ここは第三役所、異世界転生課
"馬鹿は風邪を引かない" というのは迷信である。
理由は単純明快。「僕のような馬鹿でも、頻繁に風邪を引くから」だ。
風邪を引いている時、身体は鉛のように重くなり、脳天をトンカチで叩かれるような頭痛がガンガンと響き、思考を阻害するフワフワした感覚が、荒波のように押し寄せてくる。
そしてそういう時は大抵、得体の知れない、赤黒の巨大な何かに追われる悪夢を見て、全身に脂汗を滲ませながら最悪の気分で起きるのが通例である。
しかし、今浸っているこの感覚は、風邪のそれとは明らかに異なるものだった。
頭痛は無く、眠っていながらも汗をかいていないことが分かる。
誰に追われることもない心地いい夢の中で、過去に感じた喜怒哀楽や心の震えが、当時と同じ感覚で思い出される。これが明晰夢というやつだろうか。
これが夢なのであれば、残念なことに、そろそろ起きて支度をしなきゃいけない頃だろう。
仕事をしたいという高尚な気持ちがあるわけではない。だが、初っ端から遅刻をしては以後40年のサラリーマン人生に悪い影響が出ないとも言えない。
死ぬ思いをしてようやくもらえた内定だ。専門学校にいた頃のようなだらしない生活を、いつまでも続けているわけにはいかないのである。
快い夢心地を捨てるのはもったいないが、仕方ない。
そう考え、目を覚ました。
眩い光を受け、開き切った瞳孔が、じわじわと小さくなっていく。
視界は徐々に開けていくが、それと同時にとてつもない違和感が僕を襲った。
円筒状の部屋の中で、僕は灰色のイスに腰かけていた。
「はえ?」
ほとんど何も無い、真っ白な部屋。
対面にはイスがもう一脚と、長いテーブルが置いてあり、それはまるで面接の会場のようだった。反射的に、思わず手に汗を握る。
見慣れない景色とイスの冷たさは、寝起きの感覚をスッキリと吹き飛ばしてくれたものの、動転した思考を鎮めてくれることは無かった。
何から何までさっぱり分からない。
ここはどこだ? なぜこんなところにいる? 今日は何の日だっけ? やっぱり企業の面接に来ていたんだっけ? なんて会社だったっけ? 社長の名前と企業理念は何だったっけ? 持っていたはずのカバンは? 書類は? 今は何時だ?
そうだ、スマホだ。
ズボン右前のポケットから、いつものようにスマートフォンを取り出そうとする。
しかし、無かった。無かったのはスマートフォンではなく、ポケットそのものである。
ポケットがあるはずの辺りで手を滑らせるけれど、何度やっても指先が入口に引っかかることはなく、自分の太ももを撫でるばかりである。
そこでようやく、自分の奇妙な格好に気が付いた。ボタンもポケットも何も付いていない、一筋の皺すら付いていない真っ白な服は、白装束という言葉がお似合いの不穏な装いであった。
パニックを感じながらも思考を巡らせていると、入り口の扉が開いた。
今扉がある部分は、さっきまで何も無いただの壁だった気がするのだが、そんな怪奇現象ごときに脳のメモリーを割く余裕は当然無い。
それよりも中に入ってきた人の方が、遥かに重要である。
肩の下辺りまで艶やかに伸びる紫色の髪、慎ましやかに膨らんだ胸、黒いタイツに包まれた長い脚。扉から入ってきたのは女性だった。理知的でクールな印象を持つその女性は、黒を基調としたローブのような服と帽子に身を包み、、広い袖口から伸びるその細い腕には、一冊の黒いノートが抱えられている。
とにかく事情を聞きたい。聞きたいことは山ほどある。しかしながら、何から聞けばいいのか迷ってしまい、積み上がっていくだけで口から出てはくれなかった。
言いあぐねていると、何かを察してくれたのか、向こうの方から都合よく話しかけてきてくれた。
「気が付かれましたか」
「は、はい。すみません、ご迷惑をおかけいたしました」
「いえいえ、迷惑とはとんでもございません」
とりあえずの謝罪。"何かあればとりあえず謝れ"と、ビジネスマナーの本に書いてあった。
しかしながら、この現状を鑑みると、謝罪する必要は大アリである。
目が覚めるとイスに座っていて、服も着替えさせられていた、そんな今の状況からみれば一目瞭然だ。
恐らく、僕は誰かに何らかの形で助けられたのだ。何かの拍子に意識を失った僕は、安全な場所へ運ばれ、治療を施された折に服を着替えさせられた、といったところだろう。それならベッドかソファにでも寝かせてくれよと思うが。
彼女はノートを机の上に置き、目の前のイスに座り、こう尋ねてきた。
「会沢新さんですね。ご自身が今どのような状況に置かれているかはお分かりですか」
「いや、それがさっぱりで。この服も知らない間に着替えさせてくれたみたいですけど、ここってどこですか? さすがに都内ですよね?」
そう聞くと、彼女は極めて冷静にこう答えた。
「こちらは少々特殊な場所となっております。落ち着いて質問にお答えください。まず、ご自身が死なれたことは覚えていますか?」
「………は?」
意味が分からない。
追い打ちをかけてくるように、彼女は言った。
「特に覚えていないということで、よろしいですね?」
答えられない。代わりに脳内が目まぐるしく回転する。
死んだならどうして意識がある? ただの思考実験か何かで本当は死んでない? クールな顔に似合わないお茶目な悪ふざけ? 幻覚? よくある夢落ち?
いつの間にか拳を強く握っていたようで、伸びた爪が手の平を強く突き刺していた。手を開くと血の滲んだ爪痕が4つ付いており、じわじわと痛んでいる。
「一から説明させていただきます。まず、あなたは元の世界『地球』において、不幸にも交通事故により死亡いたしました」
「は………えっ、い、いやちょっと! ちょっと待ってください! さっきから何ですか!? 悪ふざけなら止めてください。とりあえず持ってたカバンとかスマホとか返してください」
「落ち着いてください」
「せめて物を返すのが先ですって!」
「申し訳ありませんが、カバンやスマートフォンなどは地球の方で所持していた物になりますので、こちらの世界にはございません」
手応えの無い反応に、思わず立ち上がる。
「待ってくださいって! 分からないことだらけですよ! じゃああなたの言うとおり僕が死んでるって言うなら、どうして僕は今」
言いかけたところで、彼女は僕の顔の前に、手を広げて突き出してきた。繊細でありながら力強いその手に僕は面を食らい、言葉に詰まる。
今、自分が何をされているのかは分からない。
ただ、先ほどまでの興奮が不思議と、嘘のようにスッと冷めていき、凪の海のように心が落ち着いていく。脚に入っていた余計な力も徐々に抜けていき、そのまま尻餅をつくようにすとんとイスに座った。
「落ち着きましたね。私の言葉が理解できますか」
「はい………」
反論する気は起きなかった。冷静に説明を聞く。
「会沢さん、あなたは元居た世界『地球』で、不慮の事故により命を落としてしまいました。死因は交通事故によるものです」
僕は死んだ。なるほど。
………しかし本当に死んだのだろうか。あなたは死にましたと突然告げられ、それを何も抵抗することなく受け入れる人間は、そうそういるものではないだろう。
「通常、死亡した人間は、『地球』で言えば天国や地獄などの然るべき場所に送還されます。ですが、ここに一つの例外があります。それは『転生者』の存在です」
『テンセイシャ』………「転生者」?
天国、地獄、煉獄エトセトラ。死後の世界については、一度だけ夜に布団の中で想いを馳せたことがある。その時は、途方もないスケールによって自分がいかに矮小な存在であるかを思い知らされ、強烈な不安で眼が冴えて結局一睡もできなかった。
そしてそれ以降は考えないようにしていたし、今でもよく分かっていない。転生………ということは、輪廻転生でもしたということなのか?
「転生者は、世界で死亡した方の中から、条件を満たした特定の人間が選択されます。条件についてはあまり詳しくお話しできませんが、あなたはそれらの条件を満たし、転生者に選ばれました」
「条件を満たして、転生者に選ばれた………と。条件というのは何ですか」
「条件を一つ挙げるならば、死因が関係しています。各世界によって様々ですが、地球の場合ですと、会沢さんのようにトラックによる轢殺されたり、あるいは通り魔から刺殺されたり、といったパターンが多いです。何故かは私にも分かりませんが」
「はあ」
生返事が出てしまう。言っている意味は、正直2,3割ほどしか理解できていない。
「転生者に選ばれた方は、元いた世界とは違う、『異世界』へ転生していただき、そこで新たな生活を築いていただくことになります」
今度は枕詞がくっ付いて『異世界転生』ときた。ファンタジーな単語の羅列に、現実感がみるみる削がれていく。真剣に聞くのが馬鹿らしくなってきた。
「以上が大まかな話になります。ここまでよろしいでしょうか」
「いいえ。全然良くないです」
「ですよね。何か質問はございますか」
ついにきた。待ちに待った念願の質問タイムだ。何から聞くべきだろうか。不自然に冷静な頭で考える。
自分は本当に死んだのか? ………この質問はあまり意味が無いだろう。胡蝶の夢とよく言うように、自分の今いるここが真実なのか幻なのか、それを正しく確かめる術は無い。
それに、仮にはっきりと答えを提示されたとしても、あまり納得できるような気がしない。
考えても分からないことをいつまでも考えるのは、時間の無駄だ。分からないまま悩んでいても「どうして早く聞かなかったんだ!」と上司に怒られるだけであると、前に読んだ新聞のビジネスコラムに書いてあった。
今大事なのはこれからの処遇である。何故なら彼女はさっき聞き捨てならないことを言ったのだ。
話によれば、僕はこれから異世界転生させられる。僕にとってみれば、今いるここが異世界で既に意味不明だというのに。
今質問すべきはこの辺りだろう。
「さっき異世界転生と仰っておりましたが、それは、もう、今すぐ行かなきゃいけないということですか? 地球に戻ったりは出来ないんですか?」
「いえ、今すぐではありません」
取り急ぎ今すぐ、というわけではないらしい。
「あなたにはこれから一週間、どの異世界へ行くかを決める、猶予の時間が与えられます。こちらはどの異世界にでも行けるというわけではなく、出された選択肢の中から、行きたい異世界を選んでいただく形になります」
その言葉を聞き、心の中でホッと胸をなでおろす。どういう環境で過ごすのかは分からないが、7日の猶予が与えられるという話は、明らかな朗報である。この摩訶不思議な状況の中で、分かりやすいプラス要素だ。
「ですが、地球に戻ることは叶いません」
明らかな悲報である。分かりやすいマイナス要素だ。これから「良い話と悪い話どっちから聞きたい?」と問われた時には、悪い話から先に聞くようにしよう。
「転生先は、その人の適性によってある程度決められますが、会沢さんは地球に対する適性がありませんので、出された選択肢の中からお選びください」
地球に対する適性が無い。これに関しては然程驚く点でも無いだろう。前々からなんとなく生きづらいなーなどと思うこともあった。
「他にご質問はございますか」
「あのー、僕のカバンとかスマホとかは結局どこに行ったんですか」
特に気になるのはスマホの所在だ。現代人の生活必需品だから当然である。
「先ほども申しましたが、それらは地球の物品ですので、基本的にはこちらに届いておりません。地球の、あるべき場所に置かれたままになります。無粋ですが、詳細に申し上げるならば、轢かれた際に破損されたのではないかと存じます」
スマホ含め、地球の物は一切無い。つまり今僕は持たざる者、お天道様もびっくりの無一文ということ?
「他にはございますか」
「えーっと………」
何も持っていないし、地球にも戻れない。どこか知らない場所に連れていかれる。
それらの現実を前に、続く言葉が出てこない。
「すみません。やっぱりちょっと考えがまとまらなくて………すみません」
「いえ。それでしたら、先にこちらを」
彼女は先ほど置いた机の上の黒いノートを、僕に差し出した。
「これは?」
「これは『レコードブック』、通称『レコード』と呼ばれる物です。こちらは、異世界転生における説明書のようなものでして、転生者一人一人に専用の物が用意されます。そちらの冊子があなたのレコードです。そちらはお持ちいただいて結構ですので、情報を整理しながらお読みください」
なるほど、説明書があるのは大変ありがたい。僕はゲームの説明書が好きで日夜読み倒していた男だ。最近はそもそも説明書が付属されているソフトが少なくなって残念なところである。
まあでも、もう関係無いか。
「分かりました」
「レコードの使用には登録が必要になります。すぐ完了しますので、表紙の上に手を広げて、置いてください」
言われたとおり右手を広げ、表紙の上にポンと置く。
「つっ…」
その瞬間、人差し指から電流が流れたようなピリッとした衝撃が走り、思わず手を離す。静電気かと思ったが、どうやらそうではないらしい。
冊子は青白い光を放ち、まばたきの後、表紙にはローマ字で正確に「Arata Aizawa」と浮かび上がった。
それだけではない。
ページがみるみる増えていく。10ページ、100ページ、1000ページ。増える、増える、増える、増える、増える。最終的に本は、辞書ほどの厚さになり、ひとしきり光り終わった今は、ブレーカーが落ちたように静かになった。
「っはあ………はぁ………」
あまりの異様な光景に息を忘れていた。
そして意外にも、息を忘れていたのは僕だけではなく、彼女もそうだったらしい。クールで作り物のようだったその表情が軽く乱れている。
「失礼、申し訳ございません。もう一度こちらにレコードを貸していただけますか」
「は、はい、分かりました」
そう言われ、本をこちらから遠ざけるように渡した。これは明らかに危険な代物だ。またいつ光り出すか分からないし、もしかすると口を開けて一人でに噛みついてくるかもしれない。そう思って、なるべく素早く差し出し、素早く手を引っ込めた。
彼女は1ページ目からゆっくりとめくっていく。僕は少しの間その所作を見ていたが、十ページ程めくったところで、人差し指を下あごに指して考え込んでしまった。
「………大丈夫ですか?」
「ああ、いえ。失礼、ありがとうございます。確認いたしました」
「あの、すいません、今の光は一体………」
「今のは、あなたの情報がレコードに登録されたことによる発光です。中を開いていただくと分かりますが、あなたの経歴やステータス、その他個人情報等が記載されております」
左親指で本を開くと、表紙の裏には目次が記載されている。更にめくっていくと、その1ページ1ページに、横書きで文字が所狭しと並べられている。
大きいページにびっしりと書かれた文字は、なかなか読むのが大変そうだ。そしてこれが辞書分の厚さ、3000ページほどあるとすれば文章量も相当なものだろう。何かの会員登録の時に出てくる、読みもしない利用規約のそれと同じである。多少読み飛ばしてもいいだろうか。
「それでは、本日は以上になります。それでは、今日から7日間宿泊していただく場所までご案内いたします」
「は、はい。よろしくお願いします」
彼女が立ち上がったのを見て、慌てて立ち上がる。イスを机の中に入れ、レコードを胸に抱える。クセで忘れ物が無いか周囲を確認するが、何も持っていないのだから忘れようが無かった。
いや、待て。一つだけ忘れている。極めて重要な質問を、一つだけ。
「すみません」
「はい、なんでしょうか」
彼女は真っ直ぐな紫色の瞳でこちらを見る。
「お名前を、お聞きしてもよろしいですか」
「ああ失礼、申し遅れました」
彼女は居住まいを正し、凛とした表情で応えた。
「私、第三役所、異世界転生課、レヴィア・クリストラと申します」