第十六話 ジーク・クラウゼントの夜
「あの、ジーク様…」
「ダメだ」
「え、あのっ。まだ何も」
「ついてきたいというんだろう?あいつ…ルルを返すのに」
ジークはちらりと横のティアナを見た。彼女は真剣な顔で頷く。
「危険だ。火事の場でも魔獣に襲われたろう。お前を連れて行くわけにはいかない」
「でもジーク様。あの子、とても不思議なんです!」
彼女はルルを見ると何度も記憶のかけらが頭を行き交うことを説明した。あと少しで、思い出せそうな気がする。
「だから、もう少しだけ、一緒にいたいんです!お願いします。ルルも、一緒に来て欲しいって言ってます!」
「…あいつがそう言ったか?」
「ええと…そんな、気がするというか。でも本当です!なにかこう、呼んでいるというか、そんな感じがするんです」
「お前を連れて行くつもりはない」
ジークは硬い声で繰り返し、頑なにティアナの目を見ないようにしている。
「ジーク様…」
「お前が、危険な目に遭うのが嫌なんだ」
「わたし、は、でも…!」
不意に諭すような口調が切羽詰まった声音に変わった。
「お前の言ってることはわかる。だが、やはり…」
ジークは手のひらで口を覆い、そして暗い窓の外に目をやる。長椅子にランタンの柔らかい光が揺れてちらちらと影を落としていた。長い沈黙のあと、ようやく彼は口を開いた。
「弟が、いたんだ」
ティアナは驚いた様子で胸に手を当てる。
「……ジーク様?」
「あの精獣の子よりもっと小さい、まだ歩くこともおぼつかない、小さな小さな弟だ。ルッカという」
愛しそうにその名を呼ぶと彼は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あの年の夏は特別暑くて、父は、母と生まれた赤ん坊のために静かなところで過ごすことにした。俺は、楽しみで仕方なかった」
「母は小さな弟にかかりきりで、父は忙しいながらもそんな母をとても大事にしていた。俺は俺でまだ三歳かそこらのくせに、春に生まれたちっちゃな弟を守るんだと息巻いて、毎日おもちゃの剣で稽古していた」
「とても、仲がよかったのですね」
「どうだろうか。俺はやんちゃで使用人を困らせてばかりいたからな。父母にも悩みの種だったかもしれない」
苦笑するジークの瞳が懐かしそうに和らいだ。
「海では日差しがきついからと、森に囲まれた湖近くに別荘を建て夏の間はそこで過ごした。もちろん、魔獣対策を十分にして。父は事業で大成功し、それこそ湯水のようにある金を喜んで母のために費やしていたようだ」
彼はそこで言葉を切る。
「すこし奥地に遠出をしたのが悪かったんだろう。ピクニックに行こうと馬車に乗り込んでいると、アレがやって来た。馬を襲い車をなぎ倒して俺たちに襲いかかった」
御者と父は何とかしてアレを止めようとしたけれど、敵うはずがない。長いかぎ爪でひと振りされて、二人ともあっという間に投げ飛ばされていた。あとは覚えていない。俺は馬車が倒れたはずみで投げ出され、近くの茂みで気を失っていたんだ。父の絶叫で目が覚めたときには、全てが終わっていた。
絶望と、怒りの叫び声だけが森に響いていた。
「近くを巡回中だった騎士団があれを始末していた。汚い口からだらだら流れる黒い血に、金の毛が混じっていて、そのまましゅうしゅう蒸発していった。母の髪は俺と同じ黒で、ちいさなルッカは綺麗な金髪だったから、あれは俺の弟を、」
ジークは、紫の瞳を暗い色に染め、深い深い闇の中から話していた。ティアナを見ているのかどうかわからない。ゆらゆらとランタンの中の蝋燭が揺れる。ルルの穏やかな寝息が部屋に落ちてゆく。ジークの周りだけ、光は届かない。彼は真っ黒だ。
「そんなわけで、俺はお前を連れて行きたくない」
しっかりとした声でそう言うと彼はティアナを見つめ、そして、彼女の手の甲にそっと冷たい手のひらを重ねた。
骨張った、手。いくつも豆ができてはつぶれたのだろう。長い指はごつごつとしている。そこから、彼の悲しみや怒りがとくとくとティアナのなかへ流れ込んでくる。彼の心の隅で、小さなジークが背中を丸めて泣いているように見えた。
胸が詰まって、涙があふれそうになる。ティアナは歯を食いしばった。わたしなんかが泣くところじゃない。彼はため息をついて首を振る。
「だが、お前の願いはなんでも聞いてやりたいと思っている」
「ジーク様…?そんな、わたしのことは…」
彼は、切れ長の目を細めて困ったように笑った。
「どちらも、今の俺の正直な気持ちなんだ。……自分の気持ちだというのに、なんとも難しいものだな」
ぽつりといった言葉が、部屋の中にころんと落ちた。
巡回中の班から報告がきたのは明け方だった。
「白い炎に包まれている獣が森のなかにいるとのことです。おそらく精獣かと思われますが暴れていて、人里へ向かおうとしています」
ジークはティアナと顔を見合わせた。