第八話 館の最後と月明かり
黒いペンダントは最後の輝きを放つように光を放出し続ける。自分から記憶の旅路を申し出ていながら、彼女は怖くなってしまった。
(もう一度、記憶を閉じ込めてしまえば……)
ティアナはペンダントへ意識を集中しようとする。だが、ジークが彼女を優しく制した。
「俺は大丈夫だ。初めから言っていただろう?父の死の真相を知りたいと。これは仕事でもあるし、俺の本音でもある」
ティアナを勇気づけるように彼女の頭を撫でると、ジークは薄い唇を引き締め、前を向いた。ざわざわと胸にたまる不安を拭えないまま、それでもティアナはジークに従う。
(お願い……!どうか、ジーク様がこれ以上悲しむことのないように……)
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ジークの父に枷を外してもらったティアナは、じわじわと迫り来る炎の気配を背に二人で館の外へ逃れようとしていた。大きな階段を駆け降り、広い玄関ホールへと向かう。どこかで老人の狂った笑い声が聞こえる。炎の力を持った老人は、確実に「人間」を狙い定めて燃やしながら館内を歩き回っているようだった。その火はあらゆる家具に、絨毯に燃え移っていた。二人はその中をつまずきよろけながら走る。
『あそこから出られる。頑張るんだ。お嬢さん』
出口が見えたところで、地鳴りがして館全体が大きく揺れた。上から焼け落ちた大きな梁が彼らめがけて襲いかかる。ジークの父は、ティアナの背を突き飛ばした。彼女は床に転がってしまう。肩を強かに打ったらしく、彼女はしばらくうめいていたが、やがてハッとしたように後ろを振りかえった。
恐ろしいことに、ジークの父は巨大な梁の下敷きになっていた。腰から下が挟まれており動けないようだ。
『そ、そんな……!おじさま!おじさま?』
ティアナは短く叫び声をあげ駆け寄る。
『行きなさい、早く』
『待って!今すぐ引っ張ります!大丈夫ですよ』
こんなのすぐ抜けます!と彼女は必死で引っ張る。ジークの父は厳しい顔で彼女を怒鳴りつけた。
『逃げろと言っているんだ!私なんぞ放ってさっさと行きなさい!』
『そんなことできない!置いていけるわけないでしょう!』
ジークの父は驚いた顔でティアナを見た。痛みに眉を顰めながらも笑顔になる。
『……さっきと反対だ。君も意外と強情な娘さんなのかな』
『そんなことを言ってる場合じゃないです』
ふふ、と笑ってはいるが、額から脂汗が滲み出ている。
『すまないが、そのままでいい。私の話を聞いてくれ』
重い木の柱をどけようと奮闘しているティアナにジークの父は話しかけた。
『さっき、ここのオークションのことを話したろう?。恥ずかしい話だが、私は参加者なんだ。人身売買と知りながら、出品されるという癒しの魔女をどんなことをしても手に入れるつもりだった。どうしても、生き返らせたい者がいたんだ』
『……』
『だが。だが、私は間違っていた。さっき、あの炎を飛ばす老人の叫びを聞いたんだ。自分たちはものではないのに、生まれてからずっと売買の対象であり、戦の道具として使われたと。こんなことはもう嫌だと泣きながら皆を燃やしていたよ』
『もう、喋らないで……!お腹から血が……』
腹を染める赤い血に構わず彼は続ける。『私はこんな所に来た自分を恥じた。彼らはものではないのに。自分の願望のためだけに…っ』
ジークの父は血をごぽりと吐いた。ティアナは低く叫び、彼を支える。やっとのことで梁をどけたのに、彼の腰から下は変な方向へと曲がっていた。ティアナは思わず目を背けてしまう。
『ほら、バチが当たったんだ。人を人と思えない者の末路がこれだ。だから、君は早く逃げなさい』
『いいえ!……いいえ!治します!わたしが、私が治すからっ……』
ティアナは必死で力を使った。彼の周りをお馴染みの光のベールが包む。だが、消耗しているティアナでは、彼を完全に直すことはできないようだった。
『だめ、死なないで。……お願い』
流れる血を抑えきれない。彼女は知らず涙を流していた。
『……君、だったのか。癒しの力を持つというのは。なんと皮肉なことだ』
彼は仰向けになり、大きなため息をついた。周囲の炎はなぜか、ティアナの周りには近づかない。だがそれを不思議に思う余裕は彼女にはなかった。
『ごめ、ごめんなさい……!ぜんぶ、治せない……っごめっ……」
『気にすることはないよ。全てに背を向けた罰だ。それに、これで愛する妻と可愛い息子に会いに行ける……』
ジークの父はほっとしたような口調になった。
こちら側からそれを見ている、彼のもう一人の息子は、ぐっと唇を噛み締める。それでも、目を逸らすことをしなかった。
(こんな、こんな辛いことってないのに、ジーク様はぜんぶ、全部を受け止めようとされている)
凛としたジークの姿。ティアナは心の底から彼に対する尊敬と、愛しさが湧いてくるのを感じた。
『ああ、だが、ひとつだけ。私はあの子に背を向けてしまったんだ。……それだけは……。謝りたかった』
命が尽きようとしているジークの父は、朦朧としながらティアナの手を握った。意識が混濁してきているのか、話に脈絡がない。
『もし、あの子に、ジークに会うことがあったなら、愛している、すまない……と』
『ジーク?……私では無理です。ちゃんと、生きて、ご自分で、伝えてください、ね、おねがい……!』
最後まで告げることなく、紳士の瞳から光が消えた。ティアナの絶叫が響き渡る。
『だめ、待って!まって!行かないで!』
ジークの父の体を揺すりながら叫ぶティアナはそのまま倒れてしまった。
燃え盛る赤の空間には、轟々と唸る炎の音が響き続けていた。
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月が、開いた両開きの窓からひんやりと真っ直ぐな光を投げる。雲は完全に流れ去り、星が、穏やかな夜空に瞬いていた。
そのなかで二人は、ジークとティアナは、立ち尽くしていた。手を握り合ったまま、青暗い部屋に静寂が満ちる。
「ジーク様……。わたし、わたし、こんな大事なことを……」
ティアナは唇を震わせ、俯く。その先の言葉が続かない。
こんな大事な記憶を、ペンダントへ閉じ込めていたのだ。なんて臆病者なのだろう。彼女は自分への嫌悪感でいっぱいになる。
あのとき、彼はたしかに「ジーク」と言ったのだ。そのときはわからなくとも、助け出された時に全て思い出していれば、どこかで繋がりジークへと伝えられたかもしれないのに。
彼の父親の最後の言葉が蘇る。彼女はジークに深く頭を下げた。
「なによりも大切なお父さまの思いを……!申し訳ございません。ずっと思い出さずに、ほんとうに、申し訳ございません。それに、お父様は私を庇って……なのに、私は」
「もう、いいんだ」
ジークはその腕で彼女を抱きしめた。震える細い肩を強く、しっかりと包む。そして、心からの言葉を告げる。
「ありがとう」
ティアナは激しく頭を横に振った。唇を強く噛み締め、握りこぶしに爪を食い込ませる。
「なにも、なにもできませんでした…。お父さまを治すことも、最後のお言葉さえこんな風にしか……」
ジークは彼女の頭を優しく撫でた。
「お前は自分にできることを、全力でしてくれていたじゃないか」
月の光が照らす肖像画の山を、ジークはもう一度眺める。そこにはもう憤りの色も、寂しさの色もない。
「俺は、つくづく愚かな人間だな。自分だけが不幸だと思って。傲慢すぎて己に反吐が出る」
「ジークさま……」
「お前がいなければ、父の思いはわからなかった。最後の言葉も届かなかった。思い出してくれて、ありがとう」
ティアナは俯く。ごつごつとした彼の大きな手のひらを感じながらも、自分を責めずにはいられなかった。ごめんなさいと謝り続けることしかできないのが辛い。流れる涙さえ、おこがましく思えた。
「ティアナ、俺を見ろ」
「ご、ごめんなさい……」
顔を上げられない彼女に、ジークは屈み込む。片膝をついてティアナの顔を見上げた。
「謝るな。お前は最善を尽くした。もう、全て終わったんだ」
翳りの消えた瞳で、ジークは彼女の頬をそっと包んだ。ティアナの涙が彼の指を濡らす。
知らなかった。優しさが、こんなに苦しいなんて。
しらなかった。こんなに大好きだったなんて。
星空を彩るやわらかな月の光が、長いあいだ屋敷を照らしていた。