ある昼下がり
「――――――五木!五木弘人!」
「あ、はい!」
轟く怒鳴り声は俺を夢から引き戻した。
何事かと思って急いで周りを見回す。目の前に広がっていたのは実家の玄関ではなく、壊れかけの扇風機がカタカタ鳴っている古びた教室。そして右隣りには入学からずっと一緒にいる友達二人が苦笑いでこちらを見ていた。どうやら声の主は二人ではないらしい。だとすると…
「私の授業で寝るとはいい度胸だな。知っているか?大学は義務教育ではないと」
古びた黒板の前に立つ50代前半の男性教員、後藤がこちらを睨んでいた。
「す、すみません…」
「まぁいい。とりあえず今回は欠席扱いで手を打ってやろう」
後藤はフンと不機嫌に鼻を鳴らして授業へ戻る。
俺は「何が手打ちかこの野郎」と言い返してやりたい気持ちをぐっと抑え込んだ。
寝ていたのは俺が悪いし、それにそんな地雷原に自分から突っ込むような蛮勇は生憎と持ち合わせちゃいない。
色々諦めをつけペンを取ろうとするとふと夢のことを思い出し、代わりに首から掛けたペンダントに触れた。
思えばあの夢を見たのは数年ぶりだ。笑い話に出来るようなものではないし、するつもりもない俺にとってそれは良いことではある。しかしでは「嫌な気分になったか?」と聞かれればそれは違う。あの夢は俺を不安にさせつつも、どこか懐かしい香りを感じさせる。だから決して良い気持ちではないけれど、嫌な気持ちと言うのも違う。あえて言葉にするのなら、ノスタルジックと言うのが多分一番近いと思う。もしかしたら明後日であの日から十年と言うこともあって、心が郷愁に浸りたがっていたのかもしれない。ただまぁだからと言って居眠りをしていい理由にはなるわけではない。そんなことが罷り通っていたら、きっと世界は壊れてしまう。なら俺は世界を壊さないためにも今日は出来るだけ早く寝るとしよう。
「お前後藤から目つけられてるよな」
右隣りで金髪ピアスの腐れ縁は笑う。
君月虎太郎。中学一年からの付き合いであるこの金髪は、大学での数少ない友達の一人だ。
「多分虎太郎は他人のこと言えないと思うなぁ」
更にその右隣りから苦笑いが聞こえてきた。
今和泉拓。小柄で濃い茶髪の天パ、紅い瞳が特徴の拓は、入学式でのとある一件から仲良くなった虎太郎同様、俺の数少ない大学の友達の一人だ。
俺が怒られえたことで集中力が切れたのか、会話を始める二人を無視して一人黒板を向く。すると歳の割に深い皺を更に深くした後藤と目が合った。これは俺に黙らせろと言うことだな。
「んんっ!二人ともしっかり聞かないと怒られるぞ」
「「お前が言うな」」
「…」
正論過ぎてぐぅの音も出ない。でも目的は果たせたので俺も黙って授業に戻った。
「今から五百年前、ヴラド三世の吸血鬼宣言により世界にはヒト種以外に吸血種と言う人種が存在したことが判明した。当時吸血種はその身体能力の高さと世俗に姿を見せることが少なかったことから世界中で怪異として認識されており、吸血鬼宣言後、吸血種がヒト種と共に歩もうとしても、知らないことの恐怖によりヒト種は迫害や狩りと称した殺しを行ってきた。そのため今のように互いに手と手を取れるようになるまで更に百年の時を必要とした。先人達の努力で調和のとれた今の社会。お前達は三年後に貢献出来るようにならなければいけない」
吸血種。そう呼ばれる彼らは存在こそ約五百年前に公になったが、太古から存在したヒト種の近縁種であるとされている。彼らは運動能力が高く、瞳が紅いという身体的特徴のほか、血を使った能力が使用出来る体質的な特徴を持っている。だが日常生活で必要がないことと、そもそも法律で使用が禁止されているという理由から、近年では使用されなくなって久しい。そのため一部学者の間では能力が退化していると言われているのだとか。
「ふむ、そろそろ終わりか」
古びた黒板の上に掛かった、これまた古びたアナログ時計を見てそう呟くと、後藤は自前のチョークをケースにしまう。
「一年は明日から親睦旅行だったな。ここ最近の京都は少し物騒だからくれぐれも気を付けるように。それでは今日はこれで終わりだ」
厳つい顔に似合わず、優しいセリフを残して教室を後にする後藤。しかし何か思い出したようにその足を止め、ドアから顔だけ覗かせた。
「おい五木、立川に『覚悟しておけ』と伝えろ」
「あ、はい」
あいつは何をしたんだ?
高校までと違って、必ずしも授業が連続しない大学では、授業が終わり次第学生は三々五々に散っていく。夏休みに入っている八月上旬の今日、後藤の担当する必修科目「教養社会学」の補講を受けに来ただけの俺達も、そんな大学生の習性に従って教室を後にした。
ちなみになぜ大学生にもなって社会学を必修で行っているのか。それは吸血種との共存が当たり前になった現代とはいえ、未だヒト種が吸血種を、吸血種がヒト種を差別することが稀にあるからだ。昔に比べれば随分と良くなったらしいが、百年近くヒト種が吸血種を拒み続けていた事実が無くなる訳ではなく、両人種の蟠りは水面下で確かにまだ存在する。そんな両人種の衝突を少しでも避けるために、社会学は全国の大学で行われている。
閑話休題
昼食を摂るべく、塗装だけは妙に綺麗な白いオンボロ講義棟を出ると、真夏の刺すような日差しとセミの大合唱が俺達を出迎えた。
「「「あっづぃ」」」
日差しだけでも耐え難いと言うのに、そこにセミが加わるともう手が付けられない。
俺達の通う志乃月大学は、キャンパスのデザインコンセプトに「自然とテクノロジーの融合」を謳っているらしく、中途半端に木が多い。そう、中途半端に。日陰だけを通って移動出来るほど多くはなく、さりとてセミが止まるには十分過ぎる量。必然的に俺達学生は直射日光に晒されながら移動する羽目になる。
ただもし、大学側が本気で気が付いていないのだとしたら、まだ交渉の余地があるだろう。だがどうもこの極悪なロケーションについては大学側も承知の上らしい。その証拠に学生から再三抗議があったのにも拘らず夏には頑なにオープンキャンパスを開催しようとはせず、代わりに五月の初めと、十月の半ばと言うやや変則的な時期に開催される。しかしこれが本当にタチが悪い。何がタチが悪いって、このオープンキャンパスが開かれる時期の構内は美しいのだ。
五月にはこれからを予感させる鮮やかな新緑に萌え、十月にはどこか儚げに葉を紅に染めた並木通りがまるでここから始まる新生活を煽るようで、下見にくる受験生達の心を掴んで離さない。そのせいで外観に騙された学生が毎年一定数入学し、夏にひぃひぃ言っているのだとか。斯く言う俺もその一人だ。ひぃひぃ。
「どうしてこの大学はこうどこも熱いんだ…」
「違う、俺達工学部だけが熱いんだ。それも全てあそこにそびえ立つ魔工学部様のせいでな」
虎太郎は俺の呟きに何を今更と力なくキャンパスの中央を指差し、悪態をついた。差した先にあったのは、やたら大きくて綺麗な黄色い建物。魔工学部の講義棟。
魔術。それは空気中、または体内に存在する魔力と呼ばれる生体エネルギーを知覚し、操れるごく一握りの人間にのみ使用出来る超常の力であり、それを使用する者達は魔術師と呼ばれている。
そしてその魔術を工業技術として技術転用したのが魔術工学、通称魔工学だ。魔工学部とはこの魔工学に携わる魔術師を育成するための学部であり、基本平凡な中堅大学である志乃月の中で唯一世界でも指折りの実績を残している学部でもある。
また、工学部が講義棟含め色々ボロいのは、魔工学部に毎年予算を持って行かれているかららしく、虎太郎の「魔工学部のせい」と言うのはあながち間違いでもない。ただし誤解を招かないように、俺達工学部がこの志乃月で最も実績がない学部であると言うことは付け加えておく。そう、ぶっちゃけ仕方ない。
「まぁ分かるんだけどな。世界に誇る魔工学部とどこにでもあるような俺達工学部じゃ玉と石ほどの差があるって言うのは」
そう言うと虎太郎はリュックからポリ袋を取り出し、そこに入った青々とした球を俺達に一つずつ渡した。それはまだ若い見た目をしたミカンだった。
「なにこれ?」
「農学部の友達に貰った。品種改良して夏に採れるようにしたミカンだと」
「ふーん」と適当に返事をしてから試しに剥いて一かけ口に入れる。すると見た目とは裏腹に弾けるような爽やかな酸味とスッキリとした甘みが口の中に広がった。さすがに冬場食べる完熟のミカンと比べると若干酸味がきつい気もするが、それでもこれを学生が作ったと考えると十分過ぎる出来だ。
「要はこう言うことだよね。どんなに過程が酷かろうと最終的にそれに見合った成果が出ていたなら、消費者の僕らには文句を言う権利はないよ。そして魔工学は交通手段から家電まで、多岐にわたって僕達の生活を支えている」
拓は言い終わってからみかんを一かけ口に入れ、そして「おっ」と唸った。結果にも文句はなかったらしい。
しかしその通りだ。俺達の予算を使って学んでいる魔工学部の学生は間違いなく将来俺達よりも社会に貢献するし、その社会の中には俺達自身も含まれる。だから俺は搾取されているのではなく将来への投資だと思っている。そう思えば少しは留飲も下がるし、それに同学年から将来、実績を残した魔術師でも出たら誇らしいと思える。
自尊心を守っているだけと言われればそれまでだが、それくらい払った金の分として許してもらいたい。
「あぁーあ、俺達にも魔術が使えたらな」
ポリ袋にミカンの皮を入れるように差し出しながら虎太郎はそうボヤいた。俺はそのポリ袋に花みたいに開いたミカンの皮を入れる。
「先天的な才能について文句言っても仕方ねぇだろ。そんなことよりさっさと食堂棟行こうぜ?もう熱さにはこりごりだ」
「「おーらーい」」
ぬるま湯みたいな締まりのない返事をすると、拓は残りのミカンを全部口に放り込んでポリ袋にごみを入れる。虎太郎が三人分のごみの入ったポリ袋の口を閉じ、路上に設置されているごみ箱へ捨てるのを待ってから、俺達は少しだけ歩調を速めて歩き出した。
工学部棟から最も近い食堂棟である松風館は、真っ赤なレンガ造りになっていて、おしゃれな外観と提供される食事のレベルの高さから、キャンパス内に三つある食堂棟の中で最も人気が高い。そのため一階のコンビニとカフェも、二階の食堂も、昼時でなくとも学生教員問わず、忙しい日常の憩いの場となっている。
夏休みのためか、いつもより人の少ない松風館で四人掛けの席を確保し、それぞれの食事を済ました俺達はなんでもない雑談に花を咲かせていた。そんな中、虎太郎が思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ。昨日参加した魔工学部生との合コンですげぇ可愛い娘と会ったんだよ」
「拓悪い、水持ってきて。出来ればバケツで」
「おい」
そう言って虎太郎が足を蹴ってきたので、俺は透かさずやり返した。
友達の少ない俺や拓と違って、友達の多い虎太郎はよく合コンに誘われる。しかし仮にアイドル級の美少女がいたとしても、そのことを俺達に話すことはなかった。
これは虎太郎がモテないからではない。むしろ虎太郎はモテる。整った顔立ち、相手を軽んじない性格、そして天性の人柄も相まって、もう嫉妬するぐらいモテる。それでも虎太郎の少し特殊な性癖のせいでそのお眼鏡に適う娘は一人としていなかった。そんな虎太郎がわざわざ合コンの話を持ち出すなど、俺ですら初めての経験だった。
虎太郎はムッとしながらも、スマホを操作して俺達に一枚の写真を見せる。そこには一人の女の子が映っていた。
病的なまでに白い肌に控えめな色のリップ。内側に少し巻いた白髪のボブカットとそして、綺麗だけれどなぜか冷めた蒼い瞳。どこか不思議な魅力と儚さを持った女の子だった。
「なんか硝子細工みたいだ」
「おっ、いいなその例え。なんか文学的だ」
美しくて、輝いていて、だけど下手に触ると簡単に壊れて粉々になってしまう。そんな印象を俺は彼女から受けた。これが文学的かどうかは知らないが、何かに例えるとするならやっぱり硝子細工がこれ以上ないほど適当だと思える。
「魔工学部一年の阿藤翼ちゃん。来ていたメンバーの中でもダントツだったよ」
「それで?この娘がどうしたんだよ」
「あぁ実は……って拓どうした?」
虎太郎の言葉で視線を向ける。そこには神妙な顔をして顎に手を添える拓の姿があった。
「おっぱいって何なんだろう?」
「弘人、やっぱ水持ってきて」
「3リットルで足りるか?」
あまりに脈絡のないことを言い出す拓に水を届けるため、俺は席から腰を上げる。
だが、そう適当にあしらおうとする俺達に対して拓は、一切ふざけの感じられない鋭い視線で睨みつけ、俺はその迫力に思わず黙って席に腰を戻した。
「おっぱいは…」
気圧される俺達を見て拓は一度目を閉じ、今度は諭すような口調で喋り出した。
「おっぱいはなぜ魅力的なのか二人は考えたことがあるか?僕は恥ずかしながらなかったよ。彼女は可愛い。多分僕が出会ってきた人の中で五本の指に入るくらいにはね。だけどさ、そんな彼女でも僕は顔の後すぐにおっぱいを見たんだよ。それで急に疑問に思った。何で僕達はおっぱいをここまで求めてしまうのかと。だって考えてもみてよ。顔を見るのは個として認識するために必要だ。じゃあおっぱいは?必要ないんだよ。それなのに僕ら男は見てしまう。極論言ってしまえば脂肪の塊でしかないおっぱいが、個の認識の次に来るほどのプライオリティを持っていることは本来異常なんだ。今までおっぱいは魅力的なんてことは、水中で呼吸が出来ないのと同じくらい当たり前のこととして僕は認識してきたけれど、だけどそれじゃあダメだ。おっぱいを求めてしまう理由すら言えずに僕達はおっぱいが好きと言えるのか?否だ。だから僕はこの大いなる命題を解かなければいけない。二人はそうは思わないか?」
何言ってんだこいつ…と言えたらどんなに良かっただろう。だが俺には拓の言葉をそう簡単に切り伏せることが出来なかった。
登山家の有名な言葉で「そこに山があるから」と言うものがある。俺はこれに昔から納得がいっていない。なぜならこれは動機を聞かれたことに対する答えにはなっていないからだ。
山の魅力でもいいし、身に掛かる負荷でもいい。登山をするからには…いや、登山に限らず物事には必ず理由があるのに、それをフィーリングで済まそうとするのは思考停止も甚だしい。好きなら好きの理由を持つべきだと俺は思う。そして俺はおっぱいが人並みに好きである。
だから公衆の面前で開かれようとしているこの狂気のおっぱい論議に対して、大変不本意ながらもこう答えざるを得ないのだ。
「「分かるわぁ」」
ぎょっとして横を向く。そこには俺と同じように微妙な顔して頷く虎太郎がいた。
斯くして周りの女子から軽蔑の視線を受けていると分かっていてなお、ブレーキの壊れた俺達はノンストップで悪しきカルマを積んでいく。
「おっぱいと同じようにエッチな代表格として尻がある。だけどそもそもどちらもエッチな部位じゃないんだ。おっぱいは乳幼児への栄養供給源だし、尻は排泄部だ。そこから分かる事として僕達は元々エッチじゃないモノにエッチであると言う付加価値を生み出したんだよ」
「だとするとおっぱいで育ってきた俺達は、おっぱいを本能で求めてるんじゃないか?」
「いいや待ってくれ虎太郎。それならおっぱいの好みは乳幼児の頃に与えられたおっぱい、つまり母親のおっぱいの大きさに依存することになる。しかし僕の母のおっぱいはお世辞にも大きいとは言えないが僕は大きいおっぱいが好きだ」
「本能…。なるほど、拓多分違ぇよ。つまり虎太郎はこう言いたいんじゃないか?先祖代々おっぱいで育ってきた俺達人類の本能には”おっぱいを求めよ“と刻み込まれているって。だから親のおっぱいと自分の好みのおっぱいに関係性はない」
「そう言うことだ。それなら自然とおっぱいに目が行くのも説明が付く」
「確かにそれなら……いやでも…」
「どうしたんだよ拓、俺の答えじゃ不服か?」
「あぁいいや、虎太郎のそれは間違いなく答えではあると思う。でもふと気が付いたんだけど、それって全ての哺乳類に該当するんじゃないか?果たしてゴリラはおっぱいに欲情するだろうか?犬は?猫は?イルカは?きっと僕ら人間ほどには興味を示さない。そんな他の生物と僕ら人間。同じ哺乳類で最も違うところはこの発達した頭脳だ。おっぱいに対する固執の有無も同じく脳の発達にあると思うんだよ。本能も確かにあるとは思うけれど、その根源には本能じゃなく意志みたいなモノが確かにあるんじゃないか?」
「「な、なるほど…」」
確かに拓の言っていることはもっともだ。他の生物とは違い知恵の果実を唯一口にした知的生命体である俺達がただ本能だけで何かを求めているとは考えにくい。だがじゃあ、あの病的なまでの感情の昂りは一体…
知恵の果実?病的?
「あ」
至った。
いやしかしどうしたものか。この答えを言ってしまえば今拓に向けられている全体八割にも及ぶ軽蔑の視線を大幅に肩代わりし、さっきから興味津々に聞き耳を立てている男子共からの信頼を勝ち得てしまうのは火を見るよりも明らかだ。それだけはどうにか避けたい。だが悔しそうに唸っている拓を放置するのもなんだか悪い気がする。
ここは恥を捨てて拓を救うべきか?いやいやそれをしたら俺の大学生活がものの半年で終わる。間違いなく終わる。まだ始まって間もないと言うのに赤信号、一発退場、さよならバイバイ華やかなりし青春。こんな所で俺の秘められた変態性を露呈させ、不特定多数からのファーストインプレッションを確定させてしまう訳にはいかない。
「ダメだ…!どれだけ考えても答えが分からない!なんで僕はこうもおっぱいに無知なんだ!こんなんじゃもう一生おっぱいへの愛を叫べない!」
「拓、まだ諦めるなよ!お前のおっぱいへの思いはそんな程度だったのか!?」
頭を掻きむしる拓に激励を送る虎太郎。俺はそんな二人を見て深呼吸を一つする。
おっぱいは好きだ。今回の話題だって乗り気ではなかったが、興味がなかったと言えば嘘になる。それでも俺は拓ほど真剣にはなれないし、なるような話題でもないと思っている。だから見出したこの答えを誰の目に触れさせることもなく、墓まで持って行くのが正解なのだろう。
しかし、俺にはやっぱり到底理解出来ないけれど、拓の苦悩が間違いなく本物で重要なものであると言うのなら、それは少し話が変わってくる。
「拓。おっぱいは第二の知恵の果実なんだよ」
「ど、どう言うこと?」
「まずフェチズムってなんだか分かるか?フェチズムの語源、フェティシズムはリヒャルドと言う人物によって書かれた著書『性的精神病理』にて初めて使用されたそうだ。つまりフェチズムってのは一種の病気なんだよ。だがな、問題なのはそれがどの視点から見て病気と判断されるかだ。フェチズムなんて男女問わず人間みな一つや二つ持ってるもんだ。だから俺達人間の視点じゃない。じゃあどこか?それは生物と言う大きな括りで見た場合だ。拓もさっき言っただろ?動物はおっぱいに発情しない。奴等の発情は遺伝子を残すと言う本能的なもので、俺達人間のものとは些か以上に意味合いが違ってくる。フェチズムは文明を築き、生活を他生物のそれと大きく乖離させた人間特有の考え方だ。だからそれは正しい自然の流れから見れば異質で、病気と断じられて然るべきなんだと思う。…だが、それは見方を変えれば進化だ。知的生命体である俺達が唯一辿り着けた極地だ。他の動物は興奮しない?いいや正しくは違う。興奮出来ないんだ。エデンの園の知恵の果実を口にし、知的生命体に進化した俺達だけがフェチズムと言う極地に至るための第二の知恵の果実を見出すことに成功したんだ。その第二の知恵の果実こそが始まりのフェチズム、おっぱい。おっぱいが丸い形をしているのはきっと、果実を模して造られたからなんだよ。だから俺達はその始まりに無意識化で敬意を称し、求め興奮するんだ」
「「「「「「お、おぉ……!」」」」」」
虎太郎、拓を含めた周りの男子共からどよめきが上がる。それと引き換えに女子からの軽蔑の視線は拓から俺へと移動した。
彼女らの視線が突き刺さった途端、今さらながらに後悔と羞恥心が俺を襲い始め、胸の中を様々な色の感情が駆け巡り始めた。あ、やっべ死にたくなってきた。
だがまぁいいだろう。今この瞬間から俺が結べる友好関係は一部限られた人間のみになってしまったが、拓の悩みも解決出来て話題も畳めたのだから、これ以上の被害が出ることも無いだろう。そう思えば俺の投げ捨てられた華やかな青春も少しは浮かばれ―――
「なるほど確かに。でもなんでおっぱいが始まりになったんだろう。虎太郎どう思う?」
「それこそ本能が関係するんじゃないか?いやそもそもエロいってなんだ?」
「……」
終わったと思っていた狂宴は、周りの変態達まで巻き込んで更なる議論に燃えていた。
いや、正直に話すのなら何となく予想は出来ていた。拓の本気度や慰めだした辺りから向こう側へ完全に堕ちた虎太郎。そして周りを囲む名も知らぬ変態達。こいつらの熱量では、俺の答えは焼け石に水になりかねないと。
俺自身で口にすることを決めた以上、この変態達のせいにするつもりは無い。無いけれど、それにしても俺の華やかな青春があまりに不憫じゃないか。
「なに騒いでるの、よっ!」
「はぐっ」
項垂れる俺の後頭部に突然、軽いチョップが入った。
「だから違うって。それだとさっきの考え方と矛盾が―――た、立川さん!?」
拓の声色が明らかに変わる。その声はどんどんと伝播していき、気が付くと名も知らぬ変態達はそそくさと散っていなくなった。
俺がゆっくり振り返ると、そこには一人の女子が立っていた。
前には二本のヘアピン、後ろは楽だからとポニーテールに纏められた赤茶色の髪。意志の強さと優しさが混在したような大きくぱっちりした目元。全国十九歳女子の平均と丁度同じの身長。そして栄養過多の胸。そこに立っていたのは見慣れた一人の女子だった。
俺は一つ大きく息を吸う。
「あぁおぁばぁぁ…!」
「うぇ!?なになにそんなに痛かったの!?あぁご、ごめん大丈夫?ほらティッシュあげるから鼻かんで?」
俺はうんうんと頷きながら手渡されたティッシュで鼻をかむ。
あの狂った宴が続いていた理由。それは軽蔑の視線こそ送れど女子が誰も立ち入ってはこなかったから。秋刀魚や鰯よろしく身を固めることで互いに互いを守った変態達は独自のテリトリーを築き、それによって軽蔑の視線を遮断したのだ。
だけどこいつが現れたことで事態が急変した。別に軽蔑の視線を送った訳ではない。もちろん言葉に出した訳でもない。重要なのはテリトリー内に女子が現れたと言う一点のみ。たったそれだけで狂宴は終幕と相成り、俺の犠牲は報われた。
しかしよくこんな悪ノリの到達点のような空間に自ら足を踏み入れようと思ったものだ。我が幼馴染みながら恐れ入る。
立川碧羽。小学三年からずっと一緒に育ってきた碧羽は所謂幼馴染みだ。何の因果か中学、高校、そして大学まで同じであり、互いに気心知り過ぎた唯一無二の存在でもある。また俺と同じように虎太郎とは中学からの腐れ縁。
「もう大丈夫?」
そう背中をさすりながら聞いてくる碧羽に首肯する。
「悪い、情けない所見せた」
「なに言ってるの、そんなの今更でしょ?」
碧羽は俺の肩を二度軽く叩いてから左隣の空いている席に腰を下ろす。そんな碧羽に拓は恐る恐る声を掛けた。
「え、えぇっと…、おはよう立川さん」
「拓君の変態」
「ぐはっ!」
「おい!拓が血を吐いて倒れたぞ!衛生兵!衛生兵はいないか!」
「虎太郎もいい加減にしないと怒るよ。で、あたしを呼んだ要件は?」
「おっと、忘れてた」
虎太郎は机の上に突っ伏した拓を薄情にもほったらかしにして席に座り直し、もう一度阿藤さんの写真を俺達に見せる。
「昨日の合コンの帰り、翼ちゃんが明日から一緒に回りたいって言ってきたんだよ。俺は全然よかったんだけど一応お前らに確認取ってから返事しようと思ってさ」
明日から、つまり親睦旅行を一緒に行動したいと言うことか。いや、でも確か…
「魔工学部って春じゃなかった?」
入学前に見た資料には魔工学部の親睦旅行は入学してから一週間後と書かれていたはずだ。だから回るも何も時期が違う。
「俺もそう思ってたんだけど、なんか今年から工学部と同じ夏に変わったんだと」
俺は虎太郎の言葉に首を捻った。
工学部の親睦旅行は全学部中最後の夏休みに行われる。ここでタイミングがいいと思う学生もいるらしいが実はこれ、デメリットの方が圧倒的に多いのだ。
まず他学部と違って元から休みの時期に行われるので、親睦旅行と託けて堂々と大学をサボれない。他の学生が勉学に励む傍ら遊ぶと言う背徳感にも似たあの快感を味わえないのだ。そして次に人が多い。夏場の京都は国内外問わず様々な観光客が訪れる。すると人に塗れて落ち着いて観光が出来ないのだ。
その他にもいくつかあるが総じて言えることは、時期が早ければ早いほどいいと言うこと。だから最も優先されている魔工学部の開催日程をわざわざ夏休みにずらすことにメリットがあるとは思えなかったのだ。
「…まぁいっか。俺は良いよ」
「あたしもオッケー」
「ぼ…僕も…」
「じゃあそう返しておくよ」
虎太郎は早速スマホを操作して阿藤さんに返信を送る。そんな虎太郎を見ながら俺はペットボトルを口に着けた。しかし喉には何も流れてこなかった。どうやらいつの間にか空になっていたらしい。
別にいいかなとも思ったが、ふと中学だか高校だかの顧問が「熱中症はそう言った油断から来る」と言っていたのを思い出し、俺は空のペットボトルを手に取り席を立った。
「弘人どうしたの?」
「飲み物買ってくる。碧羽も奢ってやるよ」
「え、良いの?いつも守銭奴な弘人らしくもない」
「倹約家って言え。お前に借りを返さないとだからな」
「借り?えーっと、それって大きな借り?」
「かなり」
「ほぉー。じゃあさじゃあさ、今週末に駅前のケーキバイキング連れてってよ!」
「え、あの高いとこ?」
「そう、あの高いとこ」
「い、良いだろう…」
「やった!ほら早く飲み物買いに行こ!」
「あぁはいはい…。じゃあ虎太郎、ちょっと行ってくる」
「いってらー」
虎太郎に一言言ってから、俺はぶつぶつと高い飲み物の名前ばかり呟く碧羽と席を離れた。
こうして碧羽からのおねだりに付き合うのはもうずっと昔からのことだがここ最近、具体的には二か月くらい前からなぜかその頻度が増えている気がする。これからもこのペースで付き合わされるとなると、さすがに母さんの残してくれた金を使い過ぎてしまいそうだ。本気でバイトでも始めようか?
「あそうだ、後藤が覚悟しとけとか言ってたけどお前単位大丈夫?」
「うっ…」
***
弘人と碧羽は談笑しながら席から離れ、階段を下りていく。俺はそんな二人と確実に声が届かない距離が開いてから机に肘をついた。
「碧羽も大変だな、あれだけやっても弘人の方は見向きもしない。それはお前もだけど」
「僕は良いんだよ。いくら想ったってそれが果たされることはきっとない」
「そうか、災難だな。……変態」
「ぐはっ…」
立ち直りかけていた拓が再び机に突っ伏すのを見て思わず俺は噴き出した。
しかしやっぱり現状は災難と言う他ない。
俺は弘人と碧羽のことを中学一年の頃から知っているが、二人の関係はその頃から誇張抜きで夫婦と言って差し支えないほどのものだった。
互いに何を望み、何を望んでいないのか。そのラインを意識せずとも弁えて、互いを思いやるそんな姿に男子は血涙を流して妬みつつ、それでも学生の抱く刹那的な恋愛感情とは傍から見ても明らかに違うそれに誰も彼もが押し黙るしかなかった。
そんな関係を続けていたものだから、弘人や碧羽とあまり親しくない連中は二人が付き合っていると勘違いしていたらしいが実は違う。恋愛的な好意を抱いているのは碧羽だけ。これが原因の一つ目。
話は変わるが碧羽は可愛い。俺の好みではないけれど世間一般的にはかなり可愛いし、何より性格が良い。これが原因の二つ目。
この二つが合わさることによって、付き合っていると勘違いしている奴は告白すら出来ずに勝手意撃沈し、勘違いしていなくても碧羽のその性格の良さから、「振るために余計な心労を掛けてしまうのでは?」と、自爆覚悟の特攻すら出来ずにこれまた勝手に撃沈していく。
恋愛感情なんて微塵も抱いていない俺から見れば正直愉快だけれども、しかしそんな被害者の一人である拓の気持ちになるとやはりこれは災難と言う他ない。
「あねぇ、そう言えば彼女は何で僕達と回りたいなんて言い出したの?」
机に伸びた拓が顔だけ向けて俺に問う。同時に俺は自分の心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
来てしまった、この質問が。細かいところを気にする拓なら当然してくると思っていたし、そう予想してあえてあの二人の前では言わなかったことだが、いざその場に立つととっくに分かっていたはずの罪悪感が俺の心を支配する。これでは本末転倒だ。
それでも俺は細くなる心に素知らぬ顔をしていつもの俺を装い、当たり前のように口にする。
「翼ちゃんが弘人のこと気になるんだって」
一瞬場が凍った。しかしすぐに氷は解けて消え、後には激しい炎が現れた。
「ちょっと待て、なんでそれを分かっていて彼女を誘ったんだ!仮に弘人と阿藤さんが付き合いでもしたら立川さんはどうする!」
「その可能性はあるかもな」
「だったら―――」
「でも弘人は碧羽を女の子として見ることは一生ないと思うぜ」
「でもじゃないだろ!?そんなことは今関係ない!」
「いいや関係ある。高校の頃に気になってこう弘人に聞いたことがある。『お前あんなに碧羽と一緒にいて意識しないのか?』って。そしたら弘人はこう聞き返してきた。『虎太郎は家族に欲情するか?』。震えたよ。何に震えたって怒りに震えたよ。出会って数年、初めて弘人を本気で殴ってやろうかとも思った。でもそれをしたらあいつらとの何でもない時間が全て失われるし、何より二人の関係だ、俺が必要以上に介入することじゃないと見て見ぬふりをしてきた」
「その通りだよ、二人の関係だ。僕達が出しゃばる事じゃない」
「でも拓知ってるか?碧羽はさっきみたいに定期的に弘人をデートに誘い続けているんだぜ?少なくとも俺が知り合ってからのこの六年と半年間、他の男に揺らぐことなく。感情は普通時間と共に風化させられるものだ。だが碧羽の場合は違う。あいつの想いは時間が経つにつれて風化どころか強くなってる。すげぇよな。乙女チックに過ぎるぜ全く。でもそれが事実だ。じゃあそんな弘人にいつか彼女が出来たら?碧羽はきっとこれ以上ないほどに傷つく」
「それが分かっているならなんで!?」
「だからこそだ。見て見ぬふりってのはあの二人の場合問題の先延ばしにしかならない。それも時間が経てば経つほどに悪化していく最悪のケースで。あの時『その気がないならさっさと振れ』って言えていたらそれが一番だったんだろうけど俺にはそれが言えなかった。そのせいで後に後にと問題は先延ばしにされて、先延ばしにされればされるほど手が付けられなくなっていった。だから今回翼ちゃんが声を掛けてきたとき思ったよ。これは千載一遇だってな」
「それは…独り善がりだろ、傲慢だ」
「知ってるよ」
知っていてもやらないといけない。罪滅ぼしなんてそれこそ傲慢に過ぎることを言うつもりは無い。ただあいつらの友達として、ふわりと浮いたどっちつかずな現状を終わらせてやらないといけない。多分それが出来るのは拓でもなければ当事者二人でもない。俺だ。
「気に入らなければ碧羽か弘人に言ってもらって構わない」
「気に入らないよ。やろうとしている事もその開き直った態度も。だけど言わない」
「い、いいのか?俺はお前の好きな人を傷つけようとしているんだぞ?」
「なんで虎太郎が動揺してるのさ」
拓は呆れたように半笑いしてから続ける。
「うん、でもやっぱり言わない。と言うより言えない。虎太郎のやろうとしていることは最低だし、勝手だし、第一本人達からしたら余計なお世話だ。だけどさ、そう思う僕のすぐ隣には虎太郎の目論見が上手くいった先に期待している僕がいる。だから僕にはこれ以上虎太郎を非難する言葉も、邪魔する権利もないんだ」
そう拓は声の震えを押し殺し、笑みを浮かべてみせた。
きっと本人的にはそれで誤魔化せたつもりなのだろう。だけど拓の過去を知っている俺は騙されてあげられない。身勝手で、自己中で、他人を勘定に入れられない醜い部分が自分の中にもあるのではないかと言う恐怖と、諦めにも似た感情が見え過ぎるほどに見えてしまう。
「大丈夫。お前はそんなんじゃねぇよ」
だから俺は励ますための言葉でなく、単なる事実を拓に伝えた。
拓はその言葉に薄い笑みを浮かべた。
「それ励ましの言葉?」
「そう思うか?」
「全く」
「じゃあそう言うことだ」
「そっか」
これは自傷行為のはずだった。拓を利用して罪悪感を少しでも減らそうとする自分勝手な自傷行為。それなのに期待したほど軽蔑もされず、それどころか拓にまで罪悪感を共有させてしまった。
これも何も弘人のせいだ。あいつが俺の中で簡単に割り切れる程度の友達だったらこんな回り道はしなくて済んだのに。だから全部あいつのせいだ。恨むぞ、弘人。