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Bloodchain  作者: 三井紘
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ボーイミーツガール(?)

「うっ、背中いったぁ」

穏やかな森林の中、俺は目を覚ました。いつの間にか木を背にして寝てしまっていたらしい。

左手首に巻いた腕時計を見ると、どうやらあれから三十分近く経っているようで、先を行く四人は最早見えず、相当先まで進んでしまったことが窺えた。まぁ翼さんが楽しんでいるのならそれでいいのだけれど。

ただそれでいいと言っても四人とかなり離れてしまった。これでは俺一人でゴール出来ないかもしれないとスマホを取り出すと、SNSアプリを起動し虎太郎のトーク画面を表示する。

「悪い。追いつけないかもだから、俺のこと気にしないで適当なところで下りて」。そう打ってから送信し、そしてすぐに取り消しした。

確かにかなりみんなとの距離は遠いが、それでも決して追いつけないと決まったわけではない。出来るところまでやってみよう。

「登りきったら連絡して」と代わりにメッセージを送り、思いっきり伸びをしてから背にした木に手をついて一気に腰を持ち上げた。

「うおっ―――バクッ!」

 体が重力に引かれ、次の瞬間全身に鈍い衝撃が走った。俺は寝起きのためか足元が覚束ず、木の根に足を引っかけそのまま盛大にコケてしまっていた。

 耳まで真っ赤になっていくのを感じる。初めて知った。この歳にもなってコケるとここまで恥ずかしいのか。

「随分と鈍ってるなぁ。ま、まぁ?鍛え直したらこんなことは絶対に起きないし?」

やめよ、虚しくなってきた。

 気を取り直して立ち上がると土のついた手をはたき、腰に手を当て右に左に体を伸ばしてから大きく深呼吸を一つする。すると肺の中に澄んだ空気が満ちていくのを感じた。

寝起きのせいか視界が霞んで見えるが、どうやらここの空気を綺麗だと正常に認識出来る程度には回復したらしい。

「うっし、行くか!」

 勢いよく両頬を叩いて気合を入れ直すと、登山を再開すべく背中側にある山道に振り返った。

「え?」

 そこにあったのは樹海だった。

 つい数秒前まであったはずの気休め程度に整備された山道はそこにはなく、代わりにあったのはどこまでも連なる木、木、木。永遠に同じような景色が続いていた。

 後ろだけではない。足元も、よく見ると周りも全てが違う。踝程度しか生えていなかったはずの雑草は脹脛(ふくらはぎ)辺りまで背を伸ばし、密度もずっと増している。周囲の木々も太さ、長さ共に増していて空からの光を暗く閉ざしている。一見すれば神秘的、しかしその場に身を置けば酷く寒々しく不気味なここはまさしく樹海だった。

 瞬きを三度する。直後、全身を冷たいものが駆け抜けた。

理解が追いつかない。訳が分からない。ここはどこだ。そんな疑問は俺に未だかつて経験したことのないような不安を感じさせた。

 首筋を伝う嫌な汗。鼓動を速める心臓。委縮する心を誤魔化すように俺は大きな声を上げた。

「誰かいませんかぁぁぁ!」

 放った声は木霊し、擦れる葉と動物の鳴き声だけが返事をする。

「そうだっ!」

 俺はスマホを取り出すと、電話帳のタ行から立川碧羽を見つけ、通話ボタンをタップして耳に当てる。

『おかけになった電話番号は、現在使われていないか、電波の届かないところにあります』

 スマホは淡々とそう告げた。俺は急いでもう一度碧羽にかけ直す。

「クソっ…!」

 もしみんなもこの怪奇現象に巻き込まれていたら?

 繋がらない電話のせいでそんな嫌な想像が頭をよぎり、ただでさえ自分のことで一杯一杯だった俺の心の余裕を破竹の勢いで削っていく。それでも俺は手を動かした。

 二度三度繰り返しても一向に繋がらない碧羽に見切りをつけ、今度は虎太郎に連絡しようと再び電話帳を開く。その時、右上の表示が目に入った。

「圏…外…?」

 手からスマホが滑り落ちた。

「誰か!誰かいないのか!」

 縋るように叫ぶ。しかし状況は何も変わらない。

 人はいない。場所も分からない。文明は役に立たず、みんなの安否も掴めない。当たり前の生活の中に当たり前に存在したあらゆるモノが使えないこの状況では俺はあまりに無力で、目の前に広がる景色は得体の知れない異世界のように見えてきた。

 震えが止まらない、力の入れ方が分からない。その場に膝を着きパニックで過呼吸に陥る。段々と覚醒する意識はどうしようもない現実を如実に理解させ、俺の精神を摩耗させていった。

「落ち着け…!落ち着け…!落ち着け…!次は何をすればいい!?」

 それでも俺は思考を巡らせ続ける。ただし事ここに至ってそれは状況を打開するためのものではない。ただここで何も出来なくなるのが怖いから。目の前に広がる世界の中では俺は無力なのだと意識したくないから。とにかく無意味だとどこかで分かっていても頭を回すことを止めなかった。

 でもそれも長くは続かなかった。必死になって考えれば考えるほどに正解は分からなくなり、思考は鼬ごっこを始める。そしてついに行き止まりに辿り着いた。

「誰か……いないのかよ……」


「あたしは弘人を信じてるから!」


 不意に幼い女の子の声が聞こえた気がした。

「あお…ば?」

 返事はない。周りには相変わらず緑が鬱蒼と生い茂り、動植物が発する声だけが響いている。

しかし結局状況は何も変わっていないのに、気が付くと幻聴を聞くほどに追い込まれていた自分を笑えるくらいには心が凪いでいた。

「本当にお前は……」

 目元を拭い、リュックから緑茶を取り出して一気に呷ると立ち上がる。

 こんなところで立ち止まっていられない。これでは碧羽に笑われてしまう。

「怖がってても何も変わらない」

 強く頬を叩いて頭を切り替えてから状況を一つ一つ整理する。

 俺が起きてすぐは何の変哲もない山道脇にいた。これは間違いない。そこから考えるにきっかけは恐らくコケたこと。あの時に何かが起きたのだろう。

では何に巻き込まれたのか?インターネット産の知識しか知らないため正確なことなど何も言えないが、一つ一つ可能性の低そうなものから消去法的に潰して考えるのなら、結界に巻き込まれたと考えるのが一番適当だと思う。

結界は核と呼ばれる制御術式のあるポイントを基点として、周囲を守る魔術だ。もし今回のこれが結界だったとするのならば、正規の出入りの仕方を知らない俺が自力で脱出する方法は二つ。一つは結界の構造に干渉して浸食、所謂ハッキングを仕掛けて自らの制御下に置くこと。二つ目は核の破壊。前者は魔術師であることが前提であり、更に構造解析の高い技術が求められる。つまり俺には無理。であるならばあとは後者しかない。

「行くぞ、俺」

 ざわざわと葉が鳴る薄暗い森。俺は深呼吸すら震えてまともに出来ない体で、森の中を歩き始めた。


 しばらくして分かったことが二つある。一つは視界が霞んでいたのは寝起きだったからではなく本当に霧が出ていて霞んでいたこと。もう一つは俺の進んだ方向が間違いで無かったこと。

 と言うのも、歩き出してしばらくしてから幹に符の貼られた木がちらほら見え出したのだ。そしてそれは進めば進むほど増えていき、途中からは頭上を縫うようにして縄まで張り巡らされるように。今俺が歩いている地点では、見える範囲全てがそんな感じにデコレーションされている。こんな草臥れた集落を舞台としたJホラーみたいな景色をしておきながら、見当違いの場所に着くことはないだろう。

しかしデコレーションだとかJホラーだとか言いはしたものの、この風景を正しく表すにはそれらは適当ではない。背の高い木々はもちろん、符や縄、張りつめた空気も相まって、足を踏み入れることそれ自体が不遜を働いているようなプレッシャーを感じるここは恐らく、神の居住まい。神域と言い表すのが適当なのだろう。

「はぁ…」

いや、神域などと(えら)く畏まった言葉で言い表してみたけれど、正直そんなことどうでもいい。俺にとって今重要なのは、それだけ不気味であると言う一点のみ。進むと決めたとはいえ怖いものは怖い。簡単に人の認識など変わりはしないのだ。

ポツリ

「ひっ!」

 周りをキョロキョロ窺いながら歩いていると突然後ろからそんな音が聞こえ、俺は驚いて振り返り身構える。しかしその音は少し開けて別の場所からもう一度、今度は直後にもう一度。どんどん間隔は狭まり、気が付くとスコールのような暴風雨になっていた。

「なんだ雨かよ……いやいやいやいやそんな悠長にしてる暇あるか!」

自分にセルフツッコミを入れてから急いでリュックを前に持ってきて、折り畳み傘を取り出そうと漁り始める。すると視界の端に何やら洞窟のようなものが映った。

「ラッキーだな」

 本場熱帯地域にも勝るとも劣らぬ暴風雨。そんな中で高々大型スーパーの折り畳み傘が使い物になるとはとてもじゃないが思えない。

そう判断した俺はリュックを背負いなおし、泥濘んだ地面に足を取られないよう気を付けながら洞窟まで走った。


入り口に注連縄が掛けられた洞窟に駆け込むと、体をタオルで拭いてから顔を上げる。

洞窟の中は目算で幅が3メートル、高さが4メートル程。奥行きは見通せないが見える範囲では一本道であると窺えた。ただ、地面の両脇と天井に所々に顔を覗かせる怪しい蛍光緑の光を放つ岩を見て、ここが普通の洞窟で無いことだけはすぐに理解した。

これもまたネットで見た知識のため合っている確証はないが、この岩は使い捨ての外付け魔力タンク…要は電池みたいな役割を持つ希少鉱石だったはずだ。そんな希少鉱石がその業界の人が見たら失神しそうなほどに群生しているなど、どう考えたって普通じゃない。入口の注連縄と言い、希少鉱石と言い、ここが結界の中心…そうでなくとも重要なポイントであることに間違いはないだろう。

大きく深呼吸を一つする。俺は覚悟を決め、洞窟の中を歩き始めた。

と、気合を入れたはいいが歩くこと五分、洞窟は意外と呆気なく終わった。あれから右へのカーブが一回あったものの、分かれ道などのダンジョン的要素は一つも存在せず、ただ平坦な道が続くのみだった。そして終点もやはり何の面白みもなく…なんてことはさすがになく、俺は終点にあった物を見て思わず息を飲んだ。

半径10メートル程あるドーム型の終点。その真ん中に鎮座するのは立派なお堂だった。

木製で出来たそれは高さが天井ギリギリまであり、横幅は大体9メートル、奥行きは7メートル。塗装は特に施されておらず、木目がしっかり見えている。そしてついさっき完成したばかりと言われても疑問を抱かないほど真新しかった。

全く手入れされていない道中や外とは明らかに違う、まるでここだけ時間が止まったかのようなお堂と周囲の対比は、アンバランスで出来の悪いパッチワークのよう。でもそんな奇妙な光景に対し俺は不思議と忌避感を抱くことは全くなかった。抱いたのは強烈な親近感。不思議だ。こんな強い親近感はばあちゃんや碧羽にすら抱いたことがない。

「あ」

惚けて立ち尽くしていた自分に気が付く。確かに不思議だが今は一分一秒が惜しい。

俺は失礼のないよう一礼してからお堂を調べようと近づいた。

「なんだこれ」

だがお堂に向かって一歩足を進めた途端、まるで招き入れるかのように扉は独りでに開きだした。

入りたくねぇ…。

 恐らくこれは俺に入れと言う意味なのだろう。だがお堂さんや、あんたのするそれと碧羽のするそれとでは意味合いが一八〇度違うのよ。むしろ入りたくなくなったわ。

だがしかしそう悪態ばかりもついていられない。みんながの安否が掴めない以上、ここで足踏みをしている時間などない。

意を決して、外観と同じく相変わらず奇妙なほど綺麗なお堂に靴を脱いで上がる。中にはこれまた立派な祭壇が置かれていた。

真ん中に神鏡が置かれ、その両脇には榊の葉。前には一振りの刀。他にも供え物らしき物が多数置いてある。

俺はどれから調べるかを悩んだ結果、手始めに刀から調べてみることに決めた。理由は特にはないが、強いて言うなら男の子の…と言うより日本男児の性だろうか。

そんな血に突き動かされ、軋み一つ鳴らない木の床を歩いて奥まで進んだ俺は、刀に向かって手を伸ばした。

「…ん?」

 後ろを振り返る。そこには俺の歩いて来た道があるだけだった。

 一瞬、二本の角を生やした影のようなモノが神鏡に映った気がした。だがどうやら気のせいだったらしい。

思えばさっきから目がしばしばする。こんな状況だ、自分でも気が付かない間にまた疲労が溜まって幻覚でも見たのだろう。

「早寝早起き朝ごはん」なんて小さい頃は言われるたびにそっぽ向いていたが、寝不足と朝食を抜いてこうも不測の事態に陥っていては世話ない。今日こそは早く寝よう。

刀を祭壇から丁寧に取り上げると、いつ独りでに閉まるかも分からない扉を警戒してとりあえず外へ出る。それから適当なところに腰を下ろし、観察を始めた。

まず藍色に染められた柄巻きに目を引かれた。きっと並の職人ではこうも美しく染め上げることは出来ない。長年研鑽を続け、更にその中でも一握りの者にのみ身に着けることが出来る職人技の成せる物なのだろう。ターコイズブルーの目貫も柄巻きとの色合いが良く映えている。

鍔は色や触った感触からして恐らく金属製だろう。これもまた一切の歪み無い綺麗な楕円型をしており、内側の細工も精巧で美しく、作った職人の技術力の高さを証明しているようだ。

刀を包み込む鞘は漆黒に染め上げられており、表面に一切の凹凸がなく、また色むらも見て取れない。人の手でこれが削り出されたとはまるで信じがたいほどの完成度だ。

浅草の仲見世通りやお土産売り場で売られている模造刀なんかとは明らかにレベルが違う。塗り物、染め物、そして刀。そう言った物全般に対し門外漢な俺ですら、スラスラ感想が出てくるほどの美しさ。きっと外身だけでも国宝級の超貴重品なのだろう。

一通り見まわして外観を把握した俺は、貴重品だと理解したためかさっきよりも重く感じる刀を膝に置き、今度は刃を確認するために柄を握って力を込めた。

「あれ?」

 が、刀はピクリともしなかった。

 固い。あまりに固い。セメントでも流し込んだのではと疑うほどに固い。こんな物をいつも軽々抜いていたのだとしたら時代劇に出てくる侍は間違いなく化け物だ。

 いやしかしセメントはないにしても本当に固い。鞘と鍔の間に僅か1ミリ弱の隙間が空いていることから、抜けない造りになっている、なんてことはないと思うのだけど、それにしても抜けるビジョンがまるで浮かばない。とは言えここで諦めてしまっては何の進展にもならない。とりあえず力尽くでやってみよう。

左手で鯉口辺りを握り締め、右手を柄に添えてから大きく深呼吸を一つ。

「ふんっ――――――――――――――だ痛った!」

 抜けた。あれだけ固かったのに一度緩めばそこからは嘘のように軽く抜けた。だが抜いた代償として、刃は俺の左人差し指の皮を切り裂いていった。

 プックリ膨れる赤い玉、それは次第に溢れ出す。

俺は慌てて刀を横に置くと緑茶をリュックから取り出して傷口にかけ、それを口に咥えた。

 対処としてこれが合っているか詳しいことは分からないが、緑茶にはカテキンと言う殺菌作用のある成分が含まれていたはずで、「傷は舐めれば治る」とばあちゃんが言っていた。科学とばあちゃんの知恵。この二つが揃っていれば大概のことは解決する…と信じたい。

 そんな一抹の不安を抱きながらしばらく無言で傷を舐めていると、次第に鉄の味がしなくなっていくのを感じた。口に咥えた指を取り出して傷を見てみると既に血は止まっている。幸いにも見た目ほど酷いものでもなかったらしい。

 「ふぅ」と思わず肩の力を抜くも、そんな悠長にしている暇はないと、俺はすぐに刀を手に取り観察を再開する。そして刃を見るなり、生唾を飲み込んだ。

 鈍く光を反射する刃。美しく、高貴なまでの風格を帯びるそれは、世界中に剣の種類数あれど、刀が別格として扱われる理由をその身をもってして示していた。

切っ先も波紋も反りも全てが計算しつくされた芸術品のように美しく在りながら、それでいて刃先は揺蕩う落ち葉さえ逃さぬほどに鋭い。美と狂気を内包したその在り方は正しく日本刀。いや、これはきっとこれは並みの日本刀ではない。その狂気すら愛おしいと感じてしまうこれには、妖刀と言う言葉が相応しい。

 しかし俺は刀を持った右手を恐る恐る地面に付けて視界から外すと、小さく嘆息した。

 この刀は手放しに誉めるに値する代物だったが、残念ながら逆に言えばそれだけ。俺が欲していた脱出及びみんなの安否を確かめるための手掛かりは一つとして見つからなかった。

「さぁどうしよ、ここまで来て無駄足とか笑えるなぁ」

 出来るだけ考えたくはないが、もしかするとあり得るかもしれない。まだ刀だけだし決めつけるのは早計だと言われそうだけれど、あんなに意味ありげに置かれていたこの刀がスカだったことを考えると、もう全部そんなようにしか見えなくなってきた。それに肩の力と一緒に緊張の糸も緩んでしまったのか瞼が重い。少し休んでから続きを調べよう。ちょうど温かくなってきたし―――

「ん?温かく?」

 温かい物なんて俺は持ってきていたか?スマホはポケットの中だがそもそも使っていないので発熱なんてしない。もちろんカイロなんてこの夏場に持ってくる訳もない。では何が?

 視線を落とす。

「えぇ…」

 刀だった。

 今日はもしかしたら厄日なのかもしれない。碧羽との朝の一件から始まり、空腹で倒れ、結界に巻き込まれ、謎の刀で指を切り、極めつけはその刀が発熱しだす。なんだこの不幸の数え役満は。京都は俺に恨みでもあるのか?

 シュー

「っ!」

右手に異音を伴って燃えるような激痛が走る。俺は突然の事態と痛みでパニックになり、咄嗟に手に持つ刀を放り投げた。

「うっそだろおい…」

 しかし投げた刀は重力に従うことなく、それがさも当たり前かのように宙に浮かんでいた。

 物を浮かばせる。その行為自体は科学技術の進歩した現代において機材さえ揃っていれば何ら難しいことではない。そう、機材さえ揃っていれば。だが今俺がいるこの洞窟には理系な機材は一つとして見当たらない。つまりそれはもう一つの技術体系。魔術による現象だと考えられる。

 物を浮かべる魔術には、確か重力魔術と言う物があったはずだ。ただしあれは術者が常に対象を目視で捉え続けなければいけない制約があったはず。つまりこれが重力魔術だとしたならば、近くに術者がいることになる。だが周りを見回してみても人影はなく、そもそも発熱しながら浮かぶ重力魔術なんて聞いたことがない。

 本当に最悪だ。最悪過ぎる。こんな事態に巻き込まれると分かっていたなら、俺には関係ないからと毛嫌いせずもっと魔術の関連記事を読み込んでいたのに。

 俺は訳も分からず取り乱す。しかし刀はそんな俺を嘲笑うかのように変化を起こし始めた。

宙に浮かんだ刀はまるで胎動でもするかのようにドクンドクンと脈動しだし、切っ先から柄に向かって血のような赤に染まり出す。そして全体が染まった瞬間、強い衝撃を伴って半透明の赤い球体を展開した。

パキン、と小気味いい音とともに奥の神鏡にひびが入る。それを合図にグチャ、ヌチャと不快な水音を立てながら真っ赤に染まった刀は粘土のように蠢き出して、何か別のモノへ姿を変えていった。

 怪しい蛍光緑の灯る薄暗い空間。そこに響くのは不快で不気味な水音。そこあるのは半透明の赤い球体と、赤い粘土のような何かと、そして俺。

 体が、動かなかった。

この緊急事態に際し、この場に留まることがどれだけリスクを伴う行動か頭では理解している。だが仮に俺が少しでも動こうものなら、その途端にもっと不可解で恐ろしいことが起きてしまうのではないかと、視線を釘づけにされたまま動くことが出来なくなってしまった。

下腹部から胴体を伝って頭の先へ駆け抜ける冷たい重圧を誤魔化すように、口の端を釣り上げる。しかしすぐに引き戻された。決起は再び遭遇した恐怖の前に容易くへし折られていた。

怖い。ただ怖い。ここは一体どこなんだ?これは一体何なんだ?あれが変身を終わらせたとき、そこには何が立っている?ドロドロに溶けた粘液?グチョグチョした肉塊みたいなクリーチャー?それとも獰猛な獣?どんなモノが出てきても、俺がここから無事に出ていける気がしない。つまりもう打つ手はなく、後は状況に流されるしかない。

何時しか俺の口からは乾いた笑い声が洩れていた。両手を上げることも許されず、一体ここがどこなのかすら教えてもらえない理不尽さは、俺の心の許容量を大きく上回っていた。

「は、はは…、あぁ、終わっ―――」

 しかしそう全てを諦めようとした時、ふと母さんの顔が浮かんだ。目から一筋の涙を流し、自分を押し殺すように扉から出て行ったあの時の母さんの顔が。

次いでばあちゃんの顔が浮かんだ。虎太郎の顔が、拓の顔が、そして碧羽の顔が浮かんだ。

俺は落ちている石を掴んでいた。

「てない!死んで堪るか!」

 そう、俺はこんな所で死んではいられない。俺にはまだやりたいことと、やらなければならないことが山積みとなって残っているのだから。

掴んだ石にありったけの思いを乗せて球体に投げつける。石は真っ直ぐ球体に飛んでいき、そして無情にも弾かれた。

「なら…!」

 弾かれた瞬間すぐに周りを見回し、次の石を探す。すると右手の方に石を見つけ、すぐに取りに行こうと全身に力を込めた。だが俺の足は動かなかった。

 心は折れていなくとも、体は既に折れてしまっていた。

「クソっ、まだだ…!」

 それでも俺は地面を這いつくばりながら、石を掴もうと腕だけで体を引きずった。

「くら―――」

 ようやく拾った石を投げようと、腕を引き絞って球体に向き直る。だが丁度そのタイミングで半透明の赤い球体はまるで時間を巻き戻すかのように収縮され、跡形もなく消えてしまった。

 消失とともに巻き上げられた土煙は俺の視界を塞ぐ。何も見えない。でもそれは敵も同じ。

考えようにはこれはチャンスだ。どんな化け物でも俺には勝つ自信がないが、だけどそもそも勝つ必要なんてない。俺は今この場を凌ぎ切れればそれでいい。だったら視界が戻ったと同時に石を投げつければ、例え勝つことは出来なくとも撃退だけなら出来るかもしれない。

腕を引き絞ったまま球体のあった方向を睨みつける。やがて舞い上がっていた土煙は落ち着きを見せ始め、俺の視界は再び開かれる。そして俺は石を落とした。

空気が変わった。

 ついさっきまであったはずの煙たさと緊張はどこへやら。刀があったはずの場所に突然姿を現した彼女はそれほどまでに美しかった。

 オニキスのように黒く艶やかな長髪に、夕焼けのように真っ赤な瞳。数学者が卒倒しそうな首から肩にかけての曲線美に、張りのある形のいい胸。およそ理想的な腰つきに、スラッと長く白い手足。少女の可憐さと、大人の女性の妖艶さを兼ね揃えた彼女は存在その物が奇跡のよう。傾国の美女と言う言葉がそのまま人間の形になったような美しさだった。

 そんな彼女は自分の体を確認するように見回してからその歩を進め、目の前でしゃがむと、きめ細やかな指を俺の頬に這わせた。

「これは、いきなり敗色濃厚かもですね」

「はい、え?」

「……まぁいいでしょう。ねぇ弘人?一つお願い、良いですか?」

「え、お願いですか?」

「えぇ。服、貸してくれませんか?その中に入っていますよね?」

 彼女は俺の背負ったリュックを指さして言う。

 確かに着替え用としてTシャツと半パンはリュックの中に詰めている。だがそれをなぜ彼女は知っているのか。いやそれ以前になぜ彼女にそんな物が必要なのか理解出来ない。彼女はこんなにも美しいのに、そんな物は蛇足だろう。

「別に私はこのままでも構わないのですが、それではあなたが困るでしょう?」

「?………!」

 言われて初めて気が付いた。彼女が一糸纏わぬ姿で今俺の前に立っていることに。

 あまりの美しさに視覚情報と意識を繋げるなんて生物として当たり前の機能すら正常に働かなかったのだろう。いやしかし改めて意識しだすとなんだがムラムラと…

「いやいやいやいや!」

 それはダメだろう五木弘人。彼女は得体の知れない存在だが人の形をとっている以上女性だ。

誘ってきた。不可抗力。その場の雰囲気。確かに今この場には言い訳がずらりと出揃っている。だがそれが何だと言うのか。そんな言い訳を盾にして今出会ったばかりの女性に手を出すなど獣と何の違いがある?出会ってすぐ合体など仮にも人間がするべき行動ではないだろう。それが許されるのはAVの中だけだ。だから俺は意地でもこの昂る衝動を押さえつけなければいけない。ただきっと俺のこの決意に対し「情けない」だとか「草食」だとか「据え膳食わぬは男の恥」だとか言う輩もいるのだろう。だったら俺はそんな輩にこう言いたい。

「時代錯誤にも程があるだろうが!今は令和ぞ!」

「あの、どうでもいいんですけど服借りても?」

「はいどうぞ!」

 俺はリュックを差し出すと彼女に背中を向ける。彼女は俺からリュックを受け取ると、早速中身を取り出し、小鳥のさえずりのような耳心地いい鼻歌を奏でながら着替えを始めた。

 あぁしかし今日、俺はどうやら本当に厄日らしい。彼女の奏でる鼻歌は思わず聞き入りそうになるほど綺麗な音色だ。きっと世界中の音楽鑑賞家がこんな特等席で聴ける俺を羨むことだろう。だが当の俺はと言えばそんなこと気にすることが出来ないほど精神力を試されていた。なぜか?鼻歌と共に聞こえてくるのだ、衣擦れ音が。

 さぁここからが戦いだ。相手は本物の傾国の美女。俺は脳内フォルダーにきっちり保存された彼女の裸と聞こえてくる衣擦れ音を全力で無視しなければいけない。言うなればこれは理性と性欲がたった一つのパイを奪い合うゼロサムゲーム。一度落ちればその先はない。始めよう。

 衣擦れ音が聞こえる。頬を叩く。衣擦れ音が聞こえる。頬を叩く。衣擦れ音が聞こえる……

 

「もういいですよ」

 頬を叩きだしてからおよそ十分。Tシャツと半パンを穿くだけにしては長すぎる時間が経過した頃、彼女はそう声を掛けた。俺は恐る恐る後ろの彼女へ振り返る。

「なんで顔パンパンなんですか…」

「……」

サイズの話をしよう。サイズは古くは客一人一人の各種寸法を毎回計測することによって決めるオーダーメイドが主流だったが、現代ではJIS規格によってS、M、Lなど設定された所謂(いわゆる)“吊るし”が主流になっている。ただ寸法の合わせ方に違いがあっても変わらない点が一つだけある。それは自分に合ったサイズを選ぶということ。当たり前のことだがこれは重要なことだ。だって大柄の人がピチピチのシャツを着ていたら何か違和感があるし、逆に小柄な人がダボダボの服を着てもこれまた違和感がある。昨今ではオーバーサイズなる物もあるが、それだって精々1サイズ、どう頑張ったって2サイズ上がくらいなものだ。三つ以上サイズが変わるとそれはもう違和感が先に立ち、似合う似合わない以前の問題になる。

なるはずなのに、なぜか振り返った先にいた彼女は恐ろしく似合っていた。

 179センチある俺と、女子にしては高いがそれでも165センチ程度の彼女では服のサイズが全く違う。実際、半パンは裾が膝下まであるし、Tシャツからは少し肩がのぞいてしまっている。それなのに彼女は不思議と似合っていた。

いやしかしこれは本当に危険だ。もう俺の中の警鐘が割れる勢いで叩き鳴らされるほど危険だ。例えば彼女の姿を見た女の子達が勘違いして同じような格好をしたら?世界のファッション偏差値は著しく下がってしまう。

「お願いします、それを脱いでください」

「は?」

「世界を救うためなんです、お願いします」

「うーんと、ちょっと待ってくださいね。えっ、脱ぐんですか?今ここで?」

「はいここで、今すぐ」

「あーっと………殴ってもいいですか?」

「なんでですか!世界を救うためなんですよ!?」

「あのそれ本気で言ってます?」

「言ってます。それに裸見られても平気なんだったらいいじゃないですか!」

「確かに平気ですが、自分が何を言っているか分かってます?モラハラ&セクハラですよ?」

「ホントだ。すみません今の発言は撤回させてください」

「いいですけど…」

「クソっ、なら俺はどうしたらいいんだ!」

「あーなるほど…」

 世界のファッション偏差値を下げる訳にはいかない。だが同時に彼女を脱がせるのもモラルに反する。もう八方塞がりだ。母さん、碧羽、みんなごめん、俺にはどうすることも出来ない。

「なら提案です。私とこの洞窟の出口まで競争しませんか?もしあなたが勝てたのなら服を返しますよ。これなら私から脱ぐと言っているのですから気にすることないでしょう?」

「いやいやいやいや」

 そんなことは許されない。さっきまで頭のおかしいことを言っていたがもう大丈夫だ。

今彼女は自分から脱ぐと言っている。もちろんこれはダメだ。女の子を脱がすなどあってはならない。モラルに反する。公序良俗に反する。仮にも来年には二十歳、つまり法律で大人と認められる男がやっていい所業ではない。本来は。

でも今は世界の命運がかかっている。そんな状況なら犠牲は仕方ないのではないだろうか?これは必要な犠牲、所謂コラテラルダメージだ。なら答えは一つしかない。

「乗った!今の言葉絶対に忘れないでくださいよ!」

「えぇ良いでしょう、ただしあなたが私に勝てたらですけどね」

 彼女が挑発的に笑いながら差し出す手を、俺は勢いよく掴んでそのまま立ち上がる。

 それから二人でスタート地点を決め、俺が準備体操をして体を慣らしていると、どこからか持って来た草履を履いた彼女もその隣で体を動かし始めた。

ますますキメラだが、それでもぱっと見違和感を覚えないあたり本当に危険だ。俺がここで止めなければ。

決意も新たに靴紐を縛り直してからリュックを背負い、スタート地点でクラウチングスタートの型を取る。

「へぇ、リュック背負いながら走るんですか、余裕ですね」

「ハンデですよ」

 俺は中学、高校と足の速さに関してはそれなりに上位だった。だから陸上の選手や吸血種だったら負けるかもだが、それ以外基本的には負けない自信がある。彼女がどう言うつもりでこんな無謀な勝負を挑んできたのかは分からないが、どうせ勝てるのだからわざわざ終わった後に取りに来るなんて馬鹿らしいことする必要もないだろう。

「あ、そうだ。気になってたんですけど胸が透けてないのは晒しでも巻いてるからですか?」

「あー、本格的にマズいですねこれ、早く何とかしないと」

 俺の至極普通の質問に対し、なぜか彼女は顔を片手で覆った。俺は何かおかしなことを言っただろうか?

 彼女はそんな俺を見て「しょうがないですね」と呟くとクラウチングスタートの型を取る。

「弘人」

 彼女は前を向いたまま言う。

「なんです?」

「だからあなたは童貞なんですよ?」

「はぁあ!?」

 俺は彼女の言葉に思わず大声を上げた。理由はそう、それが事実だから。

 モテる虎太郎はもちろんとして、高校からの友達ほぼ全員が高校在学中ないし、大学入学後半年で童貞を捨てている中、未だ童貞であると言うのは俺の中でかなり大きなコンプレックスになっていた。

別にだから彼女が欲しいだとか、二十歳までに捨てられなかったら風俗行くだとか、そこまで追い詰められている訳ではないけれど、それでも俺はMじゃないのだから、会って間もない人間にそんなこと言われるなど気持ちいいものでは決してない。

と言うか今まで不思議と流していたが、名前を含めなぜ彼女は俺のパーソナルデータにここまで詳しいんだ。

「っておい待て!」

 怒りと驚愕と疑問と様々入り混じったよく分からない感情に苛まれる俺を傍目に、彼女は全力疾走を始める。俺は置いていかれまいとすぐに彼女を追って地面を蹴った。だがしかし、走り始めてしばらくしても彼女の背中を捉えることが出来なかった。

 さっきも言った通り俺は足が速い部類に属する。だから例え陸上部員でも大会で選抜されるような一部の部員以外には負けたことがなかった。例外を挙げるとするならばさっきも言った通り吸血種くらいだろう。ん?吸血種?

「って、あんた吸血種じゃねぇか!」

 俺の前にはヒント…と言うより答えそのものがずっとぶら下がっていた。

彼女の瞳。夕焼けのように紅く美しいその瞳は吸血種の代表的な特徴の一つだ。それなのに俺は今の今まで彼女が吸血種であると気が付くことが出来なかった。なぜだ?

いやそんなことは今は良い。それよりも彼女が吸血種ならば俺の勝利は決して盤石な物ではないと言うことになる。

吸血種とヒト種では身体能力に大きな違いがある。具体的に言うなら、スポーツで男女問わず別部門として競われるほどに違う。そして学校で行われる体育の授業も基本別だ。

そう、俺が上位だと言うのは当然ヒト種の中の話であって、吸血種の同級生はその中には入っていない。つまり、ここまで差が付けられ、更に自ら重荷を背負った俺が彼女に勝つと言うことは霞を掴むような所業に等しく、可能性は限りなくゼロに近いのである。

しかし俺は俺に問う。果たしてそれでいいのだろうか?身体能力の違い。人種の違い。そんな理由で童貞をバカにされた恨みを飲み込めるだろうか?

否である。断じて否である。吸血種が何だと言うのか。それしきのハードルなど馬鹿にされた童貞からしたら近所の公園の生垣程度の高さしかない。世界?知ったことか。彼女には童貞のプライドを傷つけた罪を贖わせなければいけない。

「待てこのヤロォォォォ!!」

 感覚が鋭敏になっていく。足が掴んだ土の感触も、前を走る彼女の息遣いも手に取るように分かるようになり、体の重みはそれに伴って感じなくなっていった。人は時に何かを守るため、普段以上の力を発揮する。俺は自分のプライドを守るために風になった。

 彼女の背中が射程圏内に収まる。前を向くと残り距離は目算で20メートル程。

 ここからはお互い、集中力が欠けた瞬間に敗北が決まる。だが今現在俺が彼女を追い上げていると言うことはつまり、俺の方が速度が出ていると言うことに他ならない。このペースならばタッチの差だろうが俺が勝つ。賭ける。この思いを、魂を―――

「あ」

 ラストランに全てを掛けた瞬間、俺の体は吸われるように地面へと引き寄せられていった。視線を足元へ向けると、そこにはひょっこり顔を覗かせたこぶし大の石と浮き上がった体。

察した。足を引っかけたことを。

 俺の頭に様々な記憶が駆け巡る。

小三でばあちゃんに初めて会った時のこと。碧羽に初めて会った時のこと。碧羽に助けられたこと。中一で虎太郎に初めて会った時のこと。三人でバカやった時のこと。拓と入学式で初めて会った時のこと。他にも無数の思い出が駆け抜け、最後についさっきの彼女との出会いが流れた。なるほどこれが走馬灯か。

「くぁwせdrftgyふじこlp」

ドッタンバッタンと、縦に横にアクロバティックな転がり方をした俺は彼女を抜き去り、どうにか出口付近で動きを止めた。

不幸中の幸いとして周りの岩にぶつかることはなかったため大きな怪我はないようだが、それでも体中に痣が出来ていると自分で分かるくらいには痛い。

「最近転んでばっかな気がする…」

「どうですか?目覚めました?」

タッタッタと、足を鳴らしながら彼女は歩いて俺に合流する。

「召されかけたわ」

「大丈夫そうですね。で、どうします?私脱ぎましょうか?」

視線を前へ向けると、俺の指先は洞窟の出口にギリギリ掛かっていた。どうやら俺が競争を征したらしい。だがさっきまであんなに彼女を脱がせようとしていたのに、今はまるでそんな気にはなれなかった。

冷静に思い返してみると今までの俺の行動は異常者のそれだ。ファッション偏差値などそもそも服事情にそう詳しくない俺の言えることではないし、何より初対面で「晒しを巻いているのか」なんて失礼を通り越してアメリカなら撃たれても文句言えないほどの無礼だ。信じられない。まるで俺が俺ではなかったみたいだ。

「無理もありません」

首を捻る俺を見て彼女は言う。

「強い衝撃で正気に戻ったようですが、洞窟のあちらこちらに生えている鉱石。あれ、強い中毒性を持つ有害物質でもあるんですよ。初期段階は視覚の異変。次いで精神の錯乱。最終的には廃人になるとか」

「なにそれ怖い!」

慌てて体をくねらせながら洞窟の外へ出る。洞窟が文字通りの魔窟であると知らされたからか空気がやけにおいしく感じた。生きていることに感謝。

「でもなんでこんなところに?あれ貴重鉱石だろ?」

「えぇ。なんたって魔術に於ける大事な貢物の代替ですからね」

「貢物?」

「あーいえ、貢物と言うのは少し違うかもしれませんね。交渉材料。電話線。まぁそこらへんは解釈の違いですかね」

「あんたは何を言ってるんだ?」

 魔術は脳内にある処理領域で術式を組み、それに魔力を流すことで現象を起こす技術だ。そこに貢物や交渉材料、ましてや電話線など介入なんてする余地はないはずだ。

「気にしなくてもいいですよ。それより敬語やめたんですか?」

「あっ、えーっと……すみません」

「別にタメ口でいいですよ、そっちの方が楽でしょう?」

「……じゃあタメ口で」

 彼女は「ではそれで」と笑うと、洞窟から一歩外へ踏みだした。

「おい大丈夫かよ」

 急に彼女の動きが止まった。まるで一時停止でもしたかのようにピタッと。

不審に思った俺は、まだ節々が痛む体をどうにか起こして彼女の顔を覗き込んだ。

 それは恐怖なのだろうか。それとも絶望なのだろうか。はたまた嘲笑なのだろうか。感情を読み取ることは出来なかったが、その顔には決して前向きな表情は浮かべられてはいなかった。

 彼女は俺の声を完全に無視して洞窟から出て行くと、そのまま真っ直ぐ麓の方を眺めた。

「そう、ですか…こんなこともあるのですね…」

 彼女は何か呟いてから覚悟を決めるように大きく深呼吸し、俺に振り返る。

「まだ、名乗っていませんでしたね。弘人」

 雨露に濡れる森の中、彼女はゆっくり目を瞑った。

 鼠色の分厚い雲に覆われた空は急速に晴れ始め、雲間から漏れ刺した光が草木についた雫に反射しキラキラと輝きだす。重苦しくジメジメしていた空気は風に浚われ、澄み切った清らかなものに変わっていく。世界は彼女に呼応し次第に失われた本来の色を取り戻すように、彩色豊かに染まっていった。

 絵画の世界の中に迷い込んだようなそのあまりに美しい風景は、俺が歩いて来た不気味な道とは似ても似つかない、花鳥風月と呼ぶに相応しいものだった。ただ、これほどの景色であっても彼女がそこにいるだけで、全ては彼女を引き立たせるための舞台装置に成り下がる。それほどまでに彼女は美しかった。

 一陣の風が吹き抜けた後、彼女はゆっくりと目を開き、まるで宣言するように告げた。

「今更ですが…いいえ、今だからこそ私はあなたにこう名乗りましょう。私は七瀬。“鬼”の七瀬です」


7.薄氷


「あんた結局何者なんだ?んぁ、邪魔」

「説明するの面倒なので自分で想像してください。確かに邪魔ですね」

「適当にはぐらかさないでそろそろ教えてくれ。ってかホントに出れるんだろうな」

「そう言うところですよ。私とあなたなら問題ないはずですよ」

「なにが?道は間違えたりしてないよな?」

「だから童貞なんです。間違えていませんよ」

「この野郎、童貞バカにしてんな!」

「なに怒っているんですか。大丈夫ですよ、私も処女なので」

「聞いてない。あんたの男性経験なんて耳クソほども聞いてない」

「え?弘人みたいな童貞は普通処女って聞いたら興奮して倒れるはずじゃ?あっ……EDでしたか。それはその…ごめんなさい」

「謝るな!憐れむな!俺はEDじゃない!お前の裸でしっかり勃ったわ!」

「うっわサイテーですね」

「後で覚えとけよ…」

 こんな軽口を叩きあいながら俺達はあの幻想的な風景とは比べるのもおこがましいような、酷く荒れた獣道をかれこれ三十分も歩き続けていた。

なぜこんなことをしているのか。それはここを歩き始めた三十分前より更に一時間遡る。


「私が弘人をこの結界から出してあげます。ただその代り今日一日一緒に観光させてください」

 七瀬と名乗った彼女は俺にこう提案を持ち掛けた。

 結界を出ることを目的としていた俺にとってこの提案はまさに渡りに船だったものの、しかし俺は首を縦には振らなかった。理由は彼女をどう信用していいのか分からなかったから。

 刀から変身したり、なぜか俺のことを知っていたり、彼女は得体の知れないところが多すぎる。ただそれでも中毒症状になりかけていた俺をやり方が多少強引だったとはいえ助けてくれたのも事実。善悪はともかく、俺に対して害意は今のところあまり感じられない。

だが果たしてそれがいつまで続くのか、またなぜ害意を感じないのか。そこがはっきりしない以上どうにも信用は置くことが出来なかった。

「そんなに信用ないですか?」

「ないって言うか、信用の置き所がない」

 彼女が困った顔をして背中側に身を翻すと、髪がふわりと広がりそして落ちていく。自分の頬に落ち着いた髪の一房を手で触れた彼女は「あ」と呟き俺に手を差し出した。

「リュックの中に十徳ナイフがありますよね?貸してくれませんか?」

「なんで?」

「いいから」

何を企んでいるのか知らないが、とりあえず彼女に十徳ナイフを取り出して渡す。彼女は俺の手から攫うと早速ツールを一つずつ引き出し、その度に感嘆の声を漏らした。

十徳ナイフなど確かにそう持っている物ではない。俺も十四の誕生日に碧羽に貰っていなかったら今でも持ってはいなかっただろう。と言うか誕生日に十徳ナイフってどうなんだ?

しかしそれでも決して開くたびに感嘆の声を漏らすほど珍しい物でもないと思うのだが。

「これなんですか?」

彼女は十徳ナイフの側面を指さす。そこには羊モチーフらしきレリーフが彫られていた。

「さぁ?どっかのブランドのロゴじゃねぇの?」

俺がそう言うと彼女は自分から聞いたくせに「ふーん」と興味なさげに呟く。それからナイフを引き出すと、片手で器用に逆手から順手に持ち替え、俺を見て微笑んだ。

「!」

彼女の視線に肌が泡立つような感覚がして今更に気が付いた。信用の置けていない相手に刃物を渡すなど自殺行為でしかないことに。

彼女は俺の後悔など露知らず、ナイフを持った手を引き絞る。俺は咄嗟に顔を腕で覆った。

「なにしてるんですか?」

「え?」

「『え?』じゃないですよ。はい」

「あ、どうも。……なにこれ」

 彼女は俺の手に、十徳ナイフと黒くて長い糸のような物を大量に乗せた。

何だろうこれは。まるで彼女の髪のように黒くて艶やかだが、そんなもの一体どこから…

「なにって私の髪です」

 髪だった。

「いや『髪です』じゃないわ!」

「髪は女の命と言うじゃないですか。だから渡したら少しは信用してくれるかなって。後長くて少し邪魔だったので」

「絶対後半が本音だろ!」

 叫びながら渡された髪を地面に向かって投げ付ける。彼女は腰くらいになった髪を揺らしながら悲しそうな声を上げた。

「あぁ…私の髪達が…」

「十徳ナイフで切られた時点で髪もあんたを見限ってるよ」

 と、文句を吐いたところでふと思い出したことがあった。

 「女の子はかなり気を許しているか、よっぽど頓着がないか、それとも相当貞操観念が緩いかのどれかでもない限り髪の毛は基本触れさせない」。これは確か碧羽談。

裸を見られて平気だったり、厚顔不遜な態度から一見貞操観念が緩そうに見えるが、曰く彼女はまだ処女らしい。それに髪には枝毛一つないことから頓着がないと言うことはないのだろう。つまり碧羽の言葉が真実だとすると、彼女は大切な髪を…言葉を借りるなら女の命を差し出してまで俺の信用を得ようとしたことになる。やり方や言い方はともかくとして彼女は俺に全く害意を抱いていないのでは?

いや、自分で言っておいてなんだがこれは希望的観測だろう。俺の願望と言い変えてもいい。この全てが彼女の計算で、俺はまんまと騙されている可能性だってあるのだから。だがいつまでも手をこまねいている訳にもいかない。背に腹は代えられない。

「分かった、あんたの提案に乗ろう。ただし条件が―――」

「碧羽達の捜索ですね?分かっています」

「何となくそんな気がしてたけどやっぱり知ってるんだな、碧羽達のこと」

「えぇ、知っています。あなたの知っている限りのことは」

「俺が知ってる限りってどういうことだ?」

「ご想像にお任せします」

「あ、おい待てよ」

 それから俺達は結界内を散策し、みんなの痕跡がないか探し続けた。しかし一時間探しても足跡一つ見つけることが出来なかったために、一度結界から出てみんなの安否を確認することになった。


 進んでも進んでも一向に変わらない景色。樹海と言うより最早ジャングルと言い表した方が適切な獣道は、ここが日本ではなく東南アジアだと言われた方がまだ頷けるほどには酷い。ただどんなに文句があったとしても、じゃあ俺一人でどうにか出来るかと聞かれれば答えは無論ノー。結局は彼女についていくしかない。

とは言えこうも景色が変わらないといよいよ暇になってくる。言われた通りにするのは癪だが彼女の正体でも考察してみよう。

 まず情報を整理しよう。今分かっているのは、なぜか俺やみんなを知っていること。自分を鬼と呼んだこと。それとこれは俺の予想になるが、恐らく彼女はあそこに封印されていたこと。 

と言うのも彼女がどういった理屈で刀に変身していたかは知らないが、こんな結界の中にある立派なお堂の立派な祭壇に、伊達や酔狂で入り込んでいたとはさすがに考えられないからだ。

 そう仮定して情報を並べてみると、お互いに関連性を見出せるものが一組出てくる。それは封印されていたことと自分を鬼と呼んだこと。

 現在では吸血種と呼ばれている人種は昔、正確には江戸時代後期頃まで日本では鬼と呼ばれていた歴史を持つ。今日日使われなくなった言葉ではあるが、あえてこの呼び方を使ったと言うことは恐らく、彼女の封印された年代は江戸時代後期かそれ以前と言うことになるだろう。

 しかしそれでは辻褄が合わなくもある。彼女との会話を振り返ると、江戸時代後期以前に封印されたのなら知らないはずの言葉が散見された。俺のことと言い本当に謎だ。

…いや待てよ。

 彼女は言った。俺達について俺の知っている限りのことは(・・・・・・・・・・・・・)知っていると。

「なぁあんた、翼さんの両親が何の仕事してるか知ってるか?」

「いいえ、知りませんが?」

「じゃあ、去年発売されたバッシュの数は?」

「バスケットシューズですか?それも知りませんが、なんなんですか?」

「もう少し付き合ってくれ。ばあちゃんの趣味は?」

「カラオケです、正確に言うとヒトカラで熱唱すること」

「これが最後。国鉄はいつから民営化した?」

「1987年4月1日」

 思った通りだ。彼女の答えられた質問は俺にも答えられる質問で、答えられなかった質問は俺にも答えられない質問だ。つまり彼女の持っている俺達の知識と現代知識は別々ではなくイコール言うことになる。

しかしではその情報はどこから?俺の知っている限りの俺達の知識と現代知識が同時に揃っている場所。

「あ」

 背中に悪寒が走った。いやでもまさか、そんなことがあり得るのか?

「分かりました?」

「え?」

「『え?』じゃありませんよ。分かったんでしょう?私について何か。言ってみてくださいよ」

 口に出来ない、こんなものは。普通に考えてあり得ない。少なくとも俺達魔術の使えない一般人からしたらとてもじゃないがあり得ない。だってそんなことが罷り通っていたら世界の秩序は崩壊してしまう。でもそれしか説明がつかない。彼女が俺の頭を覗いたとしか。

「い、いや何も分かんなかった。いい加減教えろよな」

 気取られないよう乾いた笑みを作る俺を見て、彼女はつまらなそうにまた進みだす。俺は胸に浮かんだ嫌な感覚を誤魔化すように胸元のペンダントを強く握った。

「あぁそうだ。正体云々は置いておいてもう着きますよ」

「あ、あぁ。てどこに?」

 彼女の前へ目を向けると、確かにさっきよりは幾分かマシになっているが、それでもまだまだ荒れた獣道が広がっている。もう着くと言われたが、見るから着きそうな気配はない。

「どこって決まってるじゃないですか。外にですよ、外に」

「いやでも外なんて見えないけど」

「見える訳ないじゃないですか、そう言う結界なんですから。あと時間の流れも少し違うので、せいぜい外では十数分しか経っていないでしょうね」

「べんりー…」

「まぁ時と場合によってはそうですね。ほら、そんなことは良いですから手を出して?」

「な、なんで」

「いいから」

 正直嫌だ。その正体が鋼鉄製のベールでガチガチに包まれている彼女に手を差し出すなんて、何が起こるか分かったものじゃない。だが「出るときは二人一緒じゃないといけない」みたいなルールがこの結界に働いている可能性もある。だったらここで徒に時間を消費するのは得策ではないのかもしれない。

「…はい―――!」

 渋りながら恐る恐る伸ばした手が彼女の手に触れた瞬間、首の骨の痛みとともに俺の景色は残像を残して急速に流れていった。

 早馬が如く流れる景色と、身構えていなかったせいで首に掛かる異常なG。そして無意識に全力回転をしている俺の足。ここまでの情報を頭の中で整理して、遅れること数秒。やっと俺は今何をしているのか、そして彼女が何をしたのかを理解した。彼女が俺の手を引いていきなり走り出したのだ。

「な、なんで走る!?」

「何となくです!」

 何となくなら仕方がない…はずがない。

 洞窟では火事場の馬鹿力と鉱石のせいでタガが外れ、奇跡的に彼女に勝つことが出来たが本来そんなことはあり得ない。それに俺はある程度走れるからいいものの、下手すると引き回しになったっておかしくないのだ。本当に仕方がないはずがない。

「フッ!」

 だが彼女は「そんなこと知ったことか」と言わんばかりに地面を踏み込み、上へ飛んだ。

「いぃぃぃやあぁぁぁぁぁぁぁ!」

 ここでおさらいをしよう。吸血種とヒト種では身体能力が著しく違う。それはもうスポーツで別部門として競われるほどに。ではそんな吸血種に手を引かれたままジャンプされたらどうなるか。

俺は漫画みたく空中でうつ伏せになった。

 蛍の光をBGMに流れ出す本日二度目の走馬灯。俺はそれをすぐに頭を振って遮ると、近づく地面に視線を合わせた。

 大体接触まで残り数秒。このまま何もしなければ今際の際どころか、その向こう側へフリーフォールする羽目になること請け合いだ。なら受け身を取るしかない。受け身なんて高校以来だが、こんな時のためにわざわざ道着まで買わされたのだ。ここで出来なきゃ嘘だろ。

 緊張のせいか極度に引き延ばされた時間の中で俺は地面を見つめてタイミングを窺う。

3、2、1、今!

「くぁwせdrftgyふじこlp」

 またしてもアクロバティックな動きで転がった俺は、着地から6メートル程先に生えた木に上下逆さまの間抜けな格好で背中をぶつけ、ようやく動きを止めた。

 体が痛い。痛いが首はおかしな向きに曲がっていない。各種骨もまた然り。

副校長、お元気ですか?あなたの授業のお陰で命拾いしました。

 心の中で合掌し、ひとしきり感謝を伝えてから、逆さまになった視界で周りを見回す。

 一面に広がる景色はさっきまでとは違い、ちょっとした広場に変っていた。彼女の言う通りあの結界は中から外は見えず、また外から中は見えないものだったらしい。勉強になった。勉強になったがしかし、それとは別に俺には言わなければいけないことがある。

「おい、なんで跳んだ」

 自分だけ華麗な着地を決めた彼女は、天使の様な笑顔を浮かべて言う。

「ノーリーズン」

「は?」

「弘人?この世の中の全てに理由があるわけではないんですよ?」

「ファッキ〇シットだこの野郎!」

「私女です」

「このアマ!」

「そんな恰好で言われても何とも思いませんね」

 イラつきながらも彼女の言う通り、いつまでも逆さではいられないと渋々立ち上がる。

 ダメだ、彼女といるとどうにも調子が狂う。彼女が不確定要素であることには変わりないし、それを迂闊に誰かに伝えることも出来ないから俺が見張るしかない。それなのに彼女がこんな感じだから緊張がなかなか続かない。これが作戦なら大成功だ。

「あれ、弘人?」

 頭を抱える俺の耳に不意に声が聞こえ、顔を上げた。

 その声には聞き馴染みがあった。小さな頃から飽きるほど聞き続け、結界に捕らわれている間も何度も励ましてくれたそれは、俺の言う人間の核心に居座るあいつの声。雑で、手が焼けて、明るくて、温かい、大切な声。

 振り返った先、左後ろにあった登山道口には一人の女子がきょとんと不思議そうな顔をしてこちらを見つめていた。

高い位置で結んだ赤毛のポニーテールと優しそうな目元。栄養過多な胸と凄まじい勢いで蹴りを入れてきそうな足。快活で、すぐに人と仲良くなれて、誰かのために力を尽くせて、だけどその誰かに気負いさせるのが嫌いで、面倒くさいけどそれでもそこが魅力な彼女は、紛うことなく俺の幼馴染み、立川碧羽その人だった。

「ありがとな」

「あなたは碧羽のこととなると急に素直になりますね」

「どうせ知ってんだろ?」

「本当に面倒ですね」

「言ってろ」


「弘人、その綺麗な人は?あとなんで先に上にいるの?」

 虎太郎、拓、翼さんと全員揃った広場の真ん中で、碧羽は裁判官並みの圧を放ちながら俺に睨みを効かせ言った。

「えぇーっとその、なんて言うか…み、道に迷って気が付いたらここに?彼女とは途中で会って一緒に来たんだよ」

 何も嘘は言っていない。結界に迷い込んで、刀から変身した七瀬に出会って、更に一緒に歩いてここにいる。何も嘘は言っていない。悪いこともしていない。それだと言うのになぜか全身から冷や汗が止まらない。なんだこの罪悪感は。

「ふーん、まぁそう言うことにしてあげる。であなたは?」

 碧羽は鋭い眼光を今度は七瀬に向ける。矛先を向けられた七瀬はしかし、初対面で睨みつけると言う碧羽の決して褒められない行動に対して不快な雰囲気を出すでもなく、むしろ見守るような優しい笑みを浮かべてから、優雅に、そして愛嬌よく挨拶をした。

「私の名前は七瀬、以後お見知り置きを。彼には困っていたところを助けてもらいました」

 四人の呼吸が少しの間止まるのを感じた。ジッとしていたため存在感に現実味の無かった七瀬が、動き、喋り出したことで、蕾が大輪の花を咲かせるように本来持っている魅力が解放されたのだ。

 ハッと我に返った四人はすぐに順に挨拶をしていく。しかしみんなどこかしどろもどろ。碧羽に至ってはすっかり七瀬に対する毒気を抜かれてしまっていた。これはもう調子が狂うなんて言っていられないかもしれない。

「どうかしましたか?」

「考え事」

「そうですか。あ、申し訳ありません、挨拶の途中でしたね。改めて七瀬と申します」

 七瀬は順に挨拶を終えた後、最後に翼さんに向かってお辞儀をした。

「……………っあ、すっ、すみません。えっとその、あんまり綺麗で…、わ、私は阿藤翼と言います」

「いいえお気になさらず。よろしくお願いします、翼さん」

 そうして全員と挨拶が終わると会話の(いとま)が生まれた。きっと誰もが次に振る話題を探そうと頭を巡らせているのだろう。まぁ気持ちは分かる。俺は出会い方が特殊過ぎてそこまで緊張する余裕がなかったが、きっとみんなと同じ出会い方をしていたら一番キョドっていた自信がある。だけど今はむしろ好都合だ。やるなら今しかない。

「悪い、七瀬に少し話がある」

「え、どうし―――」

「…分かった。じゃあどこで写真撮るかでも相談してるよ」

 俺の顔を一瞥した碧羽は、疑問を口にしようとする拓の言葉を遮るようにしてそう言った。

「ありがとう。大丈夫、五分くらいで終わるから」

俺はそれだけ言うと、七瀬の腕を掴んで声が届かないよう少し離れた木陰へ移動した。

「どうしました?もしかして告白ですか?」

「ある意味ではそうかも」

「碧羽に悪いんでお断りします」

「そう言う告白じゃないわ、頭中高生か」

 そうツッコミを入れると俺達の間に沈黙が降りた。いや、彼女が何かを察して沈黙を下ろしたのだろう。

 バクバクと心臓の音が五月蠅い。まるでそれは俺の緊張を煽ってくるようで聞けば聞くほど体は強張っていく。それでも俺は毅然として言葉を紡ぐために一つ深呼吸をした。

「……俺はあんたにどういう感情を抱いていいか分からない。あんたはきっと悪い奴じゃないんだと思う。洞窟で助けてくれたこともそうだし、俺を結界の外まで案内したことも。そして何より俺がそう思いたい。だけどそうは思いきれない。あんたが一緒に観光したいだけってのは分かってる。でも観光してる最中にいきなり襲われるかもしれない。いきなり暴れ出すかもしれない。その綺麗な顔を突き破って恐ろしい何かが出てくるかもしれない。無いと信じたいけど、俺はこういう可能性を否定出来ないんだ。あんたにもし100パーセント害意が無いのだとしたら、失礼極まりないことを言っているのは自覚してる。こんなのは悪魔の証明だ、もしかしたら憤りを覚えるかもしれない。だけどごめん。俺みたいな普通の人間からしたら、あんたみたいなよく分からない存在は否が応でも臆病になるんだよ」

「つまり私に出て行ってほしいと?」

「そうは言わない。言っただろ?俺はあんたを信用しきれないけど、でも悪い奴だと思いたくないって。だからこそ頼みがある。俺達と一緒に観光をしてもらって構わない。必要な出費も俺が持つ。だからどうか俺の目の届かないところに行かないでくれ。頼む」

 七瀬に見惚れるみんなから彼女の容姿の整いようを再確認して、そして思った。七瀬の本質の善悪は抜きにして、やろうとすれば本当に国の一つや二つ傾けさせてしまうと。

傾国の美女とは、玉藻の前然り、レオパトラ然り、その美しさを利用するため、または利用されないために知恵者であることが間々ある。そして七瀬も恐らくその例に洩れないのだろう。

そんな七瀬が仮に俺達に隠れた害意を持っていたとして、俺は一対一でやり合えるだろうか?無理だ。悲しいかな俺はそんなに出来の良いお頭をしていない。全てが終わってからやっと事に気が付くのが関の山だろう。だから俺はいっそ手の内を晒してフォールド…つまり負けを認めることに決めた。苦肉の策だが、今俺に取れる打開策はこれしかない。

「ふ、ふふ、ふははははははっ!!」

七瀬はしばらく口を開いたまま黙り、そして愉快そうに笑いだした。

「あぁ、あなたは本当に面白い。あなたほど弱いのに、及ばないと自覚しているのに、それでも手を伸ばすことをやめない人は初めて見ました。ねぇ弘人?なんでこんなストレートな物言いを?機嫌を損ねるとは考えなかったのですか?」

「この程度で機嫌を損ねるような奴だったらどの道俺達には先がないだろ。それに―――」

「碧羽達ですか?」

「分かってるなら聞くんじゃねぇよ」

「すみません、性分でして。私が機嫌を損ねえていれば真っ先に害される可能性だってあったのに、大切な人達のためにそんなリスクは度外視で交渉のテーブルに着いたのですか。声とは裏腹に足をそんなにプルプル震わせて、全く真っ直ぐなんだかバカなんだか、はたまたまだラリっているのか。どれにしたって普通じゃない。あなたみたいな人本当にいるんですね。えぇ、えぇ、いいでしょう。あなたの目が届かないところへは行かず、そして彼女達には決して手を出さないと私の名前に誓いましょう」

「ありがとう」

「本当に素直ですね」

「性分でして」

 俺がそう返すと七瀬はまたケラケラと笑いだす。何がそんなにおかしいのだか。

「そろそろ行くぞ、碧羽達に心配かける」

「えぇ」と頷く七瀬と共に碧羽達のところに戻って行った。

碧羽はこそこそしていた俺達に少し小言を言ったものの、それ以上は詮索せずに「写真撮るから早く」とスマホの画角に入るよう促した。俺はそんな気遣いに感謝しながら画角に入って写真を撮り、それからしばらく休憩した後に山を下りた。


「今更だけどすげぇーなぁ」

 幽霊や妖怪が夜に出ると言われていたのは、暗く見通せない向こう側に何かがいるかもしれないと言う不安から来ていたのだろう。だが人は自らの知恵をもってその暗闇を照らし、妖怪の正体がただ野良猫であることを暴いた。近年に怪談話が流行らないのはきっとそのせい。

幽霊はいない。妖怪もいない。ゆらゆら歩いているのは千鳥足のおっさん。それが分かった今では夜は不可侵の世界ではなく、俺達の生活圏内へと変わったのだ。そして雑踏鳴りやまぬ行楽シーズンの観光地ともなればそれは、本当にただ明るいか暗いかの差でしかない。

 下山して嵐山地域をしばらく観光した後、碧羽はどうしても清水寺から夕焼けが見たいと俺達にお願いをしてきた。三時間ほど回り、この後の行先もさして決まっていなかった俺達はその提案を飲んで清水寺へ向かい、そして今はその帰りにお土産など買いつつ坂を下っていた。

「どこもすごかったけどここはまた一層と…」

「一種の商店街ですからね」

 隣にやってきた七瀬は言う。俺は思わず目を細めて視線を向けた。

 本当にやめてほしい。京都の醍醐味と言えば東京では味わうことの出来ない古都の情緒にあるだろうに、そんなことを言われてしまっては台無しだ。

 まぁしかしそんなジョークと言うか軽口と言うか、そういった類のことを俺に言う分には一向に構わない。何しろ彼女は俺との約束をしっかり守ってくれているのだから。それも極めて協力的に。

 出来るだけ俺の視界に留まろうとしたり、必ず一言伝えてからどこかへ向かったり、自分から俺の信用を得ようしているようにも見えるその行動は、仮に策謀を巡らせていたのならあまりに滑稽にも見えるほどに律儀だった。本当に怖がっていた俺が何だか馬鹿らしく思えてくる。

「それはそうと私お手洗いに行きたいのですが」

「あぁじゃあついて―――」

「来ないでください。さすがにそれは私でも嫌です」

「冗談、分かってるよ。これ持ってけ」

「スマホなんて渡していいんですか?私パスワード分かりますよ?」

「甘いな、だと思って既に変えてある」

「さすが十年碧羽のアフターフォローをしてるだけありますね」

「お褒めに預かり光栄だ」

「いや別に褒めてません」

「さいで。あぁ後くれぐれも変なことはするなよ」

「本当に心配性ですね。大丈夫ですよ、みすみす金づるを逃すようなことしません」

「言い方!」

 手をひらひらと振りながら去っていく七瀬。イラつきながらもしかし、俺は七瀬の背中を今までよりずっと落ち着いて見送った。

彼女の口にした「金づる」と言う言葉。事実とは言え同性なら蹴り飛ばしてやろうかと思うほどの失礼だが、それは皮肉にも今まで彼女の口にした言葉の中で最も信じられるものだった。自分に利を与える存在として俺を認識している以上、下手に約束を破ることはないだろうからだ。トイレとは言え七瀬一人で行動させるのは少し怖かったが、恐らく心配はないだろう。

 少しだけ軽くなった体を慣らすように首を回してから、俺は足を踏み出した。

「え?」

 数歩で足を止めた。

笑う子供、見守る親、相談事をする恋人、小突き合う学生。雑踏鳴り止まぬ往来には幸せそうな人々が行きかっている。そんな中にそれは一人佇んでいた。俺と対面するように佇んでいた。額から二本の角を生やした、不気味で、曖昧で、見ているだけで不安になる、およそ幸せの対角に存在するであろう黒い影のような何かが。

「どうしたの?」

 背中へ掛けられた声に反射的に振り返る。

 そこには翼さんと買い出し帰りのお母さんかと見紛うほどのビニール袋を両手に下げた碧羽が立っていた。

 視線を戻す。黒い影はまるで幻かのように消えてなくなっていた。

「大丈夫?」

 眉を顰める碧羽は、いたく心配そうに俺の服の裾を引いた。俺はそんな碧羽を一瞥してから、もう一度黒い影のあった方向を見つめた。

 見間違い?そうだ、きっと見間違いに違いない。大体あり得ないだろう。ここは観光客で溢れる清水寺のお膝元。奇妙な噂が立てばそれに応じてさっさと該当機関が対処を行うはずだ。それがないと言うことはつまり、俺の単なる見間違いだったのだろう。どうやら俺の中であの結界の一件は相当強く印象付けられているらしい。七瀬にあとで迷惑料でも請求しようか。

「悪い、何でもないよ。ただの見間違いだったみたいだ」

 しばらく心配そうに俺の顔を見つめる碧羽。しかし「弘人がそう言うなら」と言って折れるとすぐに表情をコロッと明るいものへと変え、

「じゃあこれ持って」

 そう言って手に持ったビニール袋を全て俺に押し付けると、軽い歩調で歩き出した。

「いいけど……ってこれ全部漬物?」

 碧羽の右横に付けてから袋を覗くと、俺は思わず中身を二度見した。

 渡された計六つに及ぶビニール袋。その中には、同じ店の物と思われる漬物各種がいっぱいに詰められていたのだ。

「クバルヨウノオミヤゲダヨ」

 片言な日本語で碧羽は視線を左に逸らす。

 俺は翼さんに目だけで何があったのか聞くと、彼女は苦笑しながらも種を明かしてくれた。

「えぇーっと、碧羽ちゃんが試食食べ過ぎて、これだけ買わないと立ち去るに立ち去れなくなっちゃって」

 思わず顔を覆った。

 失敗した。七瀬より碧羽についておくんだった。ビニール袋六つ分買わないと立ち去れないってどれだけ食べたんだこいつ。

 いやしかしもう買ってしまった物は仕方がない。問題はどう捌くかだ。

 ばあちゃん、碧羽の知り合い、虎太郎と拓の親、俺のサークルの先輩、大家さん。お土産と託けて押し付けるにしてもここら辺が相場だろう。しかしそれでも処理出来る量は良くて七割。後の三割は例の如く俺と立川ご夫妻の担当なのだろう。

「俺が一袋消費するとして……碧羽、おじさん達どれくらい消費出来る?」

「えっ?あーそうだねぇー。嫌いじゃないと思うけどパパ達には要らないんじゃないかな?」

「持って行くの面倒とか無しだからな」

「あっはは、バレた?」

「……。碧羽、お前大丈夫か?」

 碧羽の浮かべたのは、一見バツの悪い時に浮かべるいつもの笑顔。だが長いこと一緒にいる俺にはその笑顔がどうにもぎこちなく感じられた。

それはバツの悪いと言うよりも、例えば何かを我慢するような、例えば秘密を暴かれた時のような、そんな時に浮かべる悪足掻きにも似た誤魔化しの笑顔に見えたのだ。

 段々と心配になってきて、今度は俺が眉を顰めて碧羽の顔を見つめた。すると碧羽は案の定何か隠していたのかその笑顔を解き、唇を噛んで躊躇いながらに口を開いた。

「単位がヤバい…」

「碧羽ちゃん…」

 横からずっと見守っていた翼さんが目を伏せ、肩を落とす。

 後藤の言葉や碧羽の反応から何となくそうじゃないかとは思っていたが、俺は意図的に目を背けていた。だってもしそうなら、夏休み中に後藤のところへ出向いて行われるだろう交渉に付き合わされると目に見えていたから。

 しかし碧羽の口から直接的なワードが出た以上もう覚悟を決めるしかないようだ。海外行きのチケットを取ろう。

 そうして俺は早速スマホを取り出そうと右ポケットに手を入れる。だがその中には何も入っていなかった。どこかに落としたかと一瞬思ったが、いやいや七瀬に渡しているのだから無くて当たり前。仕方がないので候補だけでも頭の中でいくつか挙げておくことにする。

…落とした?

 何かが繋がった音がした。

碧羽の浮かべたあの笑顔と、口にした単位の話。この二つがどうにも噛み合わないような気がした。この感覚はそう、翼さんに初めて会った時に感じたズレのような感覚にほど近い。

 パンと翼さんが手を叩き思考が中断された。

「帰ったら私も付き合うからがんばろ?」

「あ、ありがとう翼ちゃん!これあげる!来れなかった学部の友達と分けて!」

 感涙しながら翼さんに抱き着いた碧羽は、俺からビニールを一つひったくると、何やら勝手なことを言って彼女にそれを渡した。

 ダメだ、俺はどうにも神経質になり過ぎているらしい。黒い影と言い碧羽の言葉と言い、全てその裏に何かあるのではと考えてしまう。それこそ七瀬ではないがノーリーズン、この世の中には意味の無いことだって五万とある。中学生のペン回しだって、高校生のデビューだって、大学生の酒強い自慢だって、中年の武勇伝だって全て意味は無い。ノーリーズンだ。だからそれと同じように黒い影は見間違い、碧羽は単位がヤバいだけ。これでいいじゃないか。この話はこれでおしまいだ。

 そんなことより翼さんが非常にありがたいことに、自分から碧羽の御守を志願してくれた。きっと勉強でどうにかしようと思っているのだろうが残念、そうじゃない。ただ翼さんには悪いがそのことは伏せて今回はスケープゴートになってもらおう。

「碧羽を頼むよ―――」

 いや待て学部?

俺や碧羽は工学部に所属しているが翼さんはどこだった?確か虎太郎は翼さんと魔工学部との合コンで出会ったと言っていた気がする。と言うことはつまり…

「翼さんって魔工学部?」

「うんそう、魔工学部」

何とこれは。俺の周りにはサークルの先輩以外に魔術師はいないと思っていたが違った。それもあの話の通じない人格破綻者達よりずっと優しくて話しやすい人物が俺の友達にいたのだ。

その名は阿藤翼。つい昨日出会ったばかりの彼女こそ国内トップクラスであり、世界的に見ても指折りの実力を持つ志乃月大学魔工学部に所属する本物のエリート魔術師。

「よければ翼さんの魔術のジャンルを教えてもらっても?」

「重力魔術だよ」

何と何とこれは。最早興奮など通り越して身震いした。いくらなんでもタイムリー過ぎる。

いやしかし、彼女の魔術が重力魔術だと言うなら、あれについて何か分かるかもしれない。

「質問なんだけど、血みたいに赤く染まりながら浮かぶ魔術ってある?」

 ここまで何もしていない以上、七瀬を警戒することも無いのかもしれない。でもそれとは別に単なる知識欲として、あの現象のからくりが気になった。それにあんな現象は少なくとも俺は見たことも聞いたこともない。だから仮に新種の何かだとしたならば、それはそれで彼女の研究材料になるかもしれない。

「…ねぇ、それどこで見たの?」

 と、思っていた俺とは裏腹に、翼さんの表情はいやに真剣なものへと変わっていった。

「えっと、友達が見たらしくて俺じゃないんだよ」

俺はその表情に気圧され、咄嗟に誤魔化そうと嘘を吐く。

 それを聞いて翼さんは何か考え込むように黙った。俺は何かヤバいことでも言ったのか?

「重力魔術にそう言うものはないと思う」

 翼さんはゆっくりとした口調で、そう沈黙を破った。

「じゃあ翼ちゃんにも分からない?」

横から碧羽が口をはさむ。翼さんはそれに対し首を横に振る。

「そうじゃなくて、多分それEBMじゃないかなって」

「吸血種が使えるあれ?」

「まぁ吸血種じゃなくても使えるんだけどね」

 EBM。吸血種の使える特殊能力の略称。確か正式名はEmbody the Blood Memory。

 魔術と違って血を媒介として発動する力で、特徴は身体能力の拡張に限られていることと、力は本人の思い出や願望が具現化したモノが現れること。それと言われて思い出したが、発動する際、能力に対応した体の部位が真っ赤に染まるとテレビで言っていた気がする。

なるほど、それなら確かに吸血種の七瀬がそれを使っていたのも頷ける。新型でなかったのは少し残念だがそれでもスッキリした。

あれでもEBMって確か…

「でも翼ちゃん、EBMって法律で禁止されてなかった?」

 そうだった。

EBMのことを詳しく知っている人物は吸血種を含めても意外にも多くない。

と言うのもEBMは魔術と違って特別な訓練なしに力を発動でき、更に中には攻撃的な能力が開花するものもあるために徹底した管理の下、法律で使用を固く禁じているのだ。そのため生涯を通して一度も発動せずに終わるのが現在では普通であり、わざわざ調べたり、研究でもしていない限りは大雑把な概要程度しか知られていない。

だからすっかり忘れていた。七瀬のあれが犯罪行為であったことを。いや七瀬だけだったら別にいい。だが彼女のEBMの発動のトリガーはどう考えても俺。と言うことは俺は教唆に当たるのだろうか?え?俺犯罪者?

「そう、だからどこで見たのか気になったの」

「い、いやー友達もあんまり覚えてないって言ってたしなぁ…。それより吸血種じゃなくても使えるってどういうこと?」

 不味い、失敗した。ただの興味本位だったがまさかこんなところに地雷が埋まっていたとは思いもしなかった。好奇心は猫をも殺すとはよく言ったものだ。どうにか誤魔化せるか?

「吸血種のもう一つの特徴を知ってる?」

「え?あ、えっと、き、吸血?」

あれ?追及が飛んでこない?

 犯罪を匂わせたのだ。厳しい質問攻めにあってもおかしくないのに…いやむしろそれが自然なのに、あんな雑な誤魔化しが通用してしまったことに俺は驚きを隠せなかった。だがそんな俺の様子に気が付いているのかいないのか、翼さんは変わらず説明を続けた。

「そう吸血。八重歯を肌に食い込ませて吸うやつね。だけど吸血するとどうなるか具体的に知ってる?まず吸った側には身体能力の向上が現れる。そして吸われた側は吸血種になるんだよ。もちろんずっとって訳じゃなくて、どっちも一時間から二時間程度の一時的なものだけどね。そう、ヒト種でもEBMが使えるって言うのはこの吸血種化を利用するって言うこと。だけどね、吸血で起きる変化って言うのはこれだけじゃない。吸った側にはもう一つの効果が表れる。ううん、あれは効果って言うより効能って言った方がいいかもしれない。吸血は吸血種にとって激しく快感を伴う行為なんだよ。その感覚はドラック近いとも言われている。もちろん中毒性も完備。そのため吸血もEBM同様法律で固く禁止されてるの。だからやっぱりヒト種はEBMを使うことは出来ないんだよ」

「なるほど」

 これは誤魔化し切れたのか?よく分からないが下手にこちらから蒸し返すことはよそう。

 しかしさすが魔工学部。そもそも吸血の定義すら曖昧だったが、ここまで丁寧に説明されると聞いただけで頭が良くなった気がする。「志乃月の魔工学部に入るには魔術の腕の他に中堅大学卒業程度の知識必要だ」なんてジョークと耳にするが、こうして目の当たりにするとそれも強ち間違いでもないと思ってしまう。

 でもそうか、吸血種はヒト種と共存するために持って生まれた機能を制限しているのか。生まれた頃からそれが当たり前で部外者な俺達には当たり前のことだがなるほど、吸血種からするとそれは何とも窮屈な世の中なのだろう。「吸血種の自由を取り戻す」などと題目を掲げた組織についてニュースで取り上げられた時、俺は「迷惑だなー」程度にしか思っていなかったが、視点を変えるとある意味その台頭は必定なのかもしれない。もっとも過激派はどうかと思うが。

 そうやって頭の中で話を反芻して整理していると、翼さんは「あぁでも」と付け加えた。

「ドラック的要素があるから禁止って言うのは大義名分に過ぎないんだよ。本当は数の多い吸血種に反乱を起こされたら止められないからっていうヒト種側の事情が関わってるみたい。その証拠に吸血種が国を治めてるイギリスなんかでは禁止されてないしね」

「なんとまぁそれは…」

 日本と言う国は差別問題に於いて諸外国と比べかなり遅れていると聞いたことがある。男女差別、外国人差別、そして吸血種差別。特に吸血種は約四半世紀前まで投票権すら与えられてはおらず、現在でも議席に吸血種が入れる上限が設けられていると言うのがもっぱらの噂だ。それだけに留まらず、ただでさえ軋轢が存在するのにそれを助長するような政策をとるなど、全く何とも無様と言うか滑稽と言うかどうしようもない話だ。後藤が昨日口にしていた「調和のとれた社会」という言葉が特大の皮肉に思えてくる。日本の夜明けは遠いぜよ。

「ありがとう翼さん」

 そう礼を伝えると翼さんはにこりと笑って「とんでもない」と言うように首を横に振った。

 するとその時、謀ったようなタイミングで翼さんのポケットが初期設定と思しき簡素な着信音と共にプルリと震えた。スマホを取り出して確認してから俺達に見せてくれた画面には、虎太郎とのトーク画面が表示されており、「夕飯ここでど?拓のお墨付きも貰ったぜ」と言うメッセージと共に一枚の写真が添付されていた。

見た目は暖簾に瓦屋根に店の名前の入った灯篭と、今日日浅草あたりか京都でしか見ないような店構えをしているが、窓から見える店内は割とカジュアルな造りになっていて、俺達学生が入っても浮くことはなさそうだ。

何の店だか定かではないが、味に関しては天啓的な店選びにおける勘の良さを持つ拓のお墨付きだ。まず間違いはないだろう。

「翼さんはここでいいの?」

「うん、特に考えてたわけじゃないからここでいいよ」

「碧羽は―――」

ぐぅー

俺の言葉が終わる前に左隣からそんな気の抜けた音が聞こえてきた。視線を向けるとそこには赤面して俯く碧羽。

「お腹空いた?」

 そう聞くと碧羽は小さく頷く。そんな碧羽を見て俺は思わず小さく噴き出した。

 ずっと静かだと思っていたら空腹を我慢していただけだったようだ。全く何とも碧羽らしい。

「じゃあ急ごうか」

 頷く二人と俺はさっきより少しだけ大きめの歩幅で歩き出す。

 見上げた空はもうすっかり暗くなっていて、長い長い一日がもうすぐ終わることを俺に告げていた。


「つい数時間前のことなのに、こうして二人きりでいるのがとても久しぶりに思えますね」

「あんたがそう思ってくれたなら何よりだよ」

 夜。昼間とは比べ物にならないほど人気は疎らで、ケラのジーと言う声と時々通る車の音だけが響く河川敷。俺は昼間とはまた違った怪しい美しさを纏う七瀬と歩いていた。

 あれから夕食を済まし、例の如くタクシー券を利用して帰っていると、途中で七瀬は俺に「家まで送って欲しい」と言い出した。二人きりのシチュエーションを望んできた以上何かあるかもとほんの少し警戒しながら俺は了承したが、しかし結局今の今まで何かする身振りすら見せず、こうしてただどうでもいいことを駄弁りながら歩いている。

 彼女の真意は定かでは…いや定か云々ではないのだろう。彼女が今日一日、宣言通り観光を楽しんでいたように、今回も多分本当に俺と駄弁りたかっただけなのだと思う。

 俺の三足先をくるくると回って踊るように進む七瀬を見る。

 そう、彼女はただ俺達と観光していただけだった。みんなと別れた以上最初から害意なんてなく、俺が考え過ぎて、怖がり過ぎて、不安がり過ぎていただけ。結局は独り相撲だったのだろう。だから彼女にこんなことを言うのは見当違いも甚だしいと重々承知している。それでも言わずにはいられない。

「ありがとう七瀬」

ピタリと動きを止めて、七瀬はゆっくりと俺の方を振り返った。

「あなたに感謝されるようなことなかったと思うのですが」

「誰にも手を出さなかっただろ?」

「それは約束もしたでしょう?いちいち感謝を伝えていては感謝の価値が下がりますよ?」

「そんなことはないと思うけど…、いやでも、やっぱりありがとう」

「分かりませんね。あなたは自動掃除機にも感謝を伝えるのですか?」

「あんたは機械じゃないだろ」

「物の例えですよ。でもそうですね、似たようなものです。私は斯く在れかしと求められ、そしてそれを完璧に再現してしまった物。弘人、あなたが私にしていた対応は実に正しい。私はどうしようもなく、化け物と呼ばれて然るべき存在なのですよ。恐れられ、畏れられる。それが私の性なのです。対して今のあなたの対応は間違いだ。最もダメな不正解例と言ってもいい。私を碧羽や翼と一緒、女の子として扱ってはいけません。私は彼女達とは違うのですから」

 それだけ言うと、七瀬は後ろ向きに進みだす。

 初めて見る表情だった。

 出会ってからの数時間、俺はほぼ常時七瀬を視界に入れていた。美しくて、自由で、どこか俯瞰していている。俺は七瀬をそんな大人びた女性だと認識していた。だから彼女の浮かべた表情を見て言葉を失った。

その顔は今までのどれよりも年相応の女の子に見えたのだ。

「お前がそう思っているうちは確かにお前は化け物なんだろうよ」

 俺の言葉を聞いて再び足を止めた七瀬は、振り返って諦めたような薄い笑顔を浮かべた。

「えぇ、私は化け物。それは何があっても―――」

「ちげぇよ」

「え?」

「なに勘違いしてんだ。いいか?お前がどこで誰に化け物と呼ばれたかなんて知らないし、知りたいとも思わない。だけどな、誰かに言われたから化け物なのか?違うだろ。確かに俺はお前が怖かった。でもだからお前の本質は怖い者になるのか?違うだろ。俺は今、お前のことなんてこれっぽっちも怖くない。化け物なんて思ってない。そして碧羽達は尚更にただの同年代の女の子だとお前を認識してる。七瀬。お前が何に拘っているのか知らないが、その肩書はそんな顔してまで守るモノじゃないだろ。称号や肩書なんて周りが勝手につけていくモノの見方だ。ヒーローが最初から自分をヒーローだと名乗ったか?それはないだろ。ヒーローはその行動と信念から次第にヒーローと認められていくんだ。だけどな、そんなヒーローをヒーローと思わない人もいる。例えば救えなかった誰かの親族。例えば巻き添えにしてしまった誰かの友達。そんな人達からしたらヴィランと何ら変わらない。でもこれは誰が間違ってるって話じゃない。モノの見方だから立場を変えればいくらでも肩書は存在するって話だ。だけどさ、俺や碧羽がいくらお前を女の子として受け入れようとしても、お前自身がそのどっかの誰かが言った『化け物』って見方に固執してちゃ俺達は否定されたも同じなんだよ。それは酷く悲しいことだ。それに悲しい生き方だ。だからそんな自分を卑下するようなことするな。お前はお前だ、誰かじゃない。自分のいたい自分でいろ」

 見たことが無く、印象とも一致しない表情だからこそ、その理由には俺の想像もつかない何かがあったのだろう。だから呼んだ誰かを許せとは言わない。犯した罪があると言うなら忘れろとも言わない。俺も優しい言葉を掛けるつもりもない。事情も知らないのに勝手に憐れむようなこともするつもりはない。

 ただその生き方はいけない。他人の言葉に自分の存在の全てを委ね、そしてそれに固執するような生き方は他人も自分も不幸にする。

「随分と無責任な言葉ですね」

 七瀬は表情の無い顔のまま言う。その瞳には若干のイラつきのようなものが見て取れた。

「当たり前だ、それはお前の人生だろ。俺に出来るのは精々無責任に手を貸すくらいなものだ」

それでも俺は迎え撃つように七瀬を見つめ、そう言った。

 七瀬の瞳の奥の炎が少し激しさを増す。それでも俺は視線を外さない。

 するとそんな俺の態度が気に障ったのか、七瀬は目元を鋭くして睨みを利かせる。周りには不自然な風が漂い出し、ケラの声は鳴りやんで、代わりに風切り音が耳を裂いた。

 今まで俺の七瀬に対する態度は、正直言って初対面の相手にする対応としては及第点ももらえないほど粗末なものだった。もちろんそれは七瀬の俺に対する態度が故でもあるのだが、それでも「アマ」なんかは言い過ぎの最たるものだろう。でも七瀬は怒らなかった。

 だから今の七瀬を見たら俺はなんだか気が抜けてしまって、威嚇を飛ばしてきていると言うのに全く怖いと思えなくなってしまった。だって大切なものや、脆いところを突かれて感情を荒らげるなんて、それは何とも人間らしいじゃないか。

「はぁ」

 俺が折れようとしないからか、それとも威嚇を往なされていることに気が付いたからなのか、七瀬は立っていた気を落ち着ける。するとそれに応じて風は止み、ケラのジーと言う鳴き声がまたそこかしこから鳴り出した。

「あなたの過去は粗方見ているのに、どうしてそんな言葉が怖がっていた私に向かって出てくるのか理解出来ません」

 なんだそんなことか。

「七瀬、百聞は一見に如かずって知ってるか?」

「バカにしてるんですか?それに見ましたよ」

「そうお前は見ただけだ。高校の頃こんなことがあった。バスケ部のみんなで次当たるチームのビデオを見て対策立ててた時、楽勝ムードだったんだ。だって弱そうだったから。だけど実際戦ったらあらびっくり、惨敗したよ。俺達が嘗めてかかったからってのもあるけど、それ以上に相手が意外と強かったんだ。だからその時思ったよ。見知った程度では物事はまだまだ理解出来ていないって」

「私もそうだと?」

「あぁ、お前が俺の記憶をどう見たのかは怖いから聞きたくないけど、それでも見た程度じゃまだまだ何も分かってはいないんだよ。言うなれば百見は一体験に如かずって感じか?」

「全然うまくありませんよ、それ」

「そっか」

 そう言いなら七瀬に向かって笑ってみせる。

七瀬はそんな俺を見ていたく驚いたような顔をした。

「あなたは…そんな気の抜けた顔で私に笑い掛けるのですか?」

「言ったろ?怖くないって。それにそっちこそそんな鳩豆な顔出来たんだな」

「……調子狂いますね」

「お互い様だ」

 七瀬は鳩豆なんて言われたのが気に入らなかったのか、ムスッと不機嫌そうに顔を歪ませる。だがそれ逆に俺の中の七瀬の人間味を加速させた。

なんだ全く、心配して損した。思ったよりずっと人間らしいじゃないか。これなら彼女を警戒して目を光らせることなんてなかった。怒って、不機嫌になって、いじけて、最初からそうしてくれたら分かりやすかったのに。

「あぁ、もうこんなところに来てたのか」

 七瀬の顔を見て苦笑していると少し先に橋が見え、そう呟いた。

呟きに反応して後ろに振り返った七瀬は、橋の存在を認識すると俺の近くにやってきて丁寧にお辞儀をした。

「今日はありがとうございました。色々ありましたが楽しかったですよ」

「俺もまぁ、それなりに楽しかったよ。今日のことは忘れられそうにない」

「なんですかそのワンナイトラブの事後みたいなセリフは」

「ワンナイトどころかオールデイだろ。もっとも、ラブも事も無かったけどな」

「お望みでした?」

「まさか。お前と裸で抱き合うなんてゾッとする」

「童貞が粋がりますね」

「黙れ処女。その言葉、熨斗付けた後にラッピングして返してやる」

 一台の車が車道を通る。エンジン音がドップラー効果で段々と低く、小さくなっていく。

「一人で大丈夫か?」

 七瀬にそう問う。

「問題はありませんよ。私こう見えて弱くないので」

 微笑みながら七瀬はそう言った。

「そうか。じゃあ気をつけろよ」

「えぇ、それでは」

 そう言ってもう一度お辞儀をした七瀬は俺の横を抜け、もと来た道を戻っていった。俺は闇に姿を溶かす七瀬を最後まで見送ろうと、その背中を見つめた。

 ところが輪郭がぼんやりと見える程度まで離れたところで七瀬は立ち止まり、思い出したように振り返るとシャツの胸元を摘まんで俺に向かって叫んだ。

「そうだ、言い忘れてました!晒しは祭壇の布を拝借して作った即席の物です!胸が透けていないのと着替えに時間がかかったのはそのせいです!」

「んなこと大声で叫ばんでいいわ!」


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