事の始末
腕の中で眠るティアナの細い身体を、ジークはそっとシーツの上へ横たえた。兵舎のベッドは簡素で、屋敷のものとは比べ物にならない。自分が寝る分には野宿用の寝袋でも全く問題ないが、これではティアナが安眠できるかわからない。だが、捕らえられていたときの引きつった表情は消え、彼女はいま穏やかに目を閉じている。長いまつ毛が少し上を向いていることさえ、可愛らしく感じた。
こうして、彼女に布団をかけてやるのは何度めだろう。思えば、力を使った後のティアナを何度もこの腕で抱きとめてきた。彼女の安心しきった顔は、ジークの心をその度に安らぎで満たしてきた。今ならもう、その理由がはっきりとわかる。
改めて見るとやはり、彼女は所々にすり傷を作っていた。あのとき、馬車が急停止したタイミングで無理やり飛び出したらしい。彼女はなんとしても逃げ出そうとしていたのだ。これくらいの傷はきっと明日にでも消えているのだろうが、ジークは改めてはらわたが煮え繰り返る思いがした。
叶うことならいつまでもその寝顔を見つめていたい。だが、やることがある。
そっと、栗色の前髪を整えてやると傍らの明かりを絞って、ジークは控えていたカイリへ目を向けた。
「いつもすまない、カイリ。彼女を頼む」
頼もしい副官はいつものように無表情で頷く。ジークと同様昨晩から睡眠は取っていないはずだが、屈強な彼は疲れの色ひとつ見せない。何物にも動じないカイリが控えていることが、ジークの長年の支えでもあった。瞳に厳しい光をたたえて、副官は部屋から出る騎士団長を見送った。
兵舎の正面で愛馬と共に待っていたもう一人のかけがえのない友人、ユリウスを従えジークは明け方近い町へと再び馬を走らせた。
「ね、ジーク」
スールの街でも特にいかがわしい店や宿の並ぶ汚らしい界隈につくと、彼らは馬を降りた。明け方のまだ眠った通りを足早に進む。こちらの副官はお喋りをしたいようだ。ユリウスの明るさは三人の間の要だ。彼がいなければおそらく少年だったジークは誰かに気を許すことなどなかったろう。
「ね。どうしてティアナちゃんが危ないってわかったの?」
ユリウスはあくびを噛み殺して聞く。ジークは胸元を指さした。
「魔石が、彼女がくれた護り石が教えてくれたんだ」
「へえ?」
「彼女は石に祈りを込めたと言っていた。だから力が呼応したのかもしれない」
そんなことってある?とユリウスはあまり納得いかない様子だ。
「それだけで、ティアナちゃんの危機ってわかるもの?」
「わかる。実際間違ってなかっただろ?」
確かに、ジークが駆けつけなければ、ティアナは拉致され何処かに連れて行かれていた。
「まぁ、そうだけどさ。不思議だよね。ティアナちゃんが特別なのはわかるけど」
「お前だってわかるようになる。そんな相手がいればだが」
ユリウスは片眉を上げて幼馴染を見た。
「なにそれ。僕はいま惚気られてるのかな?」
「どうとでも」
ジークはかすかに笑った。
目的の空き家を見つけると、ユリウスはジークに目配せをした。二人の表情は一変し厳しいものになる。ひっそりと締まった戸口を叩くと、待ちかねたように扉が開いた。
「遅かったじゃないか!これじゃ額面通りは払えな」
いそいそと顔を覗かせ小さな声でまくしたてる男の口をがばりと掴み、中へと押し込むようにして小屋の中へ踏み入る。冷徹そのものの様子で、ジークはオズワルドの顎を掴み、壁へと押しつけた。
「待たせたようで、すまなかった」
押し殺した声で言うと、見開いた目を白黒させもがくオズワルドの首へ短剣を当てる。煌めく刃が痩せた喉元へぴたりと当てられた。
「彼女を、どうするつもりだった?」
「ひ。う、し、しら、な」
「人間の言葉を話せクズ。なぜ彼女を狙った?」
容赦のない言葉にオズワルドは一瞬傷ついた表情をした。だがそれはすぐに消え、下卑た笑みに変わる。
「そりゃもちろん、あの娘が特別だからですよ。魔術庁から人が来るくらいだ。私を同席させないなんて、よっぽどなにかあるんだろうって思いますよね普通」
「盗み聞きしたのか」
ジークは眉を上げた。オズワルドはなおも言い募る。
「当然でしょう?管理人なんだから当然の権利だ。癒しの力を持つ人間だとわかって、ぜんぶ納得しましたよ。あの子供になにをしてたかとか、兵舎の薬代が大幅に減ったこととかね」
彼は今や鼻高々だ。
「しかもあの女は娼館から助け出されたっていう。だから、誰かに売ってやるのが一番かなって思いました」
「お前、なに言ってるかわかってるのか?なにが一番だと言うんだ」
「そりゃもちろん、一番貴方が傷つくってことですよ。酒場で出会った男が是非買い取りたいって言うからね。手配したのに」
失敗してしまった、とオズワルドは不貞腐れたようにそっぽを向く。全く悪びれない彼に、ジークはユリウスと顔を見合わせた。その隙にオズワルドは自分の懐から小さな剣を取り出し、ジークに向かって突きたてようとした。だが簡単にいなされてしまい、からからと乾いた音をたて剣は床に転がった。嵌め込んである魔石が鈍い光を放つ。
「それ、騎士団の魔剣じゃないか。何考えてるんだ。素人が扱えるモノじゃないだろ?まさか、盗ったのか?」
「わ、わたしは素人なんかじゃない!騎士団に入るはずだったんだ!試験だって通った」
オズワルドは激昂して転がった魔剣に四つん這いになって手を伸ばす。だがその腕は虚しく宙を掴んだ。
「お前の身の上なんてこれっぽっちも興味はない。その取り引き相手とやらはどこにいる?」
腕を強く掴まれて顔をしかめながらも、恥辱で耳を真っ赤にしながらオズワルドは叫んだ。
「そ、その!人を見下した態度が気に入らないんだ!」
「傲慢さだけでできている人間に言われたくないな」
口を歪めて窓の向こうを曖昧に指差したオズワルドは、
「今頃商品が届かないのを不審に思ってる筈だよ。早く楽しみたくてたまらなかったんじゃないのか?特別な力を持つむすめ」
みなまで言わせず、ジークは彼を床に押しつけその顔を殴りつけた。鈍い音が狭い部屋に響く。
「お前が騎士団に入るなど未来永劫ありえない」
「うるさいうるさい!!あんたに何がわかる!?」
オズワルドは顔を引きつらせ、ジークとユリウスを睨みつけた。
「兄たちはみんな騎士団で立派に勤めを終えたんだ。私だけが管理人なんておかしい!そっちが間違ってるんだ!」
「お前に適性がなかっただけだ。人をモノ扱いするような人物が魔剣を持つのにふさわしいとでも思っているのか?」
ジークは冷たい表情で吐き捨てた。
「二度と騎士団の前に現れるな。次、その顔を見たら殺す」
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窓から差し込む眩しい光が、ティアナの瞼を容赦なく照らす。ゆっくりと目を開けると、見覚えのある部屋だ。
(ここ……。ルルと一緒に過ごしたお部屋。兵舎だわ。私、どうやって……)
ぼんやりした頭で何度か瞬きをする。途端に、昨夜の光景の断片が頭のなかではじけた。彼女は真っ赤になって硬いベッドから身を起こそうとした。そして、片手を握られていることに気づく。傍らの椅子に腰掛けたまま俯いているジークが目に入った。外套を外し、黒の上下姿で足を組んでいる。
「ジー、クさ」
呼び掛けようとして彼女は急に口を噤む。どうやら彼は眠っているらしい。時おりこくんと頭が揺れるたび、黒髪がさらりと頬にかかる。薄い唇がかすかに開いているようだ。無防備な姿に、ティアナは思わずじっと見入ってしまう。
(ジーク様の寝顔。初めて見た……。きれい。長い睫毛も、すっごく綺麗。でも、ちょっとだけあどけなくて、かわいい……かも)
目の下あたりは疲れのせいか少し影がある。やがて、ぴくりと目蓋が開き、灰墨の瞳がかちりと彼女をとらえた。
「あ」
「起きたのか。気分はどうだ?」
穏やかに微笑まれ、ティアナはあたふたと身を起こす。
「あっ。はい。とても、とてもよく眠れました!わたしはもう大丈夫ですから、どうぞジークさまが寝てください」
きっと彼はすごく疲れているはずだ。昨晩からずっと大変なことばかり起きていたのだ。そこで、ティアナの脳にまた昨夜の出来事がさあっとよみがえった。互いの愛の告白を思い出してかっと耳が熱くなる。
「あ、あの、どうぞ!今退きますから!」
ドレスの裾を引っ掴んでベッドから降りようとする。だがジークは繋いでいる指に力を込めて彼女を押しとどめた。ぎしり、と音を立て彼が座台に膝をかける。
「ジークさま……?」
彼は、ティアナを見つめたまま隣へ横たわる。肩肘をついて、なんと添い寝しているような形になってしまった。そして極めつけに、繋いでいた指をそっと掲げ口付けを落としてみせた。ティアナは頭がぐるぐる回りそうになる。
「じじ、ジークさまっ、あの!あの!わたし、起きます!起きますからっ」
「片時も離れないと言ったはずだ」
中音に拗ねたような響きをのせて、ジークは彼女を見上げた。
「こ、こういう意味、じゃなくて!ここ、兵舎です!お隣は執務室ですよ?」
「では、兵舎でなければいいのか?」
ジークはくすくすと悪戯っぽく笑った。
「ちっ……ち、ち、ちが…違います!!」
ティアナは真っ赤にのぼせた顔で涙目になりながら首を振る。「冗談だ」と頭を撫でてジークはベッドの端に座り直した。ティアナはホッとして、彼の隣に腰を下ろした。すでに太陽は天辺に近く、陽光は爽やかな風とともに兵舎に降り注ぐ。
「ジーク様、あの、アレンさんは……?アレンさんは大丈夫でしょうか」
「ああ。昨晩倒れているのを見つけたときには肝を冷やしたが、軽い脳震盪ですんだ。今は屋敷に医者を呼んで休ませている」
「ああ……よかった……!ほんとうに」
ほっと胸を撫で下ろし涙ぐむティアナをしばらく愛しそうに見つめていたジークは、不意に彼女の名を呼んだ。
「ティアナ」
その真面目な響きに、ティアナも同じように真剣な表情になる。
「はい。ジーク様」
「俺と、王都へいってくれないか?」
王都。騎士団の本拠地であり、魔術庁のある土地。
「王都…。ジーク様は、王都から遠征に来てらっしゃるのですよね」
「そうだ。思いの外長い滞在になったが、あそこは俺の第二の故郷と言ってもいい」
彼は、ティアナの手をぎゅっと握る。
「明け方、オズワルドのところへ行ってきたんだ」
「は、い」
ティアナはびくりとする。彼がなぜあんなことをしたのか、どうなったか聞くのが怖かった。
「あいつはお前をどこかの奴隷商人に売るつもりで拉致したんだ。魔術庁の調査官がきた時に話を盗み聞きしたそうだ。俺への恨みという恐ろしく自分勝手な理由で、騎士団の名誉を傷つけ、そして無関係のお前を巻き込んだ」
俺のせいでお前を危険に晒した。口惜しそうなジークを見ながら、ティアナはオズワルドの神経質な姿を思い出していた。
(たしかに、あの人の目はいつもいつもジーク様を追いかけていた。暗い色をした瞳で。けれど、人に頼んであんなことをするなんて)
「あの、オズワルドさん。ど、どうなったのですか……?」
「人身売買斡旋の容疑で官吏に突き出した。騎士団内で処罰したかったがそれは難しそうだ。俺としては納得はいっていない。許されるなら何度でも、あの顔と心臓に剣を突き立ててやる」
ジークは低い声で呟いた。冗談とも、本気ともとれる口調だが、瞳はひどく冷たい。ティアナは、彼の知らない一面を覗いた気がした。彼はティアナを見ずに続ける。
「この件で、癒しの力を持つ人間がこの国に現れたことは魔術庁以外にも確実に伝わるだろう」
「……わたしが力を使ったせいですね」
項垂れる彼女の肩を優しく抱き寄せ、ジークは首を振る。
「お前がそのことで苦しむ必要はない。だが、この世にはその力を畏れ、忌み嫌うものもいる。喉から手が出るほど欲しがるものも当然多い」
二人は、黙って外を見つめた。陽光が眩しくて、ティアナは窓から視線を逸らした。
「魔術庁にはお前のように力を持っているものがたくさんいる。そこでは出身などは全く意味を持たない。だから、もし、お前が望めばそこで暮らすこともできる」
だがそれは、一生の隷属にも近い。自分の意思とは無関係に力を調べられ、武器として使われる可能性もある。騎士団長であるジークでも魔術庁のことは深く知らなかった。
「わたしは自分を知るためにも、故郷の手がかりを得るためにも、魔術庁にいくつもりでした。それは変わっていません。でも」
ティアナは声を震わせた。
「でも、ジーク様のおそばにいたい」
目頭が熱くなるのを隠すように彼女は俯いた。
「わがままでっ……申し訳ありません」
魔術庁に行けば、誰の迷惑にもならない。そして役に立てる。けれどもジークと離れると思うと、彼女は胸が引き裂かれる思いだった。
「ティアナ。俺も同じだ」
ジークの真剣な声が囁く。
「同じ気持ちだ。もちろん魔術庁は間違いなくお前を保護するだろう。だが安らげる場所かは未知数だ。なにより、俺はお前とひとときも離れたくないんだ」
二度と、お前を誰かに連れて行かせたりしない。
彼女を抱く腕に力を込め、ジークは決意をにじませた。ティアナは彼の胸にそっと、頬を預ける。
「俺に考えがある」
そういうと、彼は悪戯っぽく瞳を煌めかせた。




