思慕
嵐山と聞いてどんなところを想像するだろうか?きっと桟橋だとか竹林だとか、俺達府外の人間が想像するステレオタイプな“京都”の風景ではないだろうか。俺もそう思っていた。と言うより観光で嵐山と言ったら普通は十中八九そっちのことを指すだろう。なのに、なのにだ。
「はぁ、はぁ…、はぁ…」
俺は嵐山を登っていた。翼さんが行きたいと所望した嵐山は町ではなく山だったのである。
嵐山はそれほど難易度の高い山ではない。ネットを見ても初心者でも登れると多くのサイトで取り上げられているほどだ。しかしそれはあくまで普通の状態での話。
登山なんて欠片も想定していない恰好なうえ、碧羽の荷づくりを当日の朝に手伝わされたせいで時間だけ食って朝食を食えなかった俺はその限りではなかった。まぁ空腹に関してはみんなで軽い昼食を摂ったからそう問題ではないが、こうして軽く動いただけで息が上がっているところを見る限り、俺に蓄積された疲労は腹に物を入れた程度でどうこうなるレベルではないらしい。その証拠に本来ならば涼し気で気持ちのいい森林は、子どもの頃遊んだ近所の寺の雑木林となんら違いを見て取れず、澄んでいるはずの空気は新宿の汚れたそれと何が違うのか分からない。恐らく本能的に不要な機能から止めていくことで辛うじて動いている今の俺の体にとって木は木で、空気は空気。そこに違いを見出すことは出来ないのだろう。碧羽の奴、昨日俺にどれだけ飲ませたんだ。
「弘人頑張ってー!あと半分くらいだぞー!」
その小柄な体型に反して、この中で一番身体能力が高い吸血種の拓は俺に激励を送る。
「情けないぞ弘人ー!」
そしてその数歩後ろから煽りに近い激励を飛ばすのは碧羽。なんであいつは元気なんだ。
昨晩から今日にかけて俺とほぼ同じスケジュールで動いている碧羽は本来同じだけの疲労が溜まっていて然るべきだ。もっと言うなら恐らく俺より酒を飲んでいたのだろうから、その分上乗せされているはずなのに実際はこの通り俺だけグロッキー。全く解せない。
「大丈夫?」
ささくれた俺の心を癒すように、隣を歩く翼さんは優しく声を掛けてくる。
どこぞの幼馴染と違って翼さんの言葉は気遣いに溢れている。歩調を合わせてくれているのもありがたい。
…ありがたいのだがしかし、そもそもの話、俺がここまで疲弊しているのは嵐山を登っているからであって、それは言い換えれば彼女のせいとも言えてしまう。だがそれは言わないお約束。ここに来たいと言う願いにGOサインを出したのは俺だし、第一それは彼女に少しでも笑顔でいてほしいと思ってのことだ。俺が不満を言うのはお門違いもいいとこだろう。
そう、俺は彼女に少しでも笑顔でいてほしい。だから俺は何度でもこう言わないといけない。
「翼さん、俺に合わせてくれるのは嬉しいけど先に行っていいよ」
「何度も言ったでしょ?私のことは気にしないで?」
もう道中何度か言ったセリフに、翼さんは同様に何度か聞いたセリフで笑って断る。
翼さんの優しげな声と表情はそれだけでなんだか甘えたくなってしまう。だがそういう訳にもいかない。拓が言った通りもう登り始めて半分が過ぎてしまった。これ以上彼女の邪魔になっては本末転倒だ。
「それこそ俺のことは気にしないでいいよ。翼さんが楽しいって思ってくれた方が俺は嬉しい」
翼さんはまだ若干納得出来なさそうな顔をしながら顎に右手を添え、深く何かを考えるように黙り込んだ。
わざわざ悩むことなんて何もないのに、それでも悩んでしまうのは彼女の心根の優しさが故だろうか。それともただ気を使ってくれただけだろうか。どっちにしたってそれは誇るべき美徳であるが、彼女のそう言った優しい一面を見れば見るほどに彼女のことを居た堪れなく思ってしまう。勝手な同情が相手を不快にさせるモノだと分別はついていても、どうにも俺には完全に見て見ぬふりをすることが出来そうにない。
「…まぁおおよその目星は付いたし……」
彼女は何かを呟くと、道の脇にある木に触れた。それから身を翻し、「じゃあ」と口を開く。
「弘人君に甘えちゃおうかな?」
「えぇ、甘えちゃってください。あっ、ただ俺が追いつく前に下山だけはしないでくれると嬉しいかな。出来るだけ急ぐけど途中で強制終了は悲しすぎる」
「どうしよっかなー、気が向いたら待っててあげる。だから弘人君も早く追いついてね?」
翼さんは悪戯っぽく笑ってから山道を足軽に駆け上がって行く。それからしばらくして、上からは四人の楽しそうな声が聞こえてきた。
聞こえてくる笑い声に改めて申し訳なさを感じながらも、疲労が限界に達した俺は、翼さんが触れていた木に倒れるように寄り掛かって座り、大きく息を吐いた。
「疲れたぁ…」
***
僕は立川碧羽さんに想いを寄せている。きっかけは単純で、陳腐で、どこにでもあるようなモノだった。
大手魔術工業メーカーの重役を父に持っていた僕は小学校まで何不自由ない生活を送っていた。資金面的にももちろん、物品的にも、環境的にも、精神的にも。でも手を伸ばせば手に入るような環境にいても、僕が何より誇っていたのは家族だった。
花屋に勤め、お淑やかで家庭的で、それでいて怒ると誰より怖い母。自身も優秀な魔術師でありながら、会社の経営にも携わる父。特に魔術の才が僕に無いと分かっても「魔術だけが全てじゃない。お前には私とは違う素晴らしい才能があるはずだ」と言ってくれた父を僕は心から尊敬していた。そんな父の言葉に応えるように僕は有名な中高一貫の進学校へと進学し、更に入学すぐに学年一位の成績を修めた。
自分でも単純だと思うが、尊敬する父からの言葉と期待は僕を焚きつけるのには十分過ぎるほどの効果を持っていたのだ。でもだからこそ僕には周りが見えていなさ過ぎた。僕のそんな姿を鬱陶しげに思う生徒がいたことに露ほども気が付かなかったのだから。
それは中学一年三学期のある朝。人気者の女子の体育着が無くなっていることが判明した。
「どこかで落としたのかも」。そう言いながら笑う彼女が無理をしているのは明らかで、いつも明るいムードメーカーの姿はそこにはなかった。
僕も気の毒には感じたが、特段仲がいい訳でもなく、また恋愛感情を抱いていた訳でもなかったために、わざわざ探してあげようなんて気はさらさらなかった。
そしてお昼を挟んで五時間目。体育のために更衣室で巾着を開けた僕は、取り出しかけた中身を慌てて巾着に押し戻した。そこに入っていたのは本来胸に“今和泉”とプリントされているはずの体育着ではなく、今朝のあの女子の名前がプリントされた体育着だったのだ。
あまりの突然のことに思考が纏まらない頭で僕は必死に考えた。
ここで誰かに見られようものなら僕が犯人扱いされるのは容易に想像出来る。無くした本人に渡しに行こうにも向こうも着替え中で、しかも渡したら渡したでそれでも犯人扱いされるかもしれない。
今にして思えばすぐ教師に相談しに行けばよかったのかもしれないが、パニックに陥っていた当時の僕にそこまで頭を働かせる余裕は残っていなかった。
そうしてこれからどうするか決めあぐねていると、突然一人の男子生徒が声を掛けてきた。
「おい今和泉、何やってんだよ」
その声は決して大きくはなかったが、生徒達の注目を一斉に集めるには十分な声量だった。
「大事そうに抱えちゃって、なに入ってんだ?寄越せよ」
多くの視線が集まるのを待つような間の後、男子生徒はそう言うと巾着に向かって手を伸ばしてくる。僕はその手から巾着を守ろうと抱え込もうとした。だが、相手の顔を見て一瞬、力が抜けてしまった。
それは笑っていた。袋とじを開ける直前の子供のように興奮と期待に満ちた目で楽しそうに、無邪気に笑っていた。
次の瞬間、僕は謂れのない十字架を背負うこととなった。
芸能人の不祥事然り、凶悪犯罪然り、この世の中は往々にしてネガティブな情報に対する反応はポジティブである。
僕の噂はその日のうちに学年に広がり、次の日には中等部の生徒全員に。一週間と経たずに全生徒の知るところとなった。もちろんヒレ飾りを本質が見えなくなるほど飾り付けて。
ブロークンウィンドウ理論を知っているだろうか?アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリングが考案したこの理論は、一言に言えば自分の責任を分散しようとする心理状況のことだ。既に誰かが始めたことに加担する時、「誰かがやっているから」「自分だけじゃないから」。そうやって人は言い訳して自身の罪を正当化し、向き合わなくなる。
校内で働いていた心理はまさにこれであった。そしてそれは地獄だった。
誰も味方はいない、誰も擁護しない、誰も罪悪感すら抱かない。なぜなら僕は悪者だから、自分達は正義なのだから。この空気の中では教師達も無力だった。いや違うな、そんないいものではない。奴らは僕を利用したのだ。
僕の通っていた学校は進学率を上げることに躍起になっていた典型的な進学校で、その反動か三学期頃には生徒達が相当なストレスを溜め込んでいた。そのため毎年、犯罪一歩手前の事件を起こす生徒が少数出ていて、教師達はブランドを守り、次の入学希望者を絶やさないために相当に頭を抱えていた。そんな中、彼らの前に都合よく現れたのがみんなの敵である僕。ここまで言えばもう分るだろう。奴らは僕をガス抜きに使ったのだ。
日に日に大切な物が削り落ちていくような四面楚歌の日々を過ごした。それでも僕は誰に頼ることもなく一人耐え続けた。親に心配かけたくなかったと言うのもある。でも何より、尊敬する父からの言葉があればそれでいいと自分の中で既に諦めに近い感情が生まれ始めていたのだと思う。その証拠に僕は周りを敵が囲んでいたあの時でさえ、学年一位を維持し続けていたのだ。
数年後、高校に進学してもいじめは収まらないどころか、外部からの新入生が加わったことで激しさは増す一方だった。
そんなある日、人生で初めて担任からの呼び出しを受けた僕は、ほんの微かな期待と共に職員室へ向かった。だがそんな期待は容易く打ち砕かれた。
「今和泉、落ち着いて聞いてくれ。お前のお父さんが交通事故で亡くなった」
それは父の訃報だった。
僕には秘密でいじめの証拠を集めていた父は、やっと揃った証拠を提出しに行く途中で居眠り運転の車に撥ねられたのだと言う。
僕はその話を聞いた時、担任の言葉が理解出来なかった。いやこれも違う、理解することを拒んだのだ。
自分に期待を寄せ続けてくれた父が、自分の誇りであった父が、自分の支えであった父がいなくなるなど有り得ないのだと。いじめを生き抜くための支えとなっていた父はそれだけ僕の中で大きな存在となっていて、そしてそんな父の死は人生の目的の消失と同義だった。
「それはない。きっと何かの間違いだ」
僕は自分に必死でそう言い聞かせた。しかしいくら拒んでも時間が経つにつれて理解したくない現実を否応なく理解してしまう。頭を抱えて見たくない現実から目を背けようとしてみても、教師達の声があらゆる感覚から僕の中に土足で踏み入り、「お前の父は死んだのだ」と一切の容赦なく現実を突きつけてくる。
僕はどうにかその場から逃げ出したくて大きく口を開いた。
「!?」
そこで初めて異変に気が付いた。呼吸が出来なかったのだ。
頭は困惑に染まっていった。そして困惑は次いでパニックへと変わり、心臓の鼓動は速まっていく。白む意識を懸命に保って呼吸をしようとしても、返ってくるのは苦しさからの解放ではなく、喉元をラップで塞がれているような不快感と絶望感。額から流れる冷汗は止まるところを知らず、こみ上げた吐き気は消えかかった意識をなおも直接殴りつけてくる。そしてそれらの苦しさをどこにも吐き出すことが出来ず、更に苦しさが増す悪循環。
どれだけの時間が経ったのだろうか。一分かもしれないし、十分だったかもしれない。そんな時間感覚すら曖昧になった僕はついにその場に倒れこんだ。
視界は端から黒く染まり、次第に指先や足先と言った末端から感覚が失われていった。
最後に残った聴覚で教師達の慌てる声を聴きながら僕は気を失った。
数日後、病院で目を覚ました僕の感覚は元に戻り、呼吸も正常に行えるようになっていた。担当医の話によると、極度の緊張状態から来る症状だったらしい。
担当医の勧めで何日か経過観察として入院していたある日。母の代理人を務めていると言う弁護士が僕を訪ねてきて、その後の顛末について教えてくれた。
まず主犯格のメンバーの動機について。
「なぜいじめたのか」と言う質問に対し彼らはみな一様に「覚えていない」と答えたらしい。
予想はしていたし、期待もしていなかった僕は特に波風立つことも無かったが、どうやら弁護士はそんな僕の反応にいたく驚いた様子だった。
激昂するとでも思ったのだろうか。生憎と僕は奴らからそんなものが出てくるとは思っていないし、出てきたとしてもオブラートみたいに薄っぺらで、向こう側が透けて見えるクズみたいなものだろう。そんなものに興味はなかった。
そんな奴らは父の証拠で退学処分になったらしい。しかしそれだけ。学校側はそれと慰謝料で今回の件について手打ちにしないかと提案してきたらしかった。
あまりに配慮に欠ける学校側のそうした対応に彼は納得がいかず、裁判に持っていこうとしたがしかし、疲弊した母がやめてくれ頼んだ結果やむなく示談で終わりを迎えたのだと語った。
「あいつらは悔しがっていましたか?」
唐突な質問に困惑しながらも首を縦に振る彼を見て、僕は病室で笑った。大きな声で笑った。僕の受けた悔しさはそんなものじゃないと、ざまぁないと笑った。だけれどなぜだか虚しさばかりが胸に湧いてきた。
退院して帰ってきた家は、既に心安らぐ唯一の場所ではなくなっていた。
父が重役だったと言うこともあってか、連日のようにマスコミが僕や母の気持ちなんてお構いなしに張り込みを続ける日々。
彼らの目はまるで獲物に飢えた獣のようで、誠意の欠片も感じられない「心中お察しします」だとか「この度はお悔やみ申し上げます」だとかの取ってつけたような言葉は余計に僕達の心を荒ませた。
そんな生活が続いたせいか、父が亡くなったことにだけでも相当参っていた母はストレスで仕事を辞め、次第に自分の部屋からほとんど出てこなくなってしまった。父の保険金や慰謝料、貯金などがあったため、母が閉じ籠るようになっても金銭面での問題はなかったが、一人きりの家はどこまでも暗くて冷たく、まるで知らない家のようだった。
父が亡くなってから一ヶ月が経った頃、学校へと復帰すると僕をいじめようとする者は誰もいなくなっていた。皮肉なことに父の死をきっかけにいじめはピタリと止んだのだ。
いじめられることが日常と化していた僕は、何もされないことに違和感すら抱きながら全ての授業を終え、帰り支度をしていると、一人の女子が寄ってきた。
「今和泉君あの…なんて言っていいか分かんないけど元気出して?私いつでも相談に乗るから」
それを皮切りに四、五人の男女が集まってきて口々に言った。
「そうそう、俺達を頼ってくれていいんだぜ」
「あたし達味方だからね?」
「困ったときはお互い様だ」
「そうだ、今日一緒にどっかよって帰らない?いい気気分転換になると思うんだよね」
「うるせぇんだよ!」
自然と口から衝いて出たその叫びに、集まってきた男女だけでなく教室全体の空気が凍ったように静まり返っていた。
しかしそんな空気の中でも僕は構わず言葉を吐いた。
「なにが『相談に乗る』だ!なにが『頼っていい』だ!なにが『味方』だ!そうやっていじめられていた僕に手を指し伸ばせばさぞ気持ちがいいだろうよ!だけどな、そうやって今更『本当はお前のこと分かってた』みたいなこと言われるのが一番頭に来るんだよ!」
中学の頃から堪り続けていた感情が濁流のように溢れ出した。
誰もこの気持ちが分かるものか、分かられて堪るものか。お前らに理解出来るほど安い思いではない。僕は怒りと憎しみを込めて叫んだ。
「そんなつもりは―――」
「そんなつもりなんだよ!お前達は僕に何やったか分かってんのか!?どうせ自分達はやってないとか思っているんだろうけどな、そんなものはやられた側からすれば違いなんてないんだよ!本当に仲間だと思っていたなら僕がいじめられていた時になんで一緒に戦ってくれなかった!?なんで支えてくれなかった!?それはそうだ怖いからな!僕に加勢すれば自分もいじめられるかもしれない、だから見て見ぬふりをした!そうして僕だけが戦い続け、終わった後にのこのこ出てきて『実は』だって!?聖人ごっこをしたいなら他所でやれ!」
廊下まで響いたその叫びに他のクラスの生徒と教師達が集まってきて人混みを作る。その人混みから一人の男が割り出てきて僕と対峙した。それは担任教師だった。
「話は聞いたぞ今和泉、お前の憤りは分かるが落ち着け。彼らだって悪気があったわけじゃないんだ」
「っ!……お前もお前だよ、人間性だけじゃなくて脳みそまでイカレてんのか?」
そう吐き捨てるように言う言葉に担任教師は顔を真っ赤にして逆上した。
「いい加減にしろ!先生をなんだと思っているんだ!」
「先生を何だと思っているかだって?そんなもの決まってるだろ、あんたらはクズだ。紛れもないクズだよ。そんな使い物にならないクズ教師共に教えてやる。こいつらに悪気がないだって?そんなの当たり前だろ、こいつらに悪気なんて元々ない。だってそもそも僕のことなんてどうだっていいんだから。こいつらは自分のことしか考えてないんだ。あんたらには分かんないだろうけどそういうのが一番厄介なんだよ。都合の悪い時は見て見ぬふりをして、都合のいい時だけ味方のふりをする。ねぇ先生。あんたが先生だっていうなら教えてよ。僕はどうやったらこんな空っぽの善意を振りかざす奴らを信用出来る?一緒に笑える気になれる?僕の目を見て答えてみろよ!」
「だってあんたが悪いんじゃん」
誰かが言った。信じられない言葉だった。よくここまで言われてその言葉が出てくるものだと感心すらした。でも、静かな教室に放たれたその言葉が、集まった人に段々と伝播していくのを見て僕は知ってしまった。人間なんて所詮そんなものなのだと。
誰も罪悪感なんて持ちたくない。まぁこれは分からないでもない。僕だって可能なら御免被りたい。だけれどもし本当に自分が悪いのなら、それは素直になるべきではないだろうか?そう思っていた。そう思っていたのは僕だけだった。
「宮沢賢治は随分な夢想家だったんだな……」
目の前でその事実をまざまざと見せつけられることは、僕が彼らを見限るには十分過ぎる出来事だった。
高校卒業後、僕は志乃月大学のさして目立った実績のない工学部に入学した。
自分で言うのもなんだが僕は頭がいい。だからきっとあのまま勉強を真面目に続けていれば国内トップの大学に入学することも夢ではなかっただろう。だがその意味を見失った僕には受験勉強する気も湧かなければ、大学で勉強することにも魅力を感じられなかった。
ではなぜやる気がないにも拘らず志乃月に入学したのか。もちろん就職することも考えた。しかし生前、大学生になった僕と酒を飲みかわす夢を母に嬉々として語っていた父の顔がどうしても忘れられなかった僕にそんなこと出来るはずもなかった。
大学の入学式が終わってすぐ、僕は式場である大ホールとその隣の建物の間にある人気のない路地へ、上級生四人に連れ込まれていた。
「ニュースで見たぜ?お前、親父の保険金やらで金持ってんだろ?俺達に貸してくんね?」
リーダー格の男がニヤつきながらそう口にした。
「あぁまた始まった」。そう思った。地獄は僕を逃がしてはくれない。いつまでもいつまでも追いかけてくる。
父を失った。母の笑顔を失った。人を信じる心を失った。これ以上僕から何を奪うのだと、絶望で倒れ込みそうになった。だがその時、上級生達の間から偶然僕がいる路地の入り口近くを通りかかった女学生が見えた。
上級生に囲まれ声を出すことが出来なかった僕は、声の代りに精一杯「気付いてくれ」と念じながらその女学生を見つめた。するとその願いが届いたのか彼女の視線と僕の視線は交差した。そして彼女は数秒見つめた後、足早に通り過ぎてしまった。
僕はその場にしゃがみ込んだ。
分かっていたことではあった。他人のために身を投げる人なんていないと中高で嫌と言うほどに思い知らされた。それでもつい期待してしまったのだ。ここから救い上げてくれる誰かがいるのではないかと。
見上げた空はこれからを暗示するように分厚い雲に覆われていた。
「大学、やめようかな……」
喉から掠れた声が出ると同時に父の笑顔が脳裏に浮かぶ。亡き父の願い一つ叶えられない自分の人生をどうしようもなく呪った。
「おいおいお前泣いて―――ぐげぇ!」
聞こえた異音に顔を上げた。面白がって僕を小突こうとしていた二人の上級生は僕に触れることなく、無様に腰を地面に付けていた。
「俺の方が飛んだな」
「元サッカー部に勝てる訳ねぇだろ」
「じゃあもう一回やり直せば?」
「「どうやれと」」
慌てて態勢を整える上級生達の前には、真新しいスーツを着た男子学生二人とさっきの女学生。彼女らが上級生を思いっきり蹴飛ばしたのだ。
「んだテメェらぶっ殺すぞ!」
大声で脅す上級生。だがその三人は全く意に介さない。
「殺されるんだって、あたしまだ死ぬの嫌だからもしものときはお願いね?」
「俺も嫌だなぁ。てことでもしものときは弘人よろしくな」
「それはどうぞ盾にしてくださいって意味でOK?」
「どうして……」
無意識に漏れてしまった言葉に慌てて口を塞いだ。彼女はそんな僕を見て優しく微笑んでみせた。
「どうしてって、助けてって言ってたでしょ?だから助けに来た」
訳が分からなかった。確かに期待した。だがなぜ助けようと言う発想になるのかが理解出来なかった。彼女だけではない、その横に立つ二人もなぜ迷いなくこの場に来られたのか。
訳も分からず固まっている僕を見て金髪は言った。
「なぁこれあれじゃねぇか?何の見返りもなしに親切にする奴を信用出来ないみたいな」
「えっ、ホントに?じゃどうしよっかなぁ、見返りかぁ……そうだ!これからこの人達追い払うから、そしたらあたし達と友達になってよ。二人もそれでいい?」
「それでいこう」
「了解だ」
彼女の出した意味不明な目的に黒髪と金髪が同調する。
「おい一年、いい加減にしろよ?お前らが二度とそんな口利けないようにしてやる」
そう言って構えながら、目の形を三角形にする上級生達。だがそんな奴らを前にしても彼女達は怖気づくどころか、むしろ煽るように言葉を吐いた。
「ゴキブリ先輩は新宿の路地裏へお帰りください」
「新宿なんて生ぬるい。ニューヨークだ」
「いやインドだろ」
そう雑に吐き捨てながら彼女は中指を立て、黒髪は親指を下に向け、金髪は親指を首元に当てて横に切る。それが殴り合いの合図だった。
あまりにも無謀なその戦い。彼女らが一方的に負けるだろうと思った。だって上級生の方が一人多いし、何より吸血種が一人いたから。
だが違った。全員がバラバラの動きをとる上級生達とは違い、まるで次に誰がどう動くか分かっているような息の合ったコンビネーションをとる三人は人種と数の不利を覆していった。
彼女が一人蹴り飛ばし、そこに殴りかかろうとする上級生を黒髪が殴る。黒髪が右足を軸に振り返ると、勢いそのまま金髪に殴りかかろうとする上級生を、金髪は黒髪を殴ろうとする上級生をすれ違いざまに殴りつける。
激戦は十分近く行われた。互いにボロボロになり、三人の着ていた真新しかったスーツは見るも無残な状態になっていた。それでも最後に僕の目の前で立っていたのは彼女ら三人だった。
「いったぁー!女の子を殴るってどんな神経してんのあいつら!」
あれだけの激戦の後なのに、彼女は黒髪と金髪に向かって笑いながら伸びをする。彼女だけではない、他の二人もやり切ったと愁い一つない顔をしていた。
「なんで…なんで僕を助けたんだ!なんであそこまで躊躇わずに戦えたんだ!見ず知らずの僕なんかのために!」
思わず叫んでいた。僕の知っている人はこんなことは絶対にしない。しようとしない。三人は僕にとってありえない存在だった。
「もちろん正義のため……なんて言ってみたいけど違うね、うん」
彼女は少しだけ考えてから、僕の前へとやって来て真摯に答えた。
「あたし達は結局自分のためにやったんだよ。あなたのためって言うのは後付けなんだと思う。あなたと目が合ったとき見て見ぬふりをするのが一番楽だったのかもしれない。だけどね、それは自分を貶めることになる。あいつらははっきり言ってクズだよ。でももしあなたを見捨てていたらあたしはそれ以下のクズに成り下がる。だからあなたを助けた。それじゃダメかな?」
何も答えることが出来なかった。
彼女の真摯な物言いと表情が記憶の中の父を想起させた。そして僕の奪われた誇りと同じようなことを言う彼女達だからこそ、もう一度誰かを信じてみたいと言う気持ちが少しずつ胸に湧き始めているのを感じた。
だけど、例えば彼女達に裏切られたら?そう考えると何も答えられなくなってしまった。
黙り込んだ僕を見て彼女達は顔を見合わせて苦笑する。それから黒髪、金髪は順に僕の背中を叩いて路地の外へと歩いて行った。
「ほれ行くぞ」
「昼飯まだだろ?」
残った彼女は先に行った二人の方を見て困ったような笑顔を浮かべてから、僕の目線に合わせてしゃがんだ。
「あたし達は君にこれまでどんなことがあったか知らないから「頑張ったね」とか、「辛かったね」なんて言葉はかけられない。だけど同じように君もあたし達を知らない、でしょ?あたし達と一緒にいてちょっとでも嫌だなぁって思ったら縁を切ってくれて構わない。だから少しだけあたし達のわがままに少し付き合ってくれない?」
彼女はそう言うと路地の前で待っている黒髪と金髪のもとへ向かった。
僕はすっかり抜けてしまった腰をどうにか立たせて、不思議と何か葛藤することも無く暗い路地から外へ向けて足を動かしていた。
だけれど彼女達を前にして最後の一歩、路地から出る残りの一歩がどうしても出なかった。
怖かった。ひたすらに怖かった。誰かと関わりを持ち、そこから訪れるかもしれない悲劇が怖くて怖くてたまらなかった。
今度は何を奪われる?母の命?そしたら僕は何を糧に生きて行けばいい?
僕にとって人を信じるなんて当たり前のことは、途方もなく難しくなっていた。
それでも僕は彼女達のもとへ行きたくて、竦む足を何度も叩き、「前へ進め」と思いを込めた。だが足はまるで地面に根でも張ったかのように動こうとはしなかった。
(あと一歩。あと一歩なのにどうして…!)
そう思った時
「ねぇ」
「え」
彼女の声が聞こえたかと思うと次の瞬間、僕の体はいきなり引っ張られ、傾いていた。危うく転びそうになる体を立て直してから、訳が分からず瞑った瞳を恐る恐る開く。
「あっ」
僕の足は路地から外へ出ていた。
人が見ればただの一歩だろう。だけど僕にとってそれは大きすぎる一歩だった。
中一の三学期から約五年。見たい物は見ることが出来ず、見たくない物ばかり見せられる地獄と形容する他ないような日常を過ごしてきた。生きていることの意義を問うたこともあった。死んだ方が楽なのではと本気で思ったことも、自殺を図ろうとしたこともあった。そんな日々は何時しか僕から一歩を踏み出す選択肢すら奪っていた。でも今日僕はその一歩を踏み出した。
彼女の言う通り僕はまだ彼女達を知らない。だからもしかしたら期待外れで終わることだってあるかもしれない。でも自分の手が汚れることを厭わず、僕へ手を伸ばしてくれた彼女達を信じてみたい。そうすればずっと見たかった、でも何時しか諦めていた景色を見られるかもしれない。その時、僕はやっと救われるのだろう。
意を決して顔を上げた。僕は目の前にあった晴れた空と、彼女の輝かんばかりの笑顔を何があっても一生忘れはしないだろう。
「あたしの名前は立川碧羽。これからよろしくね」
この時僕、今和泉拓は立川碧羽さんに恋をした。きっかけは単純で、陳腐で、どこにでもあるようなただの憧れだった。
「―――――ねぇ聞いてる拓君?」
「えっ―――うわぁ!」
隣から掛かった立川さんの声で我に返った僕は同時に足を取られ、体勢を崩した。
「大丈夫!?疲れてるなら少し休もうか?」
「へっ、平気平気、少し考え事してただけだから」
上手い具合にバランスを取って尻餅を回避しても彼女はやっぱり心配そうな顔をする。僕はそんな彼女に本当に心配ないと笑顔を向けた。
アウトドア…と言うより自然が好きだった父と生前最後に行った山がこの嵐山で、そのことも手伝ってかここに来るとどうやら無条件に昔のことを思い返してしまうようだ。立川さんとせっかく二人でいるのにこんなことではいけない。
阿藤さんが合流してから元々は三人で行動していた僕達は、前に僕と立川さん、後ろに虎太郎と阿藤さんの二グループに分かれていた。
しかし立川さんと二人きりなんてそうそう無いと内心ドキドキしながら歩いていたのに、実際はこの体たらく。自分でも情けないと思うが、それでもまだまだ時間はある。せめてここから取り返そう。
「本当に空気がおいしいね。昔来た時にはよく分からなかったけど今ならよく分かるよ」
僕の言葉を聞いて立川さんはその場に止まると、大きく深呼吸する。すると空気で満たされた彼女の大きな胸が上下し、僕は咄嗟に目を背けた。
弘人はこんなものを見て良く何にも思わずにいられるものだ。もしかしたらEDなんじゃないだろうか?
「確かにいい空気だね、東京じゃ中々お目にかかれないよ。…でもこれはちょっと」
「どうしたの?」
「ん?ううん気にしないで、独り言だから」
彼女は打ち切る様に言葉を終わらせてから、上機嫌に鼻歌を歌い、落ち着いた山道を軽やかに上がっていく。
「それなんて曲?」
「ゼラニウム。あたしこれ好きなんだよね、歌詞もそうだけど何より名前が気に入った」
僕より数段上まで上がった立川さんは、そう言いながらクルっと振り返って笑顔を向けた。
「立川さん花好きだもんね。確か花言葉は“信頼”だっけ?」
「そうそう、よく知ってるね」
「ほら、僕の母が昔花屋で働いてたから」
「あそっか。いいなぁ花屋」
「きっと似合うよ。立川さんが店番してたら僕通いそう」
「いいねそれ。ふふふ、毎日通ってくれたらあたしは安泰だ」
「えっ、毎日?」
「違うの?」
「あ、いやもちろん!毎日通わせていただきます!」
「じょーだんじょーだん。でももしあたしが花屋で働くことが出来たらさ、たまにでいいから会いに来てね。それと弘人にも」
「弘人?」
今の話のどこに弘人が関係していたのだろう?
「ねぇ拓君。拓君にとって弘人はどんな人?」
「あーそうだなぁ、弘人は―――」
「ねぇ」
茶化した答えを考えていた僕は、彼女を見て一から考えを改めた。
彼女のその入学式の時よりもずっと真剣で迫力すら感じる声と表情はまるで、「半端な答えは許さない」と威圧しているようだった。
「弘人は、大切な友達…だよ。僕が今こうして馬鹿なこと言って騒いだり、笑ったりしていられるのは弘人のお陰だ。あぁもちろん虎太郎と立川さんもそうだけど」
「もし弘人が本気で助けを求めたら駆けつけてくれる?」
「本気じゃなくても駆けつける。僕は三人にそれだけ借りがあるし、借りが無くても大切な友達を見捨てはしないよ」
これは三人に出会わなければ抱くことのなかった思い。でも正直そんなことは絶対に起きないとも思っている。
弘人も虎太郎も立川さんも強い。ケンカとかじゃなく心が。何より心が僕よりずっと。だから僕がどんなに強くなってもきっと彼女達には追いつけはしない。でも追いつけはしないと分かっていても思わずにはいられない。いつか僕が彼女らを、彼女を助けられたらと。
「そっか、なら安心した。ありがとう拓君、弘人の友達になってくれて」
「そんな、僕こそあのときみんなに会ってなかったら―――」
あぁ、知っている。愛おし気に微笑むその表情の意味を僕は知っている。
彼女は弘人をどこまでも愛している。仮に今回虎太郎の作戦が全て上手くいって、更に運よく僕が彼女と付き合えたとして、それはやはり弘人の代わりでしかないのだろう。彼女にとっての一番は何があっても僕じゃない、弘人だ。だからその表情を見て酷く自分を惨めに思った。僕が賛同した虎太郎の作戦は彼女の幸せを奪うことだ。分かっていなかった。自分のことばかり考えて分かったフリをしていただけだった。彼女を助けられたら?全く滑稽にも程がある。
「立川さんごめん。実は阿藤さんが参加した理由は―――」
「知ってる、多分。だから謝らないで」
彼女は自分の心を隠すように笑ってみせる。
「あっ、ねぇねぇあの花綺麗じゃない!?」
「…うん」
僕は一体、どうすればいい。