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ここは第三役所、異世界転生課  作者: 冬野春巻
第一章
3/7

遅刻ダッシュと隠されし天ぷら

 早朝というには微妙に遅く、昼というには微妙に早い時間である。

 昨日は空腹と不安に脅され、結局眠りについたのは床に就いてから2時間も後になってしまった。


 こちらの世界に来てから、早3日目。今日は異世界転生課へ赴く日である。何か事態が好転することを期待して、外に出る決心を固めながらトイレに行き、不安をかき消すように歯を磨き、楽しいことだけを考えながら顔を洗った。


 そう、今日はいよいよ外に出られるのだ。別にこれまで外出を禁止されてたわけではないが。


 窓から見える街並みは、写真ですらも見たことの無いような異邦の景観で、興味をそそる物がそこかしこにある。

 役所への移動は、先日使ったようにあの鳥かごを使って行けるみたいだが、こちらに来てからほとんど籠りっ切りだし、実を言うとあの鳥かごは不気味で乗りたくないというのが本心だ。


 出かける準備をしよう。レコードは持っていった方が良いだろうか。この重さだからあまり持ち歩きたくないのだが、役所に行けば必要になるだろうし仕方がないか。一日中手持ちは、筋力ステータスが低い僕には無理があるので、せめてカバンか袋かを借りよう。


 ちびメイドさんに話しかける。


 「すいません、いいですか」


 「はい、いかがいたしましたか」


 「レコードを持ち運べるようにカバンか袋みたいなのをいただきたいんですけど、そういうのあります?」


 「はい、かしこまりました。すぐにお持ち致しますので、少々お待ちくださいませ」


 「あ、あとサンドイッチもお願いします。鞄もそれと一緒で大丈夫なんで」


 「かしこまりました。では、15分ほどしたらお持ち致します」


 ついでにサンドイッチ。何せ、昨日から何も食べていないのでお腹はペコペコである。だが、朝は手軽にサンドイッチで済ませる。


 理由は簡単だ。それはこの後に、外出が控えているからである。せっかくのお出かけなのだから、朝は適当に食べてしまって、出先でお昼ご飯をじっくりといただくことにしようという魂胆だ。


 お金の心配はいらない。レコードには、ありがたいことにこのような一文が書かれているのだ。


 ・転生者は外出先で食事を摂る際、異世界転生課管轄の料理店において、自身が転生者であることを証明することで、無料で食事できる。


 これこそ『転生者証明書』の使いどころである。タダより高いものはない、なんてのは迷信だ。無料が一番良いに決まっている。店員に証明する方法についてだが、それの準備ももちろん済んでいる。


 僕はレコードの経歴のページを開き、張り付けられている転生者証明書をペリペリと剥がした。カードの裏側を読むと、『本証明書は、自身が転生者であることを証明するために使用できます。』としっかり記載されている。

 この世界にいる間はこのカードを振りかざして歩いてやる。


 ほど無くして、コンコンとノックの音。扉を開くと、見知った顔のメイドさんがいたが、姉妹の何番目かは定かではない。


 メイドさんは、部屋へ入ってトレイを置いた後、ポケットから小さく折りたたんだトートバッグを出し、広げてサイズを見せてくれた。


 「こちらのサイズでよろしかったでしょうか。よろしければ他サイズも用意できますが」


 「そうですね………ちょっとこれ、入るか試してみてもいいですか?」


 「はい、かしこまりました」


 メイドさんはそう言うと、白く細い指でトードバッグの口を広げ、前に出してくれた。


 「どうぞ」


 「あ、はい。ありがとうございます。それじゃあ失礼しまして…」


 僕はレコードを手に取り、メイドさんの正面に来て袋に入れると、バッグは分厚いレコードがぴったりと入る大きさだった。


 「お、なかなかピッタリ入りそう」


 メイドさんの受け入れるままな雰囲気にあてられ、レコードをバッグに入れた後、その握った手を自然と離してしまった。するとレコードは袋の中にストンと下に落ちる。

 そして、袋にレコード分の荷重がかかることにより、それを持っているメイドさんは前につんのめる形になった。


 「あ」


 ぽふん、という感触と共に、メイドさんが僕の身体に向かって倒れてきた。女子に体重を預けられたのは、悲しいことに小学校の運動会の騎馬戦以来である。

 

 柔らかな感触。鼓動が早くなっていき、10年以来の衝撃に脳が揺さぶられ、頭が真っ白になる。実際はほんの2、3秒の出来事なのだろうが、時間が引き延ばされ、数十秒はそうしているような感覚。

 僕が石膏像のようにひたすら固まっていると、メイドさんは僕の胸元から離れ、頭を下げた。


 「すみません、大変失礼いたしました」


 「い、あ、いえ………大丈夫です」


 僕が強張った声でそう言うと、メイドさんは顔を上げた。その顔は無表情であり、一見同様していないようにも見えるが、目を逸らすように顔の少し横を見ると、その耳はほのかに赤くなっている。


 「こちらを」


 メイドさんはこちらに向き直して、トートバッグを差し出してきた。返事をして受け取ると、メイドさんはそそくさと入口の方へ向かっていく。

 それを呼び止める。


 「あの」


 「ひゃぃっ!」


 聞いたことのない声だ。こちらに背を向けているので、どんな表情をしているのか見られなかったのが残念である。


 「食器を、30分後に………」


 何秒かの静寂の後、メイドさんはゆっくりと肩を上下させ、こちらに身体を向き直して応えた。


 「かしこまりました」


 メイドさんは深々と一礼をし、部屋を出ていった。心なしかいつもより足早だった気がする。


 乙女の恥じらいは何とも良いものだと、座ってサンドイッチを頬張りながら思う今は、もう間もなく午後に差し掛かろうとしている。


━━━━━━━━━


 窓から下を凝視。目を細め、行き交う人々の営みを見守る。


 何故こんなことをするのか。理由は簡単だ。あらかじめ馴らしておかないと、初日のようにファンタジー症候群で倒れてしまうかもしれないからである。

 それにこの前は気付かなかったが、よく見れば普通の人間らしき人もちらほらと見受けられる。僕と同じように転生者だろうか。


 「よし」


 立ち上がり、食器トレイを靴箱の上に置いた。


 「行くか」


 トートバッグを肩に掛ける。日帰りの予定だが、気分はさながら長旅に出る前のようだ。

 扉を開け、首だけを外に出してみる。相も変わらず長い廊下は、端から端を見渡しても、不自然な程に誰もいない。


 「………でもこっちには誰もいないんだよな」


 貸し切り状態。まあ貸し切りだからといって特に何をするでもない。昔、銭湯で湯舟が貸し切りだと思って泳いでいたら、端の水風呂に入っていたオッサンにクソ大声で怒鳴られたトラウマがある。以降は何をするにもオドオドとしてしまう。子供の人格形成に傷をつけたあのオッサン許すまじ。


 さて、部屋から出たはいいものの、外に出るにはどうしたらいいだろうか。高層の建物のようだが、確か居候していた親戚のマンションが同じくらいの高さだったはず。部屋番号の1323から考えて、恐らく13階だろう。

 13階はさすがにエレベーターを使いたい。階段で降りるのは出かける前に足腰が砕けてしまいそうだ。


 エレベーターらしきものを探して少し歩く。すると、自ずと以前乗った鳥かごの前を通ることになる。

 

 「お」


 その近くの壁には、「1」と、「11」~「30」の数字が書かれたボタン、そして分かりやすく『転生課』と書かれたボタンがあり、その下にはつらつらと使い方の説明が書かれていた。


 「えー、『行き先のボタンを押していただき、扉を閉めることで発車いたします』………はあ」


 言われた通り、恐る恐る1のボタンを押すと、ボタンが光った。


 「結局これに乗んなきゃいけないのか」


 しぶしぶ中へ入り、扉を閉めてみる。ソファに座っていると、動き出した感覚があった。ただ以前乗った時とは違い、落ちている時のようなフワフワした感覚がする。ちゃんと下に降りてくれているのだろう。

 少し経つと、今度は重力がかかるような感覚がした。

 扉が自動で開くと、そこはホテルのエントランスらしき場所だった。1階に到着したようである。


 特筆するところはなく普通のエントランスで、空いたスペースに黒革のソファとテーブル、正面には玄関があり、ガラス越しに、箒を持ったメイドさんが1人外で掃除をしているのが見える。カウンターには別のメイドさんが2人いて、片方は通話中のようだ。

 もはや言うまでもないことだが、全員同じ顔である。


 玄関へと向かう。メイドさんは特にそのまま出ていいのだろうか。一応許可取っといた方がいいのだろうか。いや、ここで注意してこないということは、そのまま出ていいということだろうか。

 ………などと考えていると、玄関横にある扉が開き、奥から人が飛び出してきた。


 「「わっ!」」


 僕たちはほとんど同時に声を上げ、そして正面衝突し、二人とも床に倒れ込んだ。


 「はぁ…はぁ……あ痛た………。はっ!」


 薄い桃色のショートカットの女の子が慌てた様子で起き上がった。頭には渚を思わせる珊瑚の髪飾り、シャツの上にカーディガンっぽい上着とタイトスカートを着ているが、急いでいるせいか、寝癖が付いていたりなど、要所要所がだらしのない身なりになっている。


 「すいません!」


 「ああいや、そちらこそ大じょ」


 「あぁもお急いでるのにー!」


 彼女は膝をついて慌てて荷物を拾い、自分の鞄に雑に入れていく。急いでるようで、僕の話は聞いていない。


 ペンケース、手帳、布のポーチ、ケース付きハブラシ、液体の入った小瓶、錠前、紐のついたカード……、『異世界転生課 ステラ・アイレード』……。おっと、あまり他人の個人情報を見るべきじゃないか。ていうか何で錠前持ってるのこの人。


 近くに落ちた荷物を適当に拾い、彼女に渡した。


 「あの、これ」


 「ああ! すいません! ありがとうござーます! それじゃぁこれで!」


 彼女はパパっと荷物を受け取って鞄に入れた後、すぐに外へ出て彼方へとダッシュしていき、姿がどんどん小さくなっていく。

 かと思えば、またこちらに走ってくる姿が見える。


 「はあ……はあ………、んっ…はぁ………………あ、あの………、はあ…………」


 前かがみになり、肩で息をしている。ボタンを掛け違えているのか、そのシャツの胸元のわずかな隙間から、谷間が見えている。決して小さくないその峡谷を、僕は一瞬凝視してから目を逸らした。あくまで、一瞬。その表現のとおり、瞬きと瞬きの間のわずかな時間のみだ。


 話せる程度に息を整えた彼女は、一つの提案をしてきた。


 「あの、くれぐれも、このことは、秘密で、お願いします」


 「秘密? わ、分かりました」


 言われるがままに承諾し、秘密の約束を交わした。交わしたというよりは、一方的に押し付けられただけだが。


 「じゃあほんとにこれで!」


 そう言うと彼女はまた、僕の返事を聞く前に彼方へと去っていった。


 「………どの世界も大変そうだな、やっぱり」


 彼女の急ぐ様子、掛け違えたボタン、社員証のようなカードから、何となくの検討はついている。彼女は恐らく大寝坊をかまして、会社に遅刻ダッシュしていくところだったのだろう。


 目まぐるしい日々で忘れかけているが、死んでいなければ僕もこれから社会人になる予定だった。

 僕は小学生時分から寝坊の常習犯なのだが、今もなお、その寝坊癖は完治し切っていない。社会人になってから寝坊しないかとヒヤヒヤしていたところの今の事件は、あまり他人事とは思えない一件である。


 「やれやれ・・・」


 トートバッグを肩にかけなおし、ガラスの扉を開けて外へ出る。


 すると、扉を通り抜ける瞬間、雨粒が首筋に落ちてくるような、ヒヤリとする感覚があった。しかし、雨が降っている様子も無ければ、首筋を探っても水気が付いているような感じはしない。加湿器でもあるのかと思ったが、そんな物も見当たらない。


 扉を出てすぐに立ち止まってしまったので、不可解に思ったメイドさんが話しかけてきた。


 「どうかされましたか」


 「あ、いえ、特に。何でも………」


 「左様でございますか。それでは、行ってらっしゃいませ」


 お辞儀をするメイドさんに、僕は先ほど考えた質問を投げかけた。


 「これって普通に外出ていいんですよね?」


 「ええ、問題ありません」


 「門限とかってあります?」


 「いえ。こちらの玄関は24時間、常に開いておりますし、従業員も常にカウンターにおりますのでいつ帰ってきていただいても問題ございません」


 「そうですか。あと、異世界転生課って歩きだとどう行けばいいですかね………」


 「異世界転生課でしたら、門を出て右を道なりに進んでいただくか、正面の道を行けば大通りに突き当りますので、そこを右に曲がると正面に大きな建物がございます。そちらが異世界転生課になります」


 「分かりました! ありがとうございます!」


 調子に乗ってビシッと敬礼をしてみると、メイドさんはまたお辞儀をしてくれた。いつもの僕ならちょっとだけ後悔した。


 さて、行くか。

 中庭を抜ける。正門を出るとそこは、今まで見下ろすことしかできなかった、魔法の世界が広がっていた。普通の人間に見える人から、羽やら角やら手あたり次第生え散らかしたような人まで、多種多様な人々がこの広い街の中、歩道と車道の境目が曖昧な道の上を、好きなように歩いている。


 ホテルの門を出てすぐの三叉路。異世界転生課へ行くには、右を道なりに行くか、正面を出て右へ行くかの二者択一。

 だが、ここは左の道を選ぶ。質問しておいてなんだが、今の目的は異世界転生課ではない。昼ごはんだ。料理だ。メシだ。酒池肉林だ。


 左向け左。立ち並ぶ建物の数々は、どうやらほとんどが料理店のようである。ステーキ、捌かれた魚、クロスしたナイフとフォークなど、料理店であると一目で分かるデザインの看板が掲げられている。

 そしてその傍らには『異世界転生課登録』の文字。楽しみの昼食は、これが掲げられている店で食べればいいようだ。

 ホテル近くにこの料理店の数々、なるほど。この付近に店を出している人らは「ホテルから出てメシをいただきにきた客を、逆にこっちが根こそぎいただいてやろう」という魂胆なのだろう。


 ここでふらっと店に入ってしまえば相手の思うツボだ。しっかり情報を仕入れ、吟味してからここだという店を探し出してやる。


 何を食べようか。歩きながら考えるとしよう。

 こっちの世界に来てから食べたものといえば、ホテルでいただいたステーキとサラダとサンドイッチだけだ。そろそろ魚介系の料理をがっつりと食べたい。


 ………瞬間、僕のシナプスに電流が走り、ただ一つの強い欲望が脳を満たしていった。

 『天ぷらが食べたい』、『海老天を前歯でちぎり、サクサクの衣を奥歯で砕きたい』。まさに天からの啓示を受けたかのように、抗いがたい食の衝動に押し寄せられ、今日の目標は天ぷらまたはそれに準ずる何かとした。

 さて、少なくともホテルのメニュー表には無かったはずだが、こちらの世界にもあるだろうか。


 通りを歩いて、一軒一軒、ひたすら見ていく。ありがたいことにほとんどの店がメニューの看板を外に出しているようで、店に入っていちいち確認するという面倒はかからずに済みそうだ。


 この機会に、座右の銘にも『情報は足で探す』を追加するとしよう。

 天ぷら目指して、レッツゴー!


━━━━━━━━━


 この世界に、天ぷらというものは存在しない。


 三叉路の左を探した後、角を右へ曲がると、結局大通りに突き当たった。大通りには大きな噴水と木々が立ち並び、その木陰のベンチに座って、お弁当を食べたり、足や羽を休めている人たちがいた。


 立ち止まらずそのまま横切って、今は大通りを挟んでホテルの反対側にいる。正面には枯れ木もにぎわう山々がそびえ立ち、後ろを向くと、山に対抗するかのようにホテルが鎮座している。


 遠くの方から鐘の音が聞こえた。これで鐘が鳴ったのはもう2度目になる。

 それぞれ店の中も、徐々に空いてきているようだ。一度目の鐘が鳴った時は、僕と同じようにメシを求めて出歩く人がそこら中にいたし、順番待ちの列ができているほどの店もあったのだが、探している内に僕だけが時間を浪費、人も減っていき、二度目の鐘が鳴った今はすっかり閑散としている。


 空いてきたのはありがたいのだが、このままだらだら探し続けると、店が閉まって天ぷらどころか何の食事にもありつけなくなってしまう。


 「ハァ…ハァ……」


 足は棒、息を上げ辿り着いたのは、唯一残ったのは目の前にあるこの店のみ。


 店の前にメニュー看板が出されていないが、逆に、その点に一縷の望みをかける。

 『不思議食堂 ~いちか~』へと、足を踏み入れる。名前からして怪しげな雰囲気だが、どんな不思議料理が出てくるのだろうか。あまり期待できそうにないが、天ぷらが無くてももうこの店で済ませてしまおう。


 老朽化してボロボロの木の扉を、ガラガラと開けて中へ入る。

 他に客は誰もいない。というか店員の姿も見えない。


 「すいませーん」


 「あいらっしゃい! どうぞ!」


 声をかけてみると、初老の男性店員がカウンターの奥から顔を出した。営業はしているようだ。


 店内はうなぎの寝床のように細長いつくりで、照明は仄暗く、建物と建物の間に位置しているため、通気性が悪いのかもわもわとした空気が漂っている。意を決して奥のカウンターの端まで歩き、椅子の背もたれにトートバッグを引っ掛け、そのまま腰かけた。

 その一連の動作の最中、視界の端に何か重要なことが映った気がした。

 

 右後方を振り返り、壁に貼られたメニューの張り紙を改めて見る。

 その中の一つに書かれていたのは『てんぷら』の文字だった。


 「あっ!!」


 「どうした兄ちゃん、決まったかい?」


 初老店員が顔を出す。


 「あの! 『てんぷら』ってどういう料理ですか?」


 「ああてんぷらかい! 目の付け所がいいねえ兄ちゃん! ちょっと待ってな!」


 質問には答えてくれなかったが、初老店員の独断で『てんぷら』を注文したことになった。

 本当にあの天ぷらが出てくるのだろうか。


 名前だけで判断するのは尚早だ。『やきとり』という名前なのに豚肉が使われていたりすることだってあるし、今川焼だの大判焼だの回転焼だのと、異なる名前なのに全部同じ食べ物というパターンだってある。


 『てんぷら』が天ぷらであるのは地球の常識というだけで、マカロンのような真逆の食べ物が出てくることだって有り得るだろう。名前など大して当てにならない。


 だが、やれることはやった。厨房からはかすかに料理をする音が聞こえる。人事を尽くして天命を待つとはこのことだろう。


 老舗の店に似つかわしく、水はセルフサービスだ。テーブルの上に重ねられたコップを取り、ピッチャーから水を注ぐ。ピッチャーは並々と水が入れられていて重く、手元が狂うとこぼしてしまいそうだ。

 その矢先、店の中が急に暗くなり、早々に水をこぼしてしまった。暗くなったのは、照明が消えたわけではない。入口から差していた光が遮られたためである。


 入口には大男が立っていた。2メートルを優に超える巨躯で、顔がふさふさの赤毛で覆われているが、たれ目の周りの毛だけ黒く、頭の上には丸い耳が生えている。

 地球の生き物に例えると狸だ。


 大狸男がカウンターにどかっと座ると、初老店員がまた顔を覗かせ、楽し気に話し始めた。


 「あ? ああクロちゃんかい! 遅かったねどうしたの!」 


 「いや~、長引いちゃってなかなかお昼抜けられなかったんですよー」


 「そうかい。大変だなあ管理職」


 「ええほんとに。天ぷら定食お願いしまーす」


 「おっけー天ぷらね! そこの兄ちゃんの天ぷらが先だからちょっと待ってな!」


 初老店員がそう言うと、大狸男がその丸い目でこっちを見てきた。目が合って気まずい沈黙が若干流れた後、互いに軽く会釈をして、その場は終了した。


 直後、お盆を持って出てくる。


 「あいよー天ぷら! 熱いうちに食いな!」


 目の前のトレイの上には、奇跡のような光景が作られていた。


 深緑色、卯の花色、薄紅色の食材たちが、黄金色こがねいろの千鳥格子に包まれ、その上を不敵に光る焦茶色のタレが抑揚となり、皿の上の料理を、一つの作品として成り立たせている。


 「おお………!」


 間違いない。

 お盆の上のフォークを手に取り、手を合わせる。


 「いただきますっ」


 衣を刺し、口に運ぶ。ザクザクとした食感の中に閉じ込められた柔らかな食材からは魚介の香ばしい風味が溢れ出し、まろやかなタレの中に感じるほのかな甘味が口の中に広がった。


 それは紛れもない天ぷらだった。


 「………」


 言葉が出ない。苦節鐘の音2回、ようやく見つけ出した天ぷらは、脳がとろけるほどの旨さだった。隠されし秘宝がこんなところにあったなんて。


 定食という名を冠するとおり、お盆の上には天ぷらだけではなく、なんとアツアツの白米も載っている。煌びやかな光沢を映す白米は、今まで見たあらゆるお米の中でも、類を見ないほど美味しそうに見えた。

 無言でがつがつと頬張る。天ぷら、白米、天ぷら、白米、交互に口に運び、代わるがわる喉の奥へ押し込んでいくと、お腹が幸せで満たされていくのが分かった。

 フォークの先で最後の米粒を取る頃には、これ以上ない程の充足感で満たされていた。


 「ふう~………」


 大きく息を吐く。久しぶりに良い方の溜息が出た気がする。


 「すいません、お会計」


 「あいよー会計! ちょっと待ってな!」


 待つ間にバッグからレコードを取り出し、転生者証明書を取り出す。ステータスのページを開き、張り付けてあったカードを………


 「ん………?」


 カードが無い。

 バサバサとページをめくってみるも、カードは3000ページのどこにも挟まっていなかった。


 『無銭飲食』。脳内に始めに浮かんできたのはその言葉である。

 血の気が引いていき、身体中から冷や汗が湧き出ているようで、暑いのに寒気がする。

 どこにやった? 歩いてる途中で落とした? ずっとトートバッグの中に入ってたいたはずなのに? ポケット? いやポケットは無いはず、まさか誰かに盗られた? 犯罪を犯すとどうなるんだっけ?


 嫌な考えが脳をよぎる。どうするか。とりあえず事情を話して、外に探しに行かせてもらうのはどうだろうか。


 そう思い、レコードをしまおうとバッグを持つ。

 すると、何も入っていないはずの鞄から、かすかな重量を感じた。


 「お?」


 もしかして。

 広げてみると、そこには転生者証明書が入っていた。


 「………っふ、はあぁ~」


 何故先にバッグを探さなかったのだろう。先に見ていればこんなに慌てふためくことも無かったのに。ふためき損である。。

 だが、まあいい。あったのだから。悪夢から覚めた朝のようだ。決して得をしたわけではないのだが、下げてから上げられると、なんとなく得をしたように感じてしまう。やれやれ。


 「はいお待たせ! お会計、300エルクね!」


 初老店員が値段を告げる。『エルク』…、メニューの下にも300と書いてあったが、『エルク』というのがこの世界の通貨なのだろうか。日本円に換算してどのくらいだろうか。少なくとも1円=1エルクというわけではなさそうだ。あの極上の天ぷら定食を300円とするのはあまりにも安すぎる。


 「すいません、カードでお願いします」


 「あいよー、カードね! ………カード?」


 「はい、カード」


 初老店員は訝しげな顔をして応えた。


 「…そのカード、うちじゃ使えねーけど」


 「えっ、だって表に『異世界転生課登録』って…!」


 ………待てよ? 確認したか? 冷静に自分の行動を省みる。

 他の店は確かに確認しながら歩いていた。だが、探している内におろそかになって、ここではあんまり確認していなかったかもしれない。いや、確認しなかったからこんなことになっているのだ。

 悪いのは完全に僕の方だ。


 「いやー、うちは転生課登録してないよ! もしかしてお金持ってないか?」


 「あ! そ、そうですよね………すいません、確認してませんでした。お金も、持ってない…です、すいません」


 自分の中に、再び浮き上がる『無銭飲食』の四文字。こういう時どうすればいいんだっけ。皿洗いか? 一人暮らしの経験で家事はちょっとだけできる。料理は無理だが、皿洗いでも掃除でも、何かやらせてもらって償うしかない。


 「だよなー! ありゃどうしたもんかね、困ったねこりゃ!」


 「本当にすいません! 皿洗いでもなんでも」


 言いかけたところ、横から割って入る声がした。


 「俺が払おうか」


 その方向を見る。声の主、それはいつの間にか横にいた大狸男だった。近くに寄られるととてつもない威圧感だ。


 「えークロちゃん! それは悪いよさすがに」


 「いやまあ、ダンさんにはいつもお世話になってるから! 転生者のことだし」


 「俺は金払ってもらう代わりにメシ出してるだけだよ! いやいやいいよ! いい、いい!」


 「え~、そお? でもお金無いんでしょ君」


 大狸男は丸い目で僕の方を見る。その目は優しくも鋭い威厳を放ち、気圧されてしまう。


 「は、はい。でも見ず知らずの人にお金を出してもらうのは……」


 「そうだそうだ! うん、そうしよう! 今日はいいや! ぼーっとしてた俺も悪いしな! 転生者のお客さんなんてしばらく来てなかったからよ! 転生者の人は着てる服で分かるんだけどな、そういう時はちゃんとお金持ってるか確認すんだよな! でも今回はあんま見てなかったわ! 悪いな兄ちゃん!」


 のべつ幕無しに喋りまくる初老店員。

 ………正直ありがたい話である。このまま捕まれば何をされるか分からない。下手をすれば禁固刑や絞首刑も0%じゃない状況で、無銭飲食という犯罪を見逃してくれるというのだ。


 大狸男が初老店員に向かって、文句を言うように話しかける。


 「も~、だから転生課登録しなよっていっつも言ってるじゃない!」


 「いーやしねえ。『メシを食わす代わりにその場で金を貰う』のが俺のモットーだからな」


 「でも今払ってもらってないじゃん」


 許してもらえると油断していたところ、自責の念に襲われ、身が引き締まる。


 「細けえこたあいいんだよ! ほらクロちゃんお会計だろ! 300エルクな!」


 「…はいはい、3枚ね」


 大狸男は手を広げ、銀貨を3枚机の上に置いた。


 「ごちそうさま、君も行くよ」


 「あ、はい」


 大狸男が店を出て行った。僕はトートバッグを肩にかけなおし、最後に初老店員にお礼を言う。


 「すみません、ご迷惑をおかけしました。本当にありがとうございました」


 「おう! 気にすんなよ! でも次からは気を付けんだぞー!」


 深く礼をし、店を出る。外では先に大狸男が待っていた。


 「ダンさんが優しい人で良かったね~」


 「はい、すみません、本当にありがとうございました」


 「いやいや、俺は何もしてないしね。あと何日くらいいるの?」


 「えっと、今は3日目なんですけど、何日いるかはまだ・・・」


 「そっか。ダンさんも言ってたけど次からは気を付けなよ~、『異世界転生課登録』って書いてあるのちゃんと確認してね。あと犯罪はしないこと! いいね?」


 「はい、ありがとうございました」


 「じゃあね~」


 大男は歩き出し、少し行ったところで右に曲がっていった。

 僕は逃げるように反対側へ、早足で歩いた。


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