魔術庁からの訪い1
「ティアナちゃーん」
「ティアナちゃんてば!」
目の前でひらひらと手のひらが揺れる。ティアナははっとして顔を上げた。ユリウスが気遣わしげに彼女を覗き込んでいる。
「あっ……すみません!今、食後のお茶をお持ちしますから。カイリさんも、少しお待ちください」
盆を抱えたまま突っ立っていたティアナは慌てて頭を下げる。そのまま食堂の厨房までぱたぱたと戻っていく。
「あっ。ちょっと!……ダメだ。僕たちお茶はもう二杯も飲んでるのに……。ねえカイリ。彼女、本当に大丈夫かな。ずっと上の空だよ」
ユリウスは金髪をさらりとかきあげ、眉を下げた。カイリは武骨な手でカップを包むようにして口へ運ぶ。
「何かあったことは間違いないが、やはり教えてはくれないな」
ユリウスとカイリは人の少なくなった兵舎の食堂でため息をついた。
「やっぱりアレかな。ジークとちゃんと仲直りできてないのかな」
「どうだろうか。ジークは、彼女の役に立ちたいという思いがわからない男ではないし、魔獣のこと以外で自分のわがままを通すようなわからず屋というわけではない」
「まぁそうだけどさ。ひとりの女の子に、いや、ひとりの人間にあれだけ心を砕くなんて、今までなかったじゃないか」
カイリはふふ、と微笑んだ。少し嬉しそうにも見える。
「そうだな。とても珍しい」
ユリウスは唇を尖らせた。いつでもこの男はどしんと構えているので、やきもきするのは自分ばかりだ。
「笑ってる場合じゃないよ。カイリ。僕はもどかしくてしょうがないんだから。あの二人にはさっさとくっついて……あれ」
厨房の奥へ向かったティアナがなかなか帰ってこない。ユリウスは首を伸ばして廊下の様子を窺った。そして、「あ」と短く声を上げる。そこには深い緑色のマントを羽織った人物がいた。ティアナになにやら話しかけている。そのマントを見たとたん、ユリウスの目がすがめられた。
「カイリ。魔術庁だ。魔術庁の人間が、ティアナちゃんに接触してる。くそ。ジークがいないっていうのに」
彼はがたがたと椅子から立ち上がった。
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ティアナは厨房で、何杯目かのお茶の用意をしながら、何十回目かになるため息を漏らした。お湯が沸々と湯気を上げるのをじっと見つめる。
(今日も、ジーク様は遠征に行ってらっしゃるのね。会えないのは寂しいけど、でも私、ちょっとほっとしてる……)
あの夜。ジークの父の書斎でペンダントの記憶が全て流れ出した夜。あれからティアナはジークのことをまともに見ることができなくなっていた。彼を見るたびに、申し訳なさと自責の念が彼女の胸に重くのしかかる。だが、ジークは自分のことよりも、彼女がそんな気持ちになることに気遣ってくれた。何度も、「気にするな。お前はなにも悪くない」とティアナに寄り添ってくれようとするのだ。
彼女はぎゅっと目を閉じた。
ジークの優しさが苦しい。でもそれ以上に彼女はその、包み込んでくれるような優しさが、嬉しいのだ。そして、そんなことを思ってしまう自分が嫌だ。
(酷いことをしたわたしを、責めることなく包んでくれようとする。嬉しいって思ってしまう……。わたしってなんて……)
彼女は情けなくなる。そう、ティアナは、彼にどうしようもなく恋をしてしまったのだ。
はじめは、彼のことがとても怖かった。冷たく刺すような視線に震え上がったものだ。でも、自分の身をかえりみずに、魔獣を倒しにいく背中や、ちいさなルルをぎこちなく守ろうとする姿。そして、家族への切ない愛情も、今ではなにもかもが愛しい。
ティアナはまたため息をついた。自分の気持ちに気づいてからは、彼女はなるべく彼に近づかないようにしていた。
どんなに想っても、届かないのがわかっている。彼は、この国の名高い騎士団の長だ。怪我を治してもらったから、感謝の印として館に置いてくれたに過ぎない。そして、これからは、わたしを見るたびに彼は、父親の死という辛い情景を思い出すことになる。
どうにもならない彼への想いにまた、彼女は立ち尽くしてしまうのだ。
「……の。あの、ちょっと」
こほんという咳払いが、物思いに沈むティアナの背後から聞こえた。彼女はびくりとして振り向く。
「あっ。申し訳ありません。お茶はもうすぐです……!」
ガチャガチャと食器を出そうとして彼女は手を止めた。兵舎ではほとんど見ない、深い緑のマントが目に入ったのだ。
「あ、あの……?」
「貴方が、ティアナ嬢ですか」
茶色の短髪に眼鏡をかけた真面目そうな青年が、礼儀正しく会釈をして尋ねてきた。
「ここの管理人の方に、ティアナという人物は厨房にいると聞いたのですが、貴方ですか?」
挨拶しながら青年は眼鏡をくいっと上げた。ティアナは小さく頷く。
「は、い……。ティアナは私です」
食器を手元に置き、彼女は応える。青年は緑色のマントを羽織っていた。深い深い森の中のような色だ。その内側から、手のひらほどの大きさの楕円形の札を取り出して、彼女へと見せる。銀製の札にはこんもりとした大樹が彫られていた。枝の細かな裂け目ひとつまで丁寧に彫られた見事なもので、魔石のお守りと同じように、微かな魔力の流れが感じられた。ティアナは彼を見上げる。
「私は、王都にある魔術庁から来ました。調査官のティムと言います。はじめまして」
(魔術庁のひと……?どうして私に?)
青年の自己紹介に戸惑いながら、彼女はお辞儀をする。魔術庁という存在自体、最近知ったばかりだ。
「さっそくですが、貴方に聞きたいことがあります。すこし前にスールの外れで起きた娼館の火事についてです」
彼は持っていた荷物からてきぱきと書類の束を抜き出して羽根ペンを片手に彼女を見る。
「はい、あの……、でも」
厨房の入り口でいきなり話を始めようとする調査官にティアナは戸惑ってしまう。
「ちょっと待ってください!」
そこへユリウスが大股でやってきた。ティムと名乗った青年は訝しげに騎士団の制服を着たユリウスを振り向く。腰に差した魔剣を見て「ああ、第五騎士団のかたですね」
と呟くと彼へ向き直った。
「なにか御用ですか?私は彼女に質問しに魔術庁から来たんです」
「それはわかってますよ。そのマントを見たらね一目瞭然だから。けれどもそこの彼女は、ティアナ嬢は、第五騎士団長の庇護の元にあります。彼の同意なしで、この人に接触するのはご遠慮頂きたいんですよね」
ユリウスは明るい調子で話しながらも、すっとティアナの前に立った。
「ですが、今は騎士団長は不在と聞きました。こちらも早く調査して報告したいのです。うちの長官がかなりティアナさんに興味を示しているもので」
彼はティアナをちらりと見た。彼女は物問いたげに両者のやりとりを見つめている。
「だったら余計にジークがいない時は困りますよ。彼女を館で見つけたのはうちの団長なんですから」
ティムは書類に目を走らせる。
「そのようですね。こちらにも報告は上がっています。ジーク騎士団長からは、人身売買取引の巣窟であった娼館が、「炎の力を持つ人間」によって放火され、運良く生き残ったのがこのティアナ嬢であるという報告を受けています」
「そうそう。だから、余計にジークがいないと困るでしょう?」
ユリウスは当然でしょ?というように彼に笑いかける。真面目そうな魔術庁の調査官は困ったように眉を下げた。
「ですが……。いつ帰るかもわからないのでは、こちらも困りますし。ティアナさんに直接お話を聞きたいんです」
妙な空気が皆の間に流れる。そこへ、オズワルドの甲高い声が割って入った。この男はいつの間にやらティムについて来ていたのだ。
「団長不在の時は私が!管理人の私が代行できます!」
細長い体で精いっぱい胸を張りながらオズワルドはティムに主張する。
「お話は逐一騎士団長へ報告しますので、ささ、こちらへどうぞ。君も早く、ティアナさん」
最後の方は猫撫で声だ。ユリウスは眉を顰め、ティアナを背に隠すようにする。向こうでカイリの大きな身体がゆらりと立ち上がるのが見えた。
「困りましたね。私は騎士団と事を荒立てるつもりはありません。けれども長官の指示は絶対ですし……」
ぽりぽりと頬をかきながら彼は書類を見つめる。ティアナはたまらなくなっておずおずと一歩前に出た。
「あの、わたし、お話します。ユリウス様、カイリさん、お二人ともありがとうございます」
「ま、まって。ティアナちゃん。ジークが……」
「ジーク様にも、騎士団の方にもこれ以上ご迷惑はかけられません。わたしは大丈夫です」
「迷惑なんかじゃないよ。君は僕たちの大事な友人だ」
ティアナははっと大きく目を見開いた。そして嬉しそうに微笑む。
「……ありがとうございます。それならなおさら、庇っていただくばかりでは申し訳ないですもの」
それはティアナの本心でもあった。ジークへの恋心とは別に、自分はこの先どう生きていくのか。騎士団に庇護されたままではいけない、というのは彼女の初めからの気持ちでもあった。
その後、癒しの力があれば人の役に立てると単純に嬉しがっていたティアナだったが、そうではないこともあることを知った。炎の力を持っていたあの老人は、兵器として長年あちこちの国で力を使ったという。そして遂には自らを滅ぼした。力の種類は違っても、自分にだってその可能性はあるのだ。
(この先なにがなんだかわからないまま、記憶を閉じ込めたりしたくない。誰かの大切な思いを、忘れたくない)
魔術庁がなにを知りたいかはわからないが、自分のことはしっかりと見つめたいと思うティアナだった。ユリウスはぐっと詰まってしまう。魔術庁が彼女の力を知れば放っておくなどあり得ない。きっと王都へ連れて行かれてしまう。王侯と近しい貴族であるユリウスでも、魔術庁のことはほとんどわからないのだ。ジークが彼女を手元で保護し続けるのは難しいだろう。
(うーん。二人が早くどうにかなれば何とかなる気がするんだけどなぁ……。こればっかりはね。ジークはものすごく疎そうだし、ティアナちゃんは自分からぐいぐいいくような子じゃないし)