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ここは第三役所、異世界転生課  作者: 冬野春巻
第一章
6/7

見せ合いっこと拉致監禁とこれから

 第三役所内、オフィス。


 「今朝、第四役所より緊急の連絡が入りました。第四役所職員のハリス・メントラが、宝物庫から『狼炎の箱』を持ち出し、現在逃走中とのことです。ハリスは一昨日の昼頃、こちらに来所していたようですが、目的は不明。現在管理課が宝物庫の中を調査中です。紛失した物品の確認が取れ次第、報告致します。紛失が無かった場合は、第三役所は当事件に関与せず、第四役所からの報告を待機する形とします。以上です」


━━━━━━━━━


 出勤2日目。昨日言われたとおり朝出社し、始業の時間まではレヴィアさんと共に秘密のお勉強タイムを過ごした。科目は…言うなれば常識力といったところだろうか。


 レヴィアさんはポケットから小さな手帳のようなものくれた。


 「それはこちらの世界で使われるカレンダーです」


 「おお、こっちにもあるんですね」


 「もちろんです。地球と少々異なる部分もございますが、大きな違いはありません」


 レヴィアさんは一つ一つ丁寧に説明してくれた。


 「まず知っておいていただきたいのが、異世界によって時間の流れ方が異なるということです」


 「時間の流れが異なる?」


 「はい。これについてはもう"そういうものである"と飲み込んでいただく他ありません。例を挙げますと…」


 レヴィアさんは人差し指を顎に当て考える。


 「こちらの世界で1年経過したとして、地球では大体1ヶ月ほどしか経過していないことになりますね」


 「1年で1ヶ月!?」


 「はい。ですから、会沢さんがこちらの世界に来られてから9日目ですが、向こうの世界ではまだ1日も経っていないことになりますね」


 「1日も…。まあ、そういうもの、なんですかね」


 すぐに受け入れられるものでもないので、今は置いておこう。時間あれこれについての感覚は、そっくり時間が経てば解決してくれるだろう。未来の自分に任せることとする。


 「その他年月日や時間、分、秒については大体同じです。時計もあの通り、12刻みで1周します」


 レヴィアさんは壁の上部に取り付けられた時計を指さす。


 「あとは…日色ひいろ、地球で言うところの曜日についてですね。ここは地球とは異なります」


 スラスラとホワイトボードに書いていく。


 「このように、黄、赤、青、緑、金、黒、白の7つの並びになります。数は同じですが、ワードと並びが違います」


 「金だけ同じですね」


 「金…そうですね。ですが、表記方法に関しては、それぞれこのように…『赤の日』や『金の日』といった感じで表記します。地球のようにナントカ曜日、という言い方はしません」


 ホワイトボードの内容をちまちまとメモしていき、書き終わったところで質問する。内容についての質問ではない。


 「レヴィアさん、地球についてお詳しいですよね」


 「当然ですよ。担当世界についてのことですから。今私が会沢さんにこうやって説明するのと同様に、転生者の方にも説明するのが我々の仕事です。会沢さんも私の仕事の引き継ぎをする以上は、各異世界について覚えていただかなければなりませんよ」


 部活の大会、文化祭のステージ、面接室の扉の前。本番が近づいたり、会場が見えたりすると、急激に緊張が高まってくる。僕は今、そういった本番を前にした時のような、心を圧迫する大きなプレッシャーを受けた。いつまでも研修しているわけではないのだ。


 始業の鐘が鳴る。


 「すみませんが、また少し出ます。私が戻ってくるまでにステラさんを起こしておいてください」


 「分かりました」


 端の席では昨日と同じようにステラさんが突っ伏している。


 「ステラさん」


 返事は無い。


 「ステラさん、起きて」


 気持ちよさそうに肩を上下させており、一向に起きる気配は無い。


 さて、どうしたものか。いや、致し方ない。声をかけて起きなかったのだから、こうなれば肩を揺らして起こすしかないだろう。不可抗力だが、やむを得ん。


 ステラさんの肩から二の腕の辺りを、小動物を撫でるようにそっと右手でやんわりと触れ、そこからグイグイと押してみる。感触は…柔らかかった。細くも程よい肉付きであるその柔らかさは…僕の辞書では喩えようがない。形容しがたい何かがそこにあった。


 待て、違う違う。起こそうとしているのだ。本分を見失うな。


 「ステラさ」


 その瞬間、彼女の後頭部が僕の鼻にクリーンヒットした。


 「むぇあ!」


 ステラさんが奇声と共に突如起き上がったのである。


 「む? んー…ああ、会沢くんおはよ。何してるの?」


 この世に苦労なくして得られるものなど無い。僕の鼻頭を襲うこの激痛と、不本意ながら得た二の腕の感触は、きっと等価なのだ。


 人間は痛みを感じている時に悟りを開きがちである。手軽に開ける悟り、通称ポケット悟りを開いていると、レヴィアさんが戻ってきた。


 「すみません、急で申し訳ありませんが、本日は自習でお願いします」


━━━━━━━━━


 あれ以降、レヴィアさんは戻ってこない。学生の頃であれば、自習と宣告された日には諸手を上げて喜び、人目を憚らずはしゃいでは隣の教室の先生に怒られたものであるが、社会人としてこうして勤めている以上、席について静かに勉強していなければならないものである。


 そんな建前を抱えている午後だが、再び小腹が空いてくる辺りの時間帯になる頃は、冊子を読むことにも飽きつつあった。


 秒針が時を刻む音、時折上の階から聞こえてくるドタバタという足音、そして冊子をパラパラとめくる音。目が滑って文字は読めていない。


 痺れを切らしたのか、右から質問が飛んでくる。


 「あらた君」


 見ると、暇そうな格好の代表例と言わんばかりに机に頬をムニッとくっ付け、ステラさんが潰れている。


 「な、何?」


 「あらた君って何属性ー?」


 属性…僕の属性といえば何だろうか。そういう文化にはあまり詳しくないが、確か姉がいる男は弟属性、という風に言った気がする。


 「弟属性ってやつかなあ」


 「へ?」


 待て、違う。ここは異世界。言い終わった後でそうじゃないと気付く。


 「あ、チキュウって魔法使えないんだったね。ごめんごめん、悪気は無いのです。許してつかぁさい」


 「あ、いやごめん忘れて。魔法の属性ね。魔法は少しだけど使えるよ。属性は、たぶん、どの属性もいける…んだと思う」


 「ん~?」


 「えっと、僕のスキルが結構特殊みたいでさ。【陳述記憶】っていうスキルなんだけど」


 「うんうん」


 ステラさんは身体を起こし、新しいおもちゃを見つけた子供のようにキラキラとした目をしている。田舎町で風評があっという間に広がるように、退屈な状況における他人の身の上話や噂話は、これ以上無い娯楽だ。


 「レコードに魔法の詳細を書くと、どの属性でもその魔法を使えるようになるみたいで」


 「書くって、ペンで書くってこと?」


 「そう」


 「今書けばもう、すぐ使えちゃうってこと?」


 「そうだね」


 「えっ、なにそれずる…チートじゃん…そんなの初めて聞いたよ」


 やはりそうなのか。一見すると異世界チートのこのスキルだが、残念ながら、僕の身体が追い付いていないのが現状である。


 「僕の魔力が高かったらホントにそうだったのかもしれないけどね…」


 「魔力ダメなの?」


 「いや、まあ、地球で魔法使えなかったからそりゃね…赤ちゃんが急に走れないのと一緒…みたいな」


 「ああそっか。まあこれからだよこれから! それに全属性使えるなんて聞いたことないよ! 絶対凄いって! 元気出してホラ! 飴食べる!?」


 そう言うと、ポケットから小袋入りの飴を一つ取り出して僕にくれた。ポケットの中にはミニキャンディが一つ。若干体温で溶けている気がするのはさておき、飴がこちらの世界にあること自体もミニ発見である。


 「ありがと…ステラさんは黄色って言ってたよね」


 聞き返すと、知らない間に口に飴を含んでおり、モゴモゴと喋っている。


 「んー。黄色と青の二つだよ」


 「便利な魔法ある?」


 「ん~、黄色の人は、電気で動く道具を自分で充電できたりして便利ーってよく言うね。あ、【ショック】は覚えてるとどこかで使えるかも」


 「【ショック】?」


 「あ、飴ちゃんもう一個いる?」


 指で飴の小袋をつまんで、ヒラヒラしている。


 「え、あ、うん。じゃあください」


 手の平を出す。すると、彼女は飴を置かずに、僕の手をそっと握ってきた。なんと柔らかい手だろうか。こんな状況で「あらた君の手、あったかいね…」とニギニギしながら言われてしまえば、雷に打たれるように恋に落ちてしまう。


 そんな妄想を膨らませながら手の感触を確かめつついると、彼女はこう言った。


 「【ショック】」


 瞬間、静電気を遥かに凌駕する強い衝撃が、手の平にバチッと走る。


 「ダアッ!!!!」


 「あははっ! やっぱりいいリアクションするね」


 手や足を圧迫し続けると、血の巡りが悪くなって段々痺れてくることがある。それに近い感覚が、僕の手の平から肘辺りまでを瞬間的に襲った。自分の意思を離れて、右腕がプルプルと震えている。


 「あぁ~やられた…ヤバいまだジンジンする」


 「子供の頃からよくあるイタズラだよ。電気ショック!」


 彼女はまたしてもお得意のしたり顔である。この悪戯っ娘め…。


 「【ショック】っていう魔法でね。身体から電気をバンッ! って出す魔法なんだけど、昔海で溺れた人をこれで助けたことがあるんだ。胸の辺りにバンッてやって。本当はこういうことってあんまり素人がやっちゃいけないんだけどね」


 なるほど。AEDのような使い方か。悪戯が板についてるものだから「悪戯したい時に悪戯できて便利だよ!」みたいな話かと思った。


 「へえ、凄いね。その倒れた人は助かったの?」


 「うん! その時私まだ5歳だったんだけど、黄色使える人が周りに私しかいなくてさ。それで子供の時だったから魔力も全然少なくて、ずーっとやってたらもう疲れちゃって、やってる内に今度は私も倒れちゃって、みたいな感じでほんと大変だったんだー」


 「そっか。でも助かったなら良かったね。命を救ったってことだもんなあ」


 「えへへー。凄いでしょ」


 腰に手を当て、えっへんというポーズで胸を張る。


 そのあどけない仕草の中には、天真爛漫さと共存する柔和な優しさが垣間見えた。


 「あ、ねえねえじゃあさ、あらた君スキル使ってみてよ!」


 彼女は鞄から一冊の本を取り出し、パラパラとめくり出す。


 「えーっと、ショックショック…あったショック。これショクー」


 開いたのは【ショック】についての詳細が書かれたページ。


 「はい! やってみてショクー」


 「お、おう。ちょっと待ってね。えー『【ショック】、属性:黄。手の平等、身体から電気ショックを放つ。強い衝撃を伴うため、やむを得ない場合を除き、人には使わないこと。』…」


 おい、人に使うなってはっきりと書いてあるぞ。何てことしてくれるんだこの小娘は!


 「『使用例 心臓マッサージ。注意、黄色耐性の無い対象に使用してはいけない。周りに人がいない状態で使用すること。対象の種族を確認し、下図の位置に手を当て、魔法を使用する。混血の場合は、』…ほうほう」


 ページ内には、ヒュームを始め、獣人、マーメイド、リザードマンなど、いくつかの種族を例に挙げて上半身の図が書かれており、肩や胸の辺りに赤い印が付いている。


 表紙を見てみると、『医療用回復魔法のススメ』という題名。どうやらこの本は、医療用の魔法が書かれた参考書のようなものらしい。


 【ショック】という魔法について、およそのイメージは掴めた。あとはレコードに書いて実践あるのみである。


 「書けた?」


 「ごめん今から」


 催促が来たので急いで記入する。ページに書かれた概要を一言一句違わず書いていき、同時にイメージする。


 「書けたー?」


 「…よし書いた」


 「いいね、やってみて!」


 「うん、一発で出るか分かんないけど」


 差し出された手を握り、そしてイメージする。


 電撃のイメージ。静電気、豆電球、稲光。


 強さをイメージ。やられた衝撃と同じだけの衝撃。手の平だけをはじくような感覚。


 そして、放つ。


 「【ショック】!」


 瞬間、衝撃が手の平にパチッと走る。


 「ふぅ…」


 「おっ、おおおーー!!! ホントに出た、凄いね」


 「でもこのとおり威力がね」


 初めて使うから、魔力が足りてないから、イメージが弱いから。


 どれが理由かは定かではないが、やはり書いただけで習得とは言えないだろう。練習が必要だ。


 「いやいや、イイものを見せてもらいましたなー。代わりといってはなんですが、私めのスキルもお見せ致しましょう」


 ふっふっふと言いながら、彼女は自分のカバンから錠前を取り出した。


 「こちらにおわしますは何の変哲もない一つの錠前にござる。さあ触って確かめてごらんくださいな」


 錠前をこちらに渡してくる。よもや、また【ショック】でビリッとやってくるんじゃないかと一瞬警戒したが、余計だった。


 人魚をモチーフに作られた、鈍色の金属の錠前。真ん中に鍵穴のついた球体があり、それを囲むようにして、2人の人魚が泳いでいる。外国の城にでもかかっていそうな、オシャレな造形だ。そしてこの錠前は、以前見たことがある。


 「前ぶつかった時に落としてたやつだね」


 「そうだっけ? そうかも? で、空かないよね。そりゃそうだ、鍵が無いんですもの!」


 「う、うん」


 謎のテンションに気後れしながら錠前を返す。


 「ではいきますよ。むむむー…ワン、ツー、はい!」


 彼女が念を込めると、ガチャッという音を立てて錠前が開いた。


 「おお~」


 「…はい、これが私のスキルです。以上です」


 「急にテンション下がったね」


 「だってあらた君が微妙な反応するから…」


 「ごめん、理解が追い付いてなくて。えーっと、鍵を開けるスキルってこと?」


 「そう! 【解錠】っていうスキルなんだ。鍵のかかった部屋とか、ダイヤル式の金庫とかも開けられるよ。でもホテルの部屋みたいな、魔力を感知するような複雑なタイプのやつは無理ー」


 「へぇ~、便利だね。鍵持ち歩かなくていいじゃん」


 僕がそう言うと、彼女は分かりやすく肩をがっくりと落とした。


 「それがそんなことも無いんだ…開けるだけで閉めらんないから…」


 「あぁ~そっか! 開けたら開けっ放しになるのか」 


 「閉めるのも自由だったら良かったんだけどね…うぅ」


 確かに、閉められなければ結局鍵が必要になる。この錠前のように閉めるときに鍵を必要としないタイプのものか、オートロックの部屋の扉などでは使えるといったところか。


 「昔、こっそり村の倉庫に入ってつまみ食いしてね、それでバレてこっぴどく叱られたよ。その時は完全犯罪だと思ったのに~」


 「まさに子供の浅知恵ってやつだね」


 「子供の浅知恵…うん。そうだね」


 僕は茶化すように笑いながら言った。これまでの彼女であれば、同じように笑い返してくれただろう。だが意外にも、彼女は硬直した。


 急ぎ弁明する。


 「あ、いやごめん、別に悪口ってわけじゃなくて! 子供の浅知恵ってなんかこう、良い意味で幼稚で可愛いよな~っていうか」


 「ん…あ! いやいやごめんごめん! また昔のこと思い出しちゃって! 前にそうやって子供の浅知恵~なんて言われたことあるんだ。怒られてからはもう倉庫には入んないようにしてたんだけど、ある時にまた倉庫の鍵が開いてて中がメチャクチャになってて、それを私のせいにされちゃって。それからもずっと、他のところで鍵が開いてたら全部私のせいだってことになって、散々だったんだ」


 「それはひどいね。ごめん、嫌なこと思い出させて」


 「いやいいのいいの! ホントにだいじょぶ! それに悪いことばっかりじゃないんだよ。この錠前とかも、海で宝探ししてる時にたまたま見つけたりしてさ! 他にも友達の家に開かずの扉があってねーーー」


 そんな他愛の無い話をしていると、終わりを告げる鐘が鳴った。


 今日は何も無い、素晴らしい一日だった。


━━━


 出勤3日目。

 昨日はあの後、疲れた様子のレヴィアさんが入ってきて「明日夜に、お二人の歓迎会を開くことになりました」と連絡を受けた。


 なんでもクロッカスさんが「どうせ2人とも予定無いだろうし、ちょうど週末だからもう明日やっちゃおう。ていうかもう明日は絶対飲む。皆で行こう」と横暴な発言をした上、スケジュールに関しても、参加者全員偶然都合がつくとのことで、独断で決めてしまったらしい。


 そして僕もステラさんもスケジュールは空白、歓迎会は決行となった。しかしながら、どうせ2人とも、などと言われたのは心外である。失礼甚だしい。実際予定が無かったのが悔しいところである。


 新人2人は無料とのことなので、怒った腹の虫を治めるためにも、今日の夜出席した暁には、ありがたくタダ飯を喰らうとしよう。


 そしてそれからは先の疑問だった社内制度や福利厚生について聞いた。


 なんと、こちらの世界においても、宇宙で一番ありがたい制度、『有給休暇』が存在するらしい。有給休暇とはその字のとおり、給料を有しながら休暇を取る制度のこと。有給休暇を取ったその日はどれだけ休んでいても給料をいただける。暖かい布団で寝ていても、トイレで用を足していても、全裸で逆立ちしながらコサックダンスを踊ってもだ。


 こんな魔法みたいな制度があるなんて! 何を隠そう僕は休むのが大好きな人間である。使うタイミングが来次第、湯水のごとく使っていこう。


 そんなことを考えた矢先になんと! 早くも使うタイミングが来たようである。今日は歓迎会もあるということなのだが、こんな状況では致し方ない。やむを得ない時は休むしかない。


 僕は今、手足を蔓で縛られ、バッチリ監禁されている。やむを得ないという言葉がこれ以上に当てはまる状況を僕は知らない。


 今朝、いつものように身支度を整えて、眠い目をこすりながらホテル裏口から出たところ、暗がりから飛び出してきた白いフードの男に魔法で眠らされ、気付いた時には、埃の舞う廃倉庫のような場所で、捨てられた瓶やら古びた木箱やら、おおよそゴミと思える物たちと一緒になって横たわっていたのである。


 フードの中身が男だというのは、捕まった時に確認したわけではない。同じフードを被った男2人の会話を、今しがた聞いているからである。


 「ハァ…」


 「うっせえなさっきからハァハァハァハァ!!」


 片方の男は浅い溜息を吐き、それをトリガーにもう片方の男が苛立ちを覚えている。怒号にエコーがかかり、建物内に響き渡る。この目覚まし時計にも劣らない勢いによって、僕は本日2度目の起床を余儀なくされたのだ。


 「だって…」


 「だってもクソもあるか。しょうがねーだろもうやっちまったんだから。ったく、ほんっとに小心者だなお前は! デケェ図体してそんな弱気だから現場でもナメられたんだよ」


 「ごめん…」


 「ったく、大丈夫だ。あいつが来たらすぐに金を貰って北へ逃げる。そこで仕切り直しだ。それまでにそのクズの弱気を何とかしろ」


 「うん…」


 バレないよう薄目を開けて状況を確認する。不幸中の幸い、もはや幸いと呼べるほどのことでもないが、僕の身体は奴らの方を向いている。


 部屋の真ん中には、汚らしいソファに寝転がる白フードの男が、手を後ろに組んで座っている。テーブルの上に足を置き、時折バタバタと足を組み替えるその様子は、分かりやすく退屈そうだ。


 それに反し、もう一人の白フードは部屋の端に体育座りで縮こまり、ひたすらじっとしている。縮こまっていながらも、その巨躯の主張は無視できず、ソファの上で横柄な態度を取っている男の方よりも、明らかな存在感を放っている。


 体格から見て、僕を拉致したのは巨漢の方だろう。


 どうするべきか。ここで起き上がったとしても、2対1で勝ち目は無い。僕の場合、1対1だって勝てる相手がいないのだから当然だ。


 僕が目覚めたのにはまだ気付いていないらしいが、下手に動けば何かちょっかいをかけてくるだろうから、このまま大人しくしている他無い。大人しくしていて命が助かるわけじゃないが、どうしようもない。


 人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、尽くせる人事が無いのが今の状況である。


 こんなことになるなら、もっとマトモに使える魔法を覚えておくべきだった。一瞬でホテルにワープしたり、壁をすり抜けて今すぐ逃げられるような、そんな魔法を。


 簡単な魔法さえマトモに使えない僕が、そんな魔法を使えるわけも無いことは重々理解している。それにも関わらず、なまじ中途半端に魔法が使えるだけに、やり場のない怒りと後悔が心の中で大きくなっていくのが分かる。一切魔法が使えないなら諦めもついただろう。


 待っていれば助けが来るだろうか。


 きっと僕が欠席して不審に思ったレヴィアさんが然るべき機関に通報して対処してくれるに違いない。今に警察の機動隊が大量に乗り込んできてくれるはず。


 警察という機関があるのかは知らない。だが、そう願わずにはいられなかった。


━━━━━━━━━


 「課長、会沢さんがまだ出勤していないのですが、何かご存知ですか」


 「あらま。いや~知らないよ? 普通にお寝坊さんしたとかじゃないの?」


 「それが、ホテルメイドが朝廊下ですれ違ったようでして。裏から出たところは見たと」


 「ふ~ん」


 「どうされますか」


 「まあ…ちょっと様子見かな」


━━━━━━━━━


 冷たい床が、身体から体温を奪っていく。どれくらい時間が経ったのかは分からない。体勢も変えず、バレないよう気を張り続け、今もなお浜に打ち上げられて干からびた魚のように力なく横たわっている。


 何もしない、というのを意識的に続けること案外難しい。体力はじわじわと、しかし確実に消耗してきていた。


 人間が疲れを感じるのは、疲れているその過程ではなく、溜まった疲れを体感し、自覚した時である。僕は身体に重くのしかかるその疲労を、それを認めてはならない、認めると一気に心が崩れてしまう、そんな予感がして無視し続けた。


 広い廃倉庫の中を、目だけを動かし、バレない程度に見回してみるも、状況を打開できそうなものも無ければ、手掛かりになりそうなものは見当たらなかった。そもそも廃倉庫らしきこの建物の中にあるのは、男の座るソファとテーブルに、大きな金属棚、黄色のドラム缶、空き瓶や木箱等々のゴミと、あとは無駄にだだっ広い床だけである。


 こっそり逃げられそうな気配も無い。フードの男2人は油断しているようだが、出入口の扉は反対側の壁にある。


 唯一分かっているのは、この廃倉庫が森の中に位置していそうなことくらいだ。


 壁の上部、床から3mくらいの位置には天窓が付いており、木の陰を縫って光が差し込んできている。死角になっている壁以外の三面にあるどの窓からも、木の陰が見える。更に、壁の外側からはほとんど音が聞こえてこない。


 ホテルの部屋から見た景色を思い出すが、森や林が見えた記憶は無い。もしかすると相当遠くまで連れてこられたのかも。


 嫌な考えばかりが頭をよぎり、不安を増幅させる。時間だけが刻々と過ぎていく。時間が経てば誰かが助けに来るかも、そう考える時期もあったが、しかし今はこの過ぎる時間に意味があるのかさえも、分からなくなっている。


 そんな絶望を抱えた矢先、状況は動き出した。


 奥の扉が開く。残念ながら味方ではないようだ。ス―ツ姿の男が肩掛けの大きなカバンを持ち、リードの部分を両手で大事そうに握って部屋の中に入ってきた。


 「やあ。待たせたね」


 「遅っせえんだよ! クソッ、まあいい。金を寄越せ」


 「まあそう焦るな。ちゃんと連れてきたんだろうな」


 「金が先だ」


 「確認が取れてからだ」


 「…クソッ、そこに転がってる奴だ。弟の魔法で寝てるけどな」


 コツコツという音が段々近づいてくる。目は瞑っているが、目の前にいるのを気配で感じる。


 「魔法をかけたのはいつだ?」


 「朝出たところをさらったから…もう5時間以上は前になるな」


 「そうか」


 スーツの男はそう言ったきり何も言わなくなった。しかし、こちらを睨め付けているような、刺さるような視線は変わらず感じる。たまらず生唾を飲み込む。


 「なあ、人が寝ているかどうか確かめる方法を知っているか?」


 「あ? 知らねーよ。ブッ叩いて起こせばいいだろうが」


 「野蛮だな。いいか? 狸寝入りをしてるやつは唾を飲み込む」


 一瞬の行動が命取り。看破され、思わず身体が反応してしまった。


 「おい、起きろ」


 ゆっくりと目を開ける。遠目からでは分からなかったが、目の前にいる青髪の男には見覚えがあった。今は髪を下ろしているが、こいつは役所のトイレで僕に話しかけてきたオールバックの奴だ。


 「起きたね」


 「アンタ、トイレで会った奴だよな」


 「ご名答。僕はハリス・メントラ。調子はどうだい、新人君」


 「…良いわけないだろ」


 「だよねえ。ハハハ」


 掠れ声に精いっぱいの威勢を載せて言葉を返すと、ハリスは乾いた薄ら笑いを浮かべた。その瞳に光は宿っておらず、憤怒や憎悪、負の感情に満ちている。


 「とりあえず起き上がったらどうだい?」


 奴が僕の足首の蔓に触ると、蔓はぶつぶつと切れていった。きつく縛られていた足が解放され、血が巡っていく感覚がする。


 「ほら、起きな」


 そう言われ、大人しく起き上がる。猛獣を前に静かに後ずさるように、刺激しないよう極めてゆっくりと起き上がった。


 「時間が無い。本題に入ろう。君をここに連れてきたのには理由がある。ただ人質として捕えてきたってわけじゃないのさ。少し頼み事があってね」


 奴は大事そうに持っていた肩掛けカバンを下ろし、中から20㎝程の立方体の黒箱を取り出した。


 六面には不気味な赤い文様が渦を巻いており、奇怪で神妙なオーラを放っている。魔法に対する知見の無い僕でさえも、一目見れば、それが触れてはいけない禁忌であると、瞬時に理解できるほどの異質さであった。


 「君にこれを開けてほしい」


 「開けたくても手が塞がっててできねえけどな」


 「…言葉遊びをしに来たんじゃないよ」


 奴は僕の前に箱を置いた。


 「これは『狼炎の箱』と言ってね。いわゆる異世界の宝物ほうもつというやつだ。宝物がどういうものか新人研修でもう習っただろう?」


 続けざまに話す。


 「狼炎というのは、炎の狼のことだ。とある異世界で、一国を滅ぼすほどの大火事が発生した。火炎は昼夜問わず燃え広がり、火事が収まる頃には、辺り一帯が焦土と化し、かつて国だったそれらは何一つ残っておらず、ただ、その中心に、この箱だけがポツンと置かれていたらしい」


 ここは異世界。これが御伽話でないことはもう理解できる。


 「この箱がどういう物かは分かったね?」


 「そんな物使って、どうするつもりだ」


 「…まあいいか、君はまだ新人だからね。答えてあげよう」


 ハリス・メントラが口にしたのは、ありきたりなものだった。だが、そのありきたりというのは、僕の知ってるゲームや映画での話である。


 「復讐さ。狼炎というのは復讐の動物だからね。この箱を使って、私は第四役所を、いや、他の役所も全て燃やし尽くす。そのために、どうしても君にこの箱を開けてもらわなければならないのさ」


 「…ぼ、僕が開ける理由が分からない」


 「この箱には強固な封印と、物理的な鍵で二重ロックが掛けられている。封印の方は問題ないのだが、鍵の方は第四役所の課長が保管していてね。どうやって盗み出そうかと四苦八苦していたのだが、そこに一つ、風の噂が流れてきたのさ。第三役所に、良いスキルを持った新人さんが1人入ってきたってね」


 奴はその目を見開き、こちらに向ける。


 「それで君を誘拐したってわけ」


 子供の頃、たまたま電気屋のテレビに映っていたニュース番組で、犯罪者の報道の様子を見た。名前や罪状はもう思い出せないが、その犯罪者のハイライトの無い目だけは、何故かハッキリと覚えている。


 奴はその犯罪者と同じ目をしていた。


 「さあ時間が無い。早く開けてくれたまえ」


 見当は付いた。恐らくこの男は、ステラさんを誘拐し、彼女の『解錠』のスキルを使って箱のロックを解こうとしたのだ。


 そしてどういう訳か、同じ新人である僕を間違えて連れてきたのだろう。


 「悪いけど、そんなスキルは持っていない。新人は2人いて、『解錠』を使えるのは俺じゃない方だからな」


 「残念だけど調べは付いてる。第三役所の今回の新人は一人だけ。そして君が攻撃系の魔法を持っていないということも予習済さ」


 そうか。僕の存在はまだあまり公にされていない。情報の入れ違いが発生したということか。こんなに自信満々に話しているというのに、僕とステラさんを取り違えるとはバカな奴め。


 「それに、時間稼ぎをしても無駄だよ。追っ手が来ないよう、細工は流々ってやつさ。さあ早く開けたまえよ」


 「だから俺じゃないんだって言ってるだろ」


 「…分からん奴だな。君、利き腕はどっち?」


 「どっちでもいいだろ」


 「やれやれ」


 奴はスーツの内ポケットから木片を取り出し、こう言い放った。


 「【カーペント】」 


 パキパキと音を立て、木片がみるみる変形していく。少し経つと木片は成形し、ダガーナイフに姿を変えた。


 そして、躊躇無く僕の左腕を突き刺した。


 「あああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」 


 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛痛。


 「左利きだったら悪いね。で、どうだい? 使う気になったかい」


 「ぐううううう!!!!!!」


 倒れる。これまでに感じたことの無い激痛。左腕に刺さった木のナイフは、僕の血を吸い上げ赤黒く変色していく。


 「ありゃりゃ、こりゃダメだ、刺すとこ間違えたな」


 刺さったナイフをこねくり回され、粘液の音がぐちゅぐちゅと鳴る。


 「がああああああああああああああああああっっっ!!!!!!!!!!!!」


 脂汗。涙。やがてナイフが抜かれると、心臓から送られてくる血液が、音を立ててドクドクとあふれ出す。


 奴は後ろを向き、隅に座っている大男を呼びつけた。


 「おい君、白だったよな? 治してやれ」 


 「え…、あ…はい」


 「早くー、このままだと死んじゃうから。ホラ」


 手招きをすると、大男はトボトボと歩いて僕の前で屈んだ。そして、僕の腕に手を当てて傷を閉じる魔法を使った。


 痛みが消えていく。腕の感覚も元に戻った。


 しかし、初めて実感した死の恐怖は消えない。


 痛みによる衝撃と酸欠。死の恐怖だけが脳を支配する。


 「ハァ…ハァ…」


 「開ける気になったかい?」


 答える余裕など無い。


 「あーあーこいつはダメだね。仕方ない、休ませてあげよう。また1時間したら同じことを訊くからね。それまでによーく考えてね」


 横から気性の荒い方のフードが口を挟む。


 「おい! もういいだろ! 金を寄越せ!」


 「いや、まだだ。君はいいが、そっちのデカい方には残ってもらわないと、次は誰がこの子を治すんだい?」


 衣服が吸えないほどの出血をしているらしく、身体の下には血だまりが出来ている。


━━━━━━━━━


 轟音。葉擦れの音を載せて吹きすさぶ強風。窓枠はミシミシという音を立てて揺れている。


 息を吸えども吸えども、身体への酸素供給は滞る。


 チカチカする視界。鉄の匂い。乾き切った口腔。吐き気。


 ステラさんが同じ目に遭わなくて良かった、などと考えられるような強さは、僕には無かった。「どうして彼女ではなく僕が」と、この1時間で幾度となく考えた。


 ゆっくりと起き上がり、胡坐をかく。


 「お、開ける気になったかい?」


 男は屈み、僕の目の前で煽るようにナイフを見せびらかしている。


 「クソ野郎が」


 「お、喋れるくらいには回復したね。で、開ける気にはなったかな?」


 「黙れ」


 「は?」


 さっきまで僕の脳を支配していたその恐怖は、いつしか怒りへと変貌を遂げていた。


 そして一つの答えに辿り着いた。


 一矢報いると。


 不意を突き、相手の鼻っ柱めがけて渾身の頭突きをかました。


 「がぁっ!」


 奴は呻き声を上げ、後ろに尻餅をついた。今の内だ。


 「【ロフレム】ッ!!!」


 釜戸、火事、火傷。傷はあとで治せばいい。


 気炎を上げ、ありったけの力で叫ぶと、手の平で火の粉が暴れ出した。


 皮膚の焼け爛れる感覚。熱い。だが不思議と痛くはない。アドレナリン上等。ごまかし続けろ。


 やがて火の粉は手首を縛る蔓を燃やした。


 奴は怯み、倒れたまま鼻に手を当てている。反撃してくるなんて微塵も考えなかったのだろう。


 「クソッ、何を」


 立ち上がり、馬乗りになって胸元に両の手の平を叩きつける。


 電気、稲妻、失神。イメージし、そして叫ぶ。


 「【ショック】ッ!!!」


 ドンッという爆音と共に、電気ショックを叩きつけた。


 「がああっ!!!」


 手が弾け、肩まで反動が帰ってきて後ろの壁に叩きつけられる。


 奴の方は痺れているのか、もぞもぞと虫のように動いている。


 今の内だ。


 声を上げ立ち上がり、体勢を立て直し、出入口の扉へ。余計なことは考えるな。


 半ばタックルのような形で押し開けると、建物以外はどこを見回しても木、木、木。


 抜けられそうなのは正面にある獣道だけ。向かい風だ。だが迷っている暇は無い。


 草木を分け、落葉落枝を蹴散らし、前へ前へと進む。


 足を前に出せ。止めるな。止まるな。


 目は乾き、粉塵が染みる。遠くには明かりが見える。このまま走り続ければきっと人のいるところに出られる。


 ただ走って、走って、走って、走って、走って、走って。


 そして、転んだ。


 …起き上がろうと膝を立てる。しかし、左足が何かに引っかかって立てない。見ると、トラバサミのような植物が、僕の足に噛みついていた。


 後ろからは奴が近づいてきている。


 どうやらここまでのようだ。精魂尽き果て、疲れた身体はもう動かない。呼吸は浅く、視界が揺れ、耳も遠くなったような感覚で、聞こえるのはバクバクとなる心臓の音だけ。烈風の音すらも聞こえない。


 右肩に耐え難い鈍痛が走る。さっきは気付かなかったが、【ショック】を使った時に肩が外れたのだろう。我ながらよくここまで走ったものだ。


 ハリス・メントラは大声で何かを叫んでいる。およそ僕に対する罵詈雑言やら何やらといったところだろう。もう聞こえねーよバカが。


 奴はナイフを逆手に持ち替えた。突き刺して僕を殺すつもりらしい。


 刃先がじわりじわりと僕の胸に近づいてくる。ごく短い時間のはずなのに、はっきりと鮮明に、その動作が見える。クロノスタシスとでも言うのだったか。どんどん、死がこちらに近づいてくる。


 人事を尽くして天命を待つ。やれるだけのことはやったか? ナイフを奪い取って刺したりでもすれば良かったか。これは手痛いミスだ。だが、あのまま何もしないで死ぬのよりはずっとマシだろう。これでこいつが逮捕でもされてくれれば、万々歳、ゲームでいえばノーマルエンドといったところだ。


 終わりを覚悟し、目を瞑る。


 「――――こちらにいましたか」


 すると、遠くから女性の声がした。

 どうやら、死ぬにはまだ早いらしい。


 後方から眩い光が放たれる。一条の光が僕の頭上を通り、ナイフの柄を奴の右手ごと弾いた。


 紫色の髪、そして広い袖口を風に靡かせ、僕の前に姿を現した。


 「間一髪でしたね。お怪我はありませんか」


 「あ、はい、なんとかゴホッゲホッ」


 「これはいけませんね。身柄を拘束して、手早く退散としましょう。ですがまずは…【透視】」


 レヴィアさんの両眼、紫色の透き通った瞳の中に、白光のリングが浮かび上がる。


 「右肩外れ、左腕損傷、両掌火傷、左足首損傷及び捻挫、その他打撲数ヶ所、出血多量…。足首からですね。すみませんが肩は終わってからで」


 損傷箇所を的確に見抜かれる。屈み、左足を噛む植物を光線で焼き切った後、手を当て回復魔法が施される。痛みと、ついでに疲労までもが瞬く間に引いていき、左足の膝から下だけが完治というあべこべな状態になった。


 しかしこの間、奴とてこの状況を黙って見ているわけではなかった。懐から木片をいくつか出し、叫んでいる。


 「【カーペント】オオォォォォ!!!!!!!!」


 変形し、再びダガーナイフへと姿を変える。


 だが、レヴィアさんはこの狂人を意に介さない。逆上したハリスは、ナイフを振りかぶり、3本同時に投げた。


 「死ねえええええええ!!!」


 大人は未熟な子供の喧嘩を買わないのと同じ。


 意に介さない態度。それは強者であることの証明である。


 「【フィルタレード】」


 レヴィアさんが右手を広げると、手の平に平行に光の壁が出現した。投擲されたナイフは光の壁にぶつかり、シュッという音を立てて蒸発、霧散した。炭の匂いが辺りを漂っている。


 片手間。レヴィアさんは左手で僕の治療をしつつ、右手で虫を払うかのように奴をいなす。 


 僕が固唾を呑んでいる内に治療が終わったようで、残った負傷は右肩と適当な打撲のみとなった。


 「終わりましたよ。立てますか」


 「ハイ、何とか」


 肩をかばいながら立ち上がる。足にも痛みは無い。


 「【カーペント】オオオオオォォォォ!!!!!!!!」


 奴は落ちている大枝を拾い上げ、今度は刃渡り1mほどの剣に変形させた。


 そこへ、もう一人。


 「あぁいたいた! こっちだったかー」


 赤毛の大狸が姿を現した。威厳ある立ち姿は、森に住まう深層の主のようである。


 「おぉ会沢クンお疲れ様! 無事みたいだね」


 「お疲れ様です。ギリギリのところをレヴィアさんに助けていただいて」


 「そうかそうか、ナ~イスレヴィちゃん。いや惚れちゃうねぇ」


 「また奥様に叱られますよ」


 クロッカスさんの丸い目は、狩人のような鋭い眼光で前方のハリスを捉えた。


 「お~あいつか。大分やってんねぇ~、どれ、力比べといこうか」


 クロッカスさんは近くに生えた樹を鷲掴みにし、バキバキと引っこ抜いた。


 そして大木は、その使い手に呼応するように、大斧へと姿を変えた。その全長はクロッカスさんの2m強の身長を、ゆうに超えている。


 僕らの前に立ち、軽々と右手で構え、斧の先をハリス・メントラへ向ける。僕に騎士道や武士としての心得は無いが、クロッカスさんの広い背中は、そんな僕が忠誠を誓いたくなるほどの勇猛さであった。


 「やっぱこれが一番だな、いくぞ~」


 一連の所作を見て、ハリス・メントラの表情が変わった。暗がりでありながらも、奴の顔が蒼白していくのが分かる。


 「…! ちょ、ちょっと待て。赤毛の狸、大木に斧…!? おま、お前、何故…! 8年前に、死んだはず…!?」


 「場所が悪かったね~」


 「う、あ、ああああああああああああ!!?!!?」


 ハリスは錯乱し、こちらに突撃してきた。


 そしてそれと同時に、大斧が上に振りかぶられる。


 「オラ」


 降り下された。接地の瞬間、森中に爆音がこだまする。地面は左右真っ二つに割れ、褶曲して波を打つ。およそ獣道と呼んでいたそこはもう見る影もなく、谷とすら呼べるほどの深い溝が、奴の足元から更に先へと伸びていった。


━━━━━━━━━


 あれだけ吹き荒れていた風は、いつの間にか止んでいた。


 あの後すぐに第四役所の職員がぞろぞろとたくさん来て、溝に滑落したハリス・メントラの捕縛、狼炎の箱の回収を手早く完了させ、現在は奥の廃倉庫や、今しがたできた峡谷の調査などを続けているようだ。


 僕の方はといえば、近くの木に寄りかかり、第四役所の獣人の女性職員に事情聴取を受けている最中である。


 「それで、2人組の細身の方の…恐らく兄の方が、金を持って北へ逃げるとか、そんなこと言ってるのを聞きました。そのくらいです」


 「名前無し、デカい弟の方が白属性…で、細身の兄が金持って北へ逃げるっと。ありがとうございます。最後にもう一点、ハリスは肩掛けのカバンを持っていて、そこから狼炎の箱を取り出したんですね?」


 「は、はい、その通りです」


 見た目は完全な白猫で、琥珀色と空色の猫目オッドアイは、見る物に不思議な魅力を感じさせる。更には、彼女の耳や尻尾がピョコピョコと軽快に動くものだから、気になって目を奪われてしまう。


 「狼炎の箱の以外でカバンに入っていた物は分かります?」


 「たぶんその、報酬分の金でも入ってたんだと思いますが、それ以外は特に。すいません」


 廃倉庫にいるはずの僕を拉致したフード2人の方は、どうやら我々が戦っている間にちゃっかり逃げてしまったらしい。廃倉庫にカバンが無いことから、どうやら奴らが持っていってしまったようである。


 「いえいえ助かりますよ。それにしても本当に災難でしたね」


 「ええ、全くですよ! 肩だってまだ外れたままですし」


 「ですね~。新人さんなんですよね?」


 「まあ、はい。一応そうですね」


 「一応?」


 「あ、いやすいません。何でもないです」


 「はぁ、分かりました。では、お付き合いいただきありがとうございました。何か思い出したことがあったら、こちらまでご連絡ください」


 彼女はメモしていた手帳の裏から、奇抜なデザインの名刺を出して、僕に渡してきた。マナー的には両手を揃えて受け取らなければならないところだが、外れた肩では致し方ない。


 第四役所転生部治安維持課、エスカ・リーティア。縦型の名刺の上部には、彼女のトレードマークともいえるオッドアイ、そして左下には肉球マークがあしらわれているが、名刺を突き出してきた本人の手は、普通に5本指で人間の手と同じ形である。


 「あと、第三役所が嫌になったら、いつでも第四役所の方に移って来ていいですからね! 絶賛職員募集中ですよ~」


 どこの役所も人員不足なのだろう。増して、件のハリス・メントラは第四役所の職員だったという始末だ。第四役所への不信感が募っていく。たまたま奴が異常だっただけであってほしいところなのだが。


 奥からレヴィアさんとクロッカスさんが戻ってきた。調査が終わったらしい。


 「エスカさん、うちの新人を引き抜くのは止めていただけますか」


 「うっ…レヴィアさん、これはどうもお疲れ様です」


 「お疲れ様です」


 「にゃはは…それでは失礼致しますね~…」


 白猫は抜き足差し足で音も無く去っていった。この2人の力関係が分からない。別の役所の人間に恐れられるレヴィアさんとは一体…。


 「いやあ大変だったねえ会沢クン。出勤3日目にして拉致監禁されるとは。今年の新人は大物揃いだホントに。うちはしばらく安泰だな!」


 「その件なんですけど、今日出勤できず、すみませんでした。本日分は有給を使う形で問題ないですか?」


 「は? いやいや何言ってんの。『拉致監禁されてるので今日は休みまーす(笑)』なんて理由通るわけないでしょ。今日は出勤扱いでいいよ」


 「まあ…言われてみれば確かにそうですね。それじゃあ、お言葉に甘えて、ありがとうございます」


 「うん、新人はそれでいい」


 一つの疑問。


 「どうしてここが分かったんですか?」


 「ホテルのマーキング機能ですよ」


 レヴィアさんは腰に挿してあるステッキを抜き取り、地面に突き立てた。そして、手を離すと、ステッキの先に付けられた宝石が、僕の眉間にクリーンヒットした。


 「あ痛ッ」


 「おや失礼。肩を外されていたんでしたね」


 「…何ですか、これ」


 「ホテルからの脱走者を追跡する魔法具ですよ」


 「ああ! 水滴のやつですか!」


 「ええ。ハリス・メントラは逃走の形跡を周到に消しておりまして、第四役所の方でも操作が難航していたのですが、課長が思い立ちまして」


 「朝早くから超真面目に来てくれてる会沢クンが、出勤3日目にして急にすっぽかすのは、ちょっとだけおかしいなと思ってね。少しだけ嫌な予感がして、杖で調べてみたら、何故か森のど真ん中にいるって出たもんだから、これは! と思って急いで来たってワケさ。第四にも恩を売れたし、大成功だったよ今日は~」


 大成功…? 腕を千切られかけ、外れた方は今も痛むというのに? …まあ、散々な目には合ったが、こうして無事に生きているし、終わりよければすべて良しということで、今日の所は腹に収めておくか。


 「会沢さん、肩はまだ痛みますか」


  レヴィアさんが両膝を折り、しゃがみ込んだ。今も仕事中も、戦闘中でさえも、いつでも一挙手一投足が相変わらずのクールビューティーである。


 「はい、まだバッチリ外れてますけど、かばいながらなら何とか歩けそうです」


 そう答えると、突然、レヴィアさんが僕に近づき、そのまま抱きしめてくれた。お花の匂いだろうか、彼女の首筋から良い匂いが漂ってくる。


 これは何だ? 無償の愛? 「本当に心配したんですからね!」みたいな? とにかく柔らかな温もりを感じる。や、柔らかい…。


 心地よさに目を瞑る。そうだ。今日は僕の人生で一番痛い思いをした日なのだ。治りはしたけど、そのまま腕が無くなったり、あまつえさ死を覚悟したレベルの一大事。その渦中にいたのだから、このくらいのご褒美があっても良い。


 ほわほわとした雰囲気が辺りを包み込む。まるで世界に僕と彼女しかいないみたいな、そんないいムード。


 レヴィアさんの身体に、左手を回そう。向こうがこちらを抱きしめているのだ。こちらも抱きしめ返すのが礼儀だろう。絶対にそうだ。だって、ビジネスマナーの本にもたぶん書いてあったし。


 左手を持ち上げる。その時だ。


 レヴィアさんが僕の右肩をガッチリと掴み、体内の骨と骨をゴリゴリとかち合わせた。肩甲骨からの悲鳴が、僕の喉を通って飛び出す。


 「がああっ!!!!」


 「入りました。上げてみてください」


 「ほえ?」


 腕を上げる。問題無く上がった。痛みもスッキリ。ゲームのやり過ぎで重症化していた肩こりまでもれなく治っている。


 どうやら外れた右肩を元に戻してくれたようである。脱臼した肩を一発で入れられるレヴィアさんとは一体…。あとさっき感じてた慈愛はどこへ行った?


 「あら、もうこんな時間ですか」


 「ん? うわ~ホントだ。いや~走ればギリギリ間に合うかな~」


 「ダメですよ。今、会沢さんを走らせたら恐らく死にます」


 二人は腕時計を見ている。知らない間に辺りは夜で、若葉の隙間から月光が降り注ぐ。


 長いこと緊張状態だったのがようやく緩み、うつらうつらと眠気が襲ってくる。


 今日は本当に長い一日だった。


 「何終わった顔してんの会沢クン。これからだよ」


 「は?」


 「レヴィちゃんいくよ!」


 「わっ! 何! ちょっと!」


 クロッカスさんは、僕をラグビーボールのように小脇に抱えると、急に道を走り出した。縦にぐわんぐわん揺れて気持ち悪い。


 「な、な、あだあだあだだああだ、ぢ、ちょ、ち、ちょっと! 下ろしてくださあおえっ!」


 「いやダメダメ! 間に合わなくなるから!」


 「間に合うって何に! 終電ですかあ!?」


 「は!? シュウデン!? 何それ! 違う違う」


 クロッカスさんは笑顔でこう言った。


 「君たち2人の歓迎会でしょ!」




 森を抜け、開けた道に出る。


 遠方の山の上では、純白の雲がとぐろを巻いている。


 平原の遥か向こうには、大きな角の生えた動物が群れを成して歩いている。


 川下からは燐光色の魚が、僕らの行くのとは逆方向へ上っていく。


 鳥は見えない。しかし、そのガラスの身体が時折、星の光を反射して点滅する。


 ここは異世界、僕の住む世界だ。



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