第七話 かあさま?
「んー!んー!」
ティアナが強く抱きしめすぎていたのか、男の子はぷはっと息を吐いて声をあげる。彼女は慌てて子どもを離した。
「ご、ごめんね!苦しかったね」
彼女は銀髪を優しく撫でようとしたが、その手がぴたりと止まる。くるくる巻いた愛らしい銀髪のなかに、一本の短い角がにょきりと姿を見せたのだ。真っ白な角、真っ白な翼。
「かあさま!」
金眼を煌めかせ、その子はにっこりと微笑んだ。
「えっ…」
あんぐりと口を開けたティアナ。ジークは労うように二人に声をかける。
「ティアナ。無事でよかった。お前も、よく静かにできたな。偉いぞ」
そう言って翼を持った子どもの頭をくしゃりとなでる。
「かあさま!」
ジークは大きくため息をつきながら話しかける。
「言葉をほとんど覚えていないようだな。だが、こんなところで精獣の子どもを見るなんて思わなかったぞ。まだ飛べないんだな?」
さて、どうしたものか。ジークの呟きに、ティアナは抱きしめていた背中をそっと覗く。やはり、小さく可愛らしい両翼がぱたぱたと揺れていた。
役人が男を連れ去るのを見て、野次馬たちはとうに興味を無くし、狭い路地にはいまジークとティアナしかいない。彼女はおそるおそる尋ねた。さっきまでジークに対して感じていた、歯痒いようなもやもやとした気持ちはひとまず置いて目の前のことに集中する。
「ジーク様…。この子は?人間ではないのですか?」
「ああ。魔獣とはまた別の、精霊の一種だ。森や山の奥深くでたまに見かけるが、人間を見るとすぐに逃げてしまう」
ティアナはじっと、子どもの瞳を見つめた。精獣。その肌は陶器よりも白く、しっとりとした質感は確かに人間のものとは違う。だが、そこまで驚いていない自分がいる。この前遭遇したあの恐ろしい魔獣に比べると、よっぽど平和な生き物のように見える。ちっちゃくて、とても綺麗だ。
蜂蜜色の瞳は深く、底がない。じっと見ているとそのなかに吸い込まれそうな気がしてきた。それでも覗き込むのをやめられない。ティアナは知らないうちに前のめりになっていた。
「ティアナ、あんまり見つめるんじゃない。いくら幼獣とはいえ、魅了されてしまうぞ」
「……?え?」
ジークの左手が彼女の頬に触れた。熱い指先が無理やりティアナの視線を引き剥がしてゆく。彼女は顎を上げられ、ジークの紫瞳にかちりと捕らえられた。
「それは精霊だ。悪気がなくても、人を虜にすることもある」
優しく諭す言葉と裏腹に、彼の瞳はだんだんと熱を帯びていくように見えた。ティアナの心臓はとくとくと跳ねはじめる。それを抑えるように、彼女は急いで言葉をかき集めた。
「せ、精霊っ。でも、とても、ええとっ!すごく、人間みたいです!翼と角がなかったらわからないくらい」
「精獣も、魔獣と同じように人型から獣型まで様々な形態を持っている。元は全く違うがな。人並みの知能と、ある程度人語を操るものもいる」
「ジーク様はこの子のような、精獣に会ったことがあるのですか?」
「この数年で二、三度見かけたくらいだ。精獣は人と関わることはほとんどない。魔獣のいるところには決して出てこないしな」
穏やかな声で説明したあとも、彼はティアナの頬をその大きな手のひらで包んだまま、視線を逸らさない。
「ティアナ」
やがて意を決したように彼女の名を呼んだ。
「今日はすまない。お前の気持ちを無視してしまった」
思いがけない率直な謝罪に、彼女は目をぱちくりとさせる。
「あ…。い、いえ…。わたしも、せっかくのご好意を、台無しにするような態度を取ってしまいました。素敵なお店に連れていって頂いたのに…。申し訳ありません」
「お前が謝ることじゃない。俺が、強引すぎたんだ」
「いえ、その…」
「お前が受け取らないというなら、注文は取り消しにしよう。だが」
彼は一旦口をつぐんでから、照れくさそうに彼女の顔を見た。
「やはり、見てみたいな。その、きっと、新しいドレスもとてもよく似合うだろうから」
精悍な顔つきが、途端に幼く見えた。とくとくと波打っていた心臓が、穏やかな動きに変わる。
ジーク様、なんだか可愛らしい。
彼女は思わず口もとを綻ばせた。
「わかり、ました。ありがとうございます。できあがるの、とっても楽しみにしています」
にっこりと笑ったティアナに、ジークは虚をつかれてしまった。
初めて俺を見て笑った。
早鐘のように忙しく鳴り始める心臓の音に動揺しながら、彼はありがとうと頷いた。ふわふわとした空気がやわらかく、二人を包む。
「かあさま!」
鈴を鳴らしたような声が、裏路地に響いた。