第二話 目覚め2
「では、痛むところはもうないのですか?」
アレンはティアナの手元を気遣わしげに見つめて問いかける。まだ紫黒い痣が両手首に残っているのを、ティアナも不思議そうに見つめて頷いた。
「はい……。この、あざもよく分からなくて。足首にもついているみたいなんです」
ティアナは布団のなかでそっと素足を重ねた。先ほど汗をかいた服を取り替え、体を清めた時に見つけたのだ。まるで枷を嵌められていたような跡を見て、背中に震えが起きる。そして、さらに気味の悪いことにそのことについて全く覚えがないのだ。アレンは気の毒そうにティアナを見つめ、
「貴方は手と脚に鎖をはめられていたそうです。ジーク様が見つけた時にはかなりひどい状態でしたので、このように早く快復されて、私どもも本当に驚いています」
「すみません……。あの、あまり覚えてなくて。でも、助けてくださって本当にありがとうございます」
「それはジーク様におっしゃってください。貴方を見つけたのも、ここに運び込み介抱されたのも我が主人です」
彼女の食べた粥の容器を手早く片付けながら、彼はゆったりとした口調で続ける。
「あの館はかなりひどい状況でしたから。貴方もショックが大きいのかもしれません。いまは無理なさらず、ゆっくり休んでお身体を治すことが大切です」
ティアナは、それでも混乱した頭のなかを少しずつ整理しようと辺りを見つめる。
「ここは、あの…、診療所、ではないですよね?」
広い造りの室内を見渡して口籠った。立派な織りの絨毯に贅沢な調度品、天井からぶら下がるのは繊細な細工のシャンデリアだ。窓にかかるカーテンさえ上質のものに思えた。
「とても、とても立派なお部屋ですし……。それにあの、先ほどの男のかたも…」
ジークの品のある顔立ちや身なりの様子、そしてアレンの給仕の様子を気にして、彼女は先ほどまで着ていた服を思い出した。ところどころほつれ使い古したドレスは煤だらけで、とてもこのような部屋に合うとは思えない。
「ええ、ここは診療所ではありません。ジーク様、王国第五騎士団団長、ジーク・クラウゼント様の生家でございますよ」
「王国…騎士団…」
「あまり、ピンときませんか?」
「あ、すみません…!ええと……、はい。というか、本当に、頭のなかになにも思い浮かばなくて…」
「なぜ、あの館にいたのか、も?」
アレンの声に少し緊張が走った。ティアナは頭のなかを探ろうと首を傾げる。だが、かすかな頭痛とまた大きな壁を感じるだけだった。深くため息をつきながら首を横に振る彼女に、アレンは優しく語りかける。
「まぁ、身体と気持ちが休まればおいおい思い出すでしょう。あまり急かすなとジーク様に伝えておきながら、私まで問い詰めてしまってはいけませんね」
「でも、何があったのかを教えて頂けませんか?このままだとすこし、怖くて」
彼は片付けの手を止め、ためらいがちに口を開いた。
「……ジーク様の騎士団はこの地でたまたま魔獣討伐の命を受けていたのですよ。無事任務を遂行し街へ戻ってきたところに火事騒ぎが起きまして、騎士団が駆けつけたのです」
「火事、ですか……?」
「ええ、辺鄙な場所にあったため、延焼はなかったのですが館の中にいた人たちがほとんど犠牲になりました」
だんだんと悲痛な顔になってゆくアレンの様子にティアナは知らずシーツを握りしめていた。冷や汗が背中を伝う。息がうまくできない。
「わ、わたしは、そこにいたのですか…?」
「ええ、ほとんど焼け落ちたなかに、貴方は倒れていました。そして……」
彼女は両手で胸を抱きしめた。素肌に直接身に付けているペンダントがどくどくと熱く脈打つ。肩で荒い息を始めた彼女にアレンは慌てて水の入ったグラスを手渡した。
「大丈夫ですか?」
「はっ、はい。すみません…」
「やはり、このお話は刺激が強かったかもしれませんね。もう少しおやすみなさい。それに」
アレンは彼女に布団をかけなおしてやると、再び顔を引き締めた。
「ここから先のお話は、ジーク様となさった方がよろしいでしょうし」
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「わたしの名前は、ティアナ。歳は、ええと……」
夕陽に照らされ、穏やかな風がふく部屋で彼女はひとり、毛布を握りしめ豪華なシャンデリアを見つめ眉を寄せていた。
「歳は……。…あーっ!もうっ!わからない」
下唇を噛み締める。とにかく自分のことをほとんど覚えていないのだ。アレンに促され、そのまま眠った彼女は先ほどまでぐっすり寝ていた。再び目を開けると気分はかなりすっきりして身体も幾分軽く感じられる。窓の外ではすでに陽が傾き始めていて、彼女はまた記憶を辿る作業を再開していた。
とにかく、この屋敷の親切な方たち、アレンさんや、ジーク様へお礼をしないと。でも、その際に自分がどこの誰であるかも説明できないことがもどかしくて仕方ない。火事のことを考えようとするたびに、胸のペンダントが警告するように熱を持つのだ。
彼女は清潔な寝巻きをひっぱり、襟元から胸をのぞいた。細いチェーンの先に黒く輝く黒曜石がぶら下がっている。彼女が肌身離さず持っていたもので、不思議とそのことはきちんと覚えている。
それに加えて、自分が孤児院で育ったことや苦労もしたが幸せな毎日を送っていたことも記憶していた。それがどこの国で、どんな場所だったかまではまだ思いだせなかったが、少なくともこのような立派な館や、ジークやアレンのような人々とは無縁なことは理解していた。
ジーク様は騎士団長で、魔獣討伐をしていたと仰っていた。魔獣。たまに噂で聞くくらいの知識しかない。
やがて軽いノックの音とともに、扉が開く。彼女は慌てて身を起こしてベッドから立ち上がった。深く頭を下げる。
「あのっ!アレンさん!今回は本当にありがとうございましたっ!いろいろご迷惑」
「もう立てるのか?やはり、治りが随分と早いようだな」
アレンとは違う、低く落ち着いた声に彼女はおずおずと頭を上げた。重厚な木の扉に寄りかかり腕を組んでこちらを見ていたのは、ティアナが目を覚ますまで側にいてくれたこの館の主人、ジーク・クラウゼントだった。
今しがた外から戻ってきたらしく、纏ったサーコートには外気がまとわりついている。コートの下から覗く脚はぴたりとした膝丈ズボンに覆われ、そのまま革のブーツへと押し込まれていた。全てが黒で統一されたジークの凛々しい姿に、ティアナは急に自分の寝巻き姿が恥ずかしくなり、俯いて礼を繰り返した。
「はい!もう大丈夫です!申し訳ございません。私のような者を助けていただき、その上お屋敷のベッドまでおかりしてしまいました」
「いや、あのような惨事で生き残った者がいるならば助けるのが騎士として、人間として当然だ。……それがたとえどのような者であったとしても」
「……、はい。ジーク様に助けていただかなければ死を待つばかりだったのだと思います。ほんとうに、ありがとうございました」
扉に軽く寄りかかったまま、彼は頷いてみせた。
「ところで。俺の名を知っているのか」
「ええ、アレンさんから聞きました」
「そうか、では座れ。自己紹介を頼む」
さらりとした前髪から紫の双眸が見つめてくる。ティアナは大人しくベッドへ戻り、そして項垂れるように謝った。
「あの、ティアナと言います。わたしの、名前です。両親は、いません。出身も、その…あの、まだ思い出せなくて……。本当に申し訳ありません」
ジークはつかつかとベッドへ近づいてきた。ティアナの前に立つ。彼女は身体が硬くなるのを感じた。黒に身を包んだ彼の迫力もさることながら、ジークからぴりぴりとした雰囲気がこれでもかと放出されだしたからだ。切れ長の目で彼女を値踏みするように見下ろしている。
「不躾なのは承知だが、年は」
「……わかり、ません。あの、生まれた年がわからないので…」
「出身、もわからないと言っていたな。身に付けていたものからしておそらく国外だとは思うが」
彼はいっそう瞳を硬くして彼女を見る。ティアナはやりきれなさに肩をさらに縮こませた。すると、ジークは無造作に彼女の手首を掴んだ。びくりとして見上げると、彼は紫と黒のまだら模様になっている痕をしげしげと観察していた。
「枷の跡というのはこんなに早く変色するものではないはずだが、これの記憶もないのだな?」
「は、い……」
胸のあたりをきゅ、と掴むティアナを見てジークは鼻を鳴らした。切れ長の眦がすっと細められる。
「嘘をつくにしても下手すぎてどうにもならないな」
「う、うそなんて…」
あれだけの惨事で生き残った。何があってもおかしくないのかもしれないが。
遮るように手を振ると、ジークは再び問いかける。
「ティアナ、アレンから火事の話は聞いたか?」
「あ、はい…。すこし」
「近くのものによればそれはすごい燃え方だったそうだ。俺たちがたどり着いたときはもう辺り一面炎に飲み尽くされた後だった」
「黒焦げの死体ばかりの中で、お前は倒れていた。火傷は負っていたが、心臓はしっかりと動いていた」
ジークは彼女の手首を強く掴んで無理に立ち上がらせた。きりきりと締めあげて、恐ろしい事実を告げる。
「お前のそばには俺の父が横たわっていた。身元も分かりそうにない者ばかりの遺体のなかで、やけに綺麗な姿でな」
ティアナはひゅっと息を呑んだ。黒曜石が熱く光りだす。かくかくと下唇を震わせてジークを見つめた。
お願いがあるーーーしてくれ。ーーー
「……。お、おとう、さま?ジーク様、の?」
「あの黒い炎は自然のものではない。魔力によるものだ」
お前、なにをした?
美しい顔を歪ませ、ジークはティアナを冷たく見つめていた。