか、君は目立つ存在だったからなあ。あそこで言って、わたしが君だけに持っていったら何と言われるか、ハハハ。わたしは構わないけどさ、君には大迷惑だ」

「いえ、多分先生のことだから他の学生の分も持って来られるでしょうから、言わなかったんです」

「成る程、君は思慮深いんだね。所で今日は良い絵が描けたかな?腕も随分上がったようじゃないか、楽しみにしてるんだ」

「先生、わたしの画を見て下さってるんですか?嬉しいな、もっと頑張って良い画を描かなくちゃいけないわ。先生の弟子と言う名を汚さないように」

「君は立派にやってるよ。ま、絵描きの名が売れるのは運に左右されるからね、それに捕らわれる事無く

自分の描きたいように描く、それで世間が振り向いてくれなくても、それで良いんだよ。決して世間が求めている物に迎合してはいけないよ」

「はい先生、肝に銘じて」

「じゃ、そろそろわたしは行かなくちゃいけない。又思い出したらここに来ておくれ、さようなら」

先生は消えて行った。多恵さんも再び自転車に乗り込む。向かうはハルニレテラスだ。

ハルニレテラスは昨日行ったピッキオの森とほぼ同じ所にあるショッピングスポットだ。

先ずはこのすきっ腹を満たそう。直ぐ近くの喫茶店に入ろうとした時後ろから声が掛かる。

「済みません、スイーツを食べたいのは分りますが、先程菓子パンを可なり召し上がられてたので、ここはこの奥の方にある蕎麦屋によってもらえませんか」石森氏の声だ。

どうやら向こうの方は片付いたみたいだ。

「え、蕎麦屋?そうねえ、今蕎麦って気分じゃないんだけど。それにどうしてわたしが菓子パンを沢山食べた事知ってるの?」

「ヘヘヘ、美味しそうに食べていらしゃったもんで、みんなでコッソリ見てたんですよ」

「もう!あの時物凄くお中空いてたの。それにコッソリ見るのは止めて欲しいわ、これからは!」

「重ねてお詫び申し上げますが、さっきの蕎麦屋に是非行って欲しいのです。何だかここの人気店らしいのです。その秘密を探りたいと思いましてね」

「そう、勉強熱心なのね。でもあなた方幽霊さん達で押しかけて、秘密を探れば良いじゃないの?」

「ま、それはそうですが、矢張りここは一応リーダーである河原崎さんに連れて行って欲しいのです」

「へっ、わたし、幽霊さん達のリーダーなの」

「そう云う事になってるんです。大体この旅行だってあなたが言わなきゃ、誰も行かないですよ。あなたが行くから、何か良い話が聞けるんじゃないか、何か良い事に出会えるんじゃないかってね」

「もう、わたしはあなた方が勝手に付いて来てると思っていたわよ」

「半分は当りですが、後の半分はリーダーが行くから付いて行く。これ正解」

「分ったわ。奥の方にある蕎麦屋に行けば良いのね。まあ甘い物よりその方が体に良いみたいではあるわね」

多恵さん、観念する。

在った在った、何だか高そうな店だ。そろそろ4時なのでお客もボツボツ。

蕎麦と天麩羅とすくい豆腐なるものを注文する。

確かに蕎麦の香りが際立ち、茹で具合も丁度良い感じ。そばつゆも信州名物のわさびとあいまって引き締まった味だ。天麩羅も多恵さんの大好きなキノコや山菜、海老が彩りよく盛られ、非常に美味しかった。次にそのすくい豆腐なるものに挑戦。

ウーン、このとろけるような舌触りと濃厚で刻のある大豆の味と香り。

「こりゃ旨い!」と石森氏も思わず声を挙げる。

「是非教えを請いたいが、何しろ幽霊のみだからそうも行かない。みんなには悪いが俺はここで暫くコッソリ修行するから、離脱させてもらうよ、悪いな」

「良いよ、早く美味しい救い豆腐を作れるようになって、俺達にご馳走してくれ。待ってるよ」

「ええ、この豆腐、本当に口当たりも良いし、味も香りもいいわ。わたしも待ってる」

「わ、わたしも、とても美味しいと思います。出来たら主人にも食べさせてあげたいです」

「良かったら、石森さんが出来るようになったら、藤子さんも教わって作ったら。確か味や香りは微かに伝えることは出来るのよねえ?」多恵さんが聞く。

「そうだ、そいつだ。どうしてこの味や香りを恋敵に伝えようかと思っていたんだ。その手であいつに知らせてやろう」

「そ、それが良いですね、このとろける様な舌触りも。ある日、コッソリ。吃驚するだろうな、彼」

「わたしの主人もです、すっごく驚くと思います」

「じゃ、冷奴か何か何か食べてる時に、あなたの手作りのすくい豆腐をそっと味あわせてあげたら」

多恵さん、アドバイスする。

「そうします。わたしこれからすること出来て嬉しいわ、宜しくお願いします石森さん」

「じゃ、ここで二人で修行させてもらおうか、俺だけじゃ嫌かも知れないんで・・・オイ、良介、お前も一緒にやろう」

「え、ぼ、僕がですか・・まあそんなに時間はかからないだろうから、好いでしょう、3人で力を合わせてやりましょう」

「わたしも習いたいけど、子供のことが気がかりだから、後から藤子さんに教わるわ。宜しくね、藤子さん」輝美さんが残念そうに言う。

「ええ、しっかり学んで飛びっきり美味しい豆腐作れるようになって、お教えします。輝美さんにはお世話になってばかりだったから、本の少しだけ恩返し出来るわ。これも嬉しい事なのね」

藤子さんの心底嬉しそうな顔を初めて見たと、一同が思った。

蕎麦屋に3人を残し、多恵さんと杉山君、輝美さんは外に出る。

少し好くと和菓子屋さんが目に付いた。

「ここで子供達へのお土産を買いましょうか?」多恵さんの提案に輝美さんも賛同。

和菓子屋さんだったが洋風の物もあり、聞けば中にここいらの名産の果物などが入っているとか。

「美味しそうね、これにしましょうか?」多恵さん、輝美さんに聞く。輝美さんも頷いた。

お見せの人は少し訝しく思ったろうが、それは毎度のことだ。

それから旅館に戻り鈴を返し、駅に向かう。

駅で自転車を返し、ロッカーから荷物を取り出し、電車で軽井沢に向かう。

携帯に警察から電話が掛かってきた。例の男性の件だ。

一応被害届を出して欲しい、と言う事と、男が訳の分らぬことを言い、手に絡みついたつる草を撮りたいらしいが取れない、今までの悪事を正直に話すので、あなたに伝えて欲しいと言っているとの事だった。

「あのう、被害届と言われても画を描く時間を邪魔されたことだけで。ただしつっこく絡んでくるのと、これからの事を考えると、矢張り警察の方にお任せしたほうが良いんじゃないかと思って連絡したんです。どうしてもとおっしゃるなら、書類を内に送ってください。それから不思議とお思いでしょうが、彼が白状するまで、あのつる草は取れないんです。あれには今まで被害にあった女性達の怨念が込められていて、わたしにはどうすることも出来ないんです。彼にそう言って下さい、早く白状すれば、それだけ早く楽になれると。若し、裁判で言い逃れしようとしたら又どんな形で恨みが現われるのか、わたしにも良く分らないと彼に伝えておいて下さいともね」

あっけに取られている警察の人に「失礼します」と言って電話を切った。

傍らでは杉山君と輝美さんが爆笑している。

「こんなんだから、余り大立ち回りはしたくないのよ、後が大変。でもあいつ、何かとんでもない悪事を遣ってる、そんな臭いがしたの。誰か女性の声で彼を捕まえて下さいって言ってるのも聞こえたし」

杉山君と輝美さん、二人とも吃驚してる。

「え、そんな声聞こえなかった。凄いなあ、多恵さんって、俺達の聞き取れない霊の声までキャッチ出来るんだ」

「益々、尊敬しちゃうわ。ね、杉山さん」

「そ、そうだね、尊敬か、尊敬だね」

「そうよ、尊敬よ、他に何があるの」

「他には何にも無いのか」杉山君ちょぴり寂しそう。

 軽井沢では大人の方への土産を買う積りだ。

先ずはスワンレイクに向かう途中で見かけたチーズの店。多恵さんはチーズが大好きだ。

在った在った、ブルーチーズ、これは好き嫌いが分かれる所なので、多恵さん専用。

他の方々には、何が好きかお伺いしてこなかったので、一般的な熟成タイプのチーズにした。

次は駅の近くのソーセージ屋さんへ。ここは皆同じくソーセージの詰め合わせとする。

さあ、土産も買ったし、後は大樹さんと真理ちゃんの待つ我が家に帰るのみ。

ウーン、あの男の事件が無ければ、もっとすっきり旅を終えられたのにとも思うが、藤子さんが旦那さんの為に、美味しい豆腐作りに挑戦すると言う、思わぬ収穫が得られたことは、何と言ってもめでたいし、嬉しい事だ。


後日、その男は若い女性を殺害したと自白したらしい。その他にも婦女暴行の数々も正直に話し、無事、呪いのつる草から開放されたという話を、ワザワザ彼女のマンションに遣ってきた担当の警察の人に聞かされた。

「イヤー不思議な話もあったもんですねえ」

彼等は彼女の警察への協力に対する感謝状を渡して帰っていった。

                  次号へ続く   お楽しみに!








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