代償
山道入り口は昼間と違っておどろおどろしい雰囲気を醸し出している。それは俺の心理状況がそう見せているのか、それとも実際そうなのか。今の俺には判別出来ないが、そんなことはどっちだっていい。大切なのは俺が今ここにいる理由。それさえ分かっていればそれでいい。
「気分はどうですか?」
横に立つ七瀬が言う。
「最悪だ」
「死ぬ準備は?」
「バカ言うな」
「では覚悟は?」
「出来てる」
「上等です。行きましょう」
俺達は山道に足を掛けた。
街灯のない夜の山道は文明からは完全に切り離されていて、光源無しでは全く見通せない原初の闇が広がっていた。俺達はそんな山道をスマホのモバイルライトで照らして登って行った。
この山に来るよう指定した以上、ここは敵の陣中だと考えていい。だからそんな中を目立つライトを点けながら歩くなど本来は愚策中の愚策なのだろう。だがそれでいい。
待ち構える敵と違い、俺達の打てる手は限られている。ここに来るまでの間で七瀬とすり合わせた作戦だって例外処理が一つ存在するのみで、後はシナリオ通り進むことを祈るばかりの急繕いだ。だからこそそんな作戦を成功させるには少しでも相手に俺達を侮ってもらわないといけない。侮って油断してもらわないといけない。このライトはそのための布石だ。
登り始めてから一時間近く経った頃。俺達は昨日転寝していた辺りについていた。
そこは何の変哲もない森林。カブトムシやクワガタなんかがお似合いの本当に何でもない森林。だけど俺は知っている。この先にどんな場所が広がっているのかを。この先に何が待ち受けているのかを。
深呼吸してから首に下げたペンダントを握る。
頼む母さん。俺に力を貸してくれ。
「…行くぞ」
一歩踏み出すとそこはあの結界の中。霧は晴れ、空気は重苦しいものではなくなっており、昨日俺を恐怖させた要素は幾分か減っていたが、それでもまた違った怪しさと言うか不気味さのようなものが立ち込めていて、やっぱり俺の心に不安を感じさせる。
「ここは私を封じるために造られたんです」
「今なんて?」
さも当たり前のように軽く切り出してきた重大発言に思わず振り返る。だが七瀬はそんな俺にふざけの一切感じられない顔でそのまま進むようジェスチャーを送った。
「さっき例外処理について話した時にも言いましたが、私が化け物と呼ばれるのは使用者のほとんどを一度で殺すほどリスクが高いことに由来します。そのため時の為政者たちは存在していても危険なだけの私を用済みになった途端に封じ込めたのです」
「また自己批判か?」
「違います。これはリスクと覚悟の話です。為政者達が危険と判断し、こんな大仰な結界を造ってまで封じた私を使う覚悟はありますか?」
例外処理。七瀬がそう呼んだそれは俺が提示した例外…正確に言えば疑念が真実だった場合にカウンターとして発動するための作戦だ。その内容は七瀬を俺が文字通り使うというもの。詳しくはよく分からないが七瀬曰くそれでどうにかなるとのこと。ただし俺以外は。
七瀬が今言った通り、過去に使用した者達はたった一人を除いて皆一様に死んでいったのだと言う。つまり俺も高い確率で死ぬことになるのだ。七瀬を妖刀と表したこともあったが、まさかそれが真実だったとは夢にも思わなかった。
しかし進むも死が待ち、例外処理ですら死が待っているなどと言うこの死の板挟み状態は、最早恐怖を通り越して少し笑えてさえくる。モイラ達は愛してくれないのにタナトスは俺に溺愛らしい。もっとも異性愛者の俺には願い下げだが。
「最初に言っただろ?覚悟なら疾うに出来ている」
しかし必要ならばタナトスの胸にも飛び込もう。碧羽が死ぬくらいならそっち方が百倍良い。
「そうですか。それだけ知れれば十分です。さぁ御出でなすりましたよ」
七瀬に言われて周りに耳を澄ますと、カシャカシャと雑草を踏み倒す音がそこかしこから聞こえてきた。七瀬の言う通り御出でなすったのだ。
周囲の茂みから俺達を囲むような陣形で近づいて来た男達は今朝とは違い、迷彩柄のつなぎの上から防弾チョッキにヘルメット、暗視ゴーグルにコンバットブーツ。手にはアサルトライフルを携行していた。
しかし俺は心の中で首を捻った。囲んでいる男達は合計で三人しかいなかったのだ。
俺達二人に対して三人と言うことはつまり、一人につき一・五人。他組織と争っているのにそれだけでと言うのはいくら何でも少な過ぎるような気がする。それともこれが普通なのか?
「うわ、本当に来たぜ。いいねぇ、正義の味方ってか?」
男達は集まるなり一斉に暗視ゴーグルを外すと、その中で一際若い男が言う。それを皮切りに全員が俺達をネタにせせら笑いだした。
これは俺の偏見なのかもしれないが、こういった案件はもっと厳格で任務に忠実な人間が取り扱うものだと思っていた。それなのに実際はこの気の抜けよう。油断を誘う以前に油断を突いてくれと言わんばかりだ。これが誘拐や傷害をしてまで狙った相手の取り扱いとは思い難い。考えられる可能性としては現状を理解していない?例えば奴らがオッペンハイマーの直属ではなく雇われで、詳しい事情を聞かされていないのならなるほど、それも頷ける。いやしかし護送を外注に任せるなんてことがあるのか?
頭を巡らせながら後ろをチラリと見る。七瀬も何か考えるように俯いていた。やはりこれは何かがおかしい。
「無駄口を叩くな」
新たな草を踏み倒す音と共に、今度は俺が想像したような厳格で忠実な声が聞こえてきた。現れたのは声もさることながら、顔つきも厳めしい五十代くらいの男。
「ご、後藤!?」
それは俺の通う志乃月大学教養社会学担当教員、後藤だった。
「気をつけろと言っただろ、五木」
あまりに場違いな人物の登場に、ついさっきまで巡らせていた違和感の正体の考察も全て吹き飛んで思考がフリーズした。そしてまた動き出した時、強烈な怒りが俺の中に渦巻いた。
「おい後藤。何だその銃は…なんだその恰好は…。テメェなにしてるか分かってんのか!」
「お前を捕まえに来た」
「この―――」
叫び終わる前に俺に額に冷たい感触が伝わる。後藤は顔の皺一つ動かさずに慣れた手つきで腰のホルスターからハンドガンを抜くと俺の額に当てていた。
「黙れ、ここで死にたいか?」
「やってみろよ。ただしテメェらの親玉の目的は俺だろ?減俸されても知らねぇぞ」
そう言いながら今度は俺から銃口を額に押し付ける。
油断を誘ううえでこの判断は間違いなく誤っている。こんなことをしては警戒される一方なのだろう。だけどダメだ。ここで引くことを俺の中の決定的な何かが許さない。経験が、願いが、五木弘人と言う人間が引いてはならぬと叫んでいる。
「おいおい、旦那も大概だぜ?」
銃口を隔てて睨み合う俺と後藤にさっきの若い男は半笑いで諫めに入る。後藤はそれを聞いてゆっくりハンドガンを下ろすと、不機嫌そうにフンと鼻を鳴らした。
「来い」
男達に背中を小突かれ、俺と七瀬は森の中を進んでいった。
「着いたぞ」
そう言われて周りを見回すとそこは七瀬と出会った洞窟付近だったが、俺は記憶と一致させるまでに数秒を要した。なぜならあんなに神秘的な様相を呈していた森は、頭上に張り巡らされていた縄も、無数に張られていた符も、どれもが腐り落ち、神域の面影を見る影も残していなかったからだ。今のここを表すなら神域よりも廃墟と称した方が適切に思える。
「弘人なんで来たの!?あたしのことなんて見捨てて逃げて!」
悲痛な叫びが耳に入り視線をそちらへ向ける。一際大きく太い木の根元には、見張りと思しき男が四人と腕を縛られた碧羽と翼さんの姿があった。
すぐに駆け寄りたい気持ちが胸の中に溢れ出す。だがそれを断腸の思いでねじ伏せた。
今ここで感情的に動いては何も取り返せなくなる。
「立川黙れ。お前に喋る権利を与えた覚えはない」
「あなたこそ何やってるんですか!こんなふざけたことをして許されるとでも!?」
「許す許さないの問題ではない。これは大義の問題だ」
碧羽は大声で非難し、後藤が往なす。男達はそれを眺めて笑い出す。
よく動画で見るような暇な軍人の雰囲気を任務中でかつ、俺達に見向きもせずに出しているあたり、本当に奴らは雇われなのかもしれない。理由は分からないがそれなら好都合だ。
深呼吸を一つする。それから自分に問いかけた。
準備は出来たか?覚悟は?
答えは返ってこない。当たり前だ。麓で口にしたのは俺の願望。そう在りたいと言う自分自身への理想。それを口に出して薄い膜で体を覆ったに過ぎない。だから中身は折れかけていた俺と大差なんてない。ただ違いがあるとすれば、俺がどういう人間だったのかを改めて見つめ直したこと。だけどそれでいい。それだけが俺を今ここに繋ぎ止める鎹。それさえあれば俺はまだ抗える。
「――――――」
突然どこからともなく歌が聞こえてきた。
厳しく、それでいて優しく包み込むかのようなそれに、男達と共に俺も釣られて声の聞こえる後ろを向く。それは七瀬の歌声だった。俺は直感で理解した。始まったと。
「おいお前―――」
若い男が七瀬の肩を掴もうと手を伸ばす。だがその手を肩に乗せる前に大地は激しく蠢き出し、次の瞬間、地面を突き破って現れた無数の根が男の体に絡みついた。男は始め、抵抗しようと体を動かしていたものの、すぐにまるで生気を吸われたかのようにぐったりと動かなくなってしまった。
他の男達はそんな様子を見て血相欠いてアサルトライフルを構えると七瀬に向ける。しかしトリガーに指を掛けるよりも速く根は男達に絡みつき、そしてやっぱり若い男と同じようにぐったりと項垂れた。
「弘人!」
広がる凄まじい光景を前に呆然と立ち惚けていた俺は、七瀬の声にハッと我に返って両のポケットに手を突っ込む。取り出したのは数本の発煙筒。乗り捨てられた車から拝借したそれのキャップを外し、擦り付けて煙を出してから適当な場所へ放った。
煙はすぐにもくもくと広がり出し、視界を不明瞭にしていく。俺は煙を吸わないよう姿勢を低くして二人に近づくと、腕の結束バントを十徳ナイフで切り外し、それから碧羽の手だけ(・・・・・・)を掴んで走り出した。
「ちょっとひろ―――」
「黙って走れ!」
例外処理。疑念。俺はそう七瀬に伝えたが、本当はもうそんな生易しい域に無いことくらい分かっている。ただそれでも「気のせいかもしれない」。「勘違いかもしれない」。そんな些細な希望に縋って言葉を濁した。きっと七瀬は気が付いているのだろう。いや、少しの間一緒にいただけでも聡明な彼女なら気が付いていないはずがない。だから七瀬は俺に覚悟を問うた。読んで字の如く例外における対処でしかない、普通に行けば実行されるはずのない作戦の覚悟を。
丁度七人目の男の横を抜け、包囲網から出たところで後ろを振り返る。まだ広がりきっていない煙の合間。そこには小さな呟きと獲物を狙う獣のような鋭い眼差しがあった。
あぁ、やっぱり。
俺は左ポケットに入ったもう一本の発煙筒を擦り、後方に向かって投げつける。
「クソっ!」
煙の向こうから聞こえてくる悪態から少しでも距離を取ろうと俺達は走った。
ドタドタドタ
暗い暗い森の中、ようやく出口まで半分走り切ったところで、俺達の進行方向を塞ぐように周囲の木々がなぎ倒された。
「いつから気が付いてたの?」
足を止め、振り返った先には静かに歩いてくる人影が一つ。
肩より短いボブカットに切り揃えた髪は白雪を思わせるほど美しく、その下にある小さくて整った顔は小動物のように愛らしい。色素の低い肌は白磁と言うに相応しく、見るもの全てを魅了する。そしてその二つの瞳は肌や髪に映えた美しい蒼を煌めかせている。
俺達は彼女の名前を知っている。
「車での移動中だよ。虎太郎の伝言であっただろ?ガラスとごめんって。ガラスって言うのは俺が言ったあんたの第一印象だ。そしてそれを虎太郎は聞いていた。ごめんって言うのはあんたを誘ったことに対する謝罪だったんだろうよ」
あいつが謝ることなんて何もないのに。
「それだけで断定したの?」
白い影は俺に問う。
「いいや、後は碧羽の話した虎太郎の傷口についても一役買った。ギロチンって言うのは刃の自重を利用して対象の首を落とす処刑器具だ。自重。重力。それはあんた分野じゃないか」
「翼…ちゃん…」
碧羽がそう呟くと同時に舞い上がった土煙が完全に落ち着く。そこには翼さんが立っていた。
もう言い逃れは出来ない。彼女も、そして俺も。
「なぁ翼さん。なんでだよ、なんでこんなことをした!?」
怒りよりも疑問と悲しみを込めてそう叫ぶ。しかし翼さんは俺の言葉を聞いて一瞬ぽかんと間の抜けた顔をしてから、口を押えプルプルと震え出した。そして…
「ふ…ふふ…ふふははっ、ふふはははははははははははははははははははははは!!」
可愛らしいながらも凛としていて美しい顔を歪め、狂ったように声を荒らげて嗤い出した。
その声は背の高い木々に覆われた暗い森の中を不気味に反響する。
鳥は逃げ出そうと翼を羽ばたかせ、小動物もその場を離れようと慌しく動き出す。生物の根源的な嫌悪感を揺さぶるその声は、この場にいる全ての存在に異様なプレッシャーを与えた。
翼さんはひとしきり嗤うと喉を鳴らしながら大きく息を吸う。
「あーまったく訂正しないとだ。ラノベ主人公なんて嘘。お前ほどに聡い奴が主人公張ってたらフラグなんて何の役にも立たないじゃない…」
そう呟くと彼女は自分の顔を握り潰すほどの力で覆い、俺を睨みつける。
その瞳には喜怒哀楽。多情多恨。全てに当て嵌まり、同時に全てに当て嵌まらない嵐の日の河川みたいに濁った感情が浮かんでいた。
「ガラス?ふざけんなよ。お前がそれを言うのか。私は役立たずなんかじゃないのに。それなのに…!そうだよ私が殺した、私が切った!これで満足か、五木弘人!」
「満足って…。虎太郎を切る必要なんてなかっただろ!?他の人達だってそうだ!それなのに―――」
「黙れ!今回の作戦は本来もっと犠牲が少なく済むはずだったんだ!もっとスムーズにお前達を捕まえられるはずだったんだ!それがこんな惨状になったのも全てお前のせいなのに、それなのにお前は私を責めるのか!」
俺のせい?いや今はそれよりも。
「違う、そうじゃない翼さん。俺は別に責めてる訳じゃない。ただ教えて欲しいだけだ。なぜこんな事をしなければいけなかったのかを。俺にはこれが翼さんの本心からの行動だとは思えない」
ずっとそうだ。初めて会った時も、電車の時も、そして今も、いつも彼女はどこか苦し気だった。そんな彼女が虎太郎の腕を切り、更には人を殺して平気なはずがない。その証拠に彼女の叫びは、壁にぶつかって投げやりになった子供の癇癪に似通っている。そしてそれはついさっきまでの俺とも似通っている。
「私は悪くない」。「だって仕方がないじゃない」。彼女がそう運命を呪うなら、少なからずその気持ちは分かるから、俺のするべきことは責め倒すことでも、ましてや罵倒することでもない。俺のすべきことはただ一つ。彼女に手を差し伸べ続けることだ。
「憐みだったら間に合っている!いちいち女々しいんだよ!本当に嫌いだ!耳触りの良い言葉なんて求めちゃいないんだ!」
「憐みなんかじゃない!あんたにとって演技だったかもしれないけど、少なくとも俺にとってあんたは友達だったんだ!だからそんな自分を騙し続けるようなことはもうやめろ!そんなことを続けていたらいつか自分で自分が分からなくなるぞ!」
「望むところだ!私が分からなくなったらどんなに楽か!だけどそう言う訳にはいかないから戦い続けるしかないんじゃないか!大体演技だって分かってるならさっさと見捨てればいいだろ!お前の見ていた手は張りぼてだったんだ!張りぼてに何を求める!?」
「演技だから見捨てる?張りぼてだから見捨てる?冗談じゃない!そういうセリフは俺に違和感を覚えさせない程度の演技が出来るようになってから言え!高々素人に本心を見透かされるほどの演技しか出来ないならあんたこそ黙ってろ!黙って虎太郎にしっかり謝れ。俺も一緒に謝ってやる。そして全て終わったら、今度はあんたが俺に奢ってくれ」
言い切ると翼さんは目を見開いて一歩後退る。そしてまた笑い声を漏らした。しかしそれはさっきと違い、消え入りそうなほど酷く弱々しくて、本当に心底悲しそうな声だった。
「は、ははっ…。なるほどなぁ。悲しいよ、私は。悲しいほどに私とお前は違い過ぎる。自分の大切なものを傷つけられて、それでも相手のために手を伸ばすことなんて私には出来ない。ねぇ、五木弘人。愛ってなんだと思う?」
「愛?」
「そう、愛。愛って言うのはね、願いだよ。その人に幸せになって欲しい。いい人生を送って欲しい。そういう無垢で純粋な願い。お前はお前がその言葉を吐けるようになるためにどれだけの人の願いが掛かっているか知ってる?まさか高々十数人とか言わないわよね?いいえ言うでしょうね。だから私はお前が嫌いなの。お前は知らないだろうけどね、お前にはそのちんけな脳みそで想像するよりずっと多くの人間の願いが掛けられている。生きている人間は言わずもがな、死んでいった人間もお前に幸あれと願って死んでいった。それさえ知らず、あまつさえそれを持たざる者に振りかざす残酷ささえ知らず、自分の土俵が基準だと思い込んでいる。あぁなんて醜いのでしょう。なんて矮小なのでしょう。虫唾が走る。こんな下らない人間を救って、私達を救ってくれなかったあいつらが……!虫唾が走る。殺すことでしか存在を証明できない私が…!虫唾が走る。誰一人として私達に願いを掛けてくれなかったこの世の中が!」
翼さんは大仰に腕を開いてそう叫ぶと、すぐに感情のツマミを一気に絞ったかのようにテンションを下げ、静かに、しかし確かな怒りを込めながら言った。
「だからお前は私達の怒りを受ける責任がある」
翼さんは穿いているロングスカートに手を掛けると、いきなりそれを破き捨てた。
困惑が頭を支配する。しかしすぐに疑問が取って代わった。
スカートを破いたことで大胆にも詳らかにされた翼さんの足。それはやはり美しくどこか扇情的だったけれど、それだけに右の太腿に絞められたベルトとそこに携帯された赤い液体の入った合計六本の試験管が異様な画として俺の目には映った。
翼さんはその六本の試験管を全て手に取ると叩き付けるように振り下ろす。すると試験管の下部から注射器の針のようなものが飛び出した。
それを見た途端、全身にピリピリ電流が流れたような嫌な感覚が走った。あの試験管の中身が何かは分からない。分からないがあれが翼さんにとっていい影響を与える物ではないと俺の全細胞が叫んでいた。俺は自分の感覚に従って彼女を止めようと地面を蹴った。
「そういうことか…!ダメ、弘人!」
だが何かを察した碧羽がすぐに俺の左腕を掴み、それに続くように七瀬も俺の右腕を掴んだ。
「何すんだ!」
「分かりませんか、弘人。試験管どうこう以前にあれはもう手遅れだ。私はあなたを無意味に死なせるためにここへ連れてきた訳じゃない」
「そうだよ弘人!弘人だけはこんな所で死んじゃいけない!」
「ふざけんな!もっとしっかり話せば―――」
「バカですね。伝わってるんですよ、全て。あなたの言葉が上っ面じゃないことも彼女には。それすら分かった上で彼女はあなたを否定した。もう一度言います。あれはもう手遅れだ」
手遅れなんてことは…
そう否定を入れようと翼さんを見る。
そこに立っていた人間は、俺の知っている阿藤翼とはあまりにかけ離れていた。
碧羽と七瀬は俺達の腕を離した。
翼さんは針を自分の首元へ刺し込むと、赤い液体は見る見るうちに体内へと挿入されていく。それに応じて彼女の白い肌は赤みを帯び始め、血管が浮き出る。血は脈動し、周りの白目から瞳に向かって充血が広がっていく。そして瞳まで充血が辿り着いたと同時に、瞳の色は蒼から紅へと変わった。
「痛みを知りなさい」
空になった試験管を適当に放り投げ、翼さんは指をすぼめた右腕を真っ直ぐ突き出す。
「SetGround point1」
その言葉と共に翼さんの前に魔法陣が現れる。そしてパチンと指を鳴らした。
だが何も起こらなかった。
彼女の剣幕に内心、戦々恐々としていた俺は何も起こらなかったことに胸を撫で下ろす。しかしすぐに気を張りなおそうと前を向いた。その時だった、俺の視界の端にあり得ないものが映ったのは。
映ったのは赤茶色の髪。見慣れたシルエット。碧羽が魔法陣に向かって吸い寄せられ…いや、魔法陣に向かって落ちて行った。
「碧羽!」
碧羽はこちらへ手を伸ばしながら魔法陣に落ちていく。俺はその手を掴もうと一心不乱に腕を伸ばした。すると伸ばした手と手は辛うじて繋がり碧羽は俺に安心したような笑顔を向ける。
そして一秒後、再び手と手は離れていた。
ジュシャ
酷く生々しくて、瑞々しい音が木々の間を反響した。
俺の目に入ったのは魔法陣に向かってうつ伏せになる碧羽と、そしてその背中から突き出る血のべったりついた刃。
「あんた…何をした…?」
阿藤はもう一度指を鳴らす。すると今度は俺の目の前に魔法陣が展開され、碧羽はそれに向かって落ちてきた。
「あ…碧羽!」
慌てて駆け寄り、肩を抱いて絶句した。
溌剌として血色の良かった顔からは血の気が引いて白くなっており、高めだった体温は心なしかいつもより低く感じる。呼吸はどんどんと細くなり続け、真っ直ぐと前を見据えていた瞳からは最早光を見て取れない。そして左の胸からは碧羽の命が止めど無く零れ落ち続けていた。
その姿は俺の知る碧羽とはかけ離れていた。きっと突然今の状態で目の前に現れても、それが碧羽だと認識出来ないくらいには。
動転して回らない頭をそれでも回して、昔読んだ本に書いてあった圧迫止血を試そうと、夢中で碧羽の左胸を抑える。しかしいくら抑えても碧羽の血は止まるところを知らない。
「もうダメなんじゃないか?」そんな考えが脳裏によぎり咄嗟に否定する。そんなことはない。あってはいけない。
気が付くと俺の呼吸まで浅くなっており、視界はグニャりと歪み始めていた。それでも俺はただ傷口を抑え続ける。
「ひろ…と…」
「黙ってろ!」
「もういいから…、ね…?」
「いい訳ないだろうが!少し黙ってろ!すぐに治るから!治すから!」
「おっぱい痛いよ…、セクハラサイテー…」
「そんなこと言ってる場合か!」
「そだね…場合じゃないね…、最後っぽいし…」
「馬鹿野郎!これからもずっと一緒にいるんだよ!一緒にケンカしてバカしてばあちゃんに怒られて!これからもずっとそうやって過ごしていくんだよ!だから、最後なんて言うなよ…!」
「もう…本当に弘人はあたしがいないとダメなんだから…」
「そうだよ、俺はお前がいないとダメなんだ!お前がいないと生きてはいけないんだよ!大体週末のケーキバイキングはどうすんだよ!それこそお前無しに行ける訳ないだろ!」
「あぁ…ケーキ…、弘人と食べたかったなぁ…。でもごめん…約束…守れそうにない…」
「嫌だ!絶対に許さない!お前が言いだしたんじゃねぇか!それなのに…それなのにこんなところで死ぬなよ!」
「だから…ごめんって…ははっ………ごめん…」
「ごめんじゃねぇよ!大体おじさんとおばさんを置いていくのか!?」
「パパとママかぁ…、全然…会ってないなぁ…」
「そうだ!全然会ってないんだ!それなのにこんなところで勝手に死ぬなんて親不孝にもほどがあるだろ!」
「親…不孝かぁ…それはどうだろ…。でも…あぁ弘人…あたしは幸せだった、よ…?」
「もっと幸せが増えていくんだ!大丈夫ここさえ切り抜ければきっと!」
「無理かなぁ、それは……。あぁ、そうだ…、あと…最後の手料理…から揚げでごめんね…。もっと…凝ったもの作ってあげ…られれば、良かったんだけど…。それにケンカ…みたいなことになっちゃった…ことも……」
「そんなこといいんだよ!これからも続くんだからいいんだよ!」
「もっと…一緒に……、いて…あげられたら…よかったのに、…ごめん…」
「碧羽?」
「でもどうか…弘人は…あたしの好きだった……弘人のままで………」
「おい碧羽!碧羽!」
碧羽の体を強く抱きしめる。行かないでくれと、いつも俺をからかうみたいに冗談だったと言ってくれと、心から願って抱きしめる。だがその体からはひんやりとした冷たさだけが俺の体に伝わってきた。
「あ…あぁ……」
嫌なのに、それでも分かってしまう。
それはもうからかってくれない。それはもうケンカしてくれない。それはもうおねだりしてくれない。それはもうわがままを言ってくれない。それはもう軽口を叩いてくれない。それはもう二度と笑ってくれない。だってそこに碧羽はもういないのだから。
「痛みが分かった?」
あぁ、ダメだこれは。
「それよりもずっと私達の絶望は大きいのよ」
この感情に呑まれてはダメだ。
「大切な人だったんでしょ?知ってるわ、お前について調べたから」
きっとこの感情に呑まれては戻ってこれなくなる。これはダメだと俺の全てが叫んでいる。
「でもね、彼女を殺したのは私じゃない」
でも無理だ。一度胸の内から溢れ出したこれを振りほどくことが俺には出来ない。
炎。そう炎だ。俺を引き留めようとする理性が、魂が、思い出が、それら全てがこの感情と言う名の炎に燃やし尽くされていく。行きつく先が何もない灰だと分かっていても、どうしても抗えない。怒りなどと言う生易しいものは疾うに過ぎ去った。これはもっとその先にある黒くてドロドロした別の感情。
遍くを取り込み、遍くを燃やし尽くす怨恨の行く末。名を復讐。
「殺したのはお前だ」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………殺してやる」
さっきまで碧羽だったものを地面にゆっくりと寝かしてから立ち上がる。
「七瀬」
「いいでしょう。あなたを暫定的なオーナーとして認めましょう」
それだけ言うと七瀬は俺の正面に回り、首筋に歯を立てる。パキッと言う音と共に穴が開き、すぐに吸血が始まった。
痛みはない。吸われるにつれてゆっくり冷えていくような感覚は献血に近しい。だが献血とは違う点が一つ。吸われると同時に何かが入ってくる感覚がした。
しばらくして口を離した七瀬は、端についた血を行儀よく拭う。
「終わりました。使い方の説明は―――」
右腕に意識を集中させ、力を籠める。すると右前腕部の穴と言う穴から血が勢いよく吹き出し、そして地面に落ちることなく空中で静止する。静止した血はすぐに今度は逆再生するように真っ赤に染まった前腕部に戻っていき、全て戻るとただの腕は爪先が鉤爪のように鋭利に尖った赤銅色の手甲へと姿を変えていた。
「お見事です」
視線を阿藤から微動だにさせぬまま左腕を出すと七瀬はそれにもたれ掛かり、まるでフィギュアスケーターのように背中を逸らして胸を開く。俺は七瀬に聞いた通り、躊躇いなくその胸の中心に尖った指先を突き刺した。
生温かく、柔らかい感触と共に刺した手甲にドク、ドクと鼓動が伝わってくる。そしてそれは段々と小さくなっていき、完全に停止したと同時に衝撃波を伴って俺を中心に赤い半透明な球体が展開した。
七瀬の体が足先から頭に向かって真っ赤に染まっていき、人の形をした赤い塊へ姿を変える。俺が腕を引き抜くと、塊は成形されるように形を変えていき、完全に抜き切った頃には俺の手に一振りの刀が握られていた。
気が付くと俺は浜辺にいた。
何もない、ただ砂浜と海だけが永遠に続くそこは、全てを燃やし尽くさんばかりの勢いで揺らめき広がる炎に包まれていた。
「変われ、オレが全て終わらせてやろう」
目の前に立つ男が言う。
俺と同じ身長、俺と同じ髪型、俺と同じ顔をした、額から二本の角を生やす紅い瞳の誰かが。
「殺せるのか?あいつを」
「もちろん」
「なら持っていけ」
「へぇ、いいじゃないか。いい感じに狂ってる。任せろよ」