第十話 ティアナの記憶2
「……様!ジークさま!坊ちゃんっ」
焦った声がジークを揺さぶる。肩をぐらぐらつつかれて、彼は深い夢からやっとのことで這い上がった。目の前で、御者が彼を心配そうに覗き込んでいる。軽い頭痛に頭を振りながらあたりを見た。
曇り空の下の真っ黒な焦げ跡、飛び散った血のあと。確かに、ここは先ほどまで魔獣とやり合っていた場所だ。右腕に剣を握りしめたまま、指がすこしこわばっている。壁に寄りかかっている自分の傍らにはティアナがぐったりと倒れ込んでいた。
怪我を、したはずだ。片腕を失う覚悟をした。
「大丈夫でしたか?何だかすごい音がしてきてたんで、心配になっちまって…。中に入るなって言われてたのに、申し訳ありません」
古くからクラウゼント家が雇っている御者は、荒っぽい現場に慣れているはずもなく泡をくったように辺りを見回している。
「あ、ああ。待たせてしまったな。魔獣が数匹出て、少し手こずった。すまない。」
「まっ魔獣!この前ジーク様たちが全部倒してくれた所なのに、また出やがったんですか!?大丈夫ですか?お怪我されてますよね?こんな、お二人ともぼろぼろで…っ。アレンさんになんて言えば」
おろおろと二人の周りを歩く御者を他所に、ジークは腕を見つめ唖然としていた。骨が見えるほどの裂傷だったはずだが、傷一つない。今までの古傷さえ微かな痕になっている。
思わず左腕を掲げ、眺めすがめつしてしまう。血がこびりつき破れた袖と、傷のない滑らかな肌が妙にちぐはぐだ。身体を動かした拍子に、腕のなかのティアナの白い胸元から何かがこぼれ落ちた。慌てて手を差し出し受け止める。ころんとした黒石のペンダントが彼の大きな手のひらに転がり込んだ。
金色の光がちらちらと渦を巻いている黒曜石。すこし熱を持ったそれは、さっきまで夢のなかでジークをさまざまな場所へ連れていったものと同じだ。
ペンダントのなかの、ティアナの記憶。
彼は、夢の光景を全て思い出した。ティアナが彼の腕に触れ、光あふれたことも。
「帰るぞ」
「あっ。はい!立てますか?坊ちゃん。ひどい血ですよ」
「怪我はない。それとその、坊ちゃん、というのはやめてくれ」
「ああっ。すみませんっ。つい…十数年ぶりとはいえやはりあの小さなジーク坊ちゃんが」
「やめてくれ」
申し訳ございませんっとあたふたとする屋敷つきの御者にため息を漏らして、ジークはティアナを抱いたまま立ち上がった。やはり、どこも痛みはない。彼女が、ティアナが治してくれたのだ。当の本人も気を失ってはいるが怪我はなさそうだった。
「ジーク様。私がその、お嬢さんを抱えます。早くお屋敷へ帰って医者先生に診てもらいましょう」
「いや、いい。このまま俺が連れて行く」
腕に力を込め、彼女を支えなおす。
「それから、帰ったらすぐユリウスを呼んでくれ」
「ユリウス、さまですか?」
「ああ。団の副官だ。兵舎に迎えにいってほしい」
「分かりました!ぼっちゃ、いえ、ジーク様」
驚きと、疑問と、感謝の念が彼の頭のなかでぐるぐると駆け巡る。とにかく一度整理しなければ。頭のなかも、気持ちも。
そして、この娘のことも。
馬車に乗り込み、館へ帰る道の間中、ジークはティアナをその胸に抱き締め続けた。