例えそれが今だけでも
翼さんと別れていくつか先の駅で降り、さらに自転車で十分ほど走った所に俺が部屋を借りているアパート、フレアミサキはある。
三階建てで一フロア六部屋からなるフレアミサキは築二十年とまぁまぁ古いのだが、1DKで家賃は月々七万円と学生が住むにはちょっとばかし高すぎる。しかも大学があるのが東京都町田市で実家が杉並区、そしてここが世田谷区。ここから大学までそれなりに遠いうえに実家からも大学に通えるため、ぶっちゃけ俺は一人暮らしをする必要などないのだ。ではなぜこうして一人暮らしをしているのか。それは十年前のあの日、母さんがばあちゃんに渡していた手紙にそう書いてあったからだ。
「大学生になったら自立のために一人暮らしをするように」。母さんは多分俺に社会経験を積ませたくてこう残したのだろう。ただそうは言いつつも、大学の学費と生活費等が入った口座の通帳を一緒に付けているのだから、俺を働かせるつもりは無かったらしい。それとも大金を前にした時の自制心や金銭をうまく運用していく術を学ばせたかったのだろうか?母さんの考えることはよく分からない。
「ただまー」
自分の部屋である二〇七号室に入ると、奥の洋室へと移動してベッドの上にメッセンジャーバッグを放り投げる。それから物置戸棚の中から埃の被ったスーツケースを引っ張り出し、タンスの中の服に触れようとして、俺はふと手を止めた。
「汗のついた着替えはちょっと嫌だな」
と言うことでバスタオルを肩に引っ掛けて風呂場に向かった。
風呂場に入っての蛇口を捻る。ホースを辿ってシャワーヘッドから溢れ出した温水は、俺の背中を伝ってピチャンと音を立てながら、床に落ちては排水溝に流れていく。
暖気と湿り気に満ちていく風呂場の中、俺は気が付くと電車の中での考え事を再開していた。
彼女について俺はどこまで踏み込んでいいのだろうか?もしかしたら何が起きても気が付かないふりをするのが彼女に対する最適解なのかもしれない。そう、きっとこれが最適解で間違いない。そもそもこうして考えていることだって俺の感性を頼りにしてのことだ。彼女からしたら余計なお世話もいいところなのかもしれない。
でもそう思いながらも、彼女を見ているとどうしても放っておけなくなる自分が確かにいる。
彼女の写真で見た時の印象と実際に会った時の差異。たわいもない話をしている時の瞳と不意に見せた揺れる瞳。雰囲気が薄っすらブレ続けている彼女の在り方はやはり、美しくありながらも下手に触れると壊れてしまいそうな硝子細工と言う言葉が的確過ぎるほどに的確に感じられて、それはどうにも無理をしていることの表れと思えて仕方がなかった。
でもどんなに心配に思ったとしても、俺は彼女の抱える問題の核心に触れることは出来ないし、触れてはいけないのだろう。なぜならそれは恐らく彼女の家族に関わることだから。
彼女の行動の意味は分からないがそれだけは多分間違いない。そしてこれが正解だったとすると俺が首を突っ込むのはもう筋違いもいいところだ。昨日今日会ったばかりの人間が踏み込んでいいラインを大幅に踏み超えてしまっている。大体十九年越しの問題など俺一人の介入程度でどうこう出来るものでもないだろう。
それに親切とお節介は違う。俺が助けたいと言う気持ちを抱いていても、それは相手の状況を鑑みないで無暗に振るっていいモノじゃない。だから例えば彼女からSOSでも発せられない限りはこちらから深入りするつもりは無い。深入りするつもりは無いが…
「ジレンマだな…」
思考は結局堂々巡り。電車の中で出した答えと同じところに辿り着いた俺は、ため息を一つついてから詰め終わったスーツケースを閉め、サンダルに足を乗せて部屋から出た。
階段を上がって進んだ先、丁度俺の部屋の真上である三〇七号室の前まで行くと、その部屋のチャイムを鳴らす。すると少しおいてからドタドタと足音が扉へ近づいてきた。
「遅い!待たせすぎ!」
俺を出迎えたのは大きな黒縁眼鏡をかけ、いつもより緩く結った髪を左肩から流す、ラフな格好をした碧羽だった。
「ごめんごめん」
「分かればよろしい!さ、入った入った!」
招き入れる碧羽に続いて俺は中へ入っていった。
一人暮らし初心者にとって地味に困るのが料理を作り過ぎてしまうことだ。
と言うのも鍋やフライパンなどの調理器具は往々にして複数人用として作られているため、俺達のような一人暮らし初心者には少し難しい。そのため一人分を作るつもりが結果二人分三人分完成しており、数食それを食べ続けるか廃棄するかのどちらかの道を辿ることになるのだ。
この経済的にも精神的にも非常によろしくない問題に引っ越してからすぐ直面した俺と碧羽は即日、ある制度を取り入れることにした。それは交代で食事を作り合う当番制。
どうせ沢山出来てしまうならそれを二人で食べればいいと導入されたこの制度は、二人の抱えていた問題を同時に解決しただけでなく、食費も削減されると言うまさに一挙両得な効果を見せ、俺達の財布と心に安寧を与えた。今日はその当番制における碧羽の番だったために、俺はこうして部屋を訪れたのだった。
碧羽の部屋のつくりは当たり前だが俺の部屋と同じで、入ってすぐがダイニングキッチン。その奥が洋室で、洗面所、洗濯スペース、風呂場、トイレは玄関のすぐ右にある。ただつくりは同じでも雰囲気は違い、碧羽の部屋はところどころにさりげなく花の飾られた、落ち着きと女の子らしさを両立したような内装をしていた。
俺はそんな最早勝手知ったる部屋に入ってから机の上を確認する。そして肩を落とした。
机の上にあったのは二膳の箸とグラスが二つ。薄い黄色と黒の茶碗が一つずつ。そして大皿に盛られた大量のから揚げ。
「から揚げと白米ってお前…、痩せるんじゃなかったのか?」
麦茶をグラスに注ぐ碧羽の肩がビクッと震える。俺はそんな碧羽から視線を外すと、から揚げの取り皿を取るためキッチンの戸棚を開いた。
「弘人様。折り入って請願したきことがございます」
「え、なに怖い」
それはある日のこと。碧羽は俺に土下座をかました。
尻を浮かさず膝はきっちり畳まれて、三つ指ついた碧羽の土下座は美しく完成されており、日本人の謝罪の精神が形になったようであったがしかし、俺が抱いたのは感心でもなければ心配でもなく恐怖だった。想像してほしい。玄関から急に入ってきて、一も二も無く土下座された俺の気持ちを。
だがいくらやめるように説得しても一向にやめる気配のない碧羽に根負けした俺は、とりあえず話だけでも聞くことにした。
「分ったから、話聞くからもうやめて」
「ありがとうございます」
「それもやめて」
そう言って膝が立たなくなっていた碧羽に肩を貸し椅子に座らせると、俺は二人分のお茶を淹れて対面に座った。
「実は今日からヘルシーな…そうじゃなくてもバランスの取れた食事を作ってほしくて…」
「え?あぁーなるほど…」
「おい弘人さんや、今何に納得した?」
「違う違う、女子は大変だなって」
「どういうことだい?」
「大丈夫。あんま変わったように見えないから」
「いつもあたしが太ってるって言いたいか!」
「理不尽っ!」
と、こんな調子に頭突きを喰らってからというもの、俺は作る食事に気を遣うようになった。もっとも、今も継続しているのは俺だけで、当の碧羽はすぐにジャンキーな食事に逃げようとするのだが。
話を戻して現在。机に広がるのは大量の茶色い塊。今日も今日とて碧羽はジャンキーな食事を選択したのだった。
俺は何もサボって楽をしているなんて言うつもりは無い。むしろから揚げはなかなか大変だ。
漬け地に漬けて小麦粉やら片栗粉やらを塗して油で揚げる。口で言うだけなら簡単にも見えるが、実際には大量の洗い物と油の後始末をしないといけないため、結構な時間と手間がかかる。料理は作って「はい終わり」ではなく、片付けをしてキッチンを元の状態まで戻してやっと終わりになるのだ。だからその点を責めているわけではない。俺が責めているのは人に協力を仰いでおいて自分は何もしないと言うことについて。
ジャンキーな食べ物がおいしいのは分かる。体に悪いと分かっていてなお、ついつい手が伸びてしまう如何ともし難いあの魔性とも言うべき魅力は、中毒者が後を絶たないのも頷けるほどだ。だが一度それを封じると決めたなら、その信念を少なくとも目標達成まで貫き通してもらわないと困る。
「と、言うことでここから二か月揚げ物は禁止。肉も週に一度な」
「そんなご無体なぁ!」
皿を置き、碧羽に小言をつらつら聞かせた俺はそう言葉を締める。ところが碧羽は俺の服を掴み必死で訴え始めた。
こう言うところを見ていると「本当はどうでもよくなっているのでは?」なんて思わずにはいられない。本気で痩せる気があるのならばここで唸りながらも頷く本当だろう。それなのに碧羽ときたら生きるか死ぬかみたいな顔をして「それは嫌だと」訴え続けている。
食欲旺盛なのは知っているし、むしろ食欲が無くなったなどと言う驚天動地の大事件じゃないだけまだマシだが、ここで俺まで揺らいでしまえば元も子もなくなってしまう。俺は今の甘え切った碧羽ではなく、必死に土下座したあの碧羽の思いを尊重しなければいけない。
「いいよ?全ての制限を解いても。ただ一緒に俺もバランスなんて考えなくなるけど」
「で、でもほら、前々回は気を付けてたじゃん」
「前回はクリームコロッケだったよな」
「うっ…」
「前々々回は鳥皮餃子だっけ?」
「よ、よく覚えておいでで…」
碧羽の勢いは俺が言葉を重ねるごとに失速していく。
あぁ、しかししまった。これはいけない。なんか楽しくなってきた。
俺は思わず意気揚々と首と肩を回すと言葉を続けようと口を開く。その時、右ポケットに入ったスマホから着信音が流れ出した。
「こんな時間に誰だろ?…………あ、ばあちゃんだ」
「!」
ばあちゃんの名前を出した瞬間、碧羽は火花でも飛びそうな勢いで床を蹴る。その視線は真っ直ぐ俺の右手に持ったスマホを射止めていた。
狙いを察し、そうはさせまいと咄嗟にスマホを背中に隠そうとする。だが猛禽類の様な身軽な動きで俺の後ろへと回りこんだ碧羽は、いとも容易く手からスマホを奪い去ると、おまけとばかりに腹へ一発蹴りを入れ、奥の洋室へと滑り込んでいった。
「グフォァ…!」
碧羽の蹴りに膝から床に崩れ落ち、すぐに誘発された腹痛が俺を襲う。だが俺はそんなことよりも必死で碧羽を止めようと手を伸ばした。
俺は知っている。経験則で知っている。碧羽の仕返しが手痛いことを。
「ま、待て碧羽、話せばわか―――」
「おばあちゃぁぁん!弘人がいじめるぅぅぅ!」
手を伸ばした先。奥の洋室から碧羽の泣き声が聞こえてきた。正確には泣き声に限りなく近い泣きまねが。
泣きまね。それだけ聞くと大したことないように思えるがしかし、碧羽のそれはそんじょそこらの泣きまねとは訳が違う。小さい頃から俺とのケンカの切り札として使われてきたそれは、長年の研鑽を経て聞き慣れた俺でもなければ真偽の判別がつかないほどに完成されている。だからそれを高齢で、かつ電話越しに聞いたばあちゃんがどう受け取ったかなど明確過ぎるほどに明確だ。
碧羽はしばらくばあちゃんと萎らしいトーンで会話を続けてから、うつ伏せで倒れる俺に半笑いでスマホを突き返す。俺は嫌な予感に冷汗を滲ませながら、恐る恐るスマホを耳に当てた。
「もしもしばあちゃん?弘人だけど。何を聞いたか知らないけどあれは誤解で―――」
「弘人いい?私は弘人がどんな悪人になったって愛しているからね?」
「だから誤解だってぇぇぇぇ!」
辛い。予想以上に辛い。泣きまねが聞こえてきた時点でばあちゃんに何か言われるだろうと覚悟はしていたけれどこれは辛い。
普通に怒られるのだったらまだいい。良くはないけどまだいい。だがばあちゃんに気を使わせて、挙句の果てに心配させるなど普通に怒られる十倍、いや百倍くらい精神的にキツ過ぎる。碧羽の仕返しはこれだから嫌なんだ。
「おいうるせぇぞ!」
ドンドンドンとドアを叩く音が部屋に鳴り響いた。どうやら俺の叫び声のせいで隣の住人がクレームをつけに来たらしい。
当たり前だ。夜中と言うほど遅くは無いが、テレビで言うところのゴールデンタイムにこんな騒いでいたら文句の一つもつけたくなる。ただちょっと今はタイミングが悪過ぎる。体も痛いし、何より精神的にボロボロだ。とは言え碧羽を夜に一人で出させる訳にもいかない。
「はぁ…」
俺はため息を一つついてから玄関へと向かった。
嗚呼、無情。
ジャァァァァァ
蛇口から流れる水音だけがキッチンに響いている。
あれから隣人のお叱りを受け、事情を察したばあちゃんからも二人揃ってお叱りを受け、そこから気まずい食事を経た俺は、半ば放心状態で洗剤のついた食器を洗い流しては水切り台へ乗せていた。
疲れた。精も根も尽きた。正直もう何も考えたくない。でも…
「さて、碧羽にどう謝るかなぁ…」
最後の食器を水切り台に乗せて濡れた手をタオルで拭うと、俺はそう小さく呟いた。
どんなに疲れていても先送りに出来ない問題と言うものはある。今の俺にとってのそれは、奥の洋室に引き籠ってしまった碧羽に謝ることに他ならない。
今回の件、碧羽は悪い。もう言い逃れ出来ないほどに元凶だ。
だけれど俺もまた悪い。言い方が悪かったし、最後の方は全く別の目的で言葉を発しようとしていた。だから碧羽も悪いが俺も悪い。
「はぁ…」
思わずため息を一つつく。
昔からの付き合いなのに、なぜ俺達の間には未だケンカが起きる。違うな、きっとだからこそだ。
互いを他人よりも知っている俺達は、それこそ翼さんに対するような遠慮を全くしない。相手の事情にはズカズカ物を言うし、最低限しか言葉は選ばない。ツーカーの関係とも言えるけれど、だけどそれが時に歪みを生み、今回の様なケンカに発展させてしまうのだろう。
でもそうしてケンカに発展しても結局申し訳ない気持ちになって謝るのだから、全く不毛で何の生産性も無い。何の生産性もないが十年間こうして築いてきた関係なのだから、今更変えられるものでもない。俺はこの先十年、二十年とこうして碧羽と付き合っていくのだろう。
「よし、行くか」
何度経験しても拭いきれない小恥ずかしさを抱えながら、俺は意を決して洋室へつながる襖に手を掛ける。
「ひろとーーー!」
「ブッファッ!」
しかし襖を開けて洋室に一歩踏み入れた瞬間、レスリング選手もびっくりなタックルが俺の腹部を直撃した。
「いってぇ…、お前何すんだ―――」
床に叩きつけられた俺は、文句を口にしつつ上体を起こす。そして言葉を詰まらせた。
俺の腹部に手を回し、うつ伏せになった碧羽はどこか甘い香りを漂わせ、顔を赤く上気させていたのだ。大方の事情を察し洋室を見やると、案の定ローテーブルの上には空になった缶が数本置かれていた。引き籠る前に冷蔵庫を漁っていたのはこれだったか。
「ごめんなさいひろと…」
そう消え入りそうな声で言う碧羽の目からほろほろと涙が零れて落ちる。俺はそれを見て思わず目を見開くも、すぐに平静を取り繕った。
「泣くなよこんなことで、別に気にしてないから。それに俺も今回は悪かった」
「ちがうあたしが…」
「そうお前も悪い。だけど俺も悪い。これでいいだろ?」
「ごめんひろと…」
大丈夫だと言っているのに涙の止まらない背中を黙ってさする。だがそうやって壊れ物に触るように優しく碧羽に接する反面、俺は自分の行動を激しく悔いた。
手の届く限りの笑顔を守りたい。
そう思うようになったのは多分、あの日母さんが最後に見せた涙のせい。あれが身を裂くほどに痛かったから、そう願うようになったのだと思う。
だけど正直、どうすればその願いを体現出来るのか未だに分からない。
憧れと言うか、目標みたいなモノはある。でもそれがあまりに大き過ぎて、どうしたらその横に立てるのかが分からない。想いばかりが先行して俺自身が付いていけていない。
だから昼間の拓や翼さんの時みたいに、ただがむしゃらに出来る限り手を伸ばしてみているけど、果たしてそれが正しいルートかと聞かれれば首を縦にも横にも振れない。
そして結局この始末。俺は誰を置いても笑顔でいてほしい人を泣かせてしまった。全く情けないったらない。
「俺はいつもこうだな。お前に迷惑を掛けてばかりだ」
漏らした嗚咽も落ち着きはじめた背中を見て独り言のように呟く。碧羽は勢いよく顔を上げ、首を横に振った。
「めいわくかけてるのはあたしのほう。いつだってびくびくしてる。きみにきらわれるんじゃないかって」
「嫌われるって、碧羽俺は―――俺がそんなこと思うはずないだろ?」
喉元までせり上がってきた感情を出る直前で嚥下する。
絶対に口にしてはいけない。この感情を伝える資格をまだ俺は持っていないのだから。
「ねぇ、じゃあつきあって?」
「いいよ、冷蔵庫の中どれくらい入ってるんだ?」
「……」
「ないなら買ってくるぞ?」
「……まだある」
碧羽は不貞腐れたように言ってから立ち上がると、俺に向かって手を差し伸べてきた。俺はその手を取って一息に腰を上げる。
「あ」
だがもう少しで立ち上がると言うところで、掴んだ碧羽の手がするりと抜けた。
空気の抵抗でふわりと咲く髪、床に吸われるように落ちていく体。俺は片足を後ろに引いてどうにか体勢を立て直してから、急いでバランスを崩した碧羽へ手を伸ばした。
「きゃっ」
小さな悲鳴がダイニングに響いた。俺が手を掴み返す前に碧羽は床に倒れてしまっていた。
「碧羽!」
俺は血相欠いて膝を折ると碧羽に呼びかける。碧羽は状況が理解出来ないのか、口を半開きにしたまま天井の一点をただ見つめていた。
心に焦燥感が湧き始める。打ち所が悪かったのだろうかと嫌な予感が体から体温を奪っていった。だが俺のそんな心配をよそに、碧羽の表情にはすぐに変化が訪れた。
頬を引きつって小さな声を出し、肩をプルプルと震わせ始めたのだ。そしてそれは段々と大きくなっていき…
「あっははは!『きゃっ』て、『きゃっ』て、ははははっ!」
碧羽は酔っ払いのように豪快に笑いだした。訂正。酔っ払いのようにではない、こいつは既に酔っ払いだった。ただ床を転げて楽しそうに笑っているものの、その声は隣人に気を使ってか最低限は殺されていた。
俺は全身の力を抜くように大きく息を吐く。
それだけの判断が出来ていると言うことは碧羽に大した怪我はなかったのだろう。
「お前飲み過ぎだぞ。今からこんな飲み方覚えて将来どうすんだよ」
碧羽はピタッと転がるのをやめると、俺のことを見て笑う。
「そしたら弘人が背負って連れ帰って?」
「飲まないって選択肢はないのか」
「ない」
「さいで」
俺の答えを聞いて満足したのか、碧羽はスキップしながら洋室へと戻っていく。俺は冷蔵庫から数本取り出して碧羽の後を追った。
***
「うっ、頭いったぁ…」
月明りだけが照らす薄暗い部屋であたしは目を覚ました。いつの間にかベッドを背もたれにして寝てしまっていたらしい。夕食後辺りからの記憶がないが、きっと弘人が辛抱強く付き合ってくれたのだろう。
あたしは酔いを醒ますために水を一杯飲もうと足に力を入れる。すると肩に何かが倒れ掛かってきた。
「あっ」
何かと思ってそちらへ視線を向けると、そこにはあたしと同じようにベッドを背にして寝ている弘人がバランスを崩して寄り掛かってきていた。
どうやら予想はあっていたらしい。更に言うなら一つ下の部屋に戻る気力さえ起きないほどに飲ませたと見える。少し罪悪感が湧いてきた。
しかしまぁそれはさておき、あたしの服が乱れていないところを見るに、今日も今日とて弘人は狼にはならなかったと見える。分かってはいたことだが、やっぱりそれでも少し不満だ。
自慢じゃないけどあたしは平均よりも容姿が整っている自信がある。そのための努力だって欠かさずしているつもりだ。それなのにこう歯牙にもかけられないとそんな自信も揺らいでしまう。きっともう弘人の中であたしは女の子にカテゴライズされていないのだろう。
「あーあ、こんな信用しきった顔しちゃってさ」
頭を優しく撫でると、それに反応した弘人は小さく唸って寝返りを打つ。
「ふふっ」
本当にズルい。どんな不満も、この顔を見ると全て些細なことに思えてくるのだから。
でもそうしてあたしが安らぎを得れば得るほど心は決して癒されない乾きに侵されていく。
昔、虎太郎が弘人にこんな質問をしているところに偶然居合わせたことがある。「碧羽とそんなに一緒にいて意識しないのか?」。そう問う虎太郎に対して弘人は「家族に欲情するか?」と即答した。全てあたしのしたことの結果だと分かっていても、さすがにあの時ばかりは涙を堪えることが出来なかった。弘人に知られたらきっと酷く辛そうな顔をするのだろうから絶対に言わないけど。でもやっぱり感情は理屈じゃない。
あたしは目を閉じ弘人の唇に自分の唇を近づける。
触れ合うまでの僅かな時間、頭に弘人とのこれまでが浮かんでは消えていった。そんな思い出達を愛おしく思いながら、弘人との距離が残り1センチになった時、あたしは目を開けた。
全て今更だ。「あの時に」だとか「もっとこうしていれば」なんてタラレバは何の意味もない。弘人と共に歩む未来がどんなに綺麗に見えても、そこへ渡るチケットを投げ捨てたあたしには幻と変わりがないのだから。それにそもそもそんな時間は多分あたしにはもう残されていない。
いや、もしかしたら幻だからこそその景色は輝いて見えるのかもしれない。だったらあたしはこのままでいい。冗談、これはただの負け惜しみ。
「なんだかなぁ…」
弘人の額にそっとキスをしてあたしは立ち上がると、キッチンへ向かって水を飲む。
弘人と結ばれることはない。弘人の隣にあたしとは違う誰かが並んで立つ日が来るのだろう。だからそのときは精一杯その誰かと弘人を応援しよう。でも今だけはここを誰にも絶対譲らない。今だけはあたしの場所だ。
キッチンから戻って、さっきよりも弘人に近い位置へ腰を下ろし、静かに眠りにつく。
網戸にした窓から吹き込んだ生ぬるい夏の風が、花瓶に刺さったタツナミソウの花びらを攫っていった。