第2話 それぞれの心境 続1
「…チッ。」
ほとんど癖になっている舌打ち。
俺のこの素の姿を見ても微動だにしなかった機械みたいな女は、今日もまた無表情で冷めた目をしている。少し椅子を引くと、躊躇いもなく俺の足を跨いで奥の席に座る。
今日はライターを持っているらしい。
俺は白い煙を吐き出して少しの間空を仰ぐ。
「…ふぅー…」
あいつは俺に無駄に干渉してこない。俺も干渉しない。
お互いに需要のあるこの空間は俺にとって唯一の安息所といえる。
ひたすら本を読んで知識を、見識を深める。それは毎日話しかけてくる有象無象たちとコミュニケーションをとることよりよっぽど有意義だ。本は無駄なことを聞いてこない。
あの機械女と同じだ。だからかこの場所にいても何も感じないのだろう。いや、あいつは俺の癪に障らない程度しか喋らないからか。
唯一、俺をちゃん付けなんかで呼んでくるところ以外は。
「…っと。」
カバンを持ってこっちを向くあいつの気配を感じて、視線は本のまま椅子を引く。あいつが通り過ぎて椅子を元の位置に戻す。そうじゃないとガタガタ揺れてうざい。
「っはー…」
煙を吐き出して、腕時計を見る。俺の授業は朝で終わった。これからいつも通り本を読みたいところだが、肝心の本がもう読み終わってしまった。読んでいたのは歴史書だ。経営との複雑な合致があって読んでいて楽しい。
駅ビルの本屋に行って戻って来るのは面倒だが、大学の図書館の誰が触ったか分からない本に触れるより良い。
「…………。」
面倒だが行かなければ本を買えない。葛藤する無駄が鬱陶しく、煙草を一本吸ったら行くという決意をして半強制的に自分を納得させる。スマホには必要最低限の連絡先や新聞のアプリしか入れていない。
その中でも滅多に使わないアプリを開いた。新聞やニュースで話題になるような歌や芸能人は知識として知っているが、まだ音楽というものにハマったことはなかった。
「…こんなののどこが良いんだ…?」
恥ずかしげもなく声を張り上げて、愛だの恋だのを歌う流行りの歌。こんなもの、歌詞にして楽器と合わせるよりも文字に起こして文章にした方が説得力もあるだろうに。
これを大音量で聞いて、あいつは何を感じているのだろうか。いや、何も感じていないのかもしれない。ただ流しているだけなのかも…。ならオーケストラの方が良さそうなものだが…イヤホンを取った時に聞こえた音楽はやたらジャカジャカうるさかった。
「…ッチ、うぜぇ。」
暇つぶしだとしても他人のことを考えていた自分に嫌気が差して煙草を灰皿に押し付ける。
早く本を買いに行こう。
「あ、東くん!まだ大学にいたんだ!」
どこからともなく湧いてくるこいつらは本当に嫌いだ。人のプライベートを邪魔しやがって。
心の中の悪態を微塵も感じさせない様に笑顔を張り付ける。
「うん、ちょっと用事を済ませて、本屋にでも行こうと思って。」
「そうなんだぁ。わたしも本屋さん行こうかなぁ。」
髪の毛をくるくるいじったり、わざとらしく表情を変えたり、高い声を出したり。見え透いた下心が丸見えで醜い。
「へぇ。俺はこのあたりの本屋にはあまり行かないからなぁ。行きつけの本屋があってさ。」
「えっ、そうなの…?ど、どこの?」
俺がその場所を言うと、そいつは暫く考え込んで言った。
「そっかぁ…遠いんだね…!」
悩むのも当然だろう。きっと俺と一緒に本屋へ行ってあわよくば連絡先を交換するやらお茶に誘うやらする算段だったのが、ここから行くのに一時間以上もかかる場所に行くというのだから。
「うん。昔お世話になった小さい書店があって、大体そこで買ってるんだ。ああ、本を買いに行くんだよね?帰りは気を付けて。」
「――っう、うん…」
やっぱり途中まで一緒に、とか言う程相手が図太くなくて助かった。適当に何駅か過ぎた場所で降りて、近場に見えた本屋に入る。
相変わらず息を吐くように嘘をつく自分に、無駄に話しかけてくる虚像たちに、吐き気を覚えた。
本を何冊か購入して、また大学まで戻る。今度誰かと会ったら適当にまた理由を連ねればいい。誰も確認まではしない。
世間体を気にする奴が多いこの世の中ではその方が生きやすい。いちいち物事を真に受けていれば精神的に崩れていくのは目に見えている。
結局は俺もその一部なことも、十分に理解している。
「……くそ。」
目元を覆って小さく悪態をつく。
最低な気分の時、ポケットの中のスマホが震えた。表示された相手に重いため息をついて耳に当てる。
せっかく戻って来てこれからゆっくりできると思ったのに。
「はい。礼司です。」
『もしもし?ごめんなさいね、お勉強中に。』
そんなことも微塵に思ってないだろう、と思いながらもできるだけ落ち着いた声で返す。
「大丈夫ですよ。どうしましたか?母さん。」
『最近お家でも話せていないから、どうしているかと思って掛けたの。』
顔は毎日見ているだろうに、それだけで分からないのかと呆れる。
心配している風を装って近況を探っているのだろう。大学は高校とは違い割と自由にされているから。
「…特に、何も変わりませんよ。同じ学部の友人にも恵まれて切磋琢磨しています。」
『そう…お勉強は楽しい?』
一瞬言葉を失った。それ以外何もさせようとしなかったのはあんた達だろうに。俺に拒否権はないのに。
「はい!高校の時より本を読む時間が増えましたからね。今も図書館で読み漁っていたところですよ。」
頬が引きつるぐらいの笑顔を浮かべて言うと、嬉々とした声が返ってきた。
『あら、流石礼司くんね。康平くんも負けていられないって言っておかなきゃ。じゃあ、頑張ってね。』
電話が切れた瞬間、隣の椅子を思い切り蹴飛ばす。テラスに乗っていた本が何冊か崩れ落ちた。
今ので革靴に少し傷がついただろうが知ったことではない。イライラする。いやそれ以上。頭が沸騰しそうだ。
「び…っくりした。」
ばっと隣を見ると、機械女が立ちすくんでいた。
「…汚れるよ。」
落ちている本を拾いテラスに乗せると、いつものように俺をすり抜けて奥の椅子に座った。あれだけイライラしていたのに、その冷静さが移ったのかいくらか落ち着きを取り戻して椅子に座り直す。煙草を深く吸い込んで、隣を見る。
「お前でも驚くんだな。」
イヤホンをしているから聞こえてはいないだろう。また爆音で無意味な音楽を聴いているはずだ。
思った通り反応はなく、無性にイライラしてたのが煙が空に溶ける様ににすーっと落ち着いてくる。
「…俺も、お前みたいだったら良かったのかもな…」
感情なんて、無駄だ。いっそなくなってしまったらと思うが、感情を失くした先の想像がつかない。いつも押し殺してるつもりでも、こうして素でいると沸々と不満ばかり湧き上がる。
「礼ちゃん。…飴、いる?」
何を思ったかそいつはまた棒付きキャンディーを差し出してきた。
「は?」
「そろそろ小腹が空く時間じゃない?」
六時近く。一般的にはおやつの時間でもなんでもない。
「……今日買い過ぎたし、あげる。食べれなくないでしょ?」
なかなか受け取らない俺に手渡すことは諦めたのか、テラスの上に一つ置いて戻っていった。そしてカバンの中からバニラ味を取り出して袋を取り去る。
何だか馬鹿らしくなって俺もソーダ味のそれを口に入れる。バニラよりはマシかもしれないが、普段甘いものを食べ慣れていない俺には甘過ぎる。
「…お前、いつも何聴いてんの。」
そいつは少し目を開いてスマホを見せた。ファンタジー物の中絵に似た画面が見える。
「……ゲームの、サウンドトラック。」
「…お前、ゲームすんの?」
こくりと頷いたが、俺にはいまいちピンと来なかった。私生活なんて想像したことも興味もなかったが、こいつがゲームをしている姿は想像できない。星の動きを肉眼で確かめようとするくらい不可能に感じられた。
いつもこいつはここへ来て、煙草を吸い、ぼーっとしているから。何かをするなんて思いもよらなかった。
途端に好奇心が沸いてくるのを自覚する。まるで推理小説の主人公の推理を読む時のような期待だ。そうか、こいつ人間だった。
「…何で?」
その無感情で抑揚のない声は何を語るにも不完全で、無機質な瞳は何も映さないと思っていたから。それをどう言えばいいか、考えて―――やめた。
何を期待しているのか自分でも分からないが、らしくないことはするものではない。俺の返答がなくて諦めたのか、またあいつは空を見上げた。
「……私の、イメージじゃ、ない?」
ポツリと小さく漏らした言葉に自覚する。自分も他人をイメージではかることに、酷く絶望にも似た感情を覚える。俺も、そんな人間の一部なのだと。
「まぁ、仕方ないよね。何も話さないし。…実は割と、本も好き。ファンタジーなら。」
「…聞いてねぇよ。」
それ以降、また口を開くこともなくやつは帰っていった。
何なんだ、あいつ。意味が分からない。分かろうとも思わない。折角居心地のいい空間を手に入れたんだ、これ以上関わるのはお互いに毒だ。
そう思って、心の隅に煙る苛立ちに蓋をして帰りの支度を始めた。
礼ちゃんメインでした。