第十七話 森へ1
風が、途切れることなく強く頬に吹きつける。夜明け前の静かな街を駆け抜ける馬の一団のなかで、ティアナは必死で小さな精獣を抱き締めていた。馬の背に危なっかしく跨る彼女を、ジークが後ろでしっかりと支えながら手綱を握る。
ち、近い。
背中に感じるジークのぬくもりが、馬の揺れに合わせてぴたりと重なったり、すこし離れたり。少し顔をあげれば彼の顔がすぐそばだ。男らしく突き出た喉仏が闇の中で白く浮き上がる。蹄の音と、風のなかでジークと二人きりのような感覚にティアナは落ち着かない気持ちになる。
こんなときになんてこと考えてるの?ティアナは自分を叱りつけ、腕に抱いたルルを見た。
さっきまでは眠そうにしていたルルはいま、フードの中からやけに生真面目な金色の瞳でティアナのことを見上げている。かあさま、と真剣な口調で頷かれ、彼女も気を引き締めた。
巡回中の団員が精獣らしき姿を見たとの報告を受け、ジークはカイリを伴いすぐさま現場へ向かう準備を始めた。
「場所は?」
「はい、あの…。先月、火事騒ぎのありました、娼館のある森で…」
「また、あそこか」
話を聞いていたティアナも目を丸くする。
「ジーク様。ジーク様…!きっとあの子のお母さんです。探しに来たんです!」
「それを確かめに行ってくる」
彼はサーコートを羽織り、剣を腰に身につけた。ティアナはジークに駆け寄り彼に頼み込む。
「ジーク様…。辛いお話をしてくださったのに、ほんとうにごめんなさい。わがままを言っているのは分かっています。でも、でも。本当に、行かなきゃいけない気がするんです」
彼はティアナを見下ろしため息をついた。そう言われると思っていた。彼女は気づいていないのだろうが、おそらく精獣も魔力に引き寄せられるのだろう。ルルははじめは街で自分の魔剣を見つけた。そして今はティアナと呼応しあっている。
「俺のそばを離れるな」
彼は一言そういって、彼女へ分厚い外套を手渡した。
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森に着くころには暗闇は薄れ、空はうっすらと白み始めていた。十人近い一団は速度を落とし、ゆっくりとあたりを警戒しながらこんもりとした木々の間を進む。ティアナはベッドでうたた寝をしたが、ジークもカイリもほとんど寝ていないはずだ。だが二人ともそんなそぶりは一向に見せない。ティアナは神経が昂っているためか、森の中の様々な音が直接耳に入ってくる。そのなかに苦しげなうめきが混じっているような気がして不安になった。ルルはぱちりと目を開いて、あたりを興味深そうに眺めている。
「早くお母さんに会えるといいね」
そう呟いてルルの頭を撫でた。遠いところまで、一人で連れてこられてとても怖かっただろう。彼女はこの先に待っているのが母獣であるという妙な確信があった。
揺れる馬の背でふと、暗い想いに囚われる。奴隷商人。
嫌な響きだ。嫌なだけじゃない。怖い。足の先から這いあがって背中をつかまれる感じ。わたし、どこかでこんな気持ちになったことがある。
急に喉が締め付けられる感覚を覚えた。耳と目が塞がれる。本当ではないのに、妙に現実味を持って彼女に迫ってくる。目の前の金の瞳と、黒曜石の光が同時に煌めいた、そのとき。
彼女ははたと気づいた。
わたしはこの感じを知ってる。
体が凍るような恐怖の記憶がじわじわと染み出してきた。白んでいた空は再び真っ暗な闇に変わる。馬の背に乗っているはずなのに、荒々しく雑な揺れ方に変わった気がする。手と足が縛られて、動けない。
息を、息をしなくちゃ。どこへ連れて行かれるの?あそこは嫌。あの館はいやだ。あそこは燃えてしまったもの。あのおじいさんが体から炎を出して。
ちがう、違う、、ここは。
彼女は歯を食いしばり悪夢の記憶から抜け出そうともがく。肩ががくがくと震え出した。
逃げなきゃ。違う!だめ、助けなきゃ。みんなが火に飲まれる前に火傷を治さなきゃ……!
悪夢の記憶のなかでもがいてもがいて、溺れそうになる。早くしないと間に合わない。でも、こんなにたくさんの人、どうやったら……。
不意に、背中をがっしりと抱きこまれた。
あたたかな体温が彼女をゆっくり、だが確実に現実へ戻してゆく。闇は、靄のかかった緑の木々の景色へとじんわり変わっていく。
「ティアナ。ティアナ」
ジークが、手綱を握りしめながら彼女にしっかりと寄り添ったのだ。
「震えている。馬上は高くて怖いか?もっとゆっくり走ろう」
風に黒髪をはためかせ、ティアナを優しく見下ろす。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
彼女は首を横に振る。
「本当か?無理をするな。慣れていないと辛いはずだ」
彼女はもう一度、凛とした声で大丈夫だと答える。ジークの言葉が、あたたかな腕が、ティアナを恐怖の記憶から掬い上げたから。
「もう、怖くないです」
彼女は顔を上げた。
「オウチ かあさま!」
ルルは彼女のペンダントを握りしめ前を指さした。
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