第十三話 ジークと家令
その夜。明け方近くまでティアナが自分の行動を思いだしてはばたばたと寝返りを打ったあげく、ようやく浅い眠りに落ちたころ、家令の部屋をノックする若き主人の姿があった。アレンは寝巻きのまま驚いたように眉を上げ彼を見上げた。
「アレン。こんな時間にすまない。話がある」
「いえいえ。ジーク様。眠れないのですか?昔のように子守唄を」
「アレン」
彼はため息をついてジークを招き入れた。屋敷の豪華な内装とは対照的に質素な彼の自室は、それでもこぢんまりと整っていた。父に仕えた五十年のうち、この部屋で三十年あまりを過ごしてきた。時の流れがそこかしこに温かく感じられる。ジークは目を細め、ゆっくりと中を見回した。
「変わっていないな。お前の部屋」
「ここで何度おとぎ話をしてさしあげたでしょうかね?毎晩のようにせがまれて、学のない私は大変だったのですよ」
アレンは懐かしそうにほほ笑む。
「あの頃の泣き虫坊ちゃんがこのように立派になられて。頼もしくて、嬉しい限りです」
「……本当にそう思うのか?」
「もちろんでございますよ。しかも、可愛らしい娘さんまで連れて来なさって、お屋敷が若返ったようです」
「あ、あの娘は…!事故のことを思い出してもらうために」
「そうでございましたね」
ジークはちらりと家令を見たが、彼の言葉を本気にしているのかどうかいまひとつ分からない。
「俺は、この家を捨てたも同然だ。今更、お前の主となって帰ってくるなんて思いもしなかっただろう?」
「もう、お会いすることは叶わないと思っていました。私はここで骨を埋めるつもりでおりましたが、まさか旦那様が先に逝かれるとは」
ジークが十五になったその日、王都へ向かう馬車に乗り込んだ彼を見送ったのはアレン一人だった。
「…三年前、俺が騎士団長になったこと、あのひとは知っていたのか?」
「ええ。伝令のお使いの方が来られましたから。お祝いの品をお送りしたでしょう?」
「どうせ、あれはお前だろう?」
「ジーク様。旦那様は…」
「いや、いい。わかっていたことだ。あのひとは俺には全く関心がなかった。母上と、小さなルッカのことしか頭になかったのだったな」
ジークは鼻で笑って長椅子にどさりと腰掛けた。小さな頃、膝を抱え背中を丸めていた場所だ。
なぜ父さまは一緒にご飯を食べてくれないの?ねえアレン。なぜ僕の顔を見ると泣きそうな顔をして行ってしまうの?小さなルッカと、かあさまは、ほんとうにもうかえってこないの?
小さなジークは、母と弟が亡くなる前までは父親の私室で過ごすのが大好きだった。アレンのと同じくあたたかさと生真面目さに溢れた部屋だったからだ。それが事件の後彼は急に部屋に鍵をかけ、使用人もジークも入れなくなってしまった。偶然開いた扉の隙間から覗いたときには薄暗く、山のように積み上げられた書物と、真っ黒い背中が見えただけだった。物言わぬ、怪物のようなその姿にジークは震えることしかできなかった。
ひとりぼっちのジークの側にいてくれたのはアレンと今は亡き彼の妻だ。懐かしい部屋。だが、同時にここにいるととてつもない寂しさに呑まれそうになる。ジークは頭を振って、意識を今へと戻した。
「アレン、本当に、父上があのような娼館崩れの場所に行った理由を知らないのか?」
「申し訳ございません。存じ上げません」
「いまさら、なにを聞いたからって俺は逆上したりしない。それにティアナがなにか思い出すかもしれないんだぞ?」
黙って頭を下げるアレンの肩を揺さぶりたくなる。なぜ、隠そうとするんだ。ジークは忌々しげにため息をついた。
「……この家を処分したら、お前には農園の一つを譲りたい。幸い俺の自由にできる土地がいくつかある。いい葡萄酒が取れるところだ。十分余生を送れる」
「そんなことはなさらないでください。私はなにも要りません。それよりも、ジーク様。本当にこのお屋敷を処分なさるのですか?」
「この家にいい思い出などない。いらない」
吐き捨てるように言うジークを、家令は悲しげに見つめた。