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第一話 新しい朝

 

 数日後。

 朝の光が、まっすぐに窓の向こうから差し込む。雨上がりの爽やかな陽光がティアナの眠気を綺麗に取り去り、彼女はぱちりと目を開けた。


 クラウゼント家の、自分にあてがわれた部屋で勢いよくベッドから起き上がる。彼女は朝の身支度を始めた。ジークと一緒に街で誂えた上質なドレスは先日仕立て上がり、クローゼットに恭しく収まっている。けれども彼女は少し考えて、以前からあるお気に入りのモスグリーンの方を手に取った。なんといっても一番初めにこの屋敷でジークが手配してくれたものだから、これが彼女のお気に入りなのだ。



 飾り彫りの入った贅沢な装飾の鏡台を前に、優美な猫足の椅子に慎重に腰掛ける。見事な調度品ばかりの部屋を見回すと、彼女はすこし窮屈な気持ちで息を吐いた。栗毛の髪を梳かしながら、今まで何度も思ったことをまた頭に浮かべる。


 やっぱり、どう見ても、わたしには不似合いすぎだよね。


 最初から驚くほど豪華なお屋敷ではあったが、あの日自分の故郷や、育った孤児院を見てしまってからはよけいにどこもかしこも分不相応に感じられてしまうのだ。彼女は俯いてしまう。


 せめて、あの村が国のどのあたりかくらいは思い出せればいいのに。ブラッド先生やみんなの顔を見たら、寂しくなってきてしまった。みんな元気だろうか。


 鏡に映る自分の栗色の髪と翡翠の瞳を見ていると、あの言葉が蘇った。


 ーティアナ。守ってあげられなくてごめんねー


 あれは、母親だったのだろうか。悲しみと後悔に満ちた、絹のように美しい声。もし母だとしたらなぜ、わたしはあそこへ置き去りにされたのだろう。父親は、どんな人なのだろう。ジークの悲しい過去を聞いてから、そしてルルと母獣に出会ってから、彼女はふと、自分の両親を思うことがある。もう会えはしないのだろうけれど。両親はこの力を知っていたのだろうか。


 癒し手。魔女。彼女の知らない言葉だ。故郷ではそんなの聞いたことがなかった。黒曜石を握りしめ、鏡をじっと見つめる。そのとき、控えめに扉を叩く音がした。物思いからはっと覚めて、ティアナは振り向いた。


「はい!今開けます!」


 アレンだと思い、返事をして勢いよく取っ手を引いたティアナは軽くあとずさった。


「あ……」

「おはよう、ティアナ」


 ジークだった。


 相変わらず上から下まで凛々しい黒に身を包んだ騎士団長は、目を細めティアナを見下ろしていた。早朝に近い時間だというのに、眠そうな気配など微塵も感じさせない。昨夜も彼は深夜を過ぎるまで帰ってこなかったはずだ。


「お、おはようございます…」


 戸惑いながらティアナは挨拶した。こんな時間に会うとは予想していなかったし、それよりも最近はジークと顔を合わせると、いつも妙な胸の高まりを感じてしまう。まともに彼の瞳を見ることができないのだ。


 あのときの、ジークの口づけ。


 思い出すだけで額がぽっと赤く熱をもつ。精悍で硬質、どちらかというと冷たい印象を与えがちな顔立ちなのに、ジークの唇はやわらかく、温かかった。


 胸がどきどきと音を打ち始めて、彼女は慌てて記憶を打ち消そうとした。あのときジーク様は、ありがとうって!!そう、あれは感謝のしるしなんだから!そうそれ!ルルとおんなじの!


 だから、それでこんなに赤くなるなんておかしい。頭がぽわぽわするのはおかしいの。わたしったらほんと、馬鹿みたい!


「あ、あの、どうぞ。申し訳ございません。まさかお見えになるとは思わずにあの…散らかっていますが」


 彼女はしどろもどろになって扉を大きく開けた。


「いや、こちらこそ朝からすまない。もう出かけなければならないんだ。その前にお前の顔が見たかった」


 ジークは柔らかく微笑んだ。今朝はきっちりと前髪が分けられており、形のいい額が綺麗に覗いている。まともに見上げることもできず朱色の頬を隠すようにティアナは俯いて、う、とかはい、とか呟く。


「今夜の食事だが、多分帰りが遅くなると思う。すこし厄介ごとが持ち上がっていてな。だから、俺を待つ必要はない」

「わかりました。……あの、どうかお気をつけて」


 彼はひどく残念そうにすまない、と謝る。ティアナももちろん残念なのだけれど、半分はほっとしたような心地だ。


(だって、このままではいつか心臓が身体から飛び出してどこかへ暴走し始めちゃいそうだもの)


 ティアナはあ、と思いついて顔を上げた。


「でも……、でも、今日はあちらで会えますね!騎士団の兵舎で」

「あー……。ええと、そうだった……か?」


 ジークにしては珍しく、彼はティアナから視線を外して口籠った。


「はい!今日は兵舎食堂でお手伝いする日ですもの」


 弾んだ声でティアナはそう告げた。逆にジークの表情は明らかに曇る。そんなことは忘れていればよかったのにとも言いたげだ。


「俺は、今でもその話に賛成したわけではないんだがな」


 ぴちりと撫でつけた黒髪に手をやりながらジークは難しい顔をした。


 その話、とはティアナが始めた新しい仕事のことだ。彼女は先日から、騎士団兵舎の食堂で給仕の手伝いをしている。昼間の忙しい時間帯だけとの条件付きだが、それでもはっきりと「仕事」と胸を張れるものができたのはティアナには非常に喜ばしいことだった。


 アレンと共にやっているこの屋敷の目録作りはそろそろ最終段階に入っており、そのあと自分がどうすべきか彼女は思い悩んでいた。故郷を探すにしろ、自立するにしろ先立つものが必要だ。それに、あの館の事故のことを思い出し、ジークに報告すればこの生活は終了する。彼女は早急に自分の身の置き場のことを考えなければならない段階に来ていた。


 そんなときたまたま非番で屋敷に来たカイリとユリウスから、万年人手不足の兵舎食堂の手伝いに誘われたのだ。彼女は二つ返事で受け入れた。


 目録作りと並行して毎日めいっぱい働くつもりだったのだが、なぜか今のところ多くても週二回くらいしか入れてもらえない。その上屋敷から兵舎へは馬車の送迎までついている。なんだか本末転倒な気もするのだが、ジークもそしてアレンさえも、彼女が一人で街を行き来することは許さなかった。


 それにティアナは、ユリウスとカイリがジークにそれはそれはものすごい形相で怒られたと聞いた。その時のことは誰も話したがらないので真相は闇の中だが。


 口をへの字にしているジークに、ティアナはわたわたと焦って言い募る。


「でも、でも、わたしはお仕事できるのがとてもうれしいんです。それに、兵舎では怪我をしている団員の方もたくさんいらっしゃいます。その方たちを治すこともできますし」

「それが一番賛成できないんだ。お前はあまり力を使うべきじゃない」


 そうなのだ。ティアナがやってくる日は、すなわち診療日となってしまう。精獣親子と別れたあの日、兵舎へ戻ったティアナは森で骨折や負傷した団員をその力でみるみるうちに治した。噂はひそやかに兵舎内に広まり、箝口令は敷かれているものの彼女が稀に兵舎に姿を見せると、重傷の団員は痛みから解放してもらえると期待した。


 ティアナは頼まれれば些細な傷でも快く引き受けてしまう。故郷でやっていたのと同じように。誰かの役に立てるのは、ティアナにとって本当に幸せなことだった。


「ジークさま、わたしは…」

「やめよう。俺は言い合いをしたいわけじゃない」


 彼は無造作に手を振って彼女の言葉を遮る。


「お前をもう一度、市に誘いに来たんだ」


 ティアナは目をぱちくりさせた。


「この週末、また街に市がたつらしい。前はあんな騒動になってしまったが」

「……ルルと会った日ですね」


 ルルのくるくるとした巻き毛と金色の瞳が二人の脳裏に浮かぶ。気まずい空気はいつのまにか溶けてなくなっていた。ジークはこほんと咳払いをして、


「今度こそきちんと街を案内する。お前が楽しめそうな店がたくさん並ぶはずだ」


 と告げた。ティアナも目を和ませる。


「ありがとうございます。……仕立てて頂いたドレス、着てもよろしいですか?」

「もちろんだ。楽しみにしている」


 また兵舎で様子を見にいく、と言って彼は踵を返した。


「いってらっしゃいませ」


 ふわふわした気持ちで、ティアナはその後ろ姿を見送った。

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