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Bloodchain  作者: 三井紘
9/12

モラトリアムの終わり

「―――弘人!弘人起きて!」

「んなぁ…あと少し…」

「お願いだから起きてよ!虎太郎が、虎太郎が!」

 拓のあまりに切羽詰まった声にまだ気怠い体を起こし、枕もとの壁に埋め込まれたデジタル時計を確認する。

時間は午前七時前。ロビーに集まる時間にはあと二時間早い。ではなんで?ドッキリ?いやいや拓に限ってそれはない。

 そんなことを考えながら顔を上げて拓を見る。寝ぼけていた意識が叩き起こされた。

 拓は今にも泣きだしそうな顔をして俺のことを見ていた。

「拓どうした?大丈夫か?」

「僕じゃない虎太郎が、虎太郎が今朝路地裏で発見されて病院に搬送された…!」

 拓の言葉を聞いて三つ並んだうち、一番窓側のベッドを見る。虎太郎が寝ていたはずのそこには誰もいなかった。

 冗談…では恐らくないのだろう。拓がそんな不謹慎で、しかもさして面白くもない冗談を言うとはとてもじゃないが思えない。と言うことは本当に虎太郎が病院に?

「僕があの時止めていれば…!朝早くに眠気が覚めたって言って虎太郎は散歩に行ったんだ!僕は虎太郎に行ってらっしゃいなんて呑気なこと言って送り出してそれで…!それで…!」

「分かった、分かったちょっと落ち着け」

 取り乱す拓を落ち着けるように肩を軽く叩くと、拓は何度も頷きながら懸命に落ち着こうと深呼吸を繰り返した。俺はそんな拓を見てからすぐに洗面所に移動して蛇口を捻った。

 どうにも現実感が無い。だって虎太郎とは昨晩拓も交えて下世話トークで盛り上がっていたのだ。それが路地裏だの病院だの言われてすんなり落ちてくるわけがない。だが拓のあんな表情を見たのも初めてだ。認めたくはないがきっと事実なのだろう。

 しかしこんな言い方をすると酷く薄情にも思えるが、不幸中の幸いがあるとすれば拓が先に取り乱していたことだろう。起きてすぐに拓を見たためか、気が動転するより早くしっかりしなければと自戒の念が生まれたのだ。二人一緒に取り乱してどんな奇行に走っていたかと想像すると、その点だけは本当に良かったと思える。

 自分のことを戒めるために、キンキンに冷えた水をすくう。その時、ふと鏡が目に入った。

「!」

 思わず足を滑らせて、後ろにあった戸棚に背中をぶつけた。

 鏡に映っていたのは、昨日見た額から二本の角を生やした何か。だが今度は今までとは明確に違う点が一つあった。

それは俺だった。正確に言うなら額から赤銅色の角を二本生やし、不気味に笑う俺だった。

「弘人大丈夫!?」

大きな物音に急いで駆けつけてきた拓に大丈夫だと笑ってみせ、立ち上がってから鏡を見る。そこには見慣れた俺の顔が映っていた。

なんだかよく分からないが不吉が過ぎる。それに嫌な予感がする。急いで碧羽達と合流しなければ。


 洗顔と着替えを終えた俺達は、怒られることを覚悟で女子棟へ向かうことにした。しかし女子棟と男子棟を繋ぐロビーには既に碧羽と翼さんが引率の教員数人と俺達を待っていた。

「碧羽!翼さん!」

 厳しい顔つきでソファーに座る碧羽は、俺達を見ると一瞬だけ顔を明るくする。だがすぐに元に厳しい顔つきに戻って立ち上がると俺達のもとへやってきた。翼さんはそれを見て教員達と何か言葉を交わし始める。

「虎太郎に何があったんだ!?」

「今から病院に向かう。移動中に話そう」

「みんな」

 碧羽が淡々と告げると、翼さんが俺達を外に来るよう呼びかけた。それに従って外に出てみると宿の前には志乃月の校章がプリントされた黒いワゴンが一台止まっていた。

 教員達に誘導されワゴンの横へ立つとスライドドアが自動で開き、向かい合った席にはそれぞれ後輪側に俺と拓、前輪側に碧羽と翼さんが腰を落ち着ける。それから二人の教員が運転席と助手席に乗り込むとワゴンを発進させた。

 エンジン音だけが響く静かな車内。気を使ってか口を開かない教員の代わりに碧羽は何度も何か言おうとするも、その度に躊躇うように口を閉じる。走り始めて十分ほど、そんな重苦しい空気が続いた。だが碧羽もようやく決心がついたのかおずおずと言葉を吐き出し始めた。

「まず今回のことはまだ他の学生には通達されていないらしい。でも九時に全員を大ホールに集めて簡単な事のあらましを伝えてから東京へ帰るんだって。あと―――」

「そんなことはどうでもいい。碧羽、虎太郎は今どうなってるんだ?」

 碧羽の核心をあえてはぐらかすような喋り方が気に障り、思わず語気を強めてそう言った。すると碧羽も翼さんもまた何も喋らなくなってしまった。ますます嫌な予感がしてならない。

「病院に運ばれて旅行が中止になるくらいだ。普通じゃない。頼むから教えてくれ」

 俺の懇願にも似た言葉に根負けしたのか翼さんが大きく息を吸ってから口を開く。だが声を発しようとしたタイミングで碧羽が手で制し、代わりに感情を押し殺したような声で言った。

「路地裏で発見されたとき、虎太郎の右腕が無くなっていた」

「は?」

 思わず腰を上げた。

「は?いやいや、は?何言ってんだよ。虎太郎の右腕が無くなったってそんな…そんな安っぽいスプラッター映画みたいなことあるわけないだろ?」

「本当なの、信じられないかもだけど。病院の先生が言うにはギロチンでも使ったんじゃないかってくらい綺麗にいち…一撃で……落とされてたらしい…」

 段々と声を震わせながらも最後まで言い切った碧羽は強く唇を噛み締めながら顔を覆った。

 信じられない。そんなあまりに陳腐で、あまりに非現実的なことがあっていいはずがない。空から女の子が落ちてきたと言われた方がよっぽど現実味がある。だけど、碧羽のその仕草から、言葉から、それは嘘ではないのだろうと読み取れてしまう。それでもどうかジョークであってくれと翼さんに視線を向ける。彼女は静かに首を横に振った。

 俺は力なく座席に腰を落とす。隣の拓は真っ白な顔をして口元を抑えていた。

「見つかったときになぜか傷口は完全に止血されてあったみたいで一命は取り留めたって。だけど未だに危険な状態であることには変わらないらしい」

 翼さんは説明を続ける。だが俺の耳には入っては抜けるばかりだった。

 虎太郎が何でこんな目に合わないといけない。恨みを持った誰か?それなら虎太郎が意図せず射止めた娘を想っていた男や恋人あたり?いやしかしそれなら見つかるリスクを冒してまでわざわざ手当てをするとも思えない。では通り魔?そんな非現実的な…いや既に非現実的なことが起きている以上何が起きても不思議ではないか。でもそう考えると一から十まで、現実的なものから突拍子もないものまで全てが考慮するべき範囲になってしまう。

「一体誰がこんなことを…」

「分からない。けど虎太郎は弘人に伝言があったみたい」

「伝言?一体なんて?」

碧羽は「確か」と少し思い出してから続けた。

「『弘人』、『ガラス』、『ごめん』。この三つをずっと繰り返し呟いていたらしい」

「『弘人』、『ガラス』、『ごめん』……」

 『弘人』と俺の名前を呼んでいる以上この伝言は確かに俺へ宛てたものなのだろう。しかし『ガラス』に『ごめん』?一体何を指している?

 俺は口の中で三つの単語を反芻する。そして丁度十周目に入ったところで目を見開いた。

「弘人君何か分かった?」

 翼さんが一縷の望みを見たような顔で俺に問いかける。

「え、あ、あぁ、ごめん、ちょっと情報に脈絡が無さ過ぎて分かんない」

「…そうだよね」

 そうだ、脈絡が無い。あってたまるかこんな情報に。だから俺がたどり着いたこの答えもきっと何かの間違いだ。

 プルルルル

 突然車内に簡素な着信音が響いた。

「あ、ごめん。少しだけ出てもいいかな?」

 そう言ってロングスカートのポケットからスマホを取り出した翼さんは申し訳なさそうに聞いた。拓は今にも吐きそうな顔をしながらも一つ深呼吸した後に小さく頷く。

「うん、どうぞ」

 翼さんはお礼をしてから極力小さな声で電話に出た。

 ワゴンの中に出発前よりもずっと重苦しい空気が充満し、ただ翼さんの受け答えだけが聞こえてくる。しかしそんな誰もが迂闊に喋ることの出来ない状況だからか、俺はふと碧羽の香りがいつもと違うことに気が付いた。

「つけてないんだな、香水」

「当たり前でしょ?こんな時だもん」

 そう碧羽は薄く笑った。

「そう、だよな」

 考えてみれば、いや考えなくてもそれは当たり前のことだ。だがいつも香水をつけている人が急に付けなくなることは、俺に限って言えば当たり前のことではない。碧羽の言った通りこんな時だからこそ、それは母さんと会った最後の時を強く想起させた。

「なぁ碧羽。俺の傍を―――」

キィィィィ

耳を劈くような摩擦音を立てながらワゴンは急停止した。

反動で俺と拓はシートベルトに胸部を強く圧迫され咳き込むも、すぐに席を立って女子二人に近づき、怪我がないかを確認する。するとそのタイミングで扉を閉める音が二つ聞こえてきた。恐らく教員達が事の対処へ向かったのだろう。

話し合いは教員に任せ女子二人の容態を確認する。どうやら目立った外傷もなく、具合が悪そうにしている訳でもないあたり二人に影響はなかったらしい。俺と拓も咳き込みはしたが息苦しい訳でもないので、全員ダメージは最小限に抑えられたようだ。

全員が何でもないことを確認してから俺は、何が起きたのかを確認するため碧羽達が座っている座席の間からワゴンの前方を覗き込んだ。

そこには一人の男が立っていた。

身長は170センチほどで中肉中背。夏らしく涼し気な水色のシャツに、膝が見えるくらいの短パンを穿いた普通の男。もっとも、目元にはスパイ映画みたいなサングラス。手には真っ赤に染まった鈍色のコンバットナイフ。足元には首から赤い花を咲かせた教員達が寝そべっていなければの話だが。

『ここ最近の京都は少し物騒だからくれぐれも気を付けるように』

 後藤の言葉が頭をよぎった。俺は血の気が引いていくのを感じながらすぐさま姿勢を低くして身を隠し、碧羽達にもそうするようにジェスチャーを送る。

 七瀬やあの結界で感じた怖さとは、分からないところに所以があった。

 何をしてくるか分からない。何を思っているか分からない。いつもニコニコしているか、(もてあそ)ぶように人を転がすばかりだから本心がどこにあるか分からない。それだけでも怖いのに、なまじ俺達と同じ言語で普通に話すものだから、隔絶された世界の話ではなく、そこにある現実なのだと言う一種親近感に近いものが生まれ、恐怖感をより一層引き立てていた。でもだからこそ、別れ際に彼女が俺に感情をぶつけてきたことで全く恐怖を感じなくなった。

 対して今ワゴンの前に立つ男はそれとは違う。対極に位置していると言ってもいい。

手に持つ鉄の塊は何かを傷つけることに最適化された物であり、その標的はこの状況から俺達以外には考えられない。七瀬の纏っていた恐怖が曲線的なものだとするなら、男の纏うそれは直線的な死への恐怖。分からないのではなく、分かり過ぎてしまうが故の恐怖だった。

 ドン、と遠くで爆発音のような音が響く。碧羽は外を確認しようと立ち上がろうとするも、俺はその手を咄嗟に掴んで止めた。その時、いきなり扉が開かれた。

 そこに立っていたのが警察だったらどんなに良かったか。でも違った。『ドッキリ大成功』のプラカードを持った教員だったらどんなに良かったか。でも違った。そこに立っていたのは、どこにでもいそうな普通の服を着た三人の男。そしていずれも目元にサングラス、手にはアサルトライフルを携行していた。

「拓、頼む!」

 開かれた扉と反対側にいた拓に碧羽と翼さんを連れて逃げるよう叫ぶ。俺はなけなしの勇気を総動員して震える足に渇を入れ、目の前の男に飛びついた。

 拓は俺の意図を汲み、一瞬躊躇いながらも頷いて扉を開ける。だがそこには既に男が二人待機していた。

「嘘…だろ…」

 唖然とする俺に男は手に持ったアサルトライフルを持ち上げ、そして振り下ろす。柄で後頭部を殴打された俺はそのまま意識を失った。


「―――っ!」

 周囲から聞こえてくる騒がしい音と全身に走った痛みに目を覚ました。

「ここは…?」

 横になった体を起き上がらせるために手をつく。返ってきた感触はスポンジのように柔らかく、ビニールのように無機質。不思議に思いながら体を起こして周りを見渡す。

「うちの子が…!」「重傷者から順に当たります!ご理解ください!」「これとこれ追加で持ってきて!急いで!」

 転がり込んでくる怪我をした親子。小走りしながら叫ぶ看護師。苛立ちながら指示を飛ばす医師。俺はまるで紛争地帯のように怪我人で埋め尽くされた病院の待合室にいた。

意味が分からない。なんなんだこの状況は。ついさっきまで俺達は病院に向かって―――

「碧羽!」

 座っていた長椅子から立ち上がり、見える範囲にいる人の顔を一人一人確認する。だがその中に碧羽の顔は見つからない。それどころか拓に翼さんの顔も見つからない。

 すると偶然に左隣に座った親子と目が合った。

「すみません!俺と一緒に運ばれてきた奴ら知りませんか!?」

「え、えっと、ごめんなさい。私達ついさっき来たものですから」

「あ、そ、そうですよね。こちらこそすみません、いきなり大きな声出して…」

「いいえこんな状況ですから、どうか気を落とさないで」

 こんな状況。そうだ、俺がここにいるのは分かる。だがこの惨状は何なんだ?

「あの何があったんですか?俺気を失っていて知らないんです」

「そうですか。でも私達も詳しいことは知らないんです。ただいつも通り過ごしていたらあちこちで銃を持った人が撃ち合いを始めて、それで気が付いたらこんな状況に…」

 撃ち合い。つまり戦闘?じゃあ気を失う前に聞いた爆発音はそれか。

「その人達はどんな服装でした?」

「えーっと、互いに別の格好をした、軍人みたいな外国の人達でした」

 俺達を襲った奴等とは違うのか?いやしかし外国の軍隊。俺は法律全般に詳しくないが、もしそれが本当なら何らかの条約違反になるのではないだろうか?いや、仮に条約を結んでいない国だとしても憲法九条で戦争を放棄している日本に軍を出したことがバレでもしたら、国際的に袋叩きにされるなんて俺でも分かる。それを押してでも軍を出す理由がある?

「でも安心してください。魔術庁が参戦して今はほとんど制圧されたってニュースで流れてましたから」

「魔術庁が?魔術絡みじゃないと梃子でも動かないあの?魔術師がいたんですか?」

「はい。でも魔術庁が参戦するまでは一切使っていなかったようです」

「じゃあなんでまた」

「だってほら、魔術庁の片割れがありますから、ここ」

「あぁ」

 魔術庁。それは国内の魔術師を管理するとともに、警察では手に負えない魔術絡みの事件などを担当する省庁。彼女が片割れと言った通り日本にはなぜか東京と京都の二か所に庁舎がある。だが二つに分かれていても共通した特徴が一つ。それは厳格であること。分かりやすく言い換えれば頭が固いのだ。

魔術が絡む事件であると言う確たる証拠がない限り動こうとはせず、その癖エリートばかりでプライドだけはやけに高い。そのため「張り子の虎」や「税金泥棒」などと揶揄されている彼らだが、流石に地元の危機には動くらしい。

「すみません、色々教えてもらって」

「いえ、お気になさらず。お友達見つかるといいですね。ほらご挨拶は?」

「ばいばい」

 女の子と母親に改めてお礼をしてから、俺は忙しなく対応に追われている受付に向かった。

 思えばここが虎太郎の入院している病院であるという保証はまるで無い。取り敢えずそこをハッキリさせなければ。

「あのすみません」

「今忙しいので後にしてください」

 ぴしゃりと断られる。

受付なのに話も聞かずにシャットアウトはどうかとも思うが、この待合室にまで怪我人が溢れている以上それは仕方が無いのかもしれない。しかしだからと言って引く訳にもいかない。

「今朝搬送された君月虎太郎に会わせてください」

受付の女性の顔が変わる。どうやら当たりらしい。

「あなた志乃月大学の人?」

「はい、あいつの友達です」

「……分かった、案内するからちょっと待って」

 彼女は電話で誰かに連絡を取る。しばらくして初老の医師が現れた。

「待たせたね五木君」

「いえ、それよりなぜ俺の名前を?」

「今和泉君に聞いたからさ」

「拓がいるんですか!?」

「あぁ、付いてきたまえ」

 そう言う医師に案内され、待合室から少し離れたところにある階段を上がっていく。忙しなく支持を飛ばし合うナースセンターを横切り、今度は逆に気持ちの悪いほど静まり返った廊下を進む。そして着いたのは、一際厳重な扉の前。

「ここに虎太郎が?」

「うん、費用は君達の大学持ちらしい。さ、そんなことはいいんだ。まず注意点、と言うか覚悟しておいてほしいことがある。彼はまだ目を覚ましていない。取り敢えず山は越えたがやはりいつ容体が急変するかも分からない。それらを踏まえて彼には極力触れないように。酷なこと言っているのは分かっている。だが彼のため、そして君達のためだ」

「分かりました」

「では行ってきなさい。私はまだやることがあるからここで失礼するよ」

 それだけ言い残すと医師は足早にもと来た道を戻っていく。俺はそんな医師に頭を下げてから扉と向かい合い、躊躇いながらに手を掛け開けた。

 中は二十畳ほどもある大きな部屋になっていた。床には赤を基調とした絨毯が引かれ、窓際に置かれた二脚のソファーも二束三文の安物とは思えない細工が施されている。ベッドに至っては一瞥しただけで俺の使っている物の数十倍するのだろうと分かるほど大きく立派。敷かれたシーツも羽毛布団もベットに引けを取らない高級品なのだろうと容易に察せた。

医療ドラマで出てくる政界の重鎮が利用してそうな病室は、不測の事態が起きたからと言って一学生が利用するにはあまりに不釣り合いなほど豪華だった。

「弘人!目が覚めたんだ、よかった…」

 ベッドの横の椅子に座っていた拓は、扉の音が聞こえるなり視線をこちらに寄越し、それが俺だと気が付くと慌しく駆け寄ってきた。

「あぁ、拓も無事でよかったよ。虎太郎は?」

 拓は黙って身を翻すとベッドの方を黙って見つめる。俺はその視線に誘導されるようにベッドに近づき、羽毛布団を少し持ち上げた。そこには本来あるはずの右腕が肩口あたりから綺麗に無くなっていた。

 すぐに羽毛布団を丁寧に戻す。拓は何とも言えない顔で俺を見ていた。

「虎太郎のことは…、もう祈るしかないな」

「うん。それに先生も何もなければ大丈夫って言ってたし…」

 沈黙が降りる。だがすぐにそれを拓が破った。

「そんなことより立川さん達が…!」

「そうだ!碧羽達は―――いや、いったん屋上に出よう。虎太郎の体に障る」

「分かった。なら急ごう」


***


「で、碧羽達はどこにいるんだ?」

 屋上に出て開口一番、弘人は僕にそう問う。

「それが、分からないんだ」

「わ、分からないって、この病院にいるんじゃないのか!?」

「ううん、ここに連れてこられたのは僕と弘人だけ。先に目を覚ました僕だけ虎太郎の病室に行ったんだ。本当は弘人も連れていきたかったけど、意識がないのにあまり動かすの良くないって先生が言って」

「手掛かりは!?手掛かりはないのか!?」

目を見開き、額に玉の汗を浮かべ、余裕を欠いた弘人は僕の肩を掴んで激しく揺らした。

「それが何もないんだ…」

 視界が滲んでいく。僕は自分があまりに情けなくて強く唇を噛み締めた。

 もうどうしようもない。きっと立川さん達はあの男達に連れて行かれたのだろう。そして僕達だけが情けなくも今ここにいる。いや弘人を僕と一緒にするのは失礼だ。弘人はあんな状況ですら僕達を助けようと力を尽くした。それなのに僕はどうした?なにも出来なかった。助けたい。そう願っていたはずなのに、いざその機会が来ても何も。弘人みたいに飛びつく勇気も出ず、それどころか男達を見た途端にもう終わりなのだと、後ろに弘人から託された二人がいるのにも拘らず勝手に絶望してしまった。

情けない。本当に情けない。彼女達は期待した通り僕にもう一度希望を与えてくれた。それなのに僕は、僕は本当に彼女達に救われるだけの価値があったのか?

「大丈夫だ、拓」

 その言葉に思わず顔を上げる。そこにいた弘人は決して不敵ではなかったけれど、それでも希望は潰えていないと勇気付けるような笑顔を浮かべていた。

「病院の待合室見ただろ?あれだけ飽和状態になっているなら定員オーバーで別の病院に回されてる可能性だってある。だから悪い方向にばっかり考えるのはよせ。せっかくの視野の広さが台無しだぞ?」

 僕は開いた口が塞がらないと言う感覚に、入学式の一件以来久しぶりに陥った。

だって弘人の言葉は確かにその通りだけど、そう言って自分に言い聞かせるのは簡単だけど、だけどずっと一緒にいる幼馴染みが連れ去られたかもしれないこの状況で、感じているはずの焦りを無理やり押し倒し、他人のために言葉を紡ぐなんて僕には到底出来ないから。

「はは…」

「どうした?」

「やっぱり敵わないなぁって。弘人は強いね」

 打つべき手があるわけではないのだろう。ただそれでも今自分に出来ることはここで膝を着くことではないと理解している。どんなに苦しくても折れたらそこで終わりだと理解している。

 僕はなんて烏滸がましいことを考えていたのだろう。弘人の代わり?バカを言うな。僕にはその席すらも分不相応だ。似合わない。場違いだ。

 院内とつながる扉の前に設置されたベンチに腰を下ろすと、弘人も僕の横に同じように腰を下ろした。

「僕はそうは思えなかったよ。いつもの日常が返ってくるって信じたいけど、虎太郎や立川さん達のことを思うともう無理なんじゃないかって後ろ向きなことを一人でずっと考えて、そして自分で傷ついて。だけど弘人はそんな僕の思いを一蹴した。弘人は…ううん、弘人だけじゃない。きっとここにいるのが立川さんでも虎太郎でもそうやって前を向いて希望を忘れず、僕を引っ張ってくれるんだろうな。ほんと、敵わないよ」

 竜になれる鯉は初めから竜の血を流している。そして僕は流していない鯉だった。それだけの話だったのだ。竜に焦がれて空を見上げ、登れぬ滝に抗う鯉のなんと無様なことか。分不相応な夢を見るのはもう終わりだ。

「…買いかぶり過ぎだ」

「そんなことない」

そんなことなくては困る。でないと僕は…

 こんな酷い状況なのに、それでも美しさを失わない空へ手を伸ばす。

「触れられない、届かない。遠いなぁ…」

 僕は手を下ろした。


 屋上から戻ってすぐ、ニュースでは戦闘の終結が発表された。だが僕達は一応の大事をとって病院で一泊し、翌日帰宅することとなった。


 ***


 終結が発表されてから数時間後の午後六時。俺は慌ただしさの落ち着き始めた院内を歩いて中庭に出ていた。出てきた理由は色々あるが一番は虎太郎の姿をあまり見たくなかったから。

 なんだか虎太郎の顔を見るたびに、どうしようもなく心が痛くなる。ただあいつが目覚めた時にまだ俺がこんな調子だったらきっと居心地が悪いだろうから、今のうちに慣れておかなければいけない。

 踏み入れた中庭には避難してきた人や幸いにも軽傷で済んだ人達が気晴らしに談笑をしていた。医師や看護師は未だに忙しそうにしているが、そうでない人からしたら一応の終結を見たことで心の重荷がずっと軽くなったのだろう。だが重荷が軽くなってなお、誰も大声は決して出さず気を遣い合っているところから、この戦闘が未曽有の大事件であったことを今更ながらに意識させられた。

 俺はそんな光景を傍目に逡巡しながらベンチに腰かける。

 雪崩のように押し寄せた数々の出来事のせいで忘れていたが、この状況が東京に伝わっていない訳がない。と言うことはつまりばあちゃんにも伝わっているということだ。

屋上から拓と戻った後、碧羽に一応連絡を取ってみようとスマホを開いた時には不在着信が二十件。今は恐らくもっと増えているだろう。ちなみに碧羽とは回線が重いせいか連絡が付かなかった。しかしだからこそ、今碧羽と連絡が付かないこの状況でばあちゃんに電話していいものか思い切りが付かない。心配させるだけではないだろうか?

「ホントどうしたらいいんだろうなぁ…」

 結局答えが出ないので一旦保留して、情報を得ようと左ポケットに手を入れた。

「あれ?」

 だがポケットの中には触り慣れたスマホともう一つ別の感触。薄くて触り心地の良い何か。不審に思い取り出してみると、出てきたのは逆さになった木の封蝋が押された白い便箋だった。

 封蠟など物語の中でしか見たことが無いからか、酷く時代錯誤で現実味のないそれを引っ繰り返してみると、裏には俺の名前が記されてあった。

「なぜ俺に」と言う疑問と困惑を感じながらも便箋を開ける。中にはA4サイズの紙が四つ折りされて入っており、そこには教科書の通りのとても綺麗な、しかし人間味の一切感じられない文字でこう書かれてあった。

『 親愛なる我が子、五木弘人へ


 初めまして五木弘人君。

 現在、様々な状況の中にあって、君は恐らく混乱しているだろう。

 街は壊れ、人は死に、友達はいなくなった。君のような善良な心を持った青年には何とも許し難く、耐え難い現実だ。だから私は取引をしたい。惨状をこれ以上広げないための取引を。

 なぜ自分と?と思うかもしれない。それはね、今この地に集結している組織全てが君と炉の鍵、黒髪の女を巡って争っているからだ。つまりはこの殺し合いは君達が原因であり、君達が誰かの手に落ちれば全ては丸く収まる訳だ。そこでどうだろう。私の組織のもとへ来てはくれないだろうか?もちろんタダでとは言わない。代価としては腕を切ってしまった彼の慰謝料と、誘拐した二人の友人の解放を約束しよう。特に腕の彼には正直申し訳ないと思っていてね。あれは本来予定にない行為、言ってみれば不可抗力だ。だから精一杯の気持ちとして一千万まで出そう。彼も腕一本でそれだけの大金が手に入るなら満足だろう。

 それと君の処遇だが、私は言葉を濁すのが嫌いでね。先にはっきり述べておく。君には知っていることを全て吐いてもらって、データを取った後に速やかに死んでもらう。本当はそこまでする必要は無かったんだけどね、君の存在が他組織に露呈してしまったせいで生かしておくメリットが無くなってしまった。いや、抗う力を持たない君はむしろデメリットと言ってもいい。だからすまない。死んでくれ。

 この取引をマッチポンプだと思うのは仕方がない。だから断るのは自由だ。強制はしない。ただしその場合戦火は広がり無辜の民が血を流し、友人達の安全も保証出来なくなることは努々忘れないでおいてもらいたい。

 もしこの取引に乗ってくれるのなら彼女と共にあの森へ来ると良い。私の部下が待っている。


                       オッペンハイマーより愛をこめて  』

「な、ぇ…あ…」

 そんな掠れた声しか出てこなかった。

 無感動に書かれたこの手紙が言うには、この多くの犠牲を出した戦闘の原因も、虎太郎が腕を失った原因も、碧羽と翼さんが連れ去られた原因も全て俺と七瀬にあるらしい。

 全くふざけた内容だ。吐くならもっとマシなジョークを吐け。

 そう自分の中で目を逸らしてみても、悲しいかなこれが悪質な悪戯ではないとすぐに分かってしまった。内容が的確過ぎるのだ。俺の置かれた状況をよくよく理解していなければ決して書けないほどに。だからこれは悪戯ではなく列記とした事実。そして手に持ったこの手紙は俺にとっての赤紙に他ならない。

 理解は毒のように体と心を蝕んでいく。そして全身に行き渡ったところで、急に足元が無くなったかのような強烈な不安と恐怖が俺を襲った。

頭を割るような頭痛、食道を燃やすほどの吐き気、まともに正面を向いていられない倦怠感が連鎖的に表れ、体中から噴き出した冷汗は余計に俺を深い沼へと引きずり込んでいった。

俺の中に異物が混ざり込んでくる感覚がする。普通に暮らしていては決して関わることのない、関わってはいけない非日常と俺の日常が不可逆的に混ざり合っていくような感覚。それが心の底から嫌悪を抱くほどに気持ち悪い。気持ち悪く、そして怖い。

「おぁぁぁ…」

 座っていたベンチから崩れるようにして地面に四つん這いになると、口から吐しゃ物を吐き出した。吐き出され、地面に落ちたそれはしかし、胃から逆流した内容物ではなく、ウネウネ動くスライムのような赤銅色の“何か”。

予想外の物体に俺が困惑していると“何か”は軟体動物のようにゆっくり移動し、右手に触れる。瞬間、凄まじい勢いで“何か”は俺の手に絡みついて来た。

「うぁ、あぁぁぁぁぁ…!」

絡みついた“何か”は右手から腕へ、腕から胴体へと少しずつ増殖しながら浸食していく。そして“何か”が浸食を進めれば進めるほど俺の中には声が染み込んできた。

「助けて!」「やめて!」「許さない!許さない!」「出してよ!」「痛い!痛いよ!」

 染み込んでくるのはどれも子供の悲痛な叫び声ばかり。耳を塞いでも、頭が割れそうなほどの強さで変わらず響く叫び声は俺の正気を削ぎ落とし、狂気の底へと誘った。

 全てから気を紛らわすように絡みつく何かを地面に打ち付ける。しかし虚しく何も変わらない。ベンチに打ち付ける。しかし虚しく何も変わらない。電灯に打ち付ける。虚しく何も変わらない。壁に打ち付ける。虚しく何も変わらない。生える木々に打ち付ける。何も変わらない。打ち付ける。何も変わらない。打ち付ける。変わらない。打ち付ける。変わらない。打ち付ける。打ち付ける。打ち付ける。打ち付ける。打ち付け打ち付け打ち付け打ち付け打ち付け打ち付け打ち付け打ち付け打ち打ち打ち打ち打ち打打打打打打打打打打打打打打打打打打打打……

奇声を上げ、冷汗を滝のように流し、脳がまともに動かなくなっても走っては打ち付け続ける。しかし虚しく何も変わらなかった。

「あぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」

 逃れようのないあらゆるモノから逃げ出すように中庭から院内へと駆けこむ。

 誰もいない空の受付に立つ少年は言う。

「お前のせいだ」

 誰もいない空虚な階段に立つ少女は言う。

「お前がいなければ私達は死なずに済んだ」

 誰もいない虚ろなナースセンターに座る赤ん坊が言う。

「僕達はまだ生きていたかった」

 誰もいない伽藍洞な廊下に立つ子供達は口々に言う。

「「「「「「お前さえいなければ」」」」」」

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」

 走って走って走り続けて、気が付くと俺は自分の三倍はあろう大きな扉の前にいた。振り返るとゆっくり歩いて近づいてくる子供達。俺は必死になって扉をこじ開けるとその中に入った。

 中に踏み入れると突然、さっきまでの息苦しさと頭に靄のようにかかり続けていた倦怠感は嘘のように無くなっていた。それどころか体に絡みついていた赤銅色の“何か”は綺麗さっぱり消え失せている。

 何が何やらと困惑しながら周りを見回すと、そこは見知った病室だった。立派な花瓶に壁がけのテレビ。窓辺に机とソファーが二つ。赤を基調とした絨毯の敷かれた虎太郎の病室だった。

 一歩踏み込みベッドを確認する。目に入ったのは虎太郎の背中。そう、背中だ。

「虎太郎!」

 ベッドの上で上半身だけ起こし、窓の外を見つめる虎太郎に駆け寄り声を掛ける。しかし虎太郎は全く反応を示さない。

「おいどうしたんだよ、大丈夫か?心配したんだぞ?」

 もう一度声を掛ける。それでも虎太郎は反応を示さない。

「なんだよ、具合悪いならまた後にするから返事くらいしろよ」

 俺はそう言いながら虎太郎の肩を軽く揺する。するとやっと反応を示した虎太郎は、俺の手に自分の手を重ねた。

ボキ、グシャ

「ぐあぁ…ぬあぁぁぁあぁぁ!」

俺の手が不快な音を立てながら潰されていく。虎太郎は顔もこちらに向けぬまま万力のような力で俺の手を挟み込み始めた。

俺は虎太郎の背中に足を着き、力の限り引っ張ることでどうにか手を開放させる。だが、解放された手には力が入らず、所々黒く滲んで壊死していた。

「お前ふざけ―――」

 「ふざけんなよ!」と叫ぼうとした時、虎太郎は重い体を動かすようにゆっくりと振り返った。いや違う。これは断じて虎太郎などではない。

 「大学生と言えば」と言って染めた金髪も、好きなブランドのピアスも、そして今日失った右腕も全て俺の知っている虎太郎なのに、目だけが決定的に違っていた。

 本来収まっているはずの二つの眼球はそこにはなく、代わりにあったのはただの空洞。空で、空虚で、虚ろで、伽藍洞なただの穴だった。

「お前がいなければ俺は腕を失わずに済んだ」

世界が歪みだす。絨毯も花瓶もテレビもベッドも歪み、崩れ、赤銅色の“何か”に変わっていく。

「あ、あぁ、あぁぁ、あぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

 逃げ出そうと必死になって足を踏み出す。だがそうして体を動かせば動かすほどに体は何かに飲み込まれ、沈んでいく。沈んで俺の境界線が曖昧になっていく。心も、体も、どこからが俺で、どこからが俺でないのかが分からなくなっていく。

そしてついに肩口まで沈んだところで、俺は抗うのをやめた。

ゆっくりじっくり甚振(いたぶ)られるように沈んでいく。やがて俺の視界は赤銅色に染め上げられた。


「ろと―――ひろと―――弘人!」

「――――――!」

「弘人こんなところで何やってんの?風邪ひくよ?」

 気が付くと俺は中庭のベンチで一人横になっていた。

 いつの間にか夜の帳の落ちた中庭にはあんなにいた人は誰もいなくなっていて、目の前には毛布を持った拓が一人、心配そうな顔をして俺の顔を覗き込んでいた。

 そうか、あれは夢だったのか。碧羽達が攫われたことも、虎太郎が腕を失ったことも、俺が間接的に人を殺したことも全て夢。タチの悪い…夢であったらよかったのに。

 逃避は霞と消える。手に握られた白い赤紙は無慈悲にも俺に現実を叩きつけた。

「もう何やってるんだか。こんなところで寝てたら立川さんにあとで笑われるよ?」

「ねぇよ、んなこと」

「そうなの?いや絶対笑われるって」

「言われねぇよ。だってもうあいつらは助からないんだから」

「は?」

「なぁ拓、今から東京に帰らないか?」

「ち、ちょっとなに言ってんだよ。さっき弘人が言ったんじゃないか、他の病院にいるかもって。まだ見つかってない立川さん達を置いてはいけないだろ?せめて合流してから―――」

「だから助からねぇって言ってんだろうが!」

「え?」

「あんな状況でどうして碧羽達が無事だって思える!?武装した男達に連れ去られたんだぞ!?それで助かる訳ねぇだろうが!無理なんだよそんなことは!……俺にはもう、無理なんだよ……」

あの手紙の言う通りなら、今この地にいる全ての人間の命運を俺は握っている。俺一人の犠牲で無実の人々の命とみんなのことを守れるのかもしれない。そしてそれは俺の果たすべき責任の取り方として恐らく正しい。大勢の命と虎太郎と碧羽達。俺自身、それらに対して付けるケジメとして、これ以上に適当なものが思い浮かばない。

だけど情けなくも思ってしまう。死にたくないと。

 七瀬の時のような曲線的なものでもなく、男達の時のような直線的なものとも違う。今回の死は俺と対面している。至るまでに経路なんてなく、理解するための時間もない。ただ厳然たる面持ちで目の前に立っている。俺はそんな直に感じたプレッシャーに責任よりも自己愛が勝ってしまった。

でもだって仕方がないだろう。俺は不屈の精神と自己犠牲心に溢れたヒーローじゃない。俺は世界の危機より今期の単位の方が大事な本当にどこにでもいる大学生だ。そんな俺に耐えられる訳がないだろう、命の責任なんて。

天秤はいつも自分に傾く。それが人間だ。だから俺が逃げることだって何も間違っちゃいない。誰が責められるものか。だから俺は、悪くない。


 ***


「あんな状況でどうして碧羽達が無事だって思える!?武装した男達に連れ去られたんだぞ!?それで助かる訳ねぇだろうが!無理なんだよそんなことは!……俺にはもう、無理なんだよ……」

 オロオロと震えながら涙を流し、まるで悪夢に怯える子供のような弘人を見て、僕はついにその時が来たことを悟った。

 だけどあぁ、あれだけ望んだことなのに不思議だ。まさかこんな感情を抱くとは自分でも思ってもみなかった。こんな激しい感情に苛まれる日が再び来るとは思ってもみなかった。

「じゃあ立川さん達はどうなるんだよ。見捨てるつもりか?」

 僕がどんなに望んでも求めてもらえないのに。

「それしかないだろ!?俺だって本当はこんなこと!」

「ならなんで?」

 なんでそう簡単に諦められる?

「なんでってそんなの…!お前は良いよな、知ったような口ばかり叩けて。でもな、俺と同じ立場になればお前だってきっともう嫌だって思うんだ!それで最後には……最後には……!」

「嫌なんでしょ?見捨てるのは」

 そんな姿を見せるなよ。他の二人ならいい。だけどよりによってなんでお前が。

「当たり前だろ!でもこんなのもうどうしようもないだろ!もう無理なんだよ!」

「なんでそう言い切れる?絶対にもう覆らないと決まっているのか?」

 覆らない訳ないだろ。だってお前は五木弘人なんだから。

「あぁそうだ!もう何もかも手遅れなんだ!」

「嘘を吐くな」

「嘘じゃない!俺は―――」

「嘘を吐くな!」

「…え?」

「嘘を吐くな!弘人はただ逃げようとしてるだけだろ!?戦いもせず打ちひしがれて!それで立川さん達を見捨てるだって!?甘ったれるのもいい加減にしろ!」

 何もせずに端から諦めて。向かおうともせず、挑もうともせず、ただ目の前にある壁に勝手に打ちひしがれて。そんな弘人は僕の知っている弘人ではない。認めない。絶対にこんな五木弘人は認めない。

「悔しくないのかよ!立川さんがどこの誰とも知らない奴らに捕まって、それを助けることも出来なくて!それともなんだ!?弘人はこんな玉無しのインポ野郎だったのか!?だったらお母さんも犬死だな!」

「ンだとテメェ!」

 弘人は僕の胸ぐらを引き千切りそうな勢いで掴む。

 全く酷い言葉遣いで、更に言ってる内容も最低だ。それこそ父が見ればどう思うか。もしかしたら生前ついに食らうことのなかった鉄拳制裁なるものを頂くかもしれない。

だがもし父から鉄拳だけでなく魔術を打たれようとも僕は絶対にやめないし、訂正することもないだろう。弘人のため?それは一割だ。残りの九割は僕のため。僕の心を守るため。

「お前に何が分かる!俺の気持ちも知らないで!」

 弘人の胸ぐらをつかみ返す。

「分からない、弘人の気持ちなんて!弘人が何を考え何を思い何を信条に動いているのかなんてさっぱりだ!」

 僕には何も分からない。分かる事なんて何もない。弘人も虎太郎も、そして立川さんですら。

僕のことをどんなに彼女達が受け入れてくれても結局そこには大きな溝がある。救った者と救われた者の差だ。

彼女達のことは信用している。それこそ家族と同等かそれ以上に。それでも僕の心に敷かれたボーダーは、三人のような真にお互いを分かり合った関係になるのを阻み続ける。故に僕は未だに彼女らのように互いに身を任せることが出来ず、そこにあるのは半年前から変わらない憧憬のみ。

「だったら黙ってろよ!」

「お前こそ黙れ!弘人はそれでいいのかよ!?そんな逃げていいのかよ!?碧羽さんも虎太郎も見捨てて、弘人自身は許せるのかよ!?」

「そんなの…!」

 憧憬。そう憧憬だ。僕が彼女を諦めようと決めたのは彼女に抱くのと同じだけの憧憬が弘人に対して抱いていたからだ。だから諦められた、僕には敵わないと。

それなのにここで弘人が折れて、僕と大差ないのだと見せつけられてしまえば僕の決心はどうなる?それでは結局弘人が選ばれた理由は、単に出会ったタイミングが早かっただけだと言われているのと同じ。そんなものはあまりに辛過ぎる。だから弘人にこんな体たらくなど許されない。

「『そんなの』なんだよ!また言い訳探しか!?『だってしょうがないじゃないか』って言うか!?それとも『お前に何が分かる』か!?そうだよ、僕には弘人に何があったかなんて知らないさ!だけどな、そうやって目の前の壁の高さに怖気づいて勝手に負けた気になって、ふざけんなよ…!それじゃなんでお前なんだよ!」

 弘人の胸ぐらを突き飛ばすように離すと、強く唇を噛み締める。

「五木弘人!お前は何を思ってここまで生きてきた!お前にとって立川さんはそんな程度の存在なのか!?違うだろ!?立川さんはお前にとって…お前にとっても大切な人なんじゃないのか!?そんな人を置き去りにして逃げるのかよ!!それで胸を張って生きて行けるのかよ!!」

 だから頼む。弘人は僕のヒーローでいてくれ。何があっても最後には立ち上がるヒーローでいてくれ。そうでないと僕は…

 

 ***


 碧羽や母さん、様々な人と関わることで生まれた感情とあの日抱いた願いで今の俺は出来ている。そんな俺で七瀬の時も、男達の時も、身に余るほどの困難だと自覚しながらも抗った。でも頑張って、藻掻いて、たどり着いて、そして顔を上げたらそこには地獄が広がっていた。

 安全が保証された世界は疾うに消え去り、命は単位のように消化さる。そこかしこから犠牲になった人達の叫びが響き渡り、地獄は拡大していく。

人生で起こるはずのない残酷すぎる現実は、ただ何も言うことなく目の前に仁王立ちして立ち塞がり、責任と罪は俺の後ろで「前に進め」と駆り立てた。

 重すぎる、全てが。現実も、罪も、責任も、命も、絶望も、体も、何もかもが重く、苦しく、ぺしゃんこに押し潰されてしまいそう。

 俺が何をしたというのだろう?普通に進学し、普通に友達と旅行に出かけただけの俺が何でこんな目に合わなければならない?何かの罰だと言うのなら他に受けるべき人間は五万と存在するだろうに、なんで俺なんだ。

 だから俺は耳を塞いで、全てから塞ぎ籠ろうとした。

 でも拓は言った。「逃げようとしているだけ」と。

 分かっている。拓の言う通り俺は言い訳を作って逃げようとしているだけだ。でもしょうがないじゃないか。ただの一般人の俺にはヒーローみたいな不屈の精神なんて持ち合わせていない。そんな俺は一体どうしたらいい?何を頼りにすればいい?

 でも拓は言った。「なにを思って生きてきた」と。

 俺はただ笑っていてほしかった、俺の手の届く範囲にいる人達全員に。もう母さんの時のようなお別れはしたくなくて。

分かっている。きっと俺がここで逃げてしまってはそんな些細な願いも抱くことが出来なくなってしまう。それは俺と言う人間の否定に他ならない。分かっている。分かっているけれどそれでも怖い。死にたくない。生きていたい。

でも拓は言った。「胸を張って生きて行けるか」と。

出来るはずがない。俺自身を否定して、虎太郎や拓からも距離を置いて、それで俺は何を思う?決まっている。後悔だ。俺は逃げ出した瞬間に抱いた、消えることのない身を焦がすような後悔を抱きながら、死ぬまで生きていくしかない。だからそう、分かっている。本当は何もかも分かっている。俺が俺である限り、黙って従うか、縮こまって耳を塞ぐか。その二つに大した違いが無いことなんて。これ自体が言い訳でしかないことなんて。

本当に、本当に嫌だ。死ぬのも、死なせるのも、後悔をするのも。この先状況に流された末に辿り着く、全ての結末が許せない。だからもう、膝を突くのはやめにしないといけない。

「僕だって出来るのなら!だけどそれが出来ないから―――」

 いつの間にか顔中を涙でぐしゃぐしゃにした拓の肩に手を置き病院に背を向ける。

あぁ、足が震える。涙が出そう。恐怖で漏らしそう。今度こそマジで吐きそう。一度でも弱音を口にすれば、辞書を遥かに凌駕する大量の言葉が出てくるだろう。

でも俺にとってあの時間は何より大切な俺の一部だから。そして俺にはあいつがいないとダメだから。だから俺は戦おう。俺達がまた笑える日のために。

「ごめん、ありがとう。……行ってくる」

「……うん」


「待っていましたよ、弘人」

 門の前に着くとそこにはフードを目深に被る人影が一つ。だがその声には聞き覚えがあった。

 人影はフードを取り払うと一歩前に出て街灯の明かりの下へと姿を現す。

黒地に赤い彼岸花。その美しい髪と瞳に映える柄の着物は、元々彼女の持ち合わせる高貴さをより強調させ、神々しさに近いものを醸し出している。こんな時でなく、更に着物の上からパーカーを羽織るなんて酔狂な格好をしていなければもしかしたら見惚れていたかもしれない。

「七瀬」

 街灯下美人…もとい七瀬は、羽織ったパーカーを脱いで右腕にかけると俺のもとへ近づいた。

「おおよその事情は予想出来ますが、確認のため詳しく聞いても?」

俺は何も言わずにくしゃくしゃになった手紙を差し出す。七瀬はそれを黙って読むと眉を顰めて顔を上げた。

「よくここまで来れましたね」

「だから手伝ってくれ」

 それだけ言うと門から出ようと足を踏み出す。七瀬は似合わない真面目な顔で立ち塞がった。

「あなたは戻った方がいい。怖いのでしょう?その目元を見れば分かります」

「あぁ怖い。だけどそれがどうした」

「どうしたって…」

「俺がここで引き籠ってどうなる。何か変わるか?何も変わらない。何もしなくても俺は結局死ぬんだよ。だったら一縷の希望にかけて俺は俺の大切なものを取り戻しに行く」

 俺の大切なものをもうこれ以上奪わせないために。あいつらとの時間を取り戻すために。

「正直あんたの心遣いはありがたいよ。だけどもう、止めてくれ」

 俺は七瀬の横を通り抜け、病院の敷地から踏み出した。

 


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