苺のタルト
「葡萄酒は?」
「も、もう結構です。ありがとうございます……」
「ほとんど飲んでいないじゃないか。苦手か?」
「はい……。あの、得意ではない、です」
まるで、屋敷に初めて来た頃に戻ったような固い空気がジークの私室に詰まっている。ティアナがかちこちに緊張しているせいだ。数日ぶりの館での食事、彼女はこの前の兵舎での話を告げるタイミングを測っていて、食事中も上の空だった。あの日、ユリウスとカイリには、魔術庁の調査官のことをジークに黙っていてくれるよう頼んでいた。
「まぁ、魔術庁の公式訪問だからすぐにバレちゃうと思うけどね。君たち、なるべく早く話し合ったほうがいいと思うよ……その、色んなことをね」とユリウスはティアナを励ますように頷いた。
(ジーク様から、出て行ってくれと言われるのはとても悲しいもの。だからせめて、私から言いたい。でも、でも……やっぱり苦しいな。本当はおそばにいたい。でも)
色々な気持ちが渦巻いて、しゃちほこばっているティアナにちらりと視線を投げてから、ジークは階下へ繋がるベルを鳴らした。しばらくして、アレンがトレイを掲げながら現れる。
「失礼いたします。デザートをお持ちしました」
「ありがとう、アレン」
(あれ、今日はデザートはいらないと、ご用意していないのに)
ティアナは不思議に思った。今日、アレンと二人で準備したメニューには入っていなかったはず。顔をあげると、アレンがにこにこと微笑んでいる。彼が銀製の見事な彫りの入ったカバーを開けると、苺をたっぷりと使った大きなタルトが載っていた。つやつやとした真っ赤な苺が敷き詰められ、雪のような粉糖が飾られていた。苺はティアナの大好物で、小さな頃から目がない。
「こちらはティアナ嬢に内緒で、ジーク様が用意されたものです」
「え……!そ、そうだったのですか?」
「あの記憶の中で、お前が苺を口いっぱい頬張って笑っているのを見たんだ。だから、好物なのかと……ちがったか?」
ジークは、窺うようにティアナを見る。宝石のような苺に釘付けになっている彼女は、ほんのり上気した頬を綻ばせていた。さっきまでの心配ごとがさぁっと流れてゆく。
「だ、大好きです…!こんなに、可愛らしい、美味しそうな、いちご」
誘われるようにトレイから一切れサーバーに載せられるタルト。ティアナが身を乗り出してしまったそのとき、テーブルクロスからナイフが滑り落ちた。落ちたものに触れるのはマナー違反と知りつつ、ティアナはあっと小さく叫び手を伸ばす。孤児院では小さな子がカトラリーを落とすことなど毎日のようにあったし、それを拾って回り世話を焼くのもティアナの日常だったからだ。
だが、ジークの手も同じように伸び、すんでのところでナイフを掴む。屈んで手を重ねたまま、二人はしばし動かない。ティアナの頬がみるみる赤く染まってゆく。重なった手が急に熱を持った。
「も、もうしわけ……っ!つい……」
「おやおや、これは大変。替えをすぐにお持ちしますね」
「いや、落ちてないんだからいい。俺が使う」
「とんでもございません。ここは森の野営場ではないのですよ。少々お待ちを」
側から見れば手を握り合っているような二人を見やって、アレンはいそいそと部屋を出ていく。
「あ、の…。すみません、そそっかしくて…」
「いや、気にするな」
見つめ合ったままの二人だったが、逃げるように目を逸らしたのはティアナだった。ジークの視線に胸が淡く疼くのを無理やり押さえ込んで、手をゆっくりと離す。
そんな彼女に小さくため息をついて、騎士団長は椅子へ深く座り直した。
「食べないと、クリームが溶けてしまうぞ」
「は、はい!いただきます」
とても、とっても美味しいですと少しずつ口に入れていく。再び彼女は恍惚とした表情になった。
「そういえば、もうすぐ目録の仕事が終わるとアレンから聞いた。思いの外早かったな。上出来じゃないか」
「あ、ありがとうございます……アレンさんがたくさん手伝ってくれましたから」
ジークは咳払いして、今日の本題に入った。
「それで、お前のこの先のことだが……」
「あ、あの!」
彼女は小さく頭を下げ、膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。食べかけていたクリームの甘味が途端に口の中から消えたが、構わず続ける。
「あの、わたし、わたし……。このお屋敷を出ます。今まで、本当にお世話になりありがとうございました」
「え?」
ジークは虚をつかれたような顔になった。ティアナの、思いもよらない言葉に目を見開く。
ティアナは言い訳するように早口で喋りだした。
「私の、この先のことについてですよね。本当にお世話になりっぱなしでご迷惑をおかけしたのは分かっています!街で長期滞在できる宿を探していますので、お願いします。あと二、三日だけでも置いて頂けませんか?」
「な、にを、そんな突然に」
普段は冷美ともいえるほど冷静なジークが目に見えて狼狽えている。だが、ティアナは彼の顔を見ないようにしているのでそれには気づかない。
「あの、先日魔術庁の方が兵舎に訪ねて来られたんです。調査官の方にいろいろ質問を受けました。それで、魔術庁からまた連絡がくるまでこの街で待っていないといけなくて……」
「だからその間だけでも」と顔を上げたティアナははっと口を閉じた。ジークが見たこともない寂しげな表情をしていたのだ。
「魔術庁の訪問のことは報告を受けている。定期的なものだと聞いていたので、あまり気に留めていなかったが。そうか、お前のことを調べに来たんだな」
「も、申し訳ありません。あの、私から直接お話ししたかったので、ユリウスさんたちにお願いしたんです……」
彼女の声がどんどん小さくなる。ジークはしばらく黙っていたがやがてテーブルに片肘を突き、壁の方を見ながら「調査官はなんと?」と尋ねた。ティアナが面会の内容を正直に伝えると、騎士団長はわかった、と呟く。
「それで、お前は魔術庁に協力するつもりなんだな」
「わたし、私……。今までは人を治療するのが、皆さんが喜んでくれるのが嬉しかったんです。でも、そのせいで攫われたり、炎のお爺さんの最後を見たりして、なんだか気持ちがぐちゃぐちゃになったりしました。だから、もうすこし自分の力の使い方を考えなくちゃいけないのかなって。それに、私の出身地の手がかりがわかるかもしれないから……」
自分のことが知りたい。でも、ジークのそばにいたい。そんな気持ちのあいだで彼女は揺れていた。胸が締め付けられるのを、小さく息をして逃す。
「どうした?」
「い、いえっ!なんでも…」
「苦しそうだ。具合が悪いのか?」
整った顔がふいに近づく。彼女は慌てて首を振った。大丈夫ですなんでもありません!と後ずさりする。だが、彼はティアナの腕をぐいっと掴んだ。
「あれから、父の部屋で会ったときから、お前は沈みこんでいる。この館にいるのが辛いのか?だから、出て行こうとするのか」
最後は独り言のようになっていく。彼の瞳が揺れた。
「ち、ちがいます。ジークさまが気になさるようなことは何一つありません!それにあれはわたしが望んだことです」
一番お辛いのはジークさまのはずなのに。あの夜を思い出して、また自分を責めそうになる彼女をジークの声が穏やかにさえぎる。
「俺は、もっと、『気にしたい』んだがな」
彼は苦笑しつつ、ティアナの頬に指を伸ばした。俯いている彼女はそれに気づかない。ためらいがちな武骨な指は、白い肌に触れることなく宙をつかみ、あきらめるように戻っていく。
「お前がここを出て行くことを望むなら、異論はない。……引き止めることは」
ジークの瞳が一瞬燃え上がる。彼はティアナの肩に手を回そうとした。
「ティアナ、俺は……」
そこへ階下から、来客を知らせるチャイムが大きく響いた。二人は思わず身体を離す。慌ただしい声が会話の後、すぐにアレンがやってきて、兵舎からの伝言を伝えた。
「兵舎に、魔獣を市中で見かけたと報告があったようです。このまま迎えの馬車にお乗りくださいと」
「市中で?」
彼は舌打ちをして立ち上がる。
「ティアナ、すまない」
「はい。お気をつけていってらっしゃいませ」
彼女は深く頭を下げ、黒い上衣を羽織り出てゆく彼を祈りを込めて見送った。