カウントダウン
「よかった、あったぁ…」
俺は一人、教室でスマホを仰ぎながら安堵の声を上げた。なぜこんな事をしているのか。それは少し前のことだ。
「そういえばみんな、明日からの準備終わった?」
碧羽が放った一言は全員の時を止めた。そう、誰も手を付けていなかったのだ。大学生にもなってそれはどうなんだと自分でも思うがやっていないものは仕方がない。仕方ないが楽しく雑談なんてしている場合でもない。俺達は誰が何を言うまでもなく各々の帰り支度を始めた。
だがそんな中、俺は右ポケットにいつも入っているスマホが無いことにようやく気が付いた。焦って虎太郎と拓の二人に確認を取ると、どうやら後藤の授業前まではあったとのこと。俺は早速三人に先に帰るよう伝えて一人工学部棟へ走った。そして今、ようやくスマホを発見したのだった。
「ちゃんと管理しないとな」
そう反省し、スマホをポケットに仕舞い込んでから教室を出る。
駅まで走れば三人に合流出来るだろうかと思い左手首に巻いた腕時計を見ると、針は既に別れてから二十分近く経っていることを俺に伝えた。これではいくら走っても駅に着いた頃にはみんな家だろう。それなら走っても仕方がない。
急いた足を落ち着けて、古びた廊下を歩きだす。
木製の扉と汚れのこびりついた床タイル、青錆の生えた窓枠とクレセント鍵。古い建物のためかどこか懐かしさを感じる廊下には俺以外誰もおらず、ただ無駄話をする教員と、授業に戻るよう発言する真面目な学生の声だけが響いていた。そんななんてことない日常風景を歩いていると、ついついどうでもいいことを色々考えてしまう。
「誰かと紡いだ絆は大切にしなさい。唯一それだけがあなたの道を照らしてくれる」
一度過ぎ去ってしまえば思い出すことも出来ないほどどうでもいい些末事が流れた末、最後に浮かんだ母さんの後ろ姿と言葉に思わず足を止めた。
母さんがいなくなってから俺はずっと母さんの言葉の真意を考え続けている。マルっと素直に受け取ってしまうのなら、要は「友達と仲良くしろ」と言うことになるのだろうけれど、母さんの覚悟からしても、最後の約束にしてもそれは少し違うような気がする。それに元々哲学チックなことをよく言って聞かせる人だったのだから、言葉の裏に真意があって然るべきだ。しかしそうして穿った目で言葉を覗いてみても、結局は分かるのは“分からない”と言う結論だけ。「これならもっと噛み砕いて伝えてくれればよかったのに」と、文句の一つもつけたくなるが、行方不明者に口なし。そんなこと言ってもどうにもならない。
ただ真意がどうあれ少なくとも絆を紡ぐことだけは出来たと思う。目を閉じれば瞼の裏に輪郭どころか服の皺から顔色まで、8Kテレビも斯くやと言う解像度でばっちりで浮かんでくるあの三人は、母さんがいたのなら自慢げに紹介したいほど大切な仲間達だ。まぁきっとそれは一生叶わないのだろうけれど。
胸のあたりがチクリと痛む。
「はぁ…」
もう十年も前の事なのに、未だ思いを馳せる度に沈む自分を情けなく思う。ばあちゃんに言わせれば「悲しみや思い出に時間なんて関係ない」らしいのだが、それでも来年には二十歳になる身としては、もう少しだけ強くなりたい。
ふと胸元を見る。俺の右手は自然とペンダントに触れていた。
「ダメだな俺は…」
あまり遅くなると明日の準備が終わらなくなってしまうと、俺はもう一度歩きはじめ―――
「わっ!」
「うわぁぁぁぁぁ!」
ることは出来ず、情けない悲鳴を上げながら前に飛び退き、尻餅をついた。
「あいったぁ…」
「あははは…、ごめんね五木君」
少し腫れた尻を撫でていると声が聞こえ、顔を上げる。そこにはどこか見覚えのある女の子が申し訳なさそうな顔をして見下ろしていた。しかしなぜだか思い出せない。どこで見た?
そうして思い出そうと記憶を辿っていると彼女は不意に手を差し伸べた。
「まさかこんなにいい反応してくれるとは思わなくて」
「あぁいえ、大丈夫で―――」
途中まで伸ばした右手を止めて自分で立ち上がる。それから俺は彼女から少し距離を取った。
「あのつかぬことをお聞きしますが、なぜ俺の名前を?」
ふと冷静に考えるとこの状況、異常過ぎる。見知らぬ女の子に背後から急に驚かされ、更にはその娘が俺の名前を知っているなど、まるでサイコホラーの冒頭みたいだ。
「あ、あれ?そんなに引かないでほしいなぁ。もしかして虎太郎君から話聞いてない?」
「虎太郎?まさか…」
「うん、多分そのまさか。じゃあ改めて。初めまして五木弘人君。私の名前は阿藤翼。明日から君達と一緒に回らせてもらう者だよ」
言われて彼女をよく見る。
病的なまでに白い肌に控えめな色のリップ。内側に少し巻いた白髪のボブカットとそして、綺麗な蒼い瞳。見覚えがあって当たり前だ。つい二時間ほど前に見たばかりなのだから。ただ実際にこうして対面した阿藤さんからは写真のような儚さはあまり感じなく、代わりに明るい印象を受けた。最初分からなかったのは多分このせいだ。
「あのー、そんなに見つめられるとちょっと恥ずかしいかな…」
「あっ、ごめんなさい不躾でした。えっと五木弘人です、よろしくお願いします」
慌てて自己紹介をすると、恥ずかしそうに頬を赤らめていた彼女は場を仕切り直すように咳払いを一つした。
「五木君はどうしてここに?この後授業?」
「あぁいえ、ちょっとこれを忘れちゃって」
右のポケットからスマホを取り出し軽く振って見せると、彼女は少し驚いた顔をした後にクスリと笑う。
「ダメだよ気をつけなきゃ。最近じゃ簡単に情報抜き出せるらしいから」
「返す言葉もありません」
「ふふっ、分かればよろしい」
そう言いながら彼女は人差し指で俺の胸元に触れ、ウインクを一つする。
不思議と顔が赤くなる。正面で見つめられながら体に触れられると言う行為は、ただのスキンシップのはずなのに俺の心を激しく動揺させた。
しかし彼女はそんなことお構いなしに手を取り、今度は自分の胸元へ近づける。
「もう何か用事がないなら、一緒に帰らない?」
心臓が早鐘を打ち始める。なるほど、これが青春か。
ほぼ密着してきているせいか、至近距離で見つめてくるビー玉みたいに煌めく瞳は澄み切った綺麗な蒼をしていて、気を抜くと危うく惚れてしまいそうな魅力を孕んでいる。香ってくる女性物の香水も脳髄まで溶かしそうなほど甘く、蠱惑的。香水なんて碧羽で嗅ぎ慣れていると思っていたから驚きだ。香水はこんなにも女の子を魅力的に見せる効果があったのか。
それだけじゃない。髪が耳から零れて奏でるサラリという音は、今週のヒットチャートのどれよりも美しく扇情的に思え、柔らかそうな唇は肌色の割に血色がよく、誘っているかのようにその潤いを俺に見せつけてくる。そして何より、手が触れそうになっている小ぶりな二つの山。彼女から密着してきているためかその谷間が時に見えそうになるのだが、どんな魔術が働いているのか絶対に見えない。いやだがむしろそれがいい。
俺は思う。おっぱいや下着、隠された物には一種神秘性が宿ると。
例えばおっぱい。究極的な話をするならばおっぱいは見えてしまえばただの脂肪だ。無論見えてもそれはそれで良さがあるが、明かされた真相と言うものは得てしてそれ以上の物にはなり得ない。ただし隠されていたらどうか?そこにどんな妄想を当て嵌めても否定は出来ない。なぜならその先に何があるか分からないから。故にこそ俺達はおっぱいが見たいと強く願い、その過程の悶々とした感情で一喜一憂する。そう、チラリズムこそが至高なのである。
うん、これ青春でも何でもないわ。
緊張の正体がただの生理的なものだと意識した瞬間、体の真ん中あたりを中心に血液がとんでもないスピードで巡り出し、俺の理性はガリガリと削られ始めた。
「えぇっと、あの……」
「なに?どうしたの、五木君?」
彼女はグッと顔を近づける。それに応じて既にギリギリだった欲情指数は更なる上昇を始めた。ちょっとこれはマズいかもしれない。
「……………あれ?」
メーターがレッドゾーンに突入し、あと一歩で火が噴き出しそうになったところで、俺は彼女に何か言い知れぬ違和感を覚えた。口でなんと説明すればいいか分からないような漠然としたモノだが、それでもあえて言葉にするならズレのような不思議な感覚。
「あの阿藤さん、無理してません?」
「へっ?そ、そんなことないですよ?」
さっきまでの誘うような雰囲気はどこへ行ったのかと思うほどに、彼女は俺の言葉に目に見えて狼狽える。それは予想通りでなくとも、何かあると確信させるには十分なほどだった。
「会って間もないんで勘違いかとも思ったんですけど―――」
「あ、そうそうその通り。勘違いですよ」
彼女は渡りに船だとばかりに俺の言葉に便乗する。しかしそれはやっぱり何かをはぐらかそうとしているようにしか俺には見えなくて、いっそ核心を突いてやろうと再び口を開いた。
「…もしかしてですけど」
俺の言葉に彼女は一度目を閉じてから覚悟を決めるように真っ直ぐこちらを見つめ、胸のあたりで拳を握った。
「誰かに強要されてます?」
「……え?」
「なんかズレって言うんですかね?そんなのを感じたから本心じゃないのかなって」
「はぁぁぁぁ…」
心の底から呆れるようなため息を漏らした彼女は、ひとしきり吐き出してから細めた目で俺を見る。その目は「こいつマジか」と暗に言っているようだった。
「えっと、五木君よく鈍感とかラノベ主人公とか言われない?」
「く、腐れ縁に何回か」
「……いえいいの。でもそれ私は良いけど、あんまり他の人に言わない方がいいよ。あとただ私は純粋に君と帰りたかっただけ。ダメかな?」
「あー、いえご自身の判断であれば…」
「そ?じゃあ早くいこ。あぁそれと私には敬語じゃなくてタメ口でいいよ。名前も翼って呼んで、私も弘人君って呼ぶから」
「え、あうん。よろしく翼さん」
俺が翼さんと呼ぶと彼女は満足そうに笑って先を歩き出す。
「?」
だがその後ろ姿にはなぜか写真で感じた儚さが滲み出ているような気がした。
俺は人見知りではない。
世間話なら誰とだって出来るし、必要なら見ず知らずの人に話を伺うことだって出来る。ただ少し初対面の人との他愛もない会話が長続きしなくて、それがどうにも苦手なだけだ。
でもこれは別におかしなことじゃない。むしろ至極普通のことだ。だって相手を知らないのに何を話せと言うのか?虎太郎はそんな俺に「人見知り内弁慶」などと不名誉極まりない渾名を付けてくれやがったが、あいつみたいに心の警戒ラインをすり抜けて、どこに何が埋まっているとも分からない地雷原みたいな相手の内側で話をするなんて、常人の出来ることじゃない。
しかしそんな俺ではあるが、こと翼さんに限っては駅のホームに着く頃には普通に話せるようになっていた。理由は簡単。既に共通の話題がご丁寧に用意されているから。そう、虎太郎。
良心の呵責?ちょっと何言ってるか分からないですね。大体あいつから彼女を誘ったのだからその程度は織り込み済みと受け取った。
「虎太郎君そんなことしたの!?イメージ湧かないなぁ」
「それなら相当猫被ってましたね」
俺の言葉を聞いた彼女は、可愛らしく口を尖らせると顔を下から覗き込む。
「また敬語使った」
「あ、ごめん」
「もぉー、次やったらペナルティね?んーっと……そうだ!向こうで何か奢ってね!」
「分かりま―――分かった」
「ふふっ、弘人君は本当に面白いね。いじりがい?って言うのかな、そう言うのがあるよね」
「それあんまり嬉しくはないなぁ」
「そう?ならごめんなさい」
そうしてわりかし楽しく談笑しているとホームにアナウンスが鳴り響き、電車がごくごく静かな音を立てて目の前までやってきた。
曲線的でシャープでありながらエラの張った頭と、電車にしてはかなり前衛的な見た目は、空気抵抗を減らして少ない力で動かせるようにした結果らしい。エラが張っているのはもちろんダウンフォースを稼ぐため。電車にダウンフォースとは技術の進化は恐ろしい。
俺と彼女は四時十分と中途半端な時間のためか、学生もサラリーマンもほとんどいない空いた車内で二人並んで腰を落ち着けた。
「そう言えば翼さんはどこか行きたいところないの?」
俺がそう問うと、彼女は手を振りながら笑う。
「いいよ私は。後から入ったんだからみんなについて行くよ」
「うーん、そこは遠慮しなくてもいいと思うよ?てか多分そこで遠慮すると、あいつらは逆に気を使うと思う」
俺の言葉を聞いて、「そっかぁ」と彼女は顎に人差し指を当て、可愛らしく首を捻った。
可愛い。それこそ合コンにいたら必ず被りが出るくらいには可愛い。容姿は言わずもがな、親しみ易く男受けが良さそうな言葉遣いも、仕草も最早洗練されていると言ってもいいほどだ。
でも一度違和感と言うフィルター越しに見てしまったためか、俺にはその表情の裏に無理をしているような、苦しそうな顔が見えるような気がしてならない。
「弘人君?」
「えっ?あっごめん、何?」
「私あそこ行きたい、嵐山。一回行ってみたかったんだよね」
「あぁー、嵐山かぁ」
「ダメ?」
「あいや、全然ダメじゃないけどほら、最近嵐山付近で不審人物がよく現れるって聞くじゃん?だから少し心配になっただけ」
後藤もそれっぽいことを言っていたが、最近京都に不審人物が複数人見られるようになったらしい。更に初めは京都全域に見られた彼らは段々と嵐山付近へ集まるようにその出現範囲を狭めているのだとか。そんな輩がいるところに碧羽や彼女を連れて行くのは少し気が引ける。
彼女の目を見る。
だが例えば俺がここで断ったとしよう。すると彼女はどう思うだろう。俺達と回りたいと言ってくれた人にそんな扱いはないのではないだろうか?それに仮に不審者と対面しても俺達は一人じゃない。人気の多いところに逃げるくらいは造作もないのでは?
「…うん、行こう嵐山」
「本当に!?いいの!?」
「あ、うんもちろん」
まるで無邪気な子供のように喜ぶ彼女に少し驚いた。
自分の頼みを聞いてもらえれば誰だって大なり小なり嬉しくなる。俺だってそうだ。だが彼女の感動は少し過剰。悪い言い方をすればオーバーリアクションに思えた。
「大げさだなって思ったでしょ?」
「…少し」
「素直に言ってくれてありがとね。まぁなんてことはないんだけどさ、私の家結構厳しくて、自分のお願いとかあんまり受け入れてくれたことなくって。それでつい、ね」
言い終わると彼女は俺に気にさせまいと笑ってみせた。
思えば俺は人生で抑圧されていると感じたことがない。
両親不在の俺がそう思えるのはきっと、溢れるほどの愛情を注いでくれたばあちゃんと、本当の息子のように接してくれた立川のおじさんとおばさんのお陰だろう。あの人達がいなければ、俺はもしかしたら世の中に勝手に見切りをつけていた可能性だってある。
でも俺は幸いにもそうはならず、こうして普通の子供と同じように育つことが出来た。
だから俺は彼女の境遇を想像することは出来ても心境までは想像出来なかった。でも想像出来ないからこそ、そんな遠慮じみた笑顔はあまり見たくない。
「ねぇ翼さん。他に行きたい所はないの?」
「え?」
「せっかく行くんだ、翼さんにも遠慮せずにもっとわがまま言ってほしい」
途端に彼女の顔が固まった。いやフリーズしたと表現した方が適切かもしれない。
「え、ほかになんて……そんなの……」
明らかに混乱する彼女を見て失言だったと気が付いた。
考えてみればそれは当たり前だ。急にやりたいことを言えなんて彼女の境遇を考えれば出来るはずがない。むしろ一つお願いが出来ただけで十分じゃないか。
「別に今決めなくていいよ。どこか行きたいと思ったところがあったらその時教えて?」
「うんごめんね、気を使わせちゃったみたいで……」
そう言って彼女は申し訳なさそうに俯く。しかししばらくして悪くなった場の空気を換えようとしてか、笑顔で何か言おうと顔を上げた。そして俺を見るなりそれを引っ込めた。
まるで何かに憑りつかれたように見つめてくる彼女の瞳を見返す。
その色はついさっきまでの海のような強く透き通った蒼ではなく、写真で見たような繊細で簡単に壊れてしまいそうな危うさを孕んだ蒼をしていた。
「何度見ても黒くて綺麗な瞳……」
彼女は徐に白くて冷たい手を俺の左頬に添え、親指で涙袋のあたりを撫でる。俺は隠せるはずもない緊張を隠そうとして目を背けた。
「そ、そうですか?別に普通だと思いますけど…」
「いいえ、本当に綺麗で羨ましい。…妬ましいくらいに」
「え?どう言う―――」
「どう言うことですか?」。そう言い切る前に電車が停車した。彼女は立ち上がると後ろで手を組み、背中を向けたまま明るい口調で言う。
「気にしないで、隣の芝生は何とやらってやつだよ」
そうして電車から早足に降りた彼女は、クルっと振り返ってからさっきまでの愁いを帯びた表情など無かったかのようにウインクを一つした。
そんな可愛らしい彼女を見て俺はまた違和感を覚えた。この場面には似つかわしくないその感覚を頼りに記憶をストロボの様に切り出していく。丁寧に一つ一つ切り出して見つけたそれは、振り返りこっちを見るまでのほんの一瞬。彼女の瞳はまた不安定に揺れていた。
「じゃあまた明日!それと敬語使ったからなんか奢ってよね!」
明るい笑顔で彼女がそう言い終わると、同時に電車の扉が閉まりだす。
「待って!」
そう叫びながら俺は座席から腰を上げた。だが時すでに遅し、立ち上がった時にはもう扉は閉まっていた。
無情にも電車は走り出す。日の差す車内で俺は一人、彼女について考え続けた。しかし結局最寄り駅のアナウンスが流れても納得する答えが出ることはなかった。
***
五木弘人を乗せた電車に私は手を振った。怒り、恨み、嫉み、そして羨望と混ざり合った感情を押し殺しながら電車が見えなくなるまで手を振った。
「クソっ…!」
手を下ろし、そう言って私は横にある柱を蹴る。
五木弘人が憎くてたまらない。憎くて憎くて憎くてたまらない。自分の周りが、自分の存在が、自分の今までが当たり前だと思って日々をのうのうと過ごしている五木弘人が許せない。あの幸せそうな笑顔を見るたびに吐き気がする。私と同類、いやそれ以下その癖に。
「私だって、私達だってあんな風に……。なのに…なんであいつばっかり……」
押さえていた感情が漏れ出し、私は思わずその場に膝を着いた。
「他にですって?そんなの私にも分からないわよ……」
心配して寄ってくる駅員の助けを断り、力なく立ち上がった私は、もう遥か遠くへと消えた電車の方をしばらく見つめ、覚束ない足取りで反対のホームへと移動した。
「……クソっ」