第九話 ティアナの記憶1
左腕をなにかがちくちくと刺す。擽ったい感覚に目を開けると、彼はひとり、村の入り口に立っていた。腰の辺りまでしかない粗末な作りの木柵が形ばかり組まれた、田舎特有ののんびりとした出入り門。
奥のほうへ、同じようなかたちの家と小さな畑が続いている。なだらかな緑の丘陵地のはるか向こうに濃い森と、尖った山並みが見渡せた。青空を舞う鳥の歌声まで街とは違う調子に聞こえる。
-なんだここは-
突如異次元に放り込まれたような、ふわふわとした感覚にジークは眉をひそめる。先ほどまでの緊迫した状況とだいぶ違う。疼く左腕に目をやると魔獣の爪痕はなく、光の粒がひらひらとその辺を舞っているだけだ。ふと、手のひらになにか握りしめているのに気づいた。見ると黒く輝く宝石、黒曜石らしきものがのっかっている。ペンダントになっていて、石のくせにやけに温かい。彼の炎剣によく似た感覚だった。
不思議に思いつつ、掌の中で石を転がしてみる。黒い石はなかできらきらと渦を巻いているように見えた。ジークはまた、ぼんやりと目の前に広がる平和な光景に目を向けた。どこからか子供がはしゃぐ声が聞こえてくる。
「ティアナ、ティアナ!遊ぼあそぼ!」
「おねえちゃん、今日はお医者さまのお仕事なあい?おやすみ?おうちにけがしたひと、いない?」
軽やかな足音がいくつも近づいてくる。土埃のたつなかに、小さな子どもが数人走ってゆく。みな、溌剌とした笑顔で活気に溢れた表情だ。粗末な衣服ではあるが、このような村では珍しくないのだろう。魔獣討伐の遠征時にこういった村をいくつも見てきた。
子らが目指す先に、一人の娘が立っていた。ジークは思わず一歩身を乗り出す。
-あれは、ティアナか?-
栗色の髪を横に束ね、質素なドレスにエプロンを身に付けた女は、花を咲かせたような笑顔で大きく腕を開いていた。深い緑の瞳。ここは、彼女の故郷なのだろうか。だが子どもたちの様子を見る限り、ここは王国内の土地ではないかと思えた。
「みんな、元気だった?」
子どもたちは彼女の周りを囲みながら、村の奥へと消えていく。前を走る時も、誰もジークには目もくれない。彼は思わずふわふわと後をついていった。
村の中を進んでいるうちに賑やかな声は消え去り、代わりにジークは石造りの建物の中にいた。
栗色の髪の娘-ジークはまだ半信半疑だが、どうやらティアナに間違いない-がベッドに腰掛ける若者の足に手をかけていた。見ると、血と泥に塗れてひどい怪我をしている。彼女は穏やかな表情で若者の足を持ち上げ診ていた。
「旅先でこんな怪我をされて、大変でしたね。もう大丈夫ですよ」
水で傷の周りを洗い流しながら、見知らぬ男に優しく話しかける。そんなティアナに、ジークは胸のどこか奥がきしきしと痛む音を聞いた。眉を寄せ、それがなんなのか確かめようとする彼の前で、男の傷がみるみる塞がっていく。淡い光が彼女の手から流れ出すのを、驚きに満ちた表情で男は見ていた。小さな部屋に妙に甲高い声が響く。
「ほんと、ありがとうございます。助かりました……。あの、あんた、なんでこんなことできるんですか?これ、魔術……ですよね?すごいな」
「さあ、わたしもわからないんです。でも、村のみんなの怪我を治せるのがとっても嬉しくて。わたしを育ててくれた人たちに恩返しができるから」
首を傾げつつ答える彼女の表情は翳りのひとつもない。男を見上げる深緑の瞳には純粋な気遣いが浮かんでいる。
-あれは、癒しの力だ。間違いない。だからさっきあの娘は俺の腕を-
彼は息を飲んで光を見つめる。『癒し手』。この国の長い歴史にはほとんど出てこない癒しの力。稀にしか現れないという。
「へええ。炎や水の魔力ってのは聞いたことありますけど、傷を治せる力なんて初めてですよ…」
自分の足を眺め感心したように言う男の眼が、好奇心と欲に濁ってゆくさまがジークには手に取るようにわかった。魔獣と同じだ。力に惹かれ、そのためには自分以外歯牙にも掛けない、腐った人間。男のそばに行きその怪我した足を締め上げてやろうとしたが、身体は実体なくふわふわ揺れるだけだった。
忌々しさに握り拳を固めその光景を見ているとまた、場面は変わる。次に現れたのは暗闇だった。ごとごとと揺れる乗り物のなか。おそらく荷馬車だ。
ティアナと思われる「それ」は袋を被せられ、両手足を縄で縛られていた。素足のままの細い足首に何重にも縄が巻かれ赤くなっている。そして、同じような人間の「荷物」がいくつもそばに転がっていた。幌をかけられた荷台での上で、むぐむぐと何人もが苦しげに呻く息遣いが重なっている。ジークは息を飲み、足を踏み出そうとするがやはり、頼りなく宙を掻くだけで何もできない。
-捕まったのか。奴隷商人、山賊あたりか-
珍しいことではない。この広大な大陸のどこかで毎日のようにある光景だろう。だがそれでも胸糞の悪いことに変わりはなかった。握りしめた黒曜石が急速に熱を放ち始める。
角の方の人間から、呪詛のような言葉が聞こえる。ぶつぶつとした独り言はなぜかジークにははっきりと届いた。
「また捕まっちまった…いったい何年俺はこれを繰り返すんだ静かに死にたいだけだったのに。もう、力なんて残っちゃいねえよあいつらばかなのか馬鹿はまとめてしななきゃなおんねえのか殺されねえとわかんねえのか俺を俺を俺を……」
今や黒曜石は燃える石のようだった。熱くて持っていられない。しかもぷるぷると膨張し始めていてこのままでは弾けそうだ。
-もうすこし、もう少しだけみせてくれないか-
ジークは頼み込むように石を見つめたが、震え出す石はもう限界のようだった。彼は諦めて、目を閉じる。すると石も震えを止め、だんだんと熱を失っていった。
彼のまぶたの裏で、ティアナの笑顔と苦しげなうめきがなんども交互に現れては消えていった。